『意図』

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第四弾

第四弾

第三弾は、『栓抜き』の絵が添えられた暗号文を提案し、「せ」と「ん」を抜いて読むとある場所が指し示されていて、そこへいくと次は『タヌキ』(た抜き)の絵が添えられた暗号文があり、それを解くと『こけし』(こ消し)の絵が添えられた暗号文に辿り着き、お宝を獲得する、というゲームをしました。

探偵ものの絵本が流行っていることもあり、6組目の子が見事に解読。ただ、それ以外の子には難しかった様子だったので、

今回はやりたい子皆で考えてもらいました

今回は、やりたい子皆で考えてもらいました

数分後、

賢いと思いました

賢いと思いました

一つ一つの文章を解読はできるものの文章が繋がらないことを解決すべく、メモを取る、という作業を思いつきます。

解読できたところが埋まっていきます

解読できたところが埋まっていきます

30分程経過したところで時間切れに。提案した側も初めての取り組みの為に探り探りといった結果煩雑なものになってしまいまして、子どもたちに申し訳ないなと思いながらも、ま、気軽にやろうよ、ということで答えを伝えました。

「なのだん、ってそういうことか」

「なのだん、ってそういうことか」

「かっきー(柿崎先生)の名前初めて知った」

星のついた段の文字を並び替えると「かねのなか」となり、活動の区切りを伝える為に用いている『鐘』の中に鍵が入っている、という今回の取り組みでした。

ブログ『臥竜塾』2012年1月28日『意図』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

子ども主体と保育者主体。この度の内容に自省しながら、次の取り組みを考えていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

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