役割交代と協力

以前「逆向きのエプロン」という題で、子ども同士の関わりにおける「能動と受動の役割交代」について報告させて頂きました。その中に、エプロンを付けてもらっている1歳児の男児がいました。今回は、その男児が、他児の助けを感じ取って自ら手助けしている場面があったので、報告したいと思います。

1歳児の子どもたちは、食事をした後に、自分が使用したエプロンとタオルを汚れ物袋に入れます。しかし、フックにかけられた袋の片方の取っ手のみを外し、片手で汚れ物を持ってその袋に入れるという行程が難しいようで、汚れ物袋を丸ごと職員のもとに持ってきて「やって!」と、職員が袋を持って口を広げ、子どもが汚れ物を入れることもあれば、コツをつかんで全ての行程を自分でこなす子どももいます。

男児は、その行程が出来ずに悪戦苦闘し、周囲を見回している1人の女児を見つけました。その様子を見て、“目の前の人は物を入れようとしている”、“助けを必要としている”などと、他者の気持ちを察したのだと思います。男児は、自らその子のビニール袋を持ち、女児の手助けをし始めました。大人の役割を子どもが交代し、そして、その子どもにしてもらった子どもが別の子どもの助けとなる、そのような一連の流れが見れた気がします。「能動と受動の役割交代」が、人類の存続に関連している「協力」という戦略とつながっているのではとも思える姿でした。

持ってあげるよ

持ってあげるよ

そのような子どもの同士の関係のなかで、社会を形成していく基礎を培っている子どもたちに、私たちは今後どのような対応をすればいいのかと考えた時、その男児が協力できる場面を伝えたり、それに気が付く機会が増えていくような環境を整えていくことなのかなと思いました。例えば、職員に「やって!」と汚れ袋を持ってきた子どもに、「◯◯君ができるからお願いしてみたら?」という声かけをしたり、その男児の汚れ物袋かけの周辺に、まだ1人で入れることができない子どもを配置し直すとか、袋に入れようとしている他児が見える場所に男児の食事する椅子を配置するなどでしょうか。そのような環境設定をして、子どもたちの動向を観察するのは、きっと楽しいでしょうね。予想とはまた違った子どもの動きなんかも見られて、その度に次の環境を考える、そういった過程が保育の醍醐味でもあると感じています。

また、ビニール袋を持ってもらった女児は、いったい何を思うでしょうか。いつもは先生にやってもらうことを、自分と同じような他児がしてくることで、これまでにない新たな刺激を感じたのは間違いないと思います。そのような刺激が、その子の発達のための大切な経験であると思いますし、対人関係・社会性の基礎を培うだけでなく、「協力」行為の輪を広げ、それらを加速させていくものでもあるのかなとも感じました。

(報告者 小松崎高司)

夏の野菜?果物?藤森先生も好きなあの食べ物といったら!完結編

夏が過ぎ、スイカの季節が終わろうとしていることを園庭のスイカが教えてくれました。

今年は、スイカにとても活躍してもらいました。最後に、子ども達の忘れられない笑顔をスイカが作ってくれたことを写真と共に報告させていただきます。

プール納めも近づく8月下旬のことです。

プール納めも近づく8月下旬のことです。

皆で園庭に集まりました。期待に膨んだ表情をしています。

「ではこれから切りまーす」

「ではこれから切りまーす」

「せーの!」

「せーの!」

パッカーン!「やったー!」

パッカーン!「やったー!」

きれいに色づいています。

きれいに色づいています。

どんな匂いがする?「スイカの匂いがするね」

どんな匂いがする?「スイカの匂いがするね」

さて、切っていきます。

さて、切っていきます。

皆で食べられるように、

皆で食べられるように、

「やったー!」切る度に(笑)沸く歓声です。

「やったー!」切る度に(笑)沸く歓声です。

さて、実食!

さて、実食!

「ちょっと座って待っててね」

「皆に配るからちょっと座って待っててね」

「次に何か楽しいことがある!」という期待感が、子どもの「待とう!」と思う気持ちを育みます。

毎日、給食前、おやつ前に皆で「いただきます!」をする為に、お喋りしたりしながらを待つ経験を重ねています。

このような積み重ねが、子ども達に〝待つ〟ことの意欲を持たせ、また、このような機会でその積み重ねてきたことの成果を見せてくれるのだなぁと感じたりしました。

皆に配っていきました

皆に配っていきました

それでは「すいかんぱーい!」ナイスセンス!

それでは「スイカんぱーい!」ナイスセンス!

「すいかんぱーい!」

「スイカんぱーい!」

「すいかんぱいしよ」「てへへ」

「スイカんぱいしよ」「てへへ」

 

皆で美味しくいただきました。

さて恒例の塗り絵タイム。スイカの塗り絵に人気が集まります。

夢中になって塗っていました。

夢中になって塗っていました。

すると、テーブルの反対側で「これ◯◯ちゃんのだよ!」と声が。

隠すように押さえています。

何やら隠すように押さえています。

ちょっと見せて、と声をかけると手をどけて見せてくれました。

すいかの〝す〟

すいかの〝す〟

確かにその子の名前の中には〝す〟が入っています。子どもの発見の面白さに小さな感動を覚えると同時に、意図せぬところで、繋がりが生まれていることを教えてくれる子ども達に、感謝の気持ちが湧いてきます。多岐にわたって子ども達の環境をデザインしてくれる西村先生、山下先生が中心となって植えてくれたスイカが、このような発展を生み、また、子ども達に、夏ならではの喜びを文字通り味合わせてくれました。多くの人の関わりの中で、子ども達が育まれていることを改めて感じさせてくれた取り組みでした。

これで、今年のスイカ報告は以上です。最後に絵本係として、スイカを題材にこのようなボードをつくったので紹介させてください。

また来年のスイカの季節が楽しみです。

『すいかのたね』『なつのおとずれ』を紹介しました

『すいかのたね』『なつのおとずれ』を紹介しました

 

(報告者 加藤恭平)

 

ピーマンクッキングのその後

以前に園の畑で採れたピーマンを子どもたちと一緒にクッキングをしたことで、保護者の方も家では全く食べないと言っていた「ピーマンのきんぴら」をよく食べていた。という事をお伝えしました。

最近、その子たちが「給食でピーマン出ないの?」と聞いてきました。クッキングをしたことを覚えてくれていた事を喜びつつ

出ないわけではないのですが、たまたまあまり入っていなかったせいか聞かれました。試しに「だってみんなあまりピーマン好きじゃないでしょ?」と聞いてみました。そしてら、「みんなでクッキングしたときのピーマンが美味しかったから食べられるもん!」と言った後に「でも家のはあまり好きじゃないんだ」と言っていました。その違いは何なのかその子に聞いてみたかったのですが、すぐにどっかに行ってしまったのと、ちょうど誰かに呼ばれたこともあて理由が聞けませんでした。

次回、給食でピーマンが出た際にはその子たちのところに行ってその理由を聞いてみたいと思います。

 

話は少し変わりますが、大河ドラマ「花燃ゆ」の中でも、野菜嫌いの幼児(お世継ぎ様)に対して、その世話役が嫌いな野菜を食べられるようにするにはどうするかと考えたところ、その時代にはとんでもない方法で野菜嫌いを克服していました。それが、新宿せいが保育園の食育三本柱の一つである「栽培」です。

お世継ぎ様なので、ゆくゆくは殿様になるお方に畑仕事をさせてしまいます。先ず、庭を耕し畑にした後、種まきをして水やりなどすることで、成長していく姿が楽しみになっていきます。そして、育った野菜を収穫し調理を頼みます。出てきた料理に以前までは全く見向きもしなかった野菜をそこで初めて食べることができるようになりました。

 

ドラマの中なので、実際にそのような事をしたのかはわかりませんが、食に対する子どもの興味は「栽培」「調理」「共食」の三本柱にあり、また、五感を使うことでその興味が一層増していくのではないかなと感じました。(報告者 柿崎)

見習うこと

この話は同じクラスの先生の体験談であり、あるSNSをコピーさせてもらっています。
そして本人から載せていいか確認を取って載せています。笑
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昨日の出来事、
うちの保育園は異年齢で保育してて、朝の会は345歳児の子どもたちがグループごとにテーブルに集まってやるんですが、ある3歳児の子が黄色グループなのですが真ん中の席がよくて青グループに座りたいと座っていました。ちょうどイスが余ってて、他の子どもたちもその子の普段からの姿をみてるので気にしてない様子。私もまたやってるなぁwと思いながらまっいっかと笑
でも会の終盤になり。。ある3歳児の女の子が座ってる席に遅れてきた違う4歳児の男の子が登場!みんなの気にしてなかった雰囲気が一転!!
座るところが無いとベソをかく4歳児の男の子に、周りお友だちも3歳児の女の子にどいてあげなと声を掛けました。4歳児の男の子も違うグループの3歳児の女の子に気付いて声を掛けました。でも3歳児の女の子は「でもさ、さっき空いてた。あっち座れば。。」と全く譲らず!!がんこチャーン!!笑
紙芝居を読もうとしてた私は、こりゃ始まったなーと思いましたwでも、周りの子が紙芝居そっちのけで、「じゃあこっち座る?」といすを出してくれたり。。
どーしたらいいかなぁーと言う私をよそに、子どもたちは声を掛けてくれました。でも、どーしても3歳児の女の子は動かない!!!
これは。。なんかいいチャンス!?と思った私は、みんなに「どーしてもどーしてもそこに座りたい○○ちゃん(3歳児の女の子)みたいだねー。。みんなならなんて声かける?ちょっと私にはわかんないなー。。私たちはどーしたらいんだろぉ??困ったなぁー」と投げかけてみました。
すると、5歳児の女の子が。。
「どうしてもそこがいいの??
○○ちゃん(3歳児の女の子)がどうしてもそこがいいなら、黄色グループと青グループの他の子が反対に座って変わってあげたら??」

なんとっ!!!?がんこちゃんのために周りの子が全員座るところをかえるの?!!!えー!!!!∑(゚Д゚)

と、思ってる大人たちをよそに、子どもたちは「それいいじゃんっ!!」とさっさとガタガタ座るところを変わり始めました(O_O)
話が理解しきれていない小さい子の手をひいて、4.5歳児の子はどんどん互いの席に移っていきます。なかには、やだなぁーと言う3歳児の女の子もいましたが、雰囲気をみて、「きょうは仕方ないな」と渋々変わっていきました。
当のRちゃんはちょっと気まずそうにしながらも変わらずその席に座り、同じグループの子がきてくれるとちょっと照れくさそうに笑いながらそっぽをむいてました。

「みんなってすごーいっ!!!」
「○○ちゃん(3歳児の女の子)の気持ちみんながわかって優しくしてくれて良かったね。優しくしてもらったこと、忘れないでね!」

私がしたのはそぉやって声を掛けただけ。

子どもたちってほんと柔軟っ!!何が正しくて間違っててとかじゃなくて、相手の気持ちを大事にしたいなって思ってくれたんだなって思いました。まぁ時には大人以上にシビアで厳しくて、それがまたいい影響を与え合う場面もたくさんあるんだけれど。

ちょっとした5分くらいの出来事だったけど、子どもたちに教えてもらいました。
そして、読むはずだった紙芝居は読めずwしょーがないねっと笑い、みんなで2ページだけみておしまいにしました!!

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とここまでがそのお話でした。
この先生のこれはチャンス!?と思えるセンスが素晴らしいと私は思います。
先生がそこで止めて仲裁に入ることでこの関わりはなくなってしまいます。問題を解決する頭の働きがここでフル回転することで様々な問題に打ち当たった時に解決できるのでしょう。その積み重ねでこの相手を思いやる気持ちと問題の解決に至ったのではないかと思っています。
 そして途中から現れた5歳児の女の子の対人知性にも驚かされます。塾長のブログの「対人知性」には、対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」とあります。
まさに5歳児の女の子は3歳児の女の子の気分、気質、動機、欲求を選別しそれに適切な対応をしたのではないかと私は思います。さらに3歳児の女の子の性格をも理解した上で席を交換する選択だったのではないかとも思えます。
私がいいなと思うのはその状況を他のみんなも見ているということです。一人の女の子と一人の男の子の為に繰り広げられた展開をみんなが見ることで共感を得られたり、それは違うのでは?とそれぞれ思うことがあると思います。その考える機会を全体に持たせられる道徳のようなものが実際に目の前で行われていることがより生きるために必要なことではないでしょうか。
私自身がその場にいたらどうしていたのかは不安ですが、このような状況でもしっかりと核心を持てるような先を見通す力があるこの先生はすごいと思います。支援するコーチとしての役割をここでしっかりとしている先生を見習っていこうと思います。
(報告者 本多悠里)

なぜ相手は手を払いのけたのだろうか

先日、1歳児2人が隣同士で座りながらままごと遊びをしていました。お互い、隣にいることは知っているという感じでしたが、干渉せずに遊んでいました。すると、その1人であるA(24ヶ月児)に対して、B(19ヶ月児)が、持っていたお椀を「どうぞ」といった感じに渡そうとしました。Aは「いらないよ」といった感じに、手で払いのけました。

どうぞ

どうぞ

いらない…

いらない…

しかし、そのきっかけによって、Aは相手の遊びに興味を持ち始めたように、Bがコップを手に持って飲む真似をしている姿を見ると、Aもそれを真似していました。また、Bが飲む真似をした後、コップの中に入れていたチェーンリングを咥えてみると、Aもそれを真似してチューンリングを咥えてみせます。すると、互いに顔を見て、笑い合っています。

見てる

何してるんだろう…

あ、面白そう…

あ、面白そう…

やってみたいな…

やってみようっと…あ、笑ってる

その時、この子どもたちは、その瞬間からではなく、しばらく前から、互いの遊びに関心を持ち、コップの中にチェーンリングを入れていたことに気がつきました。その後、そのような行程を繰り返し、非言語コミュニケーションのもと、互いの動きを見合って自分の行動を変えていました。

初め、手を払いのけられたBは、それ以上はせずに、ただ隣にいて自分の見立て遊びを展開していました。その時、なぜ相手は手を払いのけたのだろうか、あの子は何がしたいのだろうかと思っていたのかもしれません。しかし、Aが自分の遊びに興味を持ち始めたと感じると、その遊びを一緒に共有しようと寄り添います。この遊びがしたかったのかな、これは楽しそうにしているななどと思っていたかもしれません。そこから、他者に対する『協調性』が感じられました。まさに、他者の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適応しようとしている過程のようにも感じました。

その後、面白い出来事が起こります。

AとBが2人で笑い合っていると、近くで0歳児の泣き声が聞こえてきました。すると、笑っていたAの表情は一変し、その泣き声がする先を見つめるのです。その様子を察したBも笑うのをやめて、Aが見つめた先を見ていました。

誰かが泣いてる…

誰かが泣いてる…

他者との協調を可能にするためには、まず相手の存在に気づき、相手が見ているものを一緒に共有したり、共視することが大切だと感じました。他者の行動の意味を察し、結果的に1歳児の2人が、泣いている0歳児に反応したように、近くに“他者に気がつく素材”(この場合は0歳児の泣き声)があること、また、当たり前ですが、自分と同じ部分に他者が反応を示しているという行為が「共感」を生むのだと、今回の事例で再確認出来ました。

裏話をすると、このエピソードは私が見たものではありません。0歳児クラスのある先生が「面白い動画撮れたから、(データ)送るね〜。」と、子どもの姿を共有してくれたおかげで、この報告が書けています。最近の塾長のブログ「レッジョと見守る保育」の中には、『子どもの好奇心や探究心とつきあうためには、まず保育者が好奇心探求心を持たないといけないのです。優れた学習者としてのモデルを示さないと行けないのです。次々に子どもに課題を与えることではなく、多くの情報を与えるのではなく、「子どもが探究している間、保育者は注意深く観察し、近くで耳を傾ける」ことがまず大切になります。』と書かれていました。この先生の行為は、まさに子どもの行為に遠くから寄り添った姿であり、私がそのようなエピソードを欲している事を知っているために、共有・協調しようとしてくれた姿でもあり、そして、「学習者としてのモデル」であるようにも感じました。

子どもの「対人知性」のモデルは、身近にいる大人同士の「対人知性」であると思います。そのような関係を自然に構築し、察してくれる環境に強く感謝しました。

(報告者 小松崎高司)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる③

個としての「自分」を確立する事が今の私には必要なことが、この本と塾長の書かれている臥竜塾ブログから知ることができましたが、チェックリストの結果から新たに問題があることがわかりました。

数ある項目で異常値を出してしまった私ですが、中でも「自己抑制度」が基準値の5倍という結果に…

自己抑制度とはその言葉通り、自分を抑制してしまっていることです。

当たり前なのかもしれませんが、この点に関しては全く自覚していません。

今まで自分を抑制してきたつもりはないので、生き辛ささえ感じたことはありません。

それなのになぜこのような結果が出たのでしょうか。

前回の結果を考慮しつつ、自分なりに考えてみました。

そもそもに各集団に応じて様々な自分(偽りの自分)を作り出すことが私の特性であり、これをマイナスのことと捉えていることが原因なのかもしれないと思い始めました。

そして偽っていると思っていた自分も本当の自分なのかもしれないとさえ思い始めています。

そう考えていると、この結果を前にしても気持ちが楽になる思いです。

私に本当に足りないことは、自分を認める事なのかもしれません。

新宿せいがに勤めさせていただいてから、ある1人の職員の方に「若は誰とでも隔たりなく同じように接することができるのが良いところであり、すごいと思うよ。」と言っていただけたことがあります。

これは偽りと思っていた自分を今まで多く作り出し、多種多様な人間関係を今まで多く成立させてきたことが要因の1つかもしれません。

この本には「人間の生き方は3つの要素によって決定している」と書かれています。

1.自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる①で紹介させていただいたDNA気質

2.その本来のDNA気質の発現を妨げるトラウマ情報

3.現在暮らしている環境

そしてこれら3つの要素がうまく調和しているときには、その人は幸福な人生を歩んでいると言っていいとあります。

そもそも様々にあるDNA気質に優劣などなく、それらの組み合わせを十分に活かせて、トラウマを払拭できるような「環境」に身を置けているかが重要である気がしました。

しかし、そんな簡単な話ではないらしく、自分に満足してないほとんどの人が2にあるトラウマ情報に足を引っ張られて、本来のDNA気質を活かしきれていない現状があると指摘しています。

その結果、人間関係をはじめとする様々なトラブルに見舞われてしまったり、やっかいな病気を患ったりするとも…

そこでトラウマ情報を払拭するための「SAT療法」と呼ばれるその人の人生を幸福な方向に導くセラピー手法が紹介されていました。

その「SAT療法」に関しては次回報告させていただけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)

「学ぶ力④」

こうして「学ぶ」ことについて書いていると、なんだか不思議な感覚になります。と言うのも、小学校から高校、そして大学まで勉強というものをそこまで真剣に取り組んだことがないので、おそらく当時の私を知っている人からすると「えっ!?あいつが!?」となるでしょうね。それこそ自分の力ではなく、藤森平司という人物に出会ったことで、私の力を引き出してくれたんだと思います。本当に感謝しています。

 

そんな「学ぶ力」も終盤になってきました。塾長はよく「私は勉強が嫌いです」と言われます。おそらくほとんどの人は信じないでしょうね。テレビはニュースしか見ない、いつも本を読んで勉強している、という印象でしょうか。そんなことはありません。私が助手で行っていた頃、テレビは一緒にバラエティを見ますし、時には二人で温泉卓球やカラオケをしてみたり(笑)そして講演の合間には外に出歩き散歩に出かけてみたり、かなりアクティブです。ですが、その時その瞬間に様々な学びがあるのです。よく最初の頃に塾長に言われたのは

「学ぼう!という意欲が無くなった瞬間に、成長は止まってしまう」

最初の頃、正直あまり実感が沸かず、とにかく必死でしたが、今になってやっと理解できたように思います。おそらく頭の中で理性を持って「学びたい」という気持ちと、理性ではなく言ってしまえば本能で「学びたい!」という気持ちとでは雲底の差だと思います。橋本先生は言葉は違いますが

「学びがあって成長し、成長したらまた新たに学びの場と出会う」

すごくこの言葉の意図は理解できます。しかし、学ぶ中で自分にとって苦手分野があると思います。私も苦手分野があります。チーム保育ではお互いの得意分野を活かし、お互いに補い合うことが大切ですが、時には苦手な事をやらなければいけない時があると思います。そんな時には思い切ってやってみるといいと橋本先生は言われています。と言うのも苦手と思っているのは頭の中で自分で描いてしまったり、あとは過去に失敗してトラウマになってしまったり、苦手分野がある人は様々だと思います。その時に少し客観的に捉えどの部分が苦手なんだろう?と苦手と付き合ってみると案外、そうでもないかもしれません。私は人前で話す事は基本的に苦手です。と言うのも実はかなりの人見知りである私は人前で話すこと、そして知らない人たちの中にいることが本当に苦手でした。しかし塾長との出張で、苦手から得意になってきたように思います。それは何度も場数をこなしたからかもしれません。色々な場所で塾長から話しをする機会をいただき、最初の頃は緊張で何を言っているのか分からない時や、変な事を言ってしまい大失敗してしまったり・・・しかし何度もやっていくうちに自然と自分の形ができてきて、いつしか不安から自信につながるようになりました。もちろん今でも反省点は多いですが・・・。あとは塾長のブログ臥竜塾のコメントもそうですね。時々、自分の最初のコメントを思い出して検索してみるのでが、あまりにも幼稚な文章に笑ってしまうくらいです(笑)ですが、今もずっと続けることで当時より、ましな文章を書く事ができるようになったと思います。「継続は力なり」ということわざは間違っていませんね。

 

さて話がガラッと変わりますが、「ゆとり教育」についても書かれています。そもそも橋本先生は「ゆとり教育」に関してはよく分からないと言っています、その理由として、それらの状況に詳しくないというのと、先生や学校が何をやりたいのかいまいち理解できないとのことです。平成23年4月から小学5、6年から英語が必修になりました。それに対して、やはり国語にもっと力を入れるべきだと言うのです。小学校から英語を教えたところで、どれだけ使いこなせるかはなはだ疑問と言います。確かにそうですね。塾長も保護者講演で言われることは

「いくら小さい時に英語を教えたところで、人とコミュニケーションができなければ意味がない」

と言われています。またこんな例をよく話されます。

「妻と街中を歩いている時に外国人の集団に道を聞かれて話しかけられてしまいました。妻は英語を話せるので任せていたら、一言も話せなかったのです・・・。なぜかというと妻は道を知らなかったからです。結局、私が道を教えました。」

また塾長がドイツ研修から戻ってきて職員室で話している時に職員から英語が話せたら、相手と直接話せるのにと言われて塾長は

「じゃあ先生、今から研究者が集まる会議に出て議論をしてみたら?日本語だよ?」

塾長はいくら英語を話せても、話す内容がなければ英語が話せても何の意味もないということです。また英語が話せなくても通訳をつければいいし、今はスマホで簡単に通訳が可能です。それよりも乳幼児期にしか身につくことが出来ない、興味、関心、好奇心、探究心など「知りたい」という意欲を身につけることが大切とよく言われます。

「ゆとり教育」の政策として今でも覚えているのは円周率の数字が簡略化されたり、授業時間を減らすなど極力、子どもに負担をかけないようにしたつもりですが、橋本先生からすると教師も生徒も怠けていただけで「ゆとり」ではなく「怠け教育」と言っています。さらに面白い発想というか、時には「詰め込み教育」が必要と言っています。ここでいう詰め込みというのは受験のための詰め込みではなく、色々な事に興味を持ち、それについて勉強し、本を読んだり、時には辛い時もあるかもしれませんが、それでも書いたり、本を読む、こういう積み重ねが後に「心のゆとり」となり必ず我が身に返ってくるというのです。その時に必要以上に勉強したことがゆとりにつながる、それが本当の意味での「ゆとり教育」であると言われています。何となくこれは分かる気がします。私も塾長のブログのコメントを入れ続けて約9年になります。特に最近の内容は難しくてコメントを書くのにも一苦労です(笑)ですがずっと続けていることで、内容がとても難しくてコメントが全く思いつかなくても、なぜか「心にゆとり」があるのです。

また橋本先生が何度も言われている「横道にそれる」これも「ゆとり」に繋がると思います。ある意味保育という仕事は横道にそれやすい仕事だと思います。よく塾長が「保育という仕事は自分の趣味や特技を十分に発揮できる職業である」と。保育室の装飾を考える時も、何も保育雑誌を見なくても、おしゃれな喫茶店に行けばとても参考になりますし、モダンな居酒屋なんかに行っても参考になります。また旅行先のホテルや温泉旅館でもちょっとしたインテリアや装飾もそのまま保育に活かすことができます。塾長が休みの日に行う「ブラヘイジ」も立派な横道です。一見ただの東京の下町散歩のように見えますが、実は保育のヒントがたくさん隠されていますし、歴史の勉強にもなるので自然と教養がつき、それが力となります。

橋本先生は横道というのは「考えるきっかけ」のことと言われています。日常生活のありとあらゆるところに張り巡らされています。それに気づくかどうかということです。

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保育に例えるならば塾長が講演でよく言われる「子どもに共感すること」子どもは本当に色々な事に興味を持ちます。それに対して保育士も一緒になって不思議がり、調べたり、考えたり、それが大切であり、方法は違いますが「スローリーディング」になると思います。(報告者 山下祐)

「学ぶ力③」

前回は国語の重要性を書きました。個人的にはなかなか面白いですね。

 

今回は橋本先生が灘高校に赴任されてからの事を紹介したいと思います。

最初のブログにも書きましたが、灘高校は今でさえ進学校として有名ですが、当時はおちこぼれが多い学校だったそうです。そんな学校を象徴する事件があったそうで、ある日職員室に「先生!やられた!」叫び声と共に脇腹を抑えながら入ってきた生徒の脇腹をよく見ると、なんとナイフが刺さっていたそうです・・・これは驚きますね。そんな灘高校に橋本先生は結局50年も教壇に立ち続けた理由には、教師のやる気をくすぐる校長の指導方法があったそうです。

 

当時の灘校は創立してからまだ数年しか経っていませんでしたが、当時の初代校長の真田範衛(のりえ)先生が「日本一の学校にする」と意気込んでいました。そして初対面の橋本先生に向かって「教師は10年しないと一人前とは言えない」と釘を刺したそうです。そんな厳しそうな言葉を放ち、教師に対しても厳しいと思いきや、全くの逆だったそうです。新米の橋本先生に対しても「ああしなさい、こうしなさい」と指図することもなく、授業の様子もチェックしに来ることもないそうです。橋本先生が言うには「無言の指導」だったそうです。上から何も指図を言われなければ、いやでも自分の成し得る最前の方法を考えて実践しなければいけないので、ある意味「やる気」が出るのですし、それこそ教師も自発的に授業を考える必要があったのですね。

まさに、このスタンスは塾長と似ていますね。ただ唯一違うのは、塾長は保育の実践で理念や考え方がずれていると、そこはしっかりと修正してくれます。私からすると、だからこそ安心して実践できると思います。

 

そんな「無言の指導」を受けていた橋本先生は、自分の好きなように授業のカリキュラムを組めることもできますが、その自由の反面、同じ位の責任も生じると言っています。自由だから何でも好きになってもいい!わけでなく、生徒に対しての責任が生じると思うと、適当な授業はできないですね。そして子どもたちと一緒に迷い、悩む。いくら橋本先生でも小説を教科書にするというのは、分からない事が多く、自身も色々と調べたようです。時には作者の中勘介先生に手紙を書いて直接聞いたりもしたそうです。なんだか塾長が1年生の担任をした時のエピソードに似ていますね(笑)教科書の会社に手紙を書いたという有名な話しと・・・。

とにかく橋本先生は自分のやりたいことをやりたいようにやりたいだけやってきた「はじめに行動ありき」という考えのもとに授業を展開してきたそうです。だからと言って誰でもやりたいことを何でもやったら成功するというのは私は違うと思います。と言うのも橋本先生はおそらく「生徒のため」という、基本的に生徒を主体的に捉えているからこそ成功しているように思います。その辺りは塾長もそうですね。

 

「時代を超えても変わらぬ子どもたちの個性」

 

おそらくクラス担任をしている先生は感じる事があると思いますが、毎年、毎年クラスの子どもが違うので、クラスの雰囲気が違うはずです。今年はやけに静かなメンバーだったり、元気がありすぎるメンバーだったり・・・。子どもは、柔軟で個性と可能性にあふれていると言われています。そして個性を開花するためにも、自由な雰囲気を味わいながら、のびのびと日々の生活を送れるように大人が仕向けることが大切とも言われています。

 

ただ自由、自由と言ってもやはり、「自由」と「好き勝手」というのは違いますね。見守る保育も子ども達が自由に遊んでいますが、それは保育園という社会の中で共同生活する上でのルールを子ども達がお互いに守っているからこそ、自由に遊ぶことが可能です。それと同様なことを橋本先生も言われています。

 

これは保育士、そして子どもも同じですね。どうも「自由」に対する考え方をちゃんと向き合う必要があると思います。おそらく見守る保育を実践している園の先生たちは自由に対する考え方は塾長の講演やブログから学んでいると思いますが、子ども達にも自由に対する考え方を伝えていく必要があります。それは、ここに書いてるような理論的に伝えるのでなく、やはり体験からではないでしょうか。

 

そんな自由な校風の灘高校ですが、生徒から服装の自由化の声が上がりました。もちろん他人に迷惑をかけないのであれば自由を満喫したらいいというのが橋本先生はじめ灘高校の校風なので、服装の自由化が認められました。すると学校に真っ赤な服装で登校した子がいました。今でさえ赤い服は誰でも着ていますが、当時ではかなり目立っていたようで、いくら自由とはいえ学生には学生なりの服装があるとはずです。それに対して橋本先生は頭ごなしに言うのでなく、その子にこう言いました。

「若い人には若さというプラスの面がある。そこにもってきてプラスの派手な格好をしたら、プラスとプラスがぶつかってショートしちゃうよ」なかなか面白い解答ですね。すると次の日からその生徒は普通の格好で登校するようになったのです。さらに中学校の男子というのは思春期であり、大きな悩み、希望が「恋愛」です。橋本先生は生徒に対して「相手に対して自分が興奮しているときでも、これだけのことをしゃべっていいか、一瞬でも考えてから発言しなさい。恋愛においても、思ったことをパッと行動に移すのでなく、こんなことをして良いか悪いか、大丈夫かどうか一瞬でも頭に思い浮かべてから行動しなさい」基本的に橋本先生はどんな事に対しても頭ごなしに言い聞かせるのでなく、ちゃんと理に沿い、そして生徒に対して真摯な態度で接するのは、塾長と同じですね。塾長も見学者が例え学生一人に対しても真摯に対応します。相手の立場などで対応を変えることはなく、「学びたい」という気持ちがある人に対しては時間がある限り真摯に向き合う姿をよく保育園で目にします。私も見学者に対して出来るだけ自分が持っている知識、塾長から学んだことを出来る限り伝えているつもりです。もちろん相手の立場に関係なく、真摯に向き合っていますが、それも塾長の姿をずっと見ているからかもしれません。

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橋本先生はこう綴っています。

「人に対する思いやりの気持ち、これが自然と身に付いたとき、人は初めて大人になれるのです・・・。」(報告者 山下祐)

ちょっと変わった職員が考えるリーダー論 6  〝健やかなる育ちはこうして保たれる〟

ある時は現場に またある時は調理室に

チーム保育の要、〝臨機応変〟を、この人は今日も体現する

 

突然ですが、新宿せいがの保健の先生をご存じでしょうか?

「せーの。ふー♡」

「せーの。ふー♡」

毎日職員室から出ては、保護者からの連絡帳を読み、その日の子ども達を把握し、体調を見て回ります。それだけでなく、こうして遊びの中にも入り、子ども達の笑顔にも貢献するのです。

 

新宿せいがの保健の先生をご存じでしょうか?

とても暑い日でした

とても暑い日でした

「今日は暑いから」と、タライを外に出して、子ども達に水遊びをセッティングしてくれました。6月下旬の土曜日の出来事です。はしゃぐ水しぶきに顔を弾ませる子ども達がとても印象的でした。

 

新宿せいがの保健の先生をご存じでしょうか?

「掃除と塩素、やっておきました。」  スピーディかつさりげない優しさ。プールの水も喜んでいます。

「掃除と塩素、やっておきました。」
 スピーディかつさりげない優しさが現場の保育者をどれだけ助けることか。プールの水も喜んでいます。

プール係に名を置き、プールと言えばこの先生、と誰かが言います。こうして子ども達の夏のとっておきの楽しみが、今年もスムーズにスタートを切ったのでした。

新宿せいがの保健の先生をご存じでしょうか?

「俺のエビフライがない…」先生のお陰で、そんなトラブルとはもうオサラバ!

「俺のエビフライ弁当がない…」先生のお陰で、そんなこととはもうオサラバ!

 

7月に行われました夕涼み会当日。打ち合わせを兼ねてのお昼ご飯のお弁当をこうしてセッティングしてくれました。自分の希望した通りのお弁当が職員の手に渡り、和気あいあいとしたお昼の時間を演出してくれました。

 

新宿せいがの保健の先生をご存じでしょうか?

右は我らが柿崎先生です。

右は我らが柿崎先生です。

これは、美味しかった!

これは、美味しかった!

試作を重ね、つい先日、〝豆腐ドーナツ〟がおやつの時間に子ども達に提供されました。アレルギーの子達に見事に対応された調理内容で、それもこの先生の発案、創意工夫の元で行われました。その美味しいことといったら!子ども達がおかわりに来るスピードで、その美味しさが証明されていたように思います。

 

他にも、行事で使うものを裁縫などで修理・作成してくれ、先日は2歳児クラスにお手製のワンピースをプレゼントしてくれました。少し渋目の柄で(笑)特定の子ども達に人気の変身グッズの一つです。

 

先日11年目に入られました藤森先生が毎日更新されているブログ『臥竜塾』の2013年3月9日『不協和』にはこう書かれています。

 

〝チームワークが良い場合は、メンバーがあうんの呼吸で動き、その動きが全体で美しい音色を響かせるように、お互いの音を聞きながら、美しい和音を奏でます。そして、その音が反響しあい、増幅します。それを「共鳴」とい〟います。

〝(中略)「共鳴」は、感情の波長が一致した時に起きます。そして、それは、前向きの感情をより長引かせる効果があると言われています。職場において、共鳴が起きているかどうかは、リーダーの明るく熱意に満ちたエネルギーに共振する集団であるかです。共鳴が大きいほど、人と人との相互作用が活発になります。共鳴は、システム内の雑音を最小化します。そうなると、チームは一つにまとまり、組織のために人々が結束するとき、そこに働いている人々を結びつけるのは、全員が共有する感情なのです。メンバーは、互いに心を許しあってアイデアを共有し、学びあい、協調して決断を下し、仕事を成し遂げていきます。感情のレベルで絆が形成されているので、大きな変化や不安定要素に直面しても、浮足立つことがありません。何よりも重要なのは、メンバー同士が感情レベルで結ばれていると、仕事がより意味のある目標になります。仕事がうまくいった時の高揚した瞬間を共有しあう歓びは、何にも代えがたいものです。こういう気持ちに後押しされて、集団は一人では到底不可能な目標を達成することができるのです。そうした集団をリーダーがつくり上げるかです。〟

 

素晴らしい文章に、感動を覚えます。

 

新宿せいが保育園のリーダーは大きく言えば藤森平司先生です。して、新宿せいが保育園には、ご存知の通り、主任の先生がいません。それでは、クラスのリーダーは誰でしょうか。職員室のリーダーは誰でしょうか。

 

〝職場において、共鳴が起きているかどうかは、リーダーの明るく熱意に満ちたエネルギーに共振する集団であるかです。〟各場所において、そのリーダーとは、誰でしょうか。

 

僕はそれを、〝その場所において最も信頼を集める人〟、と考えます。それがクラスによっては、ベテランの先生であったり、また、臥竜塾生の面々であったり、職員の誰かであったりする、と思うのです。

 

時間があれば子ども達とシャボン玉を吹き、暑ければタライに水を汲み、職員の笑顔の為に昼食の準備をし、行事や日々の遊びに積極的に手を施してくれ、子ども達の健康を願う気持ちから、安全で美味しい料理を考え、提供する。〝働く〟の語源は『〝はた(他人)〟を〝楽〟にすること』とは有名な言葉ですが、この先生の行っている日々のそれは、〝保健〟という枠組を超えた、まさにリーダーの行う仕事です。また、先日から参加させていただいています、保育環境セミナーの、『子どものためのチーム保育』という項目の中にあった、〝看護師も「保育者」である。看護を通じて保育する〟ということを体現されていることを感じます。

 

藤森先生は言います。〝共鳴は、システム内の雑音を最小化します。そうなると、チームは一つにまとまり、組織のために人々が結束するとき、そこに働いている人々を結びつけるのは、全員が共有する感情なのです。〟

 

その先生は今日も明日も職員室を出られることでしょう。その度、僕らは、その仕事ぶり、その先生の魅力に、共鳴の音を止めることができません。

 

 子ども達の健やかな育ちは、こうして今日も保たれていきます。

先日の朝会の風景です。その日は先生以外皆男性職員でした(笑)

先日の朝会の風景です。その日の町会は先生以外皆男性職員でした(笑)

シャッターを切ろうとすると塾頭の後ろに隠れてしまいました。本当に可愛らしさ溢れるお茶目な先生です。

シャッターを切ろうとすると塾頭の後ろに隠れてしまいました。本当に可愛らしさ溢れるお茶目な先生です。

(報告者 加藤恭平)

「学ぶ力②」

まず様々な教科でテストがあると思います。そして当たり前ですが問題の文章などを理解しないと問題は解けません。だから国語力を鍛えることで理数系科目の理解どもぐんとあがると言われています。確かに冷静に考えてもそうですね(笑)かと言って「国語が大切だ」と言うのでなく、「自然とそういったことが分かる、感じられるようにもっていくのが教師、大人の役目」と言っています。この辺は見守る保育でいうと保育士が意図した活動を子どもたちに促すために環境を用意しそして自然と子どもを活動に促すといった事と同じですね。

例えば、少し先に運動会があるので、子どもたちに運動の楽しさを知って欲しいという思いがある場合、あえて保育室の環境を減らし運動遊びを選択しやすい状況をつくるなど、自然と子ども達が運動に興味を持ち始め、そして子ども自身が運動会という大きな目標に自然と向き合っていく。そして発表会の場合は保育士は題材となる絵本を多く読むことで子ども達にストーリーを把握させたり、製作の素材を大くし小道具を作りやすいような環境を用意するなど、子どもたちが自然と、意図した活動をするように環境を設定します。保育園に限らず環境というのは中学校、そして高校でも大切なものです。

 

また保育士として子ども達に願うのは、将来立派な社会人になって欲しいと思います。その時に長い人生はの中で、困った時、苦しい時、保育園時代の事を思い出して欲しいと思います。橋本先生も同じような思いがあるようで、「心の糧になるような授業」をしたいと常々考えていたそうです。そこで生まれたのが「スローリーディング」です。中勘助の小説「銀の匙」を3年間をかけて読み込みながら、国語の授業にも関わらず、凧揚げのシーンがあれば凧揚げをし、駄菓子が登場すれば教室内で食べてみる・・・とにかくすぐに行動に移すのが橋本先生のスローリーディングの授業方法です。そして

「正解を求めず、考えることを楽しむ」

ということに重点を置いています。自分で考える重要さと共に、自分以外の人たちがどのように考えたかということを知るのも大切なことなので、どちらが正解というわけではないのです。

藤森先生も「結果よりもプロセスが大切」と言われます。子どもの遊びでブロック遊びやお絵かき、塗り絵、製作があります。その時には必ず子どもは保育士に「先生、見て!」というはずです。その時に出来上がった作品を認めるか、それまで頑張った姿を認めるか・・・。

橋本先生もやはり結果よりもプロセスを認めています。生徒にたくさんの文章を書かせてきましたが、また和歌つくりにも挑戦させたこともあるそうですが、その際に橋本先生が生徒に言うのは「歌の上手下手は問わない、作歌の努力そのものを評価します」と。もちろん生徒を歌人にさせるつもりはないので、それよりも歌を作る際に必要な「選択力」「判断力」「集中力」「言葉には関する細やかな感受性」こういった力を養ってもらうことが目的だったそうです。ですので、生徒の中には一つだけしか作れない生徒もいれば、10個以上作る生徒もいますが、差はつけませんでした。一つだけでも、サボっていたわけでなく、歌をつくる際により大きな苦労をしている可能性も大いにあるからです。私は、その裏で生徒一人一人を「信じて」いたからかもしれません。もし信じていないと、たくさん作った生徒に対しては評価し、一つしか作れなかった生徒に対しては、サボっていたのでは?と思い、差をつけるでしょうね・・・。ただ、生徒がサボって一つしか作れなかったとしても、先生が信じる姿勢を見せれば、子どもは必ず気づいてくれるはずです。藤森先生は以前、こんなことを言ってくれました。

「裏切るより、裏切られるほうがいい」

言葉通り、これは人を裏切るくらいなら、裏切られたほうがいいではないか。ということです。おそらく普通は裏切られるのも嫌ですが、おそらく塾長レベルになると、こういう発想ができるのですね・・・。私はこの言葉を聞いた瞬間に驚きよりも、いかなる状況に置いても塾長は自分よりも相手の気持ちを優先する方だと。

ただ、ふと冷静になって考えても、塾長が言われた一言は衝撃しかありませんでした。

そしてよく言われる言葉は

「人は悪気があってやっているわけはない」

職員で仕事で失敗や間違ったことをしても、決してその人は悪気があってそんなことをしているはずはない、と基本的に塾長は職員の事を信じていますし、それは職員だけでなく保護者にも同様です。何かクレームがあったとしても決して保護者のことを悪く言うのでなく、何か別の理由があるのではないか?そんな悪気があってそんな事を言わないのでは?と。

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塾長、そして橋本先生も基本的に生徒の事を120%信じているということが共通しているようにも思いました。(報告者 山下祐)