2/22(水)臥竜塾報告

春の足音聴こえる臥竜塾。
この日は、対面開催でした。

話題は、近づく成長展について(2/22時点)

話を聞く中で、沢山のメリットがあることに改めて気付かされます。

・4月から取り組むことで、見通しをもって保育を計画することができる

・保護者が我が子の成長を目に見える形で感じることができる

・クイズ形式にすることで、親が我が子のことをどれだけ把握しているかがわかり、『こんなこと考えるんだ』など、新鮮な驚きを提供できる

・職員にとっても意味があり、次年度に引き継ぐ職員が、現時点の子どもたちの発達を把握できる

・新人の先生にとっても、子どもたちのことをわかってもらう機会になる

また、「地域にも開放できるといい」と塾長。

園が社会に開かれ、地域が子どもたちや園のことを知る、良い機会になりますね。

また、今年もわいらんすい(3・4・5歳児クラス)組は、大型作品に取り組みました。
作っては壊したりを1週間くらい繰り返し完成。

塾長曰く
小学校教員時代、小金井公園にて、縄文式の家を子どもたちと見学へ→次の日、学校で子どもたちが粘土と割り箸を使って再現していた→「だったら本物作ろうか」と提案→校長に「校庭の隅を貸してほしい」と提案→「夏休み中に作って夏休み中に撤去」を条件に許可がおりる→麦わらや、枯れ木、倒木などを集めた→完成→入場券を配る人、切符切りの人、など子どもたちに役割を与えた」
「保護者や地域の人の協力のもと、縄文時代の衣装のファッションショーをして、どんぐりクッキーを作って食べて、最後はキャンプファイヤーをした」

キャンプファイヤーの時には星座についての話もした、といいます。

「キャンプファイヤーの跡は、本当の縄文遺跡の跡みたいだったよ」と塾長。

衣→ファッションショー
食→どんぐりクッキー
住→縄文式の家

という、実体験からの学びがそこにはありました。

「やっぱり何かしらのきっかけがないとね」と塾長。

小学校教員時代、子どもたちから「クラスの歌を作りたい」と提案があり、子どもたちに歌詞を書いてもらいました。

『僕らはなんでもできる
先生なんて用はないのさ』

歌詞の一節にこうあり、そうは言っても、何かきっかけになるようなことや、行動できるような何かを、大人側から子どもたちにアプローチをする必要はある、といいます。

「子どもを怒らない=騒がしくていい、ではない」と塾長。

小学校教員時代、学校職員全体の朝礼が遅くなり、先生不在の朝の教室。全クラスが大騒ぎする中、塾長のクラスの子たちは静かだった、といいます。

それは、当時、算数の暗算が書かれたテストのようなものを、子どもたちがいつでも自由に取り組めるように設定していた為、それに子どもたちが気付き、取り組んでいたから、とのこと。

「そういうものがなければ、無理」と塾長。

また、「子どもを怒らない=騒がしくていい、ではない」の話の中で、

朝の会の歌(現、新宿せいが子ども園『お誕生会の歌』)を作った→曲の終わりを『ミミレレド』に→静かになる→日直「おはようございます」

というように、自然に子どもたちが静かになるようしていた、といいます。

また、当時テレビで『一休さん』を取り上げ、
「一休さんがあんなにいろいろなことを思いつくのはなぜだろう」と、子どもたちと思案し、
「目を瞑って考え事をしてるから」と、解説。
授業中に子どもたちと取り組みました。
校庭で行われている授業の声、鳥の声、など、子どもたちは新しい気づき、発見をした、といいます。
それから、大事な話をする時には「一休さん」と声をかけると、皆静かになって聞いてくれた、とのこと。

新宿せいがにもいつからか「集中」と声をかけると、手を合わせて静かになる、というような文化を、森口先生や西村先生がつくってくれましたが、まさにこの教えに則ったものと言えるでしょう。

階段の上り下りを楽しく行えるように、段を踏む度にピアノの音が鳴るように設定したり、新宿せいが子ども園で言えば、階段の段数の数字を割り当てて、数字に触れる機会を作ったりと、そういった、環境を通して、望ましい行動をとれるよう、人を後押しするアプローチのことを『ナッジ』と言いますが、見守る保育 Fujimori methodの根幹ととてもよく似たものを感じます。

「だけど、私の理想としては」と塾長。

「本当は、聞かない子が困るわけだから、聞く側が静かにする必要がある。それでも、聞くことが難しい子や、聞こうとしている子を邪魔してしまうような子に対して、子ども同士で注意し合ったり声を掛け合ったりすることが望ましい」といいます。

見守る保育 Fujimori methodが目指す子ども像の一つですね。

また、教員時代には、こんな取り組みも。

子どもたちの前で民話を読む→感想を絵にする→言葉の想像で絵を描く

という授業はよくありますが、塾長は、

「文字で写生」を子どもたちにさせた、といいます。

原稿用紙を渡し、「匂いを書く」「その花について書く」などの取り組みをしました。

様々に「表現」する方法があることを子どもたちは知ることになります。

また、「絵が描けない子」については、
「絵がどういうものかを知ってることがある」と塾長はいいます。

どんなものかがわかるから、見通しの中で難しいと感じてしまうのかもわかりませんね。

「絵の概念を壊す」というねらいのもと、塾長は絵画指導を行います。

白い画用紙を半分に折る→半分に「なんでも燃やす火を吹く怪獣がいる」→「何色?」→子どもたち「赤」(何色でもいい)→じゃ「赤で赤い怪獣を描こう」→もう半分に「何でも凍らす寒い怪獣」を同じように促し描かせる→
描き終えたら「二匹の怪獣が出かけていって出会ってしまう」「二人が出会う、これはまずい」→戦わせる→怪獣の色のクレヨンを両手に持たせ「2本で戦え」→子どもたちぐちゃぐちゃに塗り始める→「もう戦うのは疲れた」「結婚しよう」→結婚して赤ちゃんが産まれる→「皆の手の中に赤ちゃんがいるよ」

こうして、子どもたちは、混ざると何色になるかを体験を通して経験するわけですね。

また、子どもたちに雨の絵を描かせて、
最初は「ポツンと降って」→段々と大雨に→子どもたちの絵を小雨〜大雨順に並べる→あらかじめ作っておいた「子どもの傘」を絵に貼っていく→斜めにしたりして「飛ばされそう」など絵を見ながら感想を添えていく→大雨の絵になった時に、「折れそう」など、伝えながら大きな傘『お母さんの傘』を貼ったりする

「どんな雨でもいいし、どんな絵でもいい、ということを伝えたいよね」と塾長。

中には取り組まない子もいるが、「やらなきゃ損する」という気持ちが芽生えることで、取り組みへの関心は高まっていく、と塾長はいいます。

そういう取り組みについて話を聞く度、塾長は、現場のプレイヤーでもあり、体現者であったことを再認識する思いがします。教員時代の話はいつ聞いてもとても興味深く、保育現場にも活用できそうなアイデアに満ちていますね。

さて、ただ近づく足音であった春も、今や盛りを少し過ぎた感すらあり、

連日の雨で、東京の桜は散り始めてきています。

遅れに遅れてしまった報告も、なんのまとまりもなく、

このように終えようとしているところに、9年という月日を経て

傲慢になった自分を感じ、省みることの必要性を感じます笑

しかしながらその一方で、

ある意味では、飾らずに、素直に、

こういった文章を残せる、という幸せを感じてしまっていることも事実です笑

臥竜塾は、水が高いところから低いところへ流れていくように、

塾長の優しさと温かさが、その構成の軸であると言えるでしょう。

また、何年かして、

僕のように傲慢に笑

素直に、そんなに飾らずに、

ここに文章を残せることに幸せを感じる後輩たちがいることを願って、

僕は、僕のままで、新しい年度を迎えたいと思います。

今日まで、本当に有難うございました。

見守る保育 Fujimori methodに、

臥竜塾に携わるすべての人の幸せを願って。

(報告 加藤恭平)