研究紹介

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 私たちは、子ども達に日々の遊びを通して、様々な事を学んで欲しいと思っています。ここでは、塾生が考えた手作り玩具や、見学先で学んだ玩具を参考にアレンジした玩具などをを紹介する場です。
良かったら参考にしていただけたらと思います

文字・数・科学・食育

10の姿③ 協同性

前回からかなり時間が経ってしまいましたが、今回は10の姿の「協同性」についてこの場をお借りしてあれこれと考えてみたいと思います。
まず、幼児期の終わりに育てたい10の姿における「協同性」はこのようにあります。「友達と関わる中で、互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」

そもそもなのですが、「協同性」という漢字が少し気になりました。「きょうどう」というと「共同」であったり、「協働」であったり、「協同」であったり、「今日どう?」というような文字が浮かんできますし、パソコンでもこれらの漢字が変換されるように思います。
少し調べてみると、
共同は、「きょう – どう【共同】二人以 上の者が力を合せること。二人以上の者が同一の資 格でかかわること。「協同」と同義に用いることが ある。→協同。」
とあり、
協同とは、「きょう – どう【協同】ともに心と力をあわせ、助けあって仕事をすることや、複数の個人や団体が心や力をあわせて同じ目的、共通の利益を守るために事にあたること。共同。」
とあり、
協働とは、
「きょう – どう【協働】(cooperation ; collaboration) 協力して働くこと。複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」
とありました。
それぞれ同じような内容ではあるのですが、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」ということからも保育の現場では「協同」や「協働」という字が当てはまるのかもしれません。

ということで、「協同性」ですが、改めて「友達と関わる中で、互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」と説明してあります。
まず、「友達と関わる中で」とあります。この協同性は5領域の部分だと「人間関係」の部分になっていくのではないでしょうか。そして、「乳児保育に関わるねらい及び内容 」の部分だと「身近な人と気持ちが通じ合う(これがやがて人間関係という領域になっていきます)」という部分に当てはまるのかなと思いました。
そして、ねらい①に「安心できる関係の下で、身近な人と共に過ごす喜びを感じる」とあります。協同性というのはまずここから始まるのではないでしょうか。自分とは違う他者と共に過ごすことから始まるのだと思うと、保育園という集団がいかに必要であるかということが分かります。協同性の説明の中に、「友達と関わる中で」とありますが、友達と関わる場、つまり子ども集団に属すると様々な経験をします。それは楽しいこともたくさんありますし、時にはストレスを感じることもあると思います。乳児でも、おもちゃを介して、または保育士や他の子との関わりを通して、楽しさを共有しているような姿が見られます。お互いに笑い合ったりする何気ない場面から、友達と関わることが始まり、関わるからこそ、「互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて」という部分に繋がっていくのではないでしょうか。

友達同士での関わりを通すからこそ、相手が何を考えているのかが分かってくるのかなと思います。藤森先生の講演の中でも「共感力」の重要性がよくでてきます。共感力というのは「白目が見える距離」にいることが大切であるということを言われます。それはつまり、集団を形成するということになるのだと思います。集団を形成することで、様々な他者が自分と関わります。その距離は近い距離であり、つまり白目が見える距離ということになるのではないでしょうか(白目が見えることで相手の感情を感じることができるので、そのような表現をされます)。

そして、「共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」とあります。
園という集団の中で、乳児から他者と関わることを経験することで、次第に相手が何を考えているのか、思っているのかを感じることができ、そして、そこから共通の目的の実現に向けて協力していく姿になっていくのですね。

また、とても大切だなと思うのが、協働の説明の中に、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」とあります。これはつまり、主体でなければ目標を共有することができないということになるのではと思いました。「考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」ためには、「共通の目的」を持たないければいけません。そのためにはそれぞれの子どもたちが、人が主体でなければならないとあります。

藤森先生のブログの中でもこのようなことが書かれてありました。「目標の共有化が必要です。そして、その目標に向かって、協働する各主体はお互いに自主・自律性を確保し、他の主体から支配されないことが必要になります。また、目標が効率・効果的に達成されるために、各主体は能力や資源を互いに補完し、相乗効果をはかる必要があります。ですから、関わる主体は成果に対してもそれ相応の責任をとらなければなりません。このようにそれぞれが主体であり、その能力や資源を補完し合うためには、考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです」

このように考えると、「協働」の方がしっくりくるのかもしれません。

では、複数の子どもが主体になるためにはどうすればいいのでしょうか。それはまさに、見守るという大人の関わり方が大切であり、園の環境としては様々な遊びの環境が用意してあるまさに藤森メソットの中のゾーン保育につながっていくのではないでしょうか。
大人が指示し、コントロールするように子どもと関わってしまうと、子どもは大人の言う通りに動くようになってしまいます。それでは、子ども主体は守られていことになりますね。

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また、自分でどこで遊ぶか、誰と遊ぶかを決められる環境はまさにそれぞれの子どもたちが主体的です。例えば、ブロックゾーン。ブロックゾーンをやりたいと思った子どもしかそこにはいません。それぞれが主体であり、自発的に遊んでいます。だからこそ、目標を共有し、同じ目的に向かって遊ぶことができるのですね。
そして、「考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」という部分ですが、先ほどの藤森先生の言葉の中にある「考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです」と同じことであるように思います。遊びの中で、「こうしたらいいんじゃない?」「でも、こうの方がいいよ」「あ、それいいね」というような子どもたちのやりとりはまさに、考え方や取り組みが異なってもそれを尊重していくという姿になっていくのかもしれません。

乳児の頃から他者と関わることを当たり前にしてきた子たちは、他者と関わることを楽しみ、そして、自然に共通の目的に向けて、協力していくように思います。それは人類が生き残ってきた戦略でもありますし、何よりその方が楽しいと知っているからではないでしょうか。そのためにもやはり、子ども同士が関わることが大切になってくると思うので、私たちはそれが十分にできる環境や関わり方を意識しないといけないのかなとも感じました。

つまり、とても強引のまとめになってしまいますが、乳児の頃から、子どもたち同士が関われる場があり、主体的になり、自発的に遊び込める環境があれば、子どもたちは協同性を育んでいくということになるのではないでしょうか。このように指針の内容を考えるといかに見守る保育、藤森メソッドが教育の真髄であるかということを改めて感じます。

僕なりに思ったことを書かせてもらいました。
このように形にすることで、まだまだ理解できていないことがたくさんあるなと思わされました。そのことに気づくためにもとてもいい機会なので、また続けていけたらと思います。

 

投稿者 森口達也

『意図』

 

第四弾

第四弾

第三弾は、『栓抜き』の絵が添えられた暗号文を提案し、「せ」と「ん」を抜いて読むとある場所が指し示されていて、そこへいくと次は『タヌキ』(た抜き)の絵が添えられた暗号文があり、それを解くと『こけし』(こ消し)の絵が添えられた暗号文に辿り着き、お宝を獲得する、というゲームをしました。

探偵ものの絵本が流行っていることもあり、6組目の子が見事に解読。ただ、それ以外の子には難しかった様子だったので、

今回はやりたい子皆で考えてもらいました

今回は、やりたい子皆で考えてもらいました

数分後、

賢いと思いました

賢いと思いました

一つ一つの文章を解読はできるものの文章が繋がらないことを解決すべく、メモを取る、という作業を思いつきます。

解読できたところが埋まっていきます

解読できたところが埋まっていきます

30分程経過したところで時間切れに。提案した側も初めての取り組みの為に探り探りといった結果煩雑なものになってしまいまして、子どもたちに申し訳ないなと思いながらも、ま、気軽にやろうよ、ということで答えを伝えました。

「なのだん、ってそういうことか」

「なのだん、ってそういうことか」

「かっきー(柿崎先生)の名前初めて知った」

星のついた段の文字を並び替えると「かねのなか」となり、活動の区切りを伝える為に用いている『鐘』の中に鍵が入っている、という今回の取り組みでした。

ブログ『臥竜塾』2012年1月28日『意図』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

子ども主体と保育者主体。この度の内容に自省しながら、次の取り組みを考えていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

『共同ではなく協働』2

 

第二弾

第二弾

箱の中に

箱の中に

プレゼントを入れて

プレゼントを入れて

ペアでチャレンジ。

ヒントに、足し算、引き算、掛け算、割り算などを用いて、0が答えになる計算問題の書かれた用紙を手渡しました。

道具は何を使ってもOK

道具は何を使ってもOK

全ペア一巡して、

電卓を使うことに辿り着きました

電卓を使うことに辿り着きました

それぞれに知恵を出し合いながら、少しずつ開錠へ近付いています。

ブログ『臥竜塾』2015年5月25日『共同ではなく協働』の中でこう書かれています。

「協働」という言葉は、比較的新しい言葉のようです。協働の概念を最初に発案したのは、アメリカのインディアナ大学の政治学教授ヴィンセント・オストロムだといわれています。彼の著作の中で、「Coproduction」という造語が用いられています。「共同の、共通の…」という意味の「Co」に、「Production(生産、産出、成果)」を結びつけて作り出されました。1977年のことでした。これを訳すときに、「協働」と訳したのです。この「協働」は古くから日本社会において使われてきた概念ではありませんが、おおむね、次のような定義がされています。

まず、「目標の共有化」が必要です。そして、その目標に向かって、協働する各主体はお互いに自主・自律性を確保し、他の主体から支配されないことが必要になります。また、目標が効率・効果的に達成されるために、各主体は能力や資源を互いに補完し、相乗効果をはかる必要があります。ですから、関わる主体は成果に対してもそれ相応の責任をとらなければなりません。このようにそれぞれが主体であり、その能力や資源を補完し合うためには、考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです。

そこで、協働とは、「様々な主体が、主体的、自発的に、共通の活動領域において、相互の立場や特性を認識・尊重しながら共通の目的を達成するために協力することを言う」と定義されてもいいかもしれません。

もう一巡しようか、ペアを変えようか、人数を3人に増やそうか、何かヒントを出そうか、子どもたちと話し合いながら進めています。

(報告者 加藤恭平)

『共同ではなく協働』

 

100円ショップで購入

100円ショップで購入

自転車の鍵です。

それを二人一組になって、開けてもらいます。

鍵開けチャレンジ

鍵開けチャレンジ

力付くで開けようとする子、近くにいた先生の電話番号や誕生日で開けようとする子、10分間のチャレンジタイムの中に様々な工夫が見られました。

ミソはここ

ミソはここ

3組目に取り組んだペアが番号の存在に気付きますが、その番号を

出っ張りに合わせることに中々辿り着けず

出っ張りに合わせることに中々辿り着けず

情報が下りて下りて、9組目で開錠。子どもたちから歓声が湧きました。

ブログ『臥竜塾』2015年5月25日『共同ではなく協働』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「きょうどう」するというと、漢字に書くときに迷うことがあります。それは、「協働」と書くべきか、「共同」と書くべきか、「協同」「共働」などどれを使うかを迷います。わたしたちはかなりいい加減に使うことが多いのですが、実は、どの漢字を使うかは、かなり深い意味があるようです。たとえば、「共同」と使う場合は、その字のごとく、「共に同じ目的」「共に同じ条件」など、「複数の人や団体が、同じ目的のために一緒に事を行ったり、同じ条件・資格でかかわったりすること。」に使います。「―で経営する」「―で利用する」「三社が―する事業」それは、「協同」に同じとあります。と言うことは、「共」か「協」の違いよりも、「同」か「働」の違いになるようです。

 と言うわけで、「協働」とは、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」とあるように、「ともに活動する」ということが込められています。そして、このときの「ともに」には、深い意味があります。単純に「共同して」というように力を合わせるということだけでなく、目的意識を共有し共通の目標に向かって達成に力を尽くすことや、お互いが対等の立場でそれぞれの特性を活かすことが重要なようです。

可愛いと思うのは、得た情報を漏らさなければまた自分たちの順番が回ってくるのに、まだ取り組んでいないペアに全ての情報を伝えてしまうところです。

そんなズル賢さのような発想など到底湧くわけもないかのように、協働して得る楽しさや、友だちの成功を喜べる子どもたちの純粋な心を、改めて素敵だなと思います。

(報告者 加藤恭平)

『遊びと自然』

子どもの時やった遊びを子どもたちと楽しみました。

オオバコ相撲

オオバコ相撲

ちぎれないコツを教えるとすぐ強くなる子どもたちです

ちぎれないコツを教えるとすぐ強くなる子どもたちです

砂山崩し

砂山崩し

加減が大切ですね

加減が大切ですね

虫捕りも盛り上がっています。

トンボを捕まえました

トンボを捕まえました

右側の子が網の上から持ってあげ、援助しています

右側の子が網の上から持ってあげ、援助しています

「もうちょっと手、伸ばして」

「もうちょっと手、伸ばして」

「掴めた?」「掴めた」

「掴めた?」「掴めた」

共同作業ですね

共同作業ですね

ブログ『臥竜塾』2009年9月27日『遊びと自然』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもの権利条約「第31条」には、「休み、遊ぶ権利」が書かれてあります。「 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。」
それぞれの子どもたちのために、その年齢に適した遊びを用意しなければなりません。それは、決して、管理しやすいとか、危険が少ないとか、汚くないとかいうような大人の都合でつくられるのではなく、あくまでも子どもにとってどうかを考えなくてはなりません。しかし、それは単に子どもが好きかどうかということではなく、人間の成長にとって大切な遊びの重要性を考え、提案しなければならないのです。そんな意味で、児童遊園がつくられているでしょうか?
子どもにとっての最高の遊びの遊具は、自然界にある火、水、木、土だといわれています。これらを、どのように公園に生かし、子どもたちが自然と触れ合うことができるかを意図するのも必要です。もうひとつ、最近の少子社会で重要なアイテムとして「子ども集団」が必要な気がします。いかに、集団で遊ぶことを促すかということです。

子ども同士、子ども集団を01歳児の頃から促す見守る保育Fujimori Methodは、自然と関わり合う子ども同士の関係を構築する保育であることを改めて感じると同時に、そのような視点で遊びや遊び場を考えるということが大切であることを学びます。

(報告者 加藤恭平)

10の姿②

前回は10の姿の「健康な心と体」がどのような場面のことを言っているのだろうかということを僕なりに考えてみましたので、今回は「自立心」の部分はどういう場面なのだろうか考えてみたいと思い、またここで書かせていただきました。

幼児期の終わりまでに育てたい10の項目の「自立心」にはこうあります。「身近な環境に主体的に関わり様々な活動を楽しむ中で、しなければならないことを自覚し、自分の力で行うために考えたり、工夫したりしながら、諦めずにやり遂げることで達成感を味わい、自信を持って行動するようになる」

「身近な環境に主体的に関わり様々な活動を楽しむ中で」という部分は「健康な心と体」の部分にも繋がってくるのかなと思います。やはり子どもが主体となる環境があること、(広い意味では園全体ということなのかもしれませんが)新宿せいが子ども園でいうとゾーンという環境が分かりやすいのかなと思います。そんなゾーン環境で子どもが自分で遊びたいゾーンを決め、遊びたい友だちと遊び込むということが「身近な環境に主体的に関わり様々な活動を楽しむ」ということになるのでないでしょうか。

また、01歳児クラスにはおもちゃで遊ぶ「静のスペース」と、体を動かして遊ぶ「動のスペース」がありますが、それを選択する子どもの姿もこれに当てはまるのではないでしょうか。また、子どもが主体となっている活動としては選択活動があげられるように思います。散歩に行くのか、それとも部屋で遊ぶのか、園庭で遊ぶのか、部屋で遊ぶのか。制作に関しても、自分の発達にあった制作を選択するというように、まさに、子どもが主体となり、様々な活動を楽しんでいる姿は日常に行われています。

そうなると次の部分の「しなければならないことを自覚し、自分の力で行うために考えたり、工夫したりしながら、諦めずにやり遂げることで達成感を味わい、自信を持って行動するようになる」というのはどういうことなのでしょうか。
「しなければならないこと」というのはなんなのでしょうか。

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大人である自分自身だとやはり「しなければならないこと」は仕事をする上の役割で任されていることであったり、日常生活を送って行く上で、必要となる洗濯や掃除やご飯という家事的なことにも当てはまるのでしょうか?
園の生活でもそういった「しなければいけない」ということはあるのかもしれません。そんなに強い言い方ではなくてもいいのかもしれませんが、朝の会に参加したり、当番としての役割などはもしかするとそういったことになるのでしょうか。

ですが、もしかするとこの「しなければいけないということ」は「遊び」と置き換えることはできないだろうかと思ったりもしました。だとすると、ブロックゾーンで遊ぶことを決め、いろいろと自分で思考錯誤をしながら、思い描いたものを作ろうと頑張ったり、友だちと協力して、一つのものを作り上げる様は「自分の力で行うために考えたり、工夫したりしながら、諦めずにやり遂げることで達成感を味わい、自信をもって行動するようになる」ということになっていくのかなと思いました。

よく藤森先生は「達成感」と「安心感」は違うというお話をされます。自分でやると決めたものをやった後に得られるものが達成感であり、人から支持されたものをやり終えた後に得られるものは安心感であると言われます。誰かにフルマラソンを走れと言われて走り終わったとしたら、確かにそれあ達成感ではなく、終わったという安心ですよね。

そうは言ってもやはり「しなければいけないこと」という言葉はなんとなく引っかかってしまいますね。園での子どもたちを見ていると、みんな主体的に動いています。もちろん、要所で大人の導きはありますが、多くの場面で自分で考え、動いています。そういったことを日々していると何に対しても子どもは「やらされている」という気持ちではなく、自分からやっている、その中で楽しみを見つけて楽しんでいるという姿勢で活動しているように見えます。当然、集団生活ですから時には「やらなければいけないこと」はあります。服を着替えること、汚れものを袋に入れる頃、排泄に関することなど、または運動会やお楽しみ会といった行事はもしかするとやらなければいけないものなのかもしれません。しかし、そういった活動の中で、自分でできるようになったり、自分たちでセリフを考えたり、役柄を決めたり、発達にあった運動を取り組み運動会があったりと、子どもが主体的に取り組むことができれば、しなければいけないことに対して、工夫したり、諦めずにやったりという楽しみ方を子どもは身につけていくのではないでしょうか。
そういう意味では「身近な環境に主体的に関わり様々な活動を楽しむ中で」という言葉が最初にあるのはなるほどなのかもしれませんね。
大人でもやりたくないこと、気が乗らないことはたくさんあります。ですが、それを嫌だ嫌だと言ってやるよりも、どこかに楽しみを見出し、主体的に行動している人はいろいろな意味で強い人だと思います。そう思うとこの項目は幼児期に主体的に行動することができれば、小学校に行った時に目の前の課題を自分のこととして取り組むことができるという姿につながっていくということも考えられるのでしょうか。そういう意味でも「幼児期の終わりまでに育てたい姿」ということになるのかもしれませんね。

また、この項目は自立心ということでした。よく藤森先生の講演のなかで、自立について話をされることがあります。それは指針の人間関係の中に

「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」

とあるように、互いに支え合うために自立心が必要であると話されます。
お互いにできない所は隠さずに表すことで、互いを支える一歩になるのかもしれません。そのためにはお互いの信頼関係が必要になってくるのかもしれません。そのためにも園の中で子ども同士が関わる環境が重要になってきますね。
また、藤森先生は「自分でできるようになるからこそ、他者を助けることができるようになる」ということも話してくださいました。まさに、自立心というのは社会の一員になるために必要な力になるのですね。
ついつい、自立というと自分でなんでもできるということばかりに目を向けてしまいますが、その先にある本当の自立心の意味を藤森先生からは教えてもらいました。

この10の姿の自立心はもしかするとその部分よりも、自分でなにかができるようになると言うニュアンスの方が強いのかもしれません。ですが、やはり、この自立心の項目も主体的に行動する子どもの姿が大切になってくるのではないでしょうか。やらされる、言われた通りに子どもを動かすような教育はやはり違いますね。

と、ぐだぐたと書いてしまい、自分でも何がなんだかわからくなってしまいました。
ですが、こうやって書かせてもらったことで、改めて考えるきっかけになりました。本当に保育は奥が深いですね。

報告者 森口達也

10の姿①

平成30年度より施行される新しい保育所保育指針の中に「幼児期の終わりまでに育って欲しい姿」として、10の項目が新たに追加されました。どれもとても大切なことが書かれてあると思うのですが、文章だけを読んでもいまいちどのような姿なのか私自身、ピンとこない感じがありました。ですので、この場で、文章と現場での様子を自分なりに照らし合わせて、どのような場面のことを言っているのだろうかと考えて、より理解していきたいとなと思いました。
よく分からないことを言ってしまうかもしれませんが、その時はコメントしていただけると助かります笑

まずは、アの「健康な心と体」ということで、「保育所の生活の中で、充実感をもって自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせ 、見通しをもって行動し、自ら健康で安全な生活をつくり出すようになる」とあります。

まず、「充実感」とはどういう意味なのだろうと思ったので、辞書で調べてみました。すると、「心が満たされている、満ち足りているという心情」とありました。次に心が満たされているというのはどういうことだろうかと考えてみました。満たされているというのは、子どもの欲求が適切に満たされているということに繋がるように思います。指針の中に情緒の安定という言葉がありますが、この情緒の安定は子どもの欲求が適切に満たされていることで、安定すると藤森先生がお話しされていました。子どもの欲求が満たされているというのは、それぞれの子どもの発達にあった環境が用意されているということになると思います。

左手に持ち替えたり、

子どもはこのように心が満たされることで、自分のやりたいことに向かって挑戦していけるのだと思うと、この充実感というのは信頼できる大人に見守られながら、いつも自分の欲求に応じた活動ができていること、発達にあった環境があるということになるのではないでしょうか。
だとするとその姿は0歳児クラスからも見ることができます。信頼できる大人のもと赤ちゃんたちは自らの発達にあった環境で過ごしています。新宿せいがでは、ズリバイ、はいはい時期の赤ちゃんは手の届く所、目の届く所に置かれたおもちゃに興味関心が生まれるように、その時期の赤ちゃんの環境はあえておもちゃを散らかすという環境設定をすることで、それを刺激しています。まさに「自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせ」ているということにつながるように思いました。また、2歳児クラスや、345歳児クラスの環境でも自分がやりたい、発達にあった遊びができるように、あらゆるゾーンが用意されていますし、ゾーンの内容も発達の幅を考えたものが置かれてあります。そして、子どもが主体となり、どのゾーンで遊ぶが選択し、自発的に遊びを展開することはまさに、「充実感をもって自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせている」ことになるのではと思いました。

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また「見通しをもって行動し、自ら健康で安全な生活をつくり出すようになる」というのは、子どもが自ら主体となって生活し、遊んでいるからこそ、生まれる姿になるのかなと思います。大人に指示されて動いていたり、大人が決めた遊びで遊ぶという生活を続けていると、自ら「見通しを持って行動する」ということはできなくなってしまうように思います。自分で考えて、動くということを生活の面でも、遊びの面でも行なっているからこそ、健康で、安全な生活を送れるのではないでしょうか。

最近、藤森先生の講演の中でも、移動距離の長い赤ちゃんの方が危機管理能力が高いということをお話しされます。いろいろな場所を動き回っているからこそ、何が危険で、なにが安全かを理解できるのですね。

01歳児の部屋の環境は、その部屋の中であれば基本的にどこへ行ってもいいというものになっています。みんなが遊んでいる場所から、ちょっと抜け出し、水道のところへ行ってみたり、布団が敷いてあるところへ行ってみたり、食事スペースに行ってみたりと、子どもたちは探索意欲を満たすように動き回っています。もちろん、大人はその姿をしっかり見守っておられます。また、園の中には階段があります。0歳児クラスの子たちも後ろ向きに上手に階段を降りていますし、手すりをしっかり持って降りる子や、慎重に降りる子、成長してくると体のバランスをとりながら手すりを持たずに降りる子と様々です。安全、安全と言って、環境の中からこのような環境をどんどん取り除いてしまうと逆に子どもたちの危険を回避する力を弱めてしまうことになると思うと、このような環境があることも大切ですね。

 

また、この時期は園で体調が悪くなる子も出てくるのですが、上のクラスの子たちになると自ら「なんか気持ち悪い」や「お腹が痛い」「疲れた」「頭が痛い」ということを訴えてきます。本当に細かく自分の体調を言葉にできる子どもたちには驚かされます。

ということを思うと、まさに新宿せいがの環境や大人の見守るという関わり方が、「保育所の生活の中で、充実感をもって自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせ 、見通しをもって行動し、自ら健康で安全な生活をつくり出すようになる」という子ども像をうむ環境になっているように感じました。
よく、藤森先生は指針を読み込んだからこそ、このような保育になったということを言われますが、改めて、そのことを感じました。

投稿者 森口達也

Time of light episode 3『夕涼み会3』より

写真 部屋の隅にある光を発見。

部屋の隅にある光を発見。

 

この光どこからきているのでしょう。

この光どこからきているのでしょう。

 

あんなに遠くからきていました。

あんなに遠くからきていました。

その正体は、

「Sun catcher」

「Sun catcher」

しかもこれは、1歳児クラスの先生の手作りです。

ビーズを100円ショップで購入、お家にあったというその他の装飾と合わせても1つの金額はお店で購入する比ではないとのことで、それについても驚きました。

その名の通り、光を吸収し、複雑な反射を見せてくれます。

その名の通り、光を吸収し、複雑な反射を見せてくれます。

 

興味津々。

興味津々。

窓際にかかっていたその光が0歳児クラスのところまで届いていたのですね。

お借りして園庭へ。

お借りして園庭へ。

 

0歳児クラスの子も好反応。

0歳児クラスの子も好反応。

本当にきれいです。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年10月3日『夕涼み会3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「園でよく感じるのは、保育者は、いろいろな物をつくる能力とノウハウとセンスをたくさん持っていることです。個々場所の装飾など、センス良く、素敵につくることもできます。それなのに、どうしてか『保育室とは』、『子どもとは』ということにすりこみがあるようです。とても素敵なものが作れるのに、どうしても子どもだましのようなものが子どもにとって合っていると思い込んでいることがあります。」

現在の塾長の連載を読んでいると、脳のもつ働きから見る赤ちゃんの凄さ、子どもの素晴らしさに改めて気付かされる思いがしてきますね。

子どもだましでない、本物の美しさに大人も子どもも心が惹かれるのですね。

子どもだましでない、本物の美しさに大人も子どもも心が惹かれるのですね。

(報告者 加藤恭平)

Time of light episode 2『教育の意味』より

この日もやってきました「光の時間」。

早速貼ってみました。

早速貼ってみました。

 

興味を持ってくれた様子です。

興味を持ってくれた様子です。

 

更にもう一色。

更にもう一色。

 

足に当たる色を不思議そうに見てくれています。

足に当たる色を不思議そうに見てくれています。

 

最終的に4色に。

最終的に4色に。

 

「ほら、先生の手見てごらん。」

「ほら、先生の手見てごらん。」

 クラスの先生の促しに、興味深そうに反応する子どもたちです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年5月13日『教育の意味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「彼(ダンバー氏)は、ニュートンの有名な言葉を引用しています。『教育があるからこそ、私たちは過去という名の巨人の肩にのれるのだ。知識、特に科学的な知識は過去からの積み上げにほかならない』とダンバーは言うのです。このような見解に対して、私たちはよく誤解をすることがあります。知の世界を掘り下げ、探求するための知識と技能を仕込むことが重要ですが、それをより効果的なものにするために、また、その機能をより発揮することができるようになるために、段階が必要になります。突然、何かを教えるとか、覚えさせるとか、できるようにさせるということではなく、まず、知の世界を掘り下げ、探求しようとする態度を養わなければなりません。そのためには、知の世界の不思議さ、楽しさ、それを探求しようとする好奇心などが必要になってくるのです。」

大それたことをやっているつもりは毛頭ありません。特に乳児における科学というのはこういった初歩的なアプローチを切り口にしていいものなのだという安心感の中で、楽しく取り組めるとても面白いものですね。学生時代に苦手だった科学というものが、子どもたちの反応と共に、少しずつその言葉のもつ緊張味が解け、意味合いが柔らかいものへと変化していくような、そんな心境の変化を実感しています。

次はどんなことを仕掛けてみようか、ととても楽しみになります。

(報告者 加藤恭平)

Time of light episode 1

15時を少し過ぎた頃。

ちっち組(0歳児クラス)の部屋のある場所に、『光』がやってきます。

ちっち組(0歳児クラス)の部屋のある場所に、『光』がやってきます。

 

西陽が射し込むのですね。

西陽が射し込むのですね。

クラスの先生が『光の時間』と名付けてくれました。この光を利用して遊んでいます。

中に水の入ったペットボトルの小さな玩具。

中に水の入ったペットボトルの小さな玩具。

 

置いて、鏡を使って、

置いて、鏡を使って、

 

眩しい…♪

眩しい…♪

 

「よっこらしょっと、」

「よっこらしょっと、」

 

「この眩しいのは何だろう…?」

「この眩しいのは何だろう…?」

この子の心の声はこんな感じでしょうか。

わいらんすい(3・4・5歳児クラス)にあった玩具。

わいらんすい(3・4・5歳児クラス)にあった玩具。

中の液体がゆっくりと下に落ちていく玩具です。

興味深々の子どもたち。

興味深々の子どもたち。

 

短くない時間、じーっと見つめていました。

短くない時間、じーっと見つめていました。

 

こちらは通称「トンボの目」の玩具。

こちらは通称「トンボの目」の玩具。

 

光にかざすとこんな感じになります。

光にかざすとこんな感じになります。

少し離してみると

いい感じですね。

いい感じですね。

 

写真右上の子、その光の先端を触っています。

写真右上の子、その光の先端を触っています。

何とも可愛いですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年2月10日『乳児からの科学』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「子ども向け絵本やおもちゃにも、想定される子どもの年齢が書かれてあることがあります。外国のおもちゃにも書かれてあることが多いのですが、その多くは、「3~99years」と広い幅で書かれてあります。しかし、絵本には書かれてあることはありません。それは、それぞれの年齢に、それぞれの楽しみ方があるからです。科学においても同じようなことが言えます。「Science Experiences for the Childhood Years」という本の中には、こんなことが書かれてあります。

「2歳児でも、単純で感覚的な活動であれば、楽しんで行うことができます。うちわで扇いだり、風ぐるまを回したり、風の強い日には吹き流しをそよがすことで、空気が動いているのが感じられます。石の手触りや重さを感じたり、氷を触った後に溶けた水にも触らせてみましょう。金魚をよく見て同じように動いてみたり、畑でなっている果物や野菜をとって食べてみてもよいでしょう。大きな音や静かな音を聴いたり、色つきセロファンを通して、周りを全く違う色で眺めることもできます。」

確かに、2歳児でもそのように科学の体験ができるでしょうね。そう考えると、もしかしたら、0歳児でもできるかもしれません。それは、特に認知的なものを学習するということではなく、不思議さを感じることが科学であるとしたら、他の年齢よりも乳児の方がより感じるのかもしれません。最近の研究で、乳児から量や長さ、数の概念ができるということがありますが、私は、赤ちゃんでも物事の道理がわかっている気がします。」

本当にそうだと思います。

さて面白いので、この光を利用して次は色のついたセロファンを試してみることにしました。

そして、こんな調子で、色々と試すことができるのもクラスの先生方の理解と協力があるからです。射し込むこの光は、クラスの先生方の放つ光が結晶となって生み出されているもののように思えてきました。

(報告者 加藤恭平)

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