活動報告

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塾長の出張の際には、必ず塾生が付き添いで同行します。
出張先には園内研修が多く、研修先の保育園を見学する機会が多くあります。
その研修先の保育園の室内の環境で、面白い装飾、手作り玩具など、参考になる物があれば、ここで紹介させていただきます。
また、不定期ではありますが、土曜日に「ブラヘイジ」という活動があります。東京の下町を塾長に案内してもらい、東京の歴史や文化を学ぶという課外活動も時々行っています。ブラヘイジが行われた時も報告したいと思います。

ハレの体験

すいすい番の時間、テーブルが汚れてきたね、ということで

チームに分かれてテーブル磨き

皆一生懸命磨いています

終わると綺麗になったテーブルを前に、皆程良い達成感を味わった様子でした。

こういう時に、皆で乾杯をしたりできるものがないかと思っていたところ、

調理さんから有難い提案

毎年恒例の梅シロップ作り

3週間で完成予定

その間、1日1回、上下を逆さにして振ることがお当番の仕事に追加されました。

3週間後は丁度、新宿区主催の『プラネタリウム』を見に行く日です。

見に行ったその日に、皆で初めての遠出をしたことを祝おうということになり、その日を楽しみに待ちました。

楽しかったプラネタリウム

そして帰園

割りものは炭酸水か水か

そして何も割らずにそのまま、という三択の中から選びます。

皆に渡りました。

乾杯

甘い、酸っぱい、美味しい、美味しくない、様々な感想があったようですが、皆とても嬉しそうでした。

ブログ『臥竜塾』2014年1月23日『「ハレの体験」』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人間はこんな時代でも「ハレ」を求めるものです。連休になると、どこかに行きたい。ボーナスが出たらこんなものが買いたい、今度の休みには、おいしいものを食べに行きたい、など計画します。しかし、訪れる先には、どんな「ハレ」があればいいのでしょうか?ボーナスでなければ買えないものは何があるのでしょうか?おいしいものは、どんなものでしょうか?人間の欲望はきりがありません。かつての「ハレ」が「ケ」になると、新たな「ハレ」を見つけようとします。次第に刺激の大きいもの、その時代に必要なものを求めていきます。それが、人類の進歩、発展、様々な発明をしていくエネルギーになってきたのかもしれません。これからも人間は新たなる「ハレ」を求めてつぎつぎといろいろなものを作り出していくでしょう。

しかし、同時に、かつての「ハレ」も見直し、大切に引き継いでいくことも必要です。それが、文化なのです。冠婚葬祭、年中行事、しきたり、それらを大切にし、それらの「ハレ」を待ち望む子どもたちの姿を大切にいなければなりません。私の園で、集団給食改善都知事賞を受賞したのは、食育3本柱として「栽培」「料理」「共食」であるとし、これらは人間しかしない営みであり、その一つの効果は、「待つ」力であるということの提案です。かつて、子どもたちにとって「ケ」の毎日の中で、「ハレ」の日は、待つ力を育んできたのかもしれません。それは、生きる目的になったり、毎日のハリであったりします。

「栽培」とは、日本では、稲は夏に田植えをして秋には刈り取るまでを言います。刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。この祭りを大人も子どもも待ち焦がれます。それは、祭りが楽しいだけでなく、育てていた稲が実を結び、収穫があるからです。それを待ち、祝うということが生活リズムなのです。このリズムは、日本では四季が織りなしていきます。園で、栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。

梅シロップを飲むことは子どもたちにとってハレのことなのだろうと、嬉しそうな姿を見ていて思います。

そんな子どもたちでしたが、梅シロップを巡って、また違った展開を見せてくれました。

(報告 加藤)

友だちの世界

夕方、

すいすい組(5歳児クラス)の子たちが作っていました

「お城」をイメージして作ったとのことで、二つの作品が二人の手によって作られました。それぞれ独立しているのですが、「隣で作っているのを見て僕も閃いたんだ」と一人の子が教えてくれました。

大作の予感です。片付けて周囲を綺麗した時の、いわゆる「映え方」が楽しみですね。

片付けの時の最近のすいすい組の一部の子たちの小さな流行で、「変なロボット作り」というものをこの日もやっていて、

散らかっているブロックでそれを作ります

片付けるより楽チンで楽しいとのことです

そろそろ落ち着いてきた様子で、カメラを向けようとすると、

「あー、これ(変なロボット)が写っちゃうか」

「それなら二段に重ねて、少し奥にずらしたら?」

片付け方、写真の撮られ方にも、協力と工夫を見せてくれた二人に感動してしまいました。

ブログ『臥竜塾』2019年6月29日『友だちの世界』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

親よりも「友だちの世界」のルールを優先することが子どもの本性だとすれば、「子どもはなぜ親のいうことをきかないのか」という疑問にはなんの意味もないと言います。逆に不思議なのは、宗教や味覚のように「親のいうことをきく」ものが残っていることだというのです。

保育者はもちろん親ではありませんが、親の言葉さえ子ども集団の前では殆ど意味を成さないのであれば、ああしなさい、こうしなさいという保育者の言葉はどれ程の意味を持っているのでしょうか。子どもが子どもたち同士の関係性の中で、片付ける、工夫する、

クリエイティブな思考力を通わせ合いながら作品を作り上げる

などのことが遂げられているようなこの状況が自然と生まれることについて、考えさせられます。

(報告 加藤)

男集団と女集団

秘密基地作り、余りにも大きな基地になってしまい、置き場所がなくなってしまったために解体しました。

また作り直しています

こちらは基地の中で見る「テレビ」を作りたいチーム

見ると、自然と女の子だけで集まっています。

こちらのチームは男の子ばかり

進め方にも違いがあり、

男の子チーム→やりながら考える

女の子チーム→書いた設計図を持ち寄って、どれを作るかを決めてから始めようとする

とても興味深く思いました。

ブログ『臥竜塾』2019年2月1日『男集団と女集団』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

学齢期における男集団と女集団の違いについてハリスは何度も取り上げられてきました。エレノア・マコビーはそれを次のように簡潔にまとめています。

「仲間集団内に見られる社会構造は、男性集団と女性集団では異なる。男性集団は人数的にも多く、階級制が強くなる傾向にある。集団内における個々のかかわりあい方は、男子集団と女子集団とではだんだんとその違いも大きくなり、異なる「らしさ」を反映し、違ったスタイルが見られるようになる。男の子たちでは、競争心や優勢であること、縄張りを築き上げてそれを守ること、強靭さを誇示することへのこだわりがより強くなる。そのために他の男の子たちとも衝突し、危険を冒し、挑戦をし、また挑戦を受け、我を通し、弱みを隠す機会も増えるのだ。男の子の間では同性愛を念入りに批判する話題と同様に、性的(性差別的)な話題にこっそり興じることがある。女の子は、各人の目的を達成することに関心をもつことは言うまでもないが、男の子以上に集団の結束力や協調性、さらには相互に助け合う友情にこだわる。彼女たちの関係は、男の子たちのそれよりは親密だ。」

子どもたちの見せる自然な姿から学ぶことの多さを改めて感じます。

(報告 加藤)

失敗と成功

 

秘密基地を作っています

内装準備

外装を考案する子たち

初日で完成には至りませんでしたが、次回どんなものを皆で作りたいかを、

設計図にして

設計図

この子の提案は、

基地の屋根

それを、

皆の前で発表します。

①僕は・私は、○○の設計図を描きました
②設計図の説明
③(説明を)終わります

質問を受けます

子どもたちは質問をすることも、されることも好きですね。提案した内容も深まるようで、盛り上がっていました。

完成までどういう流れでいけばいいものかと、また、何をもって完成とするものかと思っていたところ、塾頭山下先生の言葉ではっとなりました。

「完成しなくてもいいじゃない。」

「別に失敗でもいいじゃない。そこから学べばいいのだから。」

ブログ『臥竜塾』2008年8月19日『失敗と成功』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人生においてでは、何が失敗で、何が成功かということはわかりにくい場合が多くあります。渋沢栄一は、「眼前に現われた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば 真実を逃すことがある」と言っています。家庭を犠牲にして仕事で成功しても、家族関係では失敗したことになりますし、他人を引きずり落として地位が上がっても、人生の成功者とはいえない気がします。また、このようなことも言っています。「会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人も迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものである。が、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟(かす)を喫するがごとき弊に陥って、永遠の失敗に終わるものである。」
また、失敗かどうかという判断も、短期的に見てはとても危険です。栄一はこうも言っています。「たとえ一時は失敗のごとくに見えても、長い時間のうちには努力の功空しからず。社会はこれによって益せられ、結局その人は必ずしも千載の後を待たずとも十年二十年あるいは数十年を経過すれば、必ずその功を認められることになる」
 本当の意味で、成功者になりたいですね。

このような活動を通して、子どもたちと一緒に学んでいきたいと思います。

(報告 加藤)

大学生日記(仮)3

こんにちは。大学生日記(仮)の西村です。

 今更ながら断っておきますが、この大学生日記は仏教の信仰を促すこと、布教を目的としていません。ただただ、大学での出来事や学んでいることを書いていますので、気軽に読んで頂ければ…と思います。

 さて、前回は仏教学部に入学した経緯を話しましたが、具体的にどんなところなのかをお話していきます。駒澤大学仏教学部のウェブサイトには、こう書かれています。

仏教はインドに源を発し、中国をはじめ、中央アジア・東アジア・東南アジアの各地にひろがった宗教です。シルクロードは絹の道であると同時に仏教が伝わった道でもありました。20世紀には西洋社会にも伝えられ、仏教の影響は思想や芸術などさまざまな方面に及んでいます。仏教学・禅学を通じて、皆さんは長い歴史のなかで深められたさまざまな思想と、広範な地域で展開された豊かな文化のひろがりに出あうことでしょう。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/

 かなりざっくりとですが、仏教伝播の大まかな流れが書かれています。紀元前5世紀頃に成立した仏教は約2500年の歴史があります。仏教学部に入って学べば、この2500年のことが分かると思っていました。もちろんそんなわけはありません(笑)授業を聞けば聞くほど、仏教の奥深さを目の当たりにし、全てを理解することはすぐに諦めることとなります。

 仏教学部の先生方も、それぞれ研究テーマを絞っています。インド仏教、中国仏教、日本仏教、宗教学、中国禅宗史、禅美術、曹洞宗学、サンスクリットインド哲学など、色んなテーマで研究をしている先生がいらっしゃいます。大学の先生方なので、仏教に関しては学生や一般の人以上の知識はお持ちですが、それでもこのように絞らないと、研究が進めにくいのだと思います。

 仏教学部には禅学科と仏教学科の2つの学科があります。学科選択は、3年進級時にゼミの選択と共に行われ、自分の研究テーマに沿って、行きたい学科を選びます。そのために2年生では必修の「基礎演習」という授業があり、自分の学びたい分野を決めるため、仏教学部の全教員がどんな研究をしているのかを知り、その中から自分の行きたいゼミ決めるという授業が用意されています。

 また駒澤大学のウェブサイトを見てみましょう。まずは禅学科。

本学科の目的は、豊かなこころを育み、普遍的な人間力を身につけること。曹洞宗の開祖、道元禅師と瑩山禅師の教えを学び、さらに中国禅宗や仏教全体への洞察も深めます。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/zen/

曹洞宗の大学ということもあり、やはり最初にくるのは禅学科です。ここにもあるように、開祖である道元禅師や瑩山禅師の教えを学んだり、インド、中国から日本に至る禅の歴史や思想・教理、芸術・美術ついても学べる学科となります。道元禅師が著された『正法眼蔵』を研究するゼミや日本禅宗史、中国禅宗史を学ぶゼミがあります。

 次に、仏教学科を見てみましょう。

本学科では、仏陀の教えを現代に受け継ぎつつ、歴史、思想、文化などを多面的に考察しながら、現在をいかに生きるべきかを考え、知性、教養、豊かな人間形成を目指します。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/buddhist/

仏教学科では、インド・チベット、中国や朝鮮半島、スリランカから東南アジア、そして日本に至るまで、各地域で発展した仏教、さらには宗教学など幅広い分野のゼミがあります。ちなみに、私はこの仏教学科で宗教学のゼミに所属しています。

段落

 先述したように、学科の選択やゼミの履修は3年生以降で、1,2年次は学科の区別はなく、共通のカリキュラムで禅を含む仏教全般の基礎を身につけます。またまたウェブサイトから引用しますが、「1・2年次の十分な基礎教育により、3年次以降の専門分野の選択がスムーズとなり、効果的な研究ができることでしょう」とあります。編入の私はこの基礎教育がゼロで、ゼミなどの専門研究と並行して学ばなければなりませんでした。この基礎教育に当たる授業は、必修科目として設定されており、全学生が履修し単位を取得しなければなりません。では、次回は昨年度の私の時間割を見ながら、具体的にどんな授業があるのかみていきましょう。

続く

手伝う動機

登園後、

泣いている新入園児に寄り添う子たち

写真奥のすいすい組(5歳児クラス)の子は、わいわい組(3歳児クラス)の時にすいすい組の子に同じようにして朝の受け入れをしてもらっていました。

配膳の並び方を新入園児の子に教えるすいすい組の子

その子もまた同じように配膳の長い列に並ぶのは苦手な子なのですが、それがすいすい組という立場からこのような役回りを得ることになるのですね。

相互に影響し合いながら、育まれていくものがあることを感じます。

にこにこ組(2歳児クラス)の掃除のお手伝い

園庭で遊んでいるとぐんぐん組(1歳児クラス)の先生に頼まれました

ブログ『臥竜塾』2015年10月20日『手伝う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもの手伝うという行為を、なぜ行なわれるのかは判っていないと言います。大人は、同情に動機付けられるわけでもなく、しょっちゅう人助けをしているのではないかと言います。両手にいっぱい本を抱えて、閉まっている扉の方へよろよろ歩いている人がいたら、何も言われなくてもさっと立ち上がって扉を開けるだろうと言います。これは、親切心と言うより、誰かがくしゃみをしたら反射的に「お大事に」と言うような、習慣に動機付けられたものかもしれないというのです。

 あるいは、幼児は助けられる相手を気遣うのではなく、助けるという行為を楽しんでいるだけなのかもしれないとも考えられるのではないかと言います。大人が、手の届かないところにある何かを取ろうとしていて、子どもがそれを手渡すとしたら、その動機は、問題が解決されるのがたんに快感だからかもしれないということもできます。いや、幼児のお手伝いは、大人が幸福のためではなく、大人の是認を得るのが目的なのかもしれません。お手伝いをしようとする子どもの姿は、愛らしいものです。もしかしたら、これが正解かもしれないとも考えられます。子どもたちのお手伝いは、大きな目や丸い顔のような、身体的な魅力と同じ、保護者に愛されるために設計された適応行動かもしれないと言います。

 これらの懐疑的な指摘は、とても面白いですね。ある意味では、こんな可能性もあるのですね。そして、それはどれか一つではなく、複数の理由が含まれているのかもしれないのです。

 しかし、研究者たちが得た証拠によれば、お手伝いは、少なくとも年かさの子どもたちによる場合、実際に、他者に対する純粋な気遣いによって動機付けられているということはわかっているようです。ブルームの同僚のアリア・マーティンとクリスティーナ・オルソンは、大人に、3歳児と遊んでから、ある用途に必要なものを取ってきて、と頼むように指示してみました。例えば、大人の近くに水が入った水差しが置かれているとします。大人は、子どもに、「水が注げるようにカップを取ってくれる?」と頼みます。頼まれたものが用途に適していれば、たとえば、カップにひびが入っていなければ、子どもはたいていそれを手渡してくれます。頼まれたものが、カップにひびが入っているといった具合に、用途に適さない場合には、子どもは取ってきてと頼まれたものには触れず、部屋の別の場所にある、ひびの入っていないカップのような、用途に適ったものを取ってくることを発見したのです。つまり、子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。

先日、各クラスへ見学へ行きました。

もうすぐ始まる『お手伝い保育』。どんな姿が見られるのか、とても楽しみです。

(報告 加藤)

 

大学生日記(仮)2

どうも。大学生日記(仮)、西村です。

 

前回は駒澤大学について書きましたので、次は私について。なぜ駒澤大学に編入学したのか。何を学んでいるのかなど書いていきます。

 

そもそも…

私の実家は長崎県にある曹洞宗のお寺で、保育園も経営しています。小さい頃から、身近に仏教があり、お盆やお正月はその儀礼に参加をしていました。小さい頃はただ座っていただけ。(ある意味、道元禅師の只管打坐かも?)文字が読めるようになったら、経本を持ってお経を唱えるようになります。またお坊さん独特の所作なども、父や他のお坊さんの動きを真似していました。当時は、将来お坊さんになる!と宣言していましたが、高校生・大学生になると、お坊さんにはならない!と宣言するようになっていました。ちゃんと反抗期が来たのですね。それに対して両親は、お前の人生だから、好きなようにやれ。とお寺を継ぐことを強制はしなかったのです。今思えば、あそこで継ぎなさいと強制されていたら、もっと反抗していたかもしれません。

大学を卒業し、縁あって新宿せいが子ども園(当時は保育園)に就職をして、見守る保育を本格的に学ぶと、自然と仏教にも興味を持つようになりました。恐らく、見守る保育と仏教(広くは東洋思想)には共通するものが多いのだと思います。自分のやっていきたい保育に確信を持った私は、将来見守る保育を実家の園でもやっていきたいと強く思いました。さらに、せっかくお寺という環境もあるのだから、お寺も含めて、もう少し大きい規模での見守る保育ができないかと考えました。

そのためには、お寺もしっかりとやっていきたい。しかし、これまで何となく関わってはきましたが、仏教に関して知らないことが多すぎることに気付いたのです。一人前の僧侶になるために、修行をすることは欠かせませんが、その前に大学で1度、学問として仏教を学んでみたいと思ったのが、駒澤大学に入学することを決めたきっかけでした。

仏教学部は、学部柄私と同じ社会人の学生がかなり多いです。欽ちゃんこと、萩本欽一さんもその1人ですが、彼の場合、社会人編入とは違い社会人入学、つまり1年生から入学しています。その場合、教養科目や語学、体育なども履修する一般的な大学生と同じようなカリキュラムとなります。それに対して、私の社会人編入は、他大学を卒業していることが前提ですので、その大学での成績表を提出して、履修済みの単位は免除されています。私は、3,4年生の2年間で専門科目の80単位(卒業論文の8単位含む)を修得しなければなりません。

ある社会人入学(4年間)の方とお話をしました。その方は仏教の専門的な勉強だけを4年間できると思っていたのに、語学や体育の時間が少し苦痛だったとおっしゃっていました。ようやく3年生からは専門の研究に集中できるようになったそうです。4年間だとやはり時間に余裕はできますね。それに対して、社会人編入の場合、語学や体育はありませんが、専門科目をやりながら卒論を書いたりと、3,4年生の2年間に詰め込みます。なかなかハードなものでした。しかし、同時に専門的な勉強ができるため、それはそれでメリットはありました。

んー帯に短し襷に長しだねという結論に至りました。(笑)

 

続く

大学生日記(仮)

臥竜塾生唯一の大学生、そして人生2度目の大学生、西村です。

駒澤大学仏教学部に編入学して1年が経ちました。仏教の知識が全くない状態で入学して、訳もわからず1年間突っ走ってきました。昨年度突っ走ったおかげで、今年度はほんの少し余裕ができたので、昨年度1年大学に通ってみて感じたことや、現在学んでいること、また大学の様子などについてレポートしていきたいと思います。題して、「大学生日記」。そのままですね…。なんか良い題名が思いつけば、変えましょう。それまでは「大学生日記(仮)」で。変わることはなさそうですが(笑)

 

まず、駒澤大学について。

 

駒澤大学は「仏教」の教えと「禅」の精神を建学の理念、つまり教育・研究の基本とする大学です。(駒澤大学HPより)

 

私が入学した学部の「仏教学部」という名称からも分かるように、仏教の教えを大学教育に活かしています。まず仏教についてですが、日本仏教には様々な宗派があります。その中でも建学の理念に「禅」の精神とあるように、禅宗の中でも「曹洞宗」の宗門大学になります。同じく禅宗に括られる臨済宗ですが、こちらも駒澤大学と同じように京都の花園大学を宗門大学として設立しています。

実は、日本には多くの仏教系の大学があります。例えば、浄土真宗西本願寺派の龍谷大学、同じく東本願寺派の大谷大学は、花園大学と同じく京都にあります。関東で言うと、豊島区にある大正大学は天台宗、真言宗、浄土宗と3つの宗派が作った大学となります。また、1つの宗派で複数の大学を持っていることも多く、曹洞宗で言うと、愛知学院大学、駒沢女子大学、鶴見大学、東北福祉大学などがあります。

さらに仏教に限らず、宗教系の大学も挙げるとキリがありません。キリスト教大学の上智大学、青山学院大学や、神道系大学の国学院大学、また新宗教系の大学で言うと、創価大学や天理大学が挙げられるでしょう。

このように、宗教が大学や高校などの教育機関を設立することは、よくある話ですが、その理由は、布教のために次世代の指導者を目的としていたり、元々そのような宗教施設が学校の代わりを担っていた名残であったりと様々です。

 

私が学んでいる駒澤大学に話を戻します。

先ほども述べたように、曹洞宗が設立した駒澤大学ですが、その名を聞いたときに、曹洞宗の宗門大学、仏教の大学と分かりにくいですね。なぜなら大学のある駒沢という地名が大学名になっているからでしょう。ではその歴史を簡単に見ていきます。

1592年、まだ江戸幕府が開かれる前に遡ります。江戸駿河台吉祥寺(現在の文京区本駒込にあるお寺)境内に「学林」を設立し、これが駒澤大学の前身になります。学林とは檀林(だんりん)とも言い、仏教における学問所のことを言います。元々は宗派を超えて、仏教を学んでいたようですが、それぞれ宗派による学派ができてきたようです。そして曹洞宗は、禅の実践と仏教の研究、そして漢学の振興を目的として吉祥寺会下学寮と呼ばれていました。

1657年には、吉祥寺駒込に移転し、中国の名僧である陳道栄により栴檀林(せんだんりん)と命名され、現在も校歌の中にその名が出てきます。その後は、「曹洞宗専門本校」と名称を変え、専門学校令により大学として認可を受けると、1905年に「曹洞宗大学」と改称をします。それから、1913年に現在の駒沢の地に移転をすると、1925年に大学令により大学として認可を受け、「駒澤大学」と改称。このとき、寺院の子弟だけではなく、一般の学生も受け入れるようになりました。現在では、仏教学部を始め、文、経済、法、経営、医療健康科学、GMS学部などの様々な学部の学生が勉強をしています。

 

続く

『共視共食』

 

4月最初の土曜日

給食をお花見にしようということで、

セッティング

「気持ちいいね」

「何かお家みたいだね」子どもたちから嬉しそうな声が聞こえてきます。

配膳 

01歳児クラスの子たちは一足先に

「いただきます」副園長先生も一緒です

ブログ『臥竜塾』2010年8月29日『共視共食』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。

皆よく食べました

その日出勤された先生方皆で春を満喫できたこと、とても素敵な時間でした。

(報告 加藤)

『仲間のようになりたい』

 

昨年度3月後半のブロックゾーン

今年度もこのような遊びの広がりを見られることを楽しみにブロックゾーンを見ていると、「写真撮って」と今年度のすいすい組(5歳児クラス)の子たちに声をかけられました。

群馬県にある駅だそうです

一人の旅行先での思い出が共有されて作品になったとのことで、それよりも思い掛け無い所で成長を感じたのは、カメラの中に子どもたちが写ろうとしないことでした。

「だって作ったものを撮ってほしいから」

「それに皆が写ったら作ったものがあんまり見えなくなっちゃうじゃん」

ブログ『臥竜塾』2019年3月6日『仲間のようになりたい』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

年少の子どもたちは年長の子どもたちと同じように行動し、話し、そして装いたいと願うのです。いかに行動し、話し、装うべきか、子どもたちはその指標を成人に求めようとはしません。なぜなら、子どもと成人とでは、属する社会的カテゴリーも違えば、従うべき規則も違うからです。より高い地位に就きたい、年長の子どものようになりたいという願いは集団の中に対して、〈子ども〉という社会的カテゴリーの中に対していだかれるのです。

昨年度のすいすい組(5歳児クラス)の背中を見て育った彼ら。今年度もとても楽しみです。

(報告 加藤)

 

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