長崎、熊本より

今回はGTサミットがあった関係で長崎と熊本からゲストティーチャーが臥竜塾に来てくださいました。その時間はとても有意義なものとなりました。

総勢12名での食事でしたので机をなくし、床で食事を囲む形式で行われました。

少し秘密の会議をしているような気分です。笑

一通り食事が揃い乾杯。

そしてまずは塾生からゲストティーチャーへ自己紹介です。

久しぶりに塾生の自己紹介を聞くとまた新鮮な気持ちというかそれぞれが少しづつ変化していっていることを感じます。ただ基本はこのブログに載っている通りです。笑

その中には以前、新宿せいが保育園に勤めていて、今では大阪のたちばな東保育園で奮闘している邨橋先生もきてくださいました。やはり塾生として料理などをこしらえていた経験は身体に染み付いているようで、来るなりスムーズに料理の準備をしていました。笑

さすがです。

本日の位置づけとしてはゲストではなく、塾生という立ち位置での参加となりました!

そして肝心のゲストティーチャーの紹介です。

長崎、畝刈保育園から武内先生です。

3人のお子さんを持ち、外には出ずに一生懸命に子育てに励んできたそうです。

今ではお子さんが大きくなりやっと外に出れるようになってきたそうです。

ただこの話を様々なエピソード含め、おもしろおかしく組み立てて話してくださるので塾生は大笑いの連続です。そんな笑いを誘ってくださるお人柄に塾生一同惹かれていきました。

 

簡単に自己紹介を説明します。

保育園の園長を務めていらっしゃいますが、以前は子どもが好きではなかったそうです。

実家の保育園を継ぐことに対して抵抗があり長崎ではホテルで働き、その後ホテルに派遣する仕事へと変わっていきます。ホテルに派遣する仕事では様々な人と交流をしたそうです。人を調整するということを数多くこなす経験というのが今現在保育の仕事と繋がってきていることを最近思ったいう話をしていただきました。

 

人を調整する。例えば、この人とこの人を一緒に組ませることでどんな相乗効果が生ませるであろうか、どんな化学変化が起きるだろうかいうような人事移動に関して、ホテルでのノウハウが生きているようです。

教育しつつも、その人材に対して出来ることをしてもらうことを考える。その子になにができるのかということを考えることに重きを置いて接していることがよくわかりました。

 

人事の動きについて邨橋先生からこんな体験談も出ました。

邨橋先生が初めて新宿せいが保育園にきて入ったクラスが幼児クラスのフリーでした。

フリーという役柄はベテランの先生がやるのではないかと解釈していた当時の邨橋先生に対して、塾長がこんな声をかけたそうです。

 

「幼稚園から来るとクラスという意識が高く、クラスを引っ張りそうだからフリーにしているんだよ。そして組む先生は邨橋くんが成長するため人材を選んでるんだよ」

(言い回しは少し違うかもしれませんが…)

 

と言っていました。

そこまでを見越し、人の成長を配慮した配置を考える役職の奥深さをさらに感じることが出来ます。これが職員のマッチングの楽しさでもあるようです。現在、邨橋先生はその仕事をしているので自分の経験というのが非常に今生きているようです。同じ釜の飯を食べていた仲間として聞いていて非常に嬉しくなるような話でした。

そして我らが西村宗玲先生のお父さんである、みのり保育園の西村先生です。長崎の見守る保育を引っ張っている偉大な先生です。

そんな西村先生の自己紹介は…

最近の嬉しかったこと、悲しかったこと、がっかりしたことの3つのようです。

まずは嬉しかったこと

「初めに塾長と長崎に来て初々しかった山下氏が現在塾頭となり塾生を仕切り成長している姿を見て嬉しかった」

そして悲しかったこと

「前回(2011年)来た際に塾生は5人だったので塾生ナンバー6と言っていたのが今ではこんなに多くの塾生がいてナンバー6どころではないこと。笑」

最後にがっかりしたこと

以前みのり保育園の男性保育士が新宿せいが保育園に見学をしに行ったそうです。その男性は新宿せいが保育園のある男性保育士がけん玉を披露している朝の会を見学したあとにやる気満々で帰ってきたそうです。そして初めに朝の会でやったのが、けん玉だった…ということです。笑

そうその男性保育士は私です…。笑

さすが西村先生のお父さん、しっかり落ちがついています。

山下氏の話では、山下氏を息子のように見守っているような様子が僕らにも伝わり嬉しくなります。現在4代目の助手として頑張っている息子さんのことも少し重なったのではないかと勝手に思っています。

 

そして長崎、形上保育園の田崎先生

現在、息子さんが新宿せいが保育園で実習を行っています。

見学に来た際に息子さんの頑張っている姿を見て安心されたそうです。その息子さんですが普通の実習生ではしないような質問を新宿せいが職員にしていてさすが田崎先生の息子さんだと関心しています。

そんな田崎さんは小学校6年生から保育士になるという志をお持ちになられていたそうです。

ですので保育士の気持ちがよくわかるともおっしゃっていました。1日が追われるように過ぎていってしまう一斉保育からどうにか抜け出せないものかと思っていたときのキッカケが指針の改訂と塾長のお話だったそうです。

塾長は、

「昔は昔に合った保育をしている、今は今に合っている保育をしなくてはならない」

ということを助言していたそうです。

この言葉も深さを感じます。

10年以上も前からの付き合いで塾長が長崎に来る時はなにか良い体験をということで、船の運転、タケノコ狩り、ホワイトアスパラの収穫など都心では味わえない体験を用意して下さってたということを聞くとおもてなしの精神を非常に感じることが出来ます。離れいても志が同じであることの絆のようなものをここでさらに感じます。

 

そして、熊本、城山幼稚園の豊田先生

新宿せいが保育園は職員研修旅行でもお世話になり、よく交流させてもらっている園でもあります。

豊田先生は小さい頃から幼稚園に入ると決めていたというほどこの道のスペシャリストでもあります。見守る保育が楽しく、現在臥竜塾のブログで連載されている指さしについての考察を自分のお子さんを見て考えることの楽しさもあるそうです。

幼稚園で見守る保育という新たな開拓をしている園でもあり、当時、外から来た園長先生が見守る保育をすると言ったときに園児が減ること苦情が来ることを覚悟して受け入れて対応したほどです。その器の広さに感銘を受けます。

見守る保育をするにあたり、今までしてきたこと(鼓笛)をやめるのではなく、自由にやれるコーナーを作っていったり、小学校1年生の教科書をコピーして手作りのパズルを作り、遊ぶことで教科書のページを完成させ、自然な学びへと繫げていくという実践をしています。

子ども同士のケンカでも、帰りの会などで話し合いの時間を設けるなどの実践を聞くたびに参考にしたいと思うことばかりです。

見守る保育をすることで職員が意見をしっかりと言えるようになり、やりやすいように壁を取っ払うことで楽しさも倍増していったそうです。

皆さんが塾長と10年以上の付き合いですのでその接し方であったり、距離感、学ぶ姿勢というのを目の当たりにし、多くの学びある時間となりました。

自己紹介だけでもそこから多くの学びをさせていただくことができました。まだまだ貴重なお話がありましたが、割愛させて頂きます。

最後に本日のメニューです。

大勢でしたのでおつまみを中心とした献立です。塾長が新宿せいが保育園職員のお土産で頂いた五島で取れたサバ、さつま揚げ、鶏の照り焼き、焼きそば、浅漬け、自家製らっきょ、買ってきた餃子などなど。そして締めに茶漬けです。(茶漬けは撮り忘れました…)

ここを囲んでの食事です。

ここを囲んでの食事です。

臥竜塾でらっきょをむいて一から漬けたらっきょです。 これがまたおいしい!

臥竜塾でらっきょをむいて一から漬けたらっきょです。
これがまたおいしい!

城山幼稚園の豊田先生からのお土産も頂きました。 ありがとうございます!

城山幼稚園の豊田先生からのお土産も頂きました。
ありがとうございます!

さらに塾生の西村先生が長岡にプライベートで行った時のおみやげです。

さらに塾生の西村先生が長岡にプライベートで行った時のおみやげです。

最後には塾長の臥竜塾ブログが8月29日をもちまして11年目を迎えるということでまるまる10年をお祝いしました!2005年8月29日のブログに書かれてある「司馬遼太郎著「峠」」

を参考に、峠=山=モンブランということで手作りモンブランでお祝いでした。

ぺろりとでした!

ぺろりとでした!

長くなってしまいましたが読んで頂きありがとうございます。これを書くにあたって、物事を簡潔にまとめることの難しさを感じます。

少し意味は違ってきますが、難しいことをシンプルにすることとも関係してくるのではないかと思えます。

この塾報告を繰り返し行い、まとめる力をつけていきたいものです。

(報告者 本多悠里)

みんなのお盆休み&環境によって・・・

8月18日の臥竜塾はちょうどお盆休み明けということで、実家などに帰省してきた塾生からどのような休みを過ごしてきたかをみんなに報告をしました。

西田先生からは、子どもたちは、おじいちゃん、おばあちゃんや、ひいおじいちゃんにも会ったり、御前山の花火大会を子どもたちと観に行ったそうです。花火の大きい音にびっくりして怖がりながら観ていたところ、雨が降ってきてしまったということで、家に戻り手持ち花火をしたそうです。

若林先生からは、栃木の実家に帰省し久しぶりに家族全員が集まったということで、みんなで那須塩原へ温泉旅行に行ったそうです。また、親戚同士で集まった際に、よく将棋や囲碁などをやっていて、将棋ではあの人が強く、囲碁ではあの人が強いと大体決まっていたそうです。しかし、今回久しぶりに将棋の強い親戚に挑んだところ、見事に勝ったそうです。本人曰く、昨年まで学童クラスを担当していてよく子どもたちとやっていた成果が出たのかもと言っていました。

山下先生は、富山の実家に今年開業した北陸新幹線ではなく、飛行機で帰省したそうです。というのも、まだ子どもが小さく狭い空間にあまりいれないという理由から早く着ける飛行機を選んだということでした。飛行機で帰省したのですが、子どもが電車が大好きということで、『陸新幹線「かがやき」をじいじに買ってもらおう(笑)』という計画のもとおもちゃ屋さんへ行ったり、山下先生のお母さんが還暦を迎えられたということでそのお祝いをしたそうです。また、石川県にある大きいプールへ行き、初めての大きいプールに抱っこしながら入っても子どもがすぐに出たがりプールサイドを走りまわっていたところ、子ども用の足を入れて乗るタイプの「はやぶさ」の浮き輪を見つけた瞬間、目の色変えて笑顔でプールに入って遊んでいたそうです。

加藤先生は、葛西臨海公園へ行き、観ていたら奥さんが「お寿司が食べたくなっちゃった」と一言(笑)。その足でお寿司屋さんに行ってきたそうです。また奥さんは平日の休みを取らなかったということで、子どもといっぱい遊んで絆を深めたということでした。また、夜に子どもが寝た後、奥さんとテレビを見ていた際に、木村拓哉さんと松たか子さんが出ていて、村拓哉さんの上から発言に対して奥さんがキュンキュンしていたので、加藤先生が「俺もたまに上から発言をするけど嫌がるじゃん」というと奥さんが「あれは可愛がっている上からだからいいの」という事を聞き加藤先生が、「そういう事か!!」と理解し即実践してみたりと、家族の絆が深まったそうです。

西村先生は、実家がお寺という事で、お盆の時期は家のお手伝いをすると、お檀家さんと甲子園の話や時事問題についてなどいろいろな話をし、わからないことは調べたりすることからとても成長できる季節ということでした。また、地元に図書館が新しくできたという事で、お父さんと相談し「見守る保育」の本を寄贈しようかと計画してきたそうです。

また時期的に、戦争についてのテレビ番組がよくやっていたことから観る人も多く、戦争を通じて「環境」についての話になりました。 戦争という状況下では人を殺さないと自分が殺されてしまうので、「人を殺すのはいけないこと」とわかっていても、引き金を引いてしまう環境が感覚を麻痺させてしまう。 また、金を引いてしまったことでヒトを殺すことに「快感」を覚えてしまうという実話の映画もあるように、そういった体験や話を聞くことで、人まではいかないものの、動物などを殺すことで「体験してみたくなったからやった」という事件も実際にあった。そういった事から、何でも「悪いこと」と理解しつつも人に怒られると「だってみんなやってるし」といった感じで、自分のいる環境や世界でそこが普通になってしまい、常識がずれていってしまう。また、先生や大人がいう事、感想は刷り込まれてしまうので気を付けなくてはならない。という話にもなりました。

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そして今回のご飯は、私が母親側の田舎の青森県へ行った際にお土産を買ってきたので、それを使って青森の郷土料理である「せんべい汁」と「十和田バラ焼き」を作り「津軽漬け」という数の子や細かく刻んだ昆布や大根が入った白米に合うようなお土産に買ってきました。個人的にせんべい汁は初めて食べたのですがとても美味しく、大量に作ったのですがみんなもたくさんお変わりするほどみんなも気に入ってくれていました。もう一品は山下先生からの富山県土産「鱒寿し」でした。たまにお土産で買ってきてくれるのですが、いつもながら絶品でした!! (報告者 柿崎)

草莽崛起⑤

前回のドラマでは功山寺で高杉晋作が80名ほどの人数で挙兵し、次々に藩政府軍を打ち破り、結果的に1000名を越える奇兵隊が結成されました。そして高杉晋作は言いました

「草莽の力を合わせるのだ!」と。

奇兵隊のように闘う者だけでなく、同じ志を持った街の商人、民の力も合わした。真の草莽の力です。見ていてとても興奮しました。

その後、藩政府で実験を握っていた椋梨藤太は晋作の挙兵により形勢逆転し失脚してしまいます。そして岩国の方に逃亡するものの、捕らえられてしまい野山獄にて処刑されてしまうのです。しかし、この時の椋梨は「私一人の罪ですので、処罰は私一人を罰するようにと・・・」と懇願し斬首されるのは椋梨のみであったそうです。ドラマでは終始、嫌な存在として映っていますが、おそらく当時、椋梨自身も自分なりに長州を守ろうと思った行動であり、決して悪くしようとは思ってはいないはずです。結果的に残念な形として生涯を終えましたが、やはり最後は民の力なのかもしれません。高杉晋作、椋梨藤太はどちらも自分の国を守る為に行動しましたが、民は高杉の方に見方しました。塾長とちょうどこの話しをした時にこんな事を言いました。

 

「保育園も園長と職員がいくら同じ目標を持っていても、いざっていう時にはやはり職員の力が必要になる。だから園長は職員の声を聞いておかないといけない」

 

なるほど、確かにそうですね・・・。ただその辺はとても難しいと思いました。確かに職員の声を聞くことを大切ですが、だからと言って職員の中に無理に入っていくのもなんだか違いますし、逆に声を聞きすぎてしまうのも、逆効果になるような気がします。園長という立場は本当に難しいですね。その後に更に塾長が言われたのは

 

「距離間が大切」

 

と言われました。近すぎてもダメだし、遠すぎてもダメ。絶妙な距離間が大切と。これが、また難しい課題です・・・。

 

さて、話しを戻します。吉田松蔭をはじめ、命を落としていった者たちの姿を見ていると決して自分のために行動しているのでなく、自分達の国、日本を少しでも良くしようと思って行動している姿に感動しました。また自分とさほど年齢が変わらないのに、あそこまでの行動力は信じられません。国を変えるというのは年齢に関係なく、強い思いと、行動力のように思います。

それはやはり塾長を見ていて思います。塾長からこんな話しを聞きました。

 

「距離に負けるな好奇心」

 

これはJR東海が広告のキャッチコピーとして出した言葉です。聞いた瞬間に旅に出たくなるくらい、人の心理を上手くついた言葉ではないでしょうか。どうしても年を取るごとに行動することや、遠くに行くことに億劫になりがちですが、そんな時こそ好奇心を持って一歩踏み出そうという気にさせてくれますね。私は塾長を見ていて

 

「歳に負けるな好奇心」

 

という言葉があてはまります。まだ塾長の年齢まで、まだまだ先なので、実際は分かりませんが、65歳という定年の年齢になっているにも関わらず、むしろ年を重ねるごとに行動力が増し、どんどん新しい事にチャレンジしていく塾長は好奇心の塊のように思います。その裏では「見守る保育」を日本のスタンダードにするという強い「志」がそうさせているのかもしれません。

そんな塾長を見ていて年が若いから色々なことに挑戦してみよう、という言葉を聞きますが、意外と若くても保守的な人が多いような気がします。その裏に「面倒くさい」「疲れる」とすぐにネガティブに考えてしまうような気がします。また新しい事を企画し行動しようと思っても「反対されてしまう」と思い、なかなか行動できなかったり・・・。実際に環境がそう思わせてしまう可能性もあると思います。

 

「至誠にして動かざるものは 未だこれあらざるなり」

 

ご存知、吉田松陰の言葉です。「至誠」とは精一杯の誠意を尽くすという意味です。精一杯の誠意で相手に尽くせば心を動かされない人はいない。要は人を動かそうと思ったら、真心を持って、精一杯心で接しなさいという意味です。

 

「子どもに真心を持って接しただろうか」

 

おそらくこの言葉を思いついた人が多いと思います。見守る保育の三省の一文です。

子どもには真心を持って接すること、そうすれば自分の気持ちも伝わるし、そうすれば子どもも分かってくれると思います。そこで「共感」が生まれ、見守れる存在になっていくと思います。これは子ども同士だけでなく職員同士も言える事だと思います。自分の気持ちを分かってくれない、ではなく自分の伝え方が変だったのかもしれない、真摯さが足りなかったのかもしれない、それこそ「至誠」が足りないのかもしれません。お互いが「至誠」を持って接することが大切なのかもしれません。

野見山さんが最後に私たちに言ってくれた言葉は

 

「藤森先生が作った『志』を皆がつないでいってください」

 

と言われ、高杉晋作の熱い話しは終わりました。

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野見山さんから貸していただいた本です。

そして塾長も言われました。

 

「私は自分が活躍するよりも、皆がそれぞれの場所で活躍していくことが嬉しい・・・」

 

私たち塾生(草莽)が塾長の作った「志」を胸にずっとつないでいき、そしていつか活躍(崛起)できるその時まで、しっかりと力をつけていこうと思います。(報告者 山下祐)

「Neoteny→◯◯の心をもったまま◯◯になるということ」

8月11日(火)に行われた臥竜塾の報告をさせていただきます。

まずは恒例の夕ご飯の紹介から。この日は、先週が藤森先生と西村先生が出張だったため、一週あけての臥竜塾でした。

なので、ちょっと豪華なイメージでハンバーグにしました。

添えてある瓶は塾頭ご推選の〝食べるラー油〟です。これをポテサラに乗せて食べると、最高です。

添えてある瓶は塾頭ご推選の〝食べるラー油〟です。これをポテサラに乗せて食べると、ほんと、もう最高です。

にんにくとベーコンの入ったポテトサラダと富山名物(?塾頭にいわく「富山で食べてる人見たことない(笑)」とのことでした)きゅうりのお味噌汁です。

左:塾頭 正面:渡邊氏 右:平田氏からです。ご馳走様です!

左:塾頭 正面:渡邊氏 右:平田氏からです。ご馳走様です!

デザートには、外部塾生である渡邉寛臣氏から新婚旅行のお土産のチョコと、平田竜一氏から、熊本県阿蘇にある和菓子・洋菓子のスイーツメーカー「菓舗あそりんどう」より、チーズ菓子〝一五九二(ヒゴクニ)〟。そして、我らが塾頭から軽井沢のお土産をいただきました。とても美味しかったです!

計18個のハンバーグに火が通るまでに時間がかかり、さらにソースもつくらなければとのことで勝手に焦っていた今回のメニュー発案者の僕でしたが、

「大丈夫。とりあえず即席でソースはつくっちゃうから。」

「大丈夫。とりあえず焼けた分から食べ始めちゃおう。」

と優しく励ましてくれたのは調理柿崎先生です。

危なく惚れるところでした。

 

そんな柿崎先生がおばあちゃんのいる青森県に弟さんと旅行されたお話からスタートしました。

ちょうど青森名物〝ねぶた祭り〟が開催されていたようで、〝立ちねぶた〟となると全長20mもある迫力のねぶたを鑑賞してきたとの報告がありました。

大迫力!

大迫力!

そんな流れで、来週の臥竜塾の夕ご飯のメニューは青森名物〝せんべい汁〟と〝津軽漬け〟になるとのことです。今からとても楽しみです。

 

話は変わります。

NHKのEテレで先日放送されていた、『スーパープレゼンテーション』で、『哲学する赤ちゃん』の著書であるアリソン・ゴプニック氏が、〝赤ちゃんは何を考えているの?〟というタイトルでスピーチをされていました。

その映像を皆で見ました。

ネットから、この日のスピーチが見られますのでご参照下さい。

http://www.nhk.or.jp/superpresentation/backnumber/150715.html

 

子どもが大好きなクラッカーと苦手なブロッコリーを使った実験や、動物の脳を比較しての考察、大人と子どもの脳の働きの違いなどを映像や写真が独特なスピード感ある語り口で、展開されていきます。

番組終了後、なんとなしに塾頭が言った「流石ですね」の一言が僕はとても印象的でした。様々な場所で演説に触れ、また自身も豊富な経験をもつゆえに、演説の見え方というものが違うのだろうということを感じさせる言葉でした。

 

他にも、

「子どもは関心をもたないことが苦手」

「子どもの脳は、あれもこれも面白くて選ぶことができない状態。大人で言えば、新しい状況に身を置いた時のような感じ」

「Neoteny→子どもの心をもったまま大人になるということ」(タイトルの答えです!)

「子どもの要素をもったまま大人になろう」

など、印象的な言葉がいくつもあり、とても勉強になりました。

 

感想を言い合っていく中で、「関心をもたないことが苦手」という言葉に本多先生がスポットを当てました。

すると塾長藤森先生から「〝子どもが落ち着くから〟という理由で、子どもに対して担当の先生を決めて保育をするという、担当制への違和感をやはり感じる。子どもは色々なことに関心をもちたがる脳の働きがある。また、トイレに向かおうとする子を抱きかかえたり、危ないからと色んなものを排除したりしようとする保育者がいるが、トイレへ行く〝途中〟こそ、保育なのではないか。」

とあり、一同とても納得をもって聞きました。

 

また、話の流れから、〝片付け〟についても藤森先生から言葉をいただきました。

「片付けはしつけではない。腰に手を当てて「片付けなさい」と言ったりするのは、それは日本独特のもの。あそびに満足すれば、子どもは片付ける。子どもと共にあそびを楽しむことを忘れてはいないか。」

「冒険心や好奇心を削いでまで、片付けるのは違う。保育者は、ある程度の散らかりを覚悟する必要がある。」

との内容で、これにもとても納得してしまいます。

ただ、〝しまう〟ということが本能的にあるのではないか、ということです。藤森先生のお孫さんがお家にあそびに来る時の話で、帰るときまっていつも先生のバッグの隙間に冷蔵庫の磁石が入っているのだそうです(笑)

これは〝しまう〟という一つのあそびであり、またある意味では一つの片付けの形でもあるのでは、というようにも感じられました。

 

塾頭からは、〝Neoteny〟について感想がありました。

それについても塾長藤森先生から非常に面白い考察をいただいたので、紹介させていただきます。

「ネアンデルタール人の方が今のヒトより脳が大きかった。もしかしたら、その場所に適応する力が現代人の何倍もすごかったかもしれない。その場所で個人が確実に適応できる、ということは、一人で生きることが可能であった、ということ。つまり、協力する必要がない為に滅んでしまったのではないか。ヒトに助けてもらう必要がなくなると滅びてしまうのではないか。

とすれば、生き残った我々の祖先は、一人では生きることができずに協力して生きようとしたヒト。協力とは足りないことを補うということ。この〝足りなさ加減〟が生き残る為に重要なのではないか。」

「見守る保育の特徴の一つとして、〝赤ちゃんから協力し合う〟という環境があることが挙げられる。(先程の担当制への違和感につながりますね) 完璧よりも足りなさの方が人類が生きられる。それを小さな頃から学ぶ必要がある。」

とても、説得力に満ちた内容です。

子ども同士のことにしてもそうですが、確かに例えば園の装飾にと買い物一つにしても、「これは一歳児クラスにいいかも!」と、他のクラスの先生が買ったり、思いついたりすることは当たり前のことのようにしょっちゅうあります。

また、3.4.5歳児クラスの装飾を、1歳児クラスの先生がつくったり。こんなことが自然と行われていることも、改めて、協力するという人類生存のとても重要な要素が、心地よい風として園の中を流れている、ということを感じるのでした。

 

最後に、先日行われたお泊まり会の写真をみんなで見ました。

そこで、5歳児クラス担任である本多先生が、賞状をもらったという話がありました。

『よくお泊まりができました』という、毎年お泊まり保育に参加した子どもたちに配るものでそれを保護者の前で本多先生に藤森先生から渡したとのことでした(笑)

「びっくりしました。『賞状をあげたい人がもう一人います』と藤森先生が言うので、誰かなぁ、地域の人かなぁと思っていたら、僕なんですもん(笑)」と本多先生。

聞くと、賞状を準備している段階で西村先生が準備したもので(笑)それを当日、渡す何分か前に「用意してあります。」と一言だけ言って藤森先生の手元に。何もしらなかった藤森先生は、その場のアドリブで(笑)渡してくださったとのことです。

 

まさにNeoteny。Neotenyのあまりに高いお二人の成される業、仕事ぶりを感じて、この日の塾はオシマイニーなったのでした。

「大人でも 頭が柔らかくて想像力豊かな蝶になりたいならー」

「大人でも 頭が柔らかくて想像力豊かな蝶になりたいならー」

「時々は 子どものようような考え方をすべきかもしれません」そうまるで、いたずら好きなあの方のように

「時々は 子どものような考え方をすべきかもしれません」そう、まるで、いたずら好きなあの方のように。

(報告者 加藤恭平)

草莽崛起④

さて、前回は高杉晋作が野山獄に入り、吉田松陰の事を思った詩を書いたところで終わりました。その後、幕府は、長州に対して「長州征伐」の準備を進めていました。晋作が奇兵隊の総督の任を下された後には三代目の赤根武人が総督になりました。その奇兵隊が奮闘するものの四か国の連合艦隊に完膚なきまでに叩かれたのです・・・。

 

それをきっかけに長州は連合艦隊と和議を結ぶために牢から出されました。そして筆頭家老 宍戸刑馬という人物になりきり晋作が和議に向かったのです。ドラマを見ている人ならば、晋作が和議に向かった時の服装を思い出すと思いますが、黄色の一等礼服に烏帽子直垂姿でしたね。そのあまりにも晋作の堂々とした態度にイギリス公使の通訳アーネスト・サトウは

「魔王の如く傲然として見えた」

と言ったほどです。交渉は3回に及び、3回目に賠償金の問題と彦島の租借要求出されましたが、どちらも晋作が強固に拒絶し、攘夷を行ったのは幕府の命令に従ったから、幕府より賠償金を取り立てるように主張しました。そして彦島も以前、晋作が以前、上海に行った時の風景があまりにもひどい有様で、これでは二の舞になると思い、急に日本の歴史を語り始めたのです。それで煙にまいたのか、彦島の要求は引っ込めたそうです。

 

その後晋作は萩に戻り閉居していたが、交渉の際に外国の要求を素直にのんだと奇兵隊の皆から誤解され、奇兵隊から命を狙われることになり、萩から脱出したのです。その時のシーンで橋の上で品川弥二郎と晋作が斬りあうシーンがありましたね。その時のセリフ

 

「俺は久坂も稔麿も入江も忘れてはおらん!」

 

野見山さんが言うには、ここでの晋作の言葉はもっと奥が深く、感動する言葉だそうです・・・。

萩を抜け出した晋作は最終的に福岡の平尾山荘の女僧の野村望東尼(のむらもとに)を訪ね、身を寄せる事にしました。先日、塾長と西村君が福岡に出張に行った際に、なんとその平尾山荘に行ったのです!すごい偶然ですね!ちょうど大河ドラマでも晋作が平尾山荘に身を寄せたところが放送されていて、そして福岡出張・・・。

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写真のように晋作は日本の将来を描いていたのでしょうね・・・。

そして晋作は平尾山荘で10日間過ごしたときに、藩政府が3家老を切腹させ、その首を幕府に差し出したことや、奇兵隊やほかの諸隊も解散の命令が出たことをきっかけに長州に戻る事になるのです。

当時の奇兵隊の総督の赤根武人は藩の命令に従い、解散を進めていましたが、周りはそれでは、今まで散っていった同士の志が途絶えてしまうと意見が割れている時に晋作が表れました。このシーンは大河ドラマでもありましたね。

そして晋作は80名ほどの人数で功山寺にて挙兵するのです。

野見山さんが言うには、この時の奇兵隊が一番すごかったそうです。何というと、晋作が一軒一軒訪ね、その人の長所を見抜き声を掛けていったそうです。そして真の精鋭が集まったのがこの時の奇兵隊だそうです。

その活躍は、大河ドラマでも放送されていましたが、80名あまりで正規軍2000名を撃破するのをきっかけに、奇兵隊が更に勢力を増し、幕府に恭順を示す意向を固めていた藩政府内に分裂が起き、藩政府は「倒幕」の姿勢を固めるのです。

 

この晋作の行動が後の明治維新までの筋道を徐々に築き上げていく土台になったそうです。

野見山さんはこう言いました。

 

「藤森先生は私達が道を歩きやすいように、作ってくれました」

 

おそらく吉田松陰も塾生たちが歩きやすいように「志」という教えで道を作ってくれたのかもしれません。ドラマを見ていても、吉田松陰が死んだ後も塾生たちは自分の「志」を掲げ、行動しています。

保育園で言うならば「理念」にあたる部分だと思います。「見守る保育」という理念があるからこそ、職員は自分達で考え、行動し、成長していきます。そして子どもたちにも伝わっていきます。

「志」があるからこそ振り返る事ができ、安心して戻れるのではないでしょうか。(報告者 山下祐)

草莽崛起③

安政の大獄により吉田松陰は29歳という若さでこの世を去りました。松陰の残した書物に「留魂録」という物があります。それを手にした塾生は先生の形見とし、それを破ってそれぞれが持つことにしたのです。

その「留魂録」というのは松陰が幕府からの裁きのいきさつと今の自分の心境を塾生に書き残しておくために書いた書物です。

「私の念じることは、同士にに私の志を継いでもらい、尊皇攘夷に大きな功績を立てて欲しいことである」と記されていました。

その「留魂録」は2通書き、一つは塾生の手に、そしてもう一通は同じ牢屋にいた沼崎吉五郎という福島の藩士に渡したのです。

 

そんな松陰が獄の中で過ごしている時に、実は獄の中では色々としきたりがあります。着物や本の差し入れは牢名主(囚人たちの中で選ばれた取り締まる長のこと)を通す必要があり、そのためにはお金が必要でした。その調達を江戸で遊学していた高杉晋作に頼むのです。

しかし、晋作の父が息子と松陰との接触を避けるために、長州藩からの命令で晋作が萩に帰るように命令が下ったのです。

その際に晋作が松陰に尋ねました。自分はこの先にどうすればいいのか?とすると松陰は晋作に対して「萩に戻って、親孝行をしなさい。そして10年間はおとなしくしていなさい」とそれを言われた晋作は素直に松陰の言葉を聞き入れ、萩に戻って結婚し、自宅に引きこもって読書をすると言ったそうです。大河ドラマでは出家していましたね。

 

そんな高杉晋作が引きこもっている時に長州は攘夷の動きがさらに激しく動き始め、海峡を渡る外国船に対して砲撃を撃ち放ち、一時は優位かと思いきや戦況は一変し、アメリカ、フランスによる報復攻撃を受け、惜敗したのです。そんな危機的状況を打破すべく長州藩が取った行動は高杉晋作を呼び戻し、何か策がないか?と問われた晋作は「奇兵隊」を創設したのです。

奇兵隊の理念は、身分は問わず、力量も問わず、「志ある者は集まれ」と民衆に呼びかけて集まった集団が奇兵隊です。しかし、この奇兵隊も実は松陰の考えだったのです。松陰が近代兵器で武装した外国軍と戦う方法として「日本国有の短兵接線も以って敵と戦い、意志が堅く強い者を集めた奇兵隊が必要である」と書いた本を引きこもっている時に読んだと思われます。

 

こうして奇兵隊の初代総督となった晋作ですが、その裏腹に長州藩との正規軍との間でいざこざが絶えず、晋作は総督の任を下されるのです。この間に、京都では八・一八政変が起こり、長州藩は窮地に立たされるのです。

ここで八・一八政変、池田屋事件、禁門の変により長州は、「朝敵」(天皇の敵)という汚名を着せられ滅亡の危機をむかえていた。これらの事件により松下村塾の四天王の久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一が壮絶な死を遂げたのです・・・。

そして晋作はというと、奇兵隊の総督の任を下されたあとに、脱藩し京に向かうのです。しかし桂小五郎により説得され、萩に帰国後、脱藩の罪で松陰と同じ野山獄に投獄されていたのです。この時にドラマの中でも放送されていましたが、松陰と同じ牢屋に入れられた晋作が壁に「至誠」と書かれた文字を見て

 

「先生を慕うてようやく野山獄」

 

という詩を読みました。松陰も二度、野山獄に入れられ、そんな松陰の意思を継ごうとする晋作の強い思いが表れている詩です。それだけ高杉晋作は吉田松陰に対して強い思いがあったのです。もちろん晋作の生き方を決定づけたのも松陰の言葉なのです。それは松陰が江戸で獄に入っている時に晋作に宛てた手紙の中に書かれた言葉です。以前「男子はいつどこで死ぬべきですか?」という晋作の質問に対して松陰は手紙でこう書いたのです。

 

「死というものは好むべきでもなく、また憎むべきものでもありません。死んで不滅の名声が残せるならば、いつ死んでもよいでしょう。また生きてなおお国の為に大きなことを成す見込みがあるならば、いつまでも生きたらよいでしょう。要するに、死ということを考えるよりもまず、成すべきことを成す生き方が大事なのです」

 

当時の武士は死ぬ瞬間まで武士であるという強い思いがあるので、晋作も武士として自分の「死ぬべきところ」について考えていたのでしょうね。今では考えられないことです。ただ何となく分かるのは、私もいずれ死ぬのならば、何か残していきたいという思いはあります。それが何かというのは、まだ分かりませんが、松陰が晋作に言った「成すべきことを成す生き方が大事」というのは胸に刺さりました。今の自分は何ができるのか?ほんの小さなことでもいいから、とにかく何か成す事が大切だと思いました。その積み重ねで結果的に大きな事を成す事ができるかもしれませんし、死んだときに、それが残るかもしれません。

 

やはりここでも松陰の言葉と塾長がかぶってしまうのです。塾長はとにかく今、塾長自身が成すべきことに向かって、まっすぐに進んでおられます。

「私はみんなよりも先が見えている、だから今のうちにやらないといけない」

と言われました。まさに「成すべきことを成す生き方」です。そんな生き方をしている方が目の前にいて、その方から直に教えを乞う、私たちは本当に幸せ者です・・・。(報告者 山下祐)

草莽崛起②

前回は野見山さんと吉田松陰との出会いで終わりました。今回からテーマである「高杉晋作」について書いていきたいと思います。

まず、野見山さん自身は当初、松陰のことばかりで高杉晋作はそこまで注目をしていなかったそうです。それがどうして高杉晋作の魅力にはまったかと言うと、純粋に「真面目」そして師の松蔭に対しての真っ直ぐな思いに魅了されたとのことです。

まず野見山さんから塾生に対して高杉晋作の印象を聞かれました。

本多君は「お金持ち」

西田君は「風雲児」

西村君が「日本ハムの大谷しょうへい選手」

と答えました。私も高杉晋作の印象としては大河ドラマの影響がかなり大きいですが、猪突猛進というか、とにかく暴れ馬のような印象です。そんな高杉晋作ですが10歳の時に天然痘と患い、その影響で病弱な体質、そして小柄で痩せていたため、身体的にコンプレックスが強かったようです。その為か学問よりも剣術に励んでいた幼少期だったそうです。そして吉田松陰との出会いはドラマでも書かれていましたが、藩校の「明倫館」に晋作は通っていましたが、授業もつまらなく、退屈な日々を送っていたときに久坂玄瑞らが松陰の下で学んでいる事を知り、晋作も松陰と出会うことになり塾に通うこととなりました。

 

そんな松下村塾ですが、元は叔父の玉木文之進が開き、そして松陰も文之進から厳しい指導のもと逃げ出さずに山鹿流兵学を学び学問に励んだそうです。松陰がなぜ松下村塾を受け継ぎ始めようと思ったのは、大河ドラマでも描かれていましたが、野山獄に入れられていた時に同じように獄に入っている夢や希望も無い囚人たちを見て、この状況を何か良い方法で変えたいと考えている時に、書が上手な人、俳句が上手な人々がいると知った松陰は、その得意なことを互いに教え会うことを思いついたのです。最初は少なかった参加者も次第に増え始め、先生になった人は教える喜び、生徒になった人は学ぶ喜びを感じたのです。獄の中でも生きがいを感じた囚人たちも生き甲斐を感じ、獄の雰囲気も次第に明るくなったそうです。そんな時に松陰もすすめられて講義をすることになり「孟子」について独自に解釈したものを分かりやすく話したそうで、その面白さに野山獄の役人福川犀之助(ドラマでは田中要次が演じてました)までも、松陰の講義を聞くようになったのです。

生きる喜びを見出す場所を変えることができると感じた松陰は「福堂策」という一冊の本をまとめたのです。

その後、野山獄を出獄した松陰は自宅に帰って獄での話し、そして孟子の話などを家族にしたところ、とても面白く、勿体にないということで「松下村塾」を開き、松陰が先生となり始まったのです。

 

なかなか高杉晋作の話に行けずにすみません。どうも私も大河ドラマに影響されて吉田松陰がとても大好きになったようです。本題に移る前に、もう少しだけ吉田松陰について書かせて下さい・・・。

 

塾に通うことになった晋作は松陰から学び始め、次第に頭角を表すようになりました。松下村塾では四天王と呼ばれる人物がおり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿の4人です。

そんな有名な松下村塾も実は約1年で終わったのです。とても短いですね・・・たった1~2年という期間ですが、野見山さんが言うには当時の塾に通っていた若者は学ぶのに必死だったそうです。片道数時間をかけて塾に通っていた塾生もいたそうです。そうなると学ぶ吸収力もすごかったでしょうね。また松陰の教えも「見守る保育」と通じるものがあるのですが、それぞれの塾生の個性を見極め、それぞれにあった書物を与え、そして一人一人に丁寧に指導していたそうです。結果よりも学ぼうとする姿勢を松陰は重視したとのことです。塾長の講演でも松陰と同じことを言われています。

 

「子どもに対しても結果よりも、それまでのプロセスを褒めることが大切です」

 

そんな松下村塾も一年が経過しようとした時に、おそらく一度は耳にしたことがある「安政の大獄」が起きるのです。簡単に言うと、政府がやっている事に反対している者を次々に捉えて、弾圧していくことです。松陰もそのうちの一人で、何とかして政府(当時は江戸幕府)がやっていることを阻止するために老中の暗殺を企てたり、政府に過激な意見書を送るなど、行動に移したが全て失敗に終わったのです。しかし、幕府に松陰が何かに関わっているという尋問からの情報が入り、直接取り調べをすることに江戸に送られることになり、松陰はこれを良い機会と捉え、自分の考えを伝えるチャンスと捉えたそうです。

 

そんな時に松陰は「草莽崛起」という考え方を唱えたのです。

「草莽」・・・草の生い茂る場所のこと。転じて民間を意味し、役人ではなく民間人のこと。

「崛起」・・・立ち上がって闘うこと

何とかして今の日本の危機的な状況を変えようと考えたのです。幕府も役人ももはや酔っぱらいのような者で、救う手立てもない。だからこそ草莽の人々が立ち上がり、闘うことを望む。

ドラマの中で松陰は「狂うときがきたのです!」と塾生に言った一言は、ただ自分たちが変におかしくなるのでなく、幕府や役人が既におかしくなっているからこそ、自分たちが変わるしかない「狂うしかない」という深い意味だったんですね。

 

今、塾長は日本のスタンダードな保育「見守る保育」を構築し体系化するために、色々な事にどんどん挑戦し、行動しています。形は違いますが、なんだか当時の吉田松陰と似ている部分があります。そして私たち塾生が始めた「臥竜塾の教え」これの意図は、今まで当たり前かと思われてきたことに対して。果たして本当にそうなのか?と一石投じる為の意図があるとお話されました。私たち塾生も「草莽崛起」し「狂うとき」がきたのかもしれません・・・。

 

今回は「草莽崛起」という考え方がどのように生まれたのかを説明させていただきました。まぁドラマを見ている人や、歴史に詳しい人は「そんなの知ってるし」となるかもしれませんが、私は日本史の中でも、ちょうど幕末の時が嫌いというか、恥ずかしいですが安政の大獄の意味すら知りませんでした・・・。それを31歳にしてもう一度吉田松陰と通じて当時の歴史を学ぼうと思っているので、少々つまらない内容かもしれませんが、しばらくお付き合いください(報告者 山下祐)