安政の大獄により吉田松陰は29歳という若さでこの世を去りました。松陰の残した書物に「留魂録」という物があります。それを手にした塾生は先生の形見とし、それを破ってそれぞれが持つことにしたのです。
その「留魂録」というのは松陰が幕府からの裁きのいきさつと今の自分の心境を塾生に書き残しておくために書いた書物です。
「私の念じることは、同士にに私の志を継いでもらい、尊皇攘夷に大きな功績を立てて欲しいことである」と記されていました。
その「留魂録」は2通書き、一つは塾生の手に、そしてもう一通は同じ牢屋にいた沼崎吉五郎という福島の藩士に渡したのです。
そんな松陰が獄の中で過ごしている時に、実は獄の中では色々としきたりがあります。着物や本の差し入れは牢名主(囚人たちの中で選ばれた取り締まる長のこと)を通す必要があり、そのためにはお金が必要でした。その調達を江戸で遊学していた高杉晋作に頼むのです。
しかし、晋作の父が息子と松陰との接触を避けるために、長州藩からの命令で晋作が萩に帰るように命令が下ったのです。
その際に晋作が松陰に尋ねました。自分はこの先にどうすればいいのか?とすると松陰は晋作に対して「萩に戻って、親孝行をしなさい。そして10年間はおとなしくしていなさい」とそれを言われた晋作は素直に松陰の言葉を聞き入れ、萩に戻って結婚し、自宅に引きこもって読書をすると言ったそうです。大河ドラマでは出家していましたね。
そんな高杉晋作が引きこもっている時に長州は攘夷の動きがさらに激しく動き始め、海峡を渡る外国船に対して砲撃を撃ち放ち、一時は優位かと思いきや戦況は一変し、アメリカ、フランスによる報復攻撃を受け、惜敗したのです。そんな危機的状況を打破すべく長州藩が取った行動は高杉晋作を呼び戻し、何か策がないか?と問われた晋作は「奇兵隊」を創設したのです。
奇兵隊の理念は、身分は問わず、力量も問わず、「志ある者は集まれ」と民衆に呼びかけて集まった集団が奇兵隊です。しかし、この奇兵隊も実は松陰の考えだったのです。松陰が近代兵器で武装した外国軍と戦う方法として「日本国有の短兵接線も以って敵と戦い、意志が堅く強い者を集めた奇兵隊が必要である」と書いた本を引きこもっている時に読んだと思われます。
こうして奇兵隊の初代総督となった晋作ですが、その裏腹に長州藩との正規軍との間でいざこざが絶えず、晋作は総督の任を下されるのです。この間に、京都では八・一八政変が起こり、長州藩は窮地に立たされるのです。
ここで八・一八政変、池田屋事件、禁門の変により長州は、「朝敵」(天皇の敵)という汚名を着せられ滅亡の危機をむかえていた。これらの事件により松下村塾の四天王の久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一が壮絶な死を遂げたのです・・・。
そして晋作はというと、奇兵隊の総督の任を下されたあとに、脱藩し京に向かうのです。しかし桂小五郎により説得され、萩に帰国後、脱藩の罪で松陰と同じ野山獄に投獄されていたのです。この時にドラマの中でも放送されていましたが、松陰と同じ牢屋に入れられた晋作が壁に「至誠」と書かれた文字を見て
「先生を慕うてようやく野山獄」
という詩を読みました。松陰も二度、野山獄に入れられ、そんな松陰の意思を継ごうとする晋作の強い思いが表れている詩です。それだけ高杉晋作は吉田松陰に対して強い思いがあったのです。もちろん晋作の生き方を決定づけたのも松陰の言葉なのです。それは松陰が江戸で獄に入っている時に晋作に宛てた手紙の中に書かれた言葉です。以前「男子はいつどこで死ぬべきですか?」という晋作の質問に対して松陰は手紙でこう書いたのです。
「死というものは好むべきでもなく、また憎むべきものでもありません。死んで不滅の名声が残せるならば、いつ死んでもよいでしょう。また生きてなおお国の為に大きなことを成す見込みがあるならば、いつまでも生きたらよいでしょう。要するに、死ということを考えるよりもまず、成すべきことを成す生き方が大事なのです」
当時の武士は死ぬ瞬間まで武士であるという強い思いがあるので、晋作も武士として自分の「死ぬべきところ」について考えていたのでしょうね。今では考えられないことです。ただ何となく分かるのは、私もいずれ死ぬのならば、何か残していきたいという思いはあります。それが何かというのは、まだ分かりませんが、松陰が晋作に言った「成すべきことを成す生き方が大事」というのは胸に刺さりました。今の自分は何ができるのか?ほんの小さなことでもいいから、とにかく何か成す事が大切だと思いました。その積み重ねで結果的に大きな事を成す事ができるかもしれませんし、死んだときに、それが残るかもしれません。
やはりここでも松陰の言葉と塾長がかぶってしまうのです。塾長はとにかく今、塾長自身が成すべきことに向かって、まっすぐに進んでおられます。
「私はみんなよりも先が見えている、だから今のうちにやらないといけない」
と言われました。まさに「成すべきことを成す生き方」です。そんな生き方をしている方が目の前にいて、その方から直に教えを乞う、私たちは本当に幸せ者です・・・。(報告者 山下祐)
高杉晋作と吉田松陰の絆、師弟としての関係の深さを感じる話ですね。迷った時に松蔭先生ならどう考え、どう行動するだろうかと高杉晋作の中には常に吉田松陰が存在していたのかもしれません。私も藤森先生ならどうするだろうかと考えることがあります。自分の行動を決める時に、そのような存在があることはとても大きな支えになるのではないかと思います。先日、「野山獄」の跡地に行ってきたのですが、私が思っていたよりも街中にあり驚きました。実際にその場に立つと、うまく言葉にはできないのですが、なんだか歴史の登場人物に少し近づいたような気がするのは不思議ですね。私もこの時代のことをもっと知ってみた、この時代に生きた人々の思いをもっと知ってみたいと思っています。そんなきっかけを頂いたことに感謝です。そして、山下さんの高杉晋作のヒストリー、とても分かりやくおもしろいです。続きが楽しみです!
現代と比べて、この時代というのは「死」というものをわりと身近に置きながら、日々の生活を送っていたということが理解できました。“人は死ぬ気になれば何でもできる”という言葉があるのは、あながち間違いではないのかもしれませんが、年間自殺者数が3万人を越えているという事実と合わせて考えてみると、自ら死を選ぶ事と、「成すべきことを成す生き方」とが必ずしも直結していない現状がある気がしました。限られた時間と命をどのように使うか。そのような言葉を使って自問自答する人生に、「崛起」が生まれるのかもしれないと感じました。
塾頭の〝草莽崛起〟の連載は、とても素晴らしいものだと思います。本当にわかりやすい。すごく理解ができます。これを読んで後、時代小説を読んだり、大河ドラマを見たりすることで、かなりの理解度が増し、その世界の中にすんなりと入っていけるようになるのではないか、と感じます。実際、とても僕にとってはありがたく、読むたびにその時代の動き、吉田松陰、高杉晋作の背景を知ることができ、本当に勉強になっています。
時代を駆け抜けた人の生き様、生き方を知ることは、自分の人生を豊かにするとても大切なことだと思います。僕らの人生は、こうして豊かになっていることを思うと、学ぶということが、大人になってからこそ実はとても大切で、本当に楽しいのだ、ということを改めて思います。子ども達にも、この楽しさを存分に味わいながら大人になっていってほしいな、と切に思います。