共生と貢献

私の家にはテレビがないのですが、用あって群馬にある母の実家を訪れた際、久しぶりに見るテレビから流れてきたのは、オリンピックの開会式でした。

今年からオリンピックのスローガン、『より速く・より高く・より強く』に『ともに』が加わりましたね。

新宿せいがが掲げる理念の共生と貢献、に近いものが見えるような気がします。

7月21日の塾では、新宿せいがと同じく、共生と貢献を理念に抱える城山保育園さんから、二名の先生が来週に控える臥龍塾セミナーのプレ発表を行ってくださいました。

今回のテーマは、『園庭から見る見守る保育』ということで、広々とした園庭を持つ城山保育園さんならではの実践や理念を熱く語られていました。残念ながら、まだセミナーが行われていない今、この場では公開できない部分がほとんどなので、これから更にアップデートされたセミナーを楽しみにしながら、今日は先日私が保育をするなかで感じた、共生と貢献に関するエピソードを載せさせていただきたいと思います。

私が保育の中で何とかしたいことの一つに、子供と関わっている人なら大半の人が経験したことのあるであろう言葉があります。

それは

     『だってそれ私やってないし』

です。共有スペースの椅子がぐちゃぐちゃになっている時、だれが使ったかもわからない鉛筆が転がっている時、誰が溢したかも解らないようなお味噌汁が床を汚している時、その始末を見て見ぬふりする子ども達に理由を問うと必ずこの言葉が返ってきます。

以前までの私は、そんな言葉にどう返したら良いのか解らず、うまく言葉に出来ないモヤモヤを常に感じていました。

しかし、ある時藤森先生の講演で、「自分で使ったものなのだから自分で片付けなさい、という言葉は使わない方がよい。なぜなら自分で使っていないものは片付けなくてもよい、ということになってしまうからね」という話を聞き、衝撃を受けました。

たしかに、疑うことなく使っていたその言葉は、共生と貢献には全くあてはまらない言葉でした。

その日から私は、片付けの場面を含めた全ての保育の場面で、言葉選びを何よりも重視するようになりました。例えば子どもが玩具の貸し借りをする時、ついつい貸してあげた側を褒めがちですが、貸りることが出来た子どもと、貸りることが出来たことの喜びを分かち合うようにしたり、お手伝いをしてくれた子どもに、お手伝いをしたことを褒めるのではなく、その結果部屋がきれいになったことを一緒に喜んだりと、一つ一つを見直していきました。

そんな意識をしながら3.4.5歳児クラスの子ども達と過ごして4か月、今まで見ることが出来なかった姿が見られるようになってきました。

ある日、お片付けの鈴をならし、さあ片付けようかと気合いをいれたその瞬間、目に飛び込んできたのは、先程まで4歳児クラスの子達数人が楽しく遊んでいたとは思えないほど静まり返ってひとっこひとりいなくなった、散らかり放題の無惨なブロックゾーンの姿でした。以前までの私なら、ここで遊んでいた子達を呼び戻していましたが、果たしてそれで子ども達は片付けの必要性を学べるだろうかと思い直し、どうあの子達に伝えたらよいのかと思い悩みながら、一人で片付けを始めたその時です。

大変そうな私の姿を察してか、一人の5歳児クラスの女の子が、なにも言わずに一緒に片付けを始めたのです。私はそれがとても嬉しくて、しかしここで大袈裟に褒めたら水の泡と、褒め倒したい気持ちを圧し殺して片付けを続けました。

しかしそんな時ほどアクシデントというのは起こってしまうもので、急遽3歳児クラスの子のトラブルの対応をしなければならなくなりました。

トラブルを解決させた後、片付けをしてくれたあの子は一人でやるのも大変だろうし、いなくなっていても仕方ないだろうなと、半ば諦めぎみに、でも片付けが必要な状況に気づいて駆けつけてくれたことだけでも嬉しくて、一人で片付けの続きをしようとブロックゾーンに戻りました。しかしそこで私が見たものは、私の想像を軽く越えていくものでした。

なんと片付けをする子どもの人数が五人に増えていたのです。周りにいた他の先生に聞いても、片付けの手伝いをするよう声をかけたということもなく、子ども達が自分達で仲間が大変、という状況に気づいて駆けつけたということです。

もしかしたら私が見つけたこの喜びは、大したことではないかもしれません。それでも、自分がこんな姿に育ってほしいと思っていた姿をダイレクトに見られたあの瞬間は、私が保育に更に深くはまった瞬間といって過言ではないでしょう。

共生と貢献、が自然と出来るような子ども達へ、そしてまず自分が共生と貢献が自然と出来るようになるように、日々の保育にこれからも向き合っていきたいと思います。

最後にはなりますが、頑張れ日本!

(報告 髙橋)

夏の足音近付く臥竜塾


こちらの鉛筆

先日、国際サステナブルグッズEXPOに参加した際の戦利品。

なんともサステナブル

新しい時代に必要なアイデアと感じます。

吉田松陰が塾長となり運営された松下村塾。

明治維新で活躍された方々は皆何かしらの影響をここから得て、日本を革命するにいたらしめました。

「そういうような人たちを育てたい」

臥竜塾もまた、そのようにして創設されました。

今後、保育維新が日本に起きる、その筆頭に臥竜塾生がいる、そのような未来を創るに必要な力を、私たちはこの塾を通して身につけていく、その為の塾であることを再認識する思いで、一同、塾長の声に耳を傾けました。

「次の時代を読む力、時代を先取る力」

「勘が働くか、どうか」

1つのことを話すのに、100のことを知っていなくてはならない、という言葉のように、その力を、勘を、直感を働かせられるようになる為に、多くの学びを必要とするのでしょう。塾長がおもむろに出したサステナブルな鉛筆に、その真意があったように思えてきます。

「時代を読み、常に先手をうっていく」

そういう力をこの塾で培ってほしい、という塾長の言葉に、この日は無言で頷くことしかできませんでした。

それぞれが、それぞれの学びを日々更新し続けています。自分だけしか知らない、誰の目にもうつらない学びと、誰の目にもわかるような形での学びの成果を、塾長は塾生に期待しているのでしょう。

グッドデザイン賞
グッドデザイン賞

この日、話の主軸となった過去2度のグッドデザイン賞受賞の経緯と、当日の様子を語る塾長は、何度か用いられた「エキサイティング」という言葉に表されるように、とてもわくわくしていました。そのわくわくした気持ちが、塾長の現在を創り出していったのですね。

わくわくする気持ち、その気持ちをいつまでも忘れないようにしたいと思います。

最後に、先日誕生日を迎えた塾頭山下先生より、抱負をいただきました。

「美味しくバリウムを飲みます。」

気負うことなく、衒うこともない塾頭の言葉に、新しい何かを生み出そうとするエネルギーが湧いてくることを感じました。

(報告 加藤)


教科としての道徳!?

6月30日の塾報告をさせていただきます。

今日で6月が終わりと同時に2021年も半分が過ぎようとしていますね。あっという間に感じます。さて、本日の塾のスタートは高田馬場にありますエン(旧カーポラボーロ)のシェフ鳥海さんが投稿しているYoutubeを見るところが始まりました。独特の間のとり方と話し方でついつい聞き入ってしまいます。

よかったらご覧ください。そして、ぜひ、お試しください。

動画を見終わると、いよいよ本題に入っていきました。

今日の塾では、道徳について話がでました。

塾長より、道徳が教科になると言う話があり、教科になるということは、答えに◯×をつけるようになり、教えるということになります。それを踏まえた上で、塾長が小学校6年生の道徳の教科書を持ってき、3つの話(野球の話、剣道の話、サッカーの話)を読んでくださいました。

野球の話(星野くんの二塁打)

星野君は少年野球チームの選手。ある公式戦でのチャンスに星野君に打順が回ってくる。ここで監督が出したのは、バントのサインであった。しかし、この日、星野君は打てそうな予感がして反射的にバットを振り、結果二塁打を放つ。この二塁打でチームは勝利し、チームは選手権大会出場を決めた。

だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしい、という監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。小さくいえば、監督との約束をまもり、大きく言えば、チームの約束を破った

野球は勝てばいいというものではない。

剣道の話(人間を作る道―剣道―)

剣道の試合を見にいったとき、自分のも剣道がしたい、かっこいいと思った。そんな憧れの気持ちをもちつつ、剣道をやり始めた。しかし、初めは色々な決まりを叩き込まれ、さらに早く試合がしたいのに、防具をつけて稽古をするまでに1年もかかった。

特に礼の仕方については厳しく教えられた

早く試合がしたが、なぜ

そう思いながらも迎えた初めての試合。嫌なこともやってきたのだ、きっと勝てる!そう思いつつも、初試合、負けてしまう。

負けた悔しさから不貞腐れた態度で礼をした。

監督は真っ先に礼のことを叱った。

自分はなぜ叱られたのかわからなかった。

その後、大人の試合を見た。大人の試合はすごい試合に負けた方の礼、とても立派な態度で礼をしていた。

剣道は礼を大切にしてきた。「人間性を磨いていくこと」が剣道の目的

いつも重かった防具がここなしか軽く感じた

サッカーの話

今日はサッカーの練習試合。今まさにシュート打たれそうで、得点は2−2。ここでシュートを打たれればピンチになる。

なんとか止めようと思い、スライディングをする。なんとか止めることができたが、イエローカードを出された。

「自分はちゃんとボールにいった!やっていない」と講義した。

チームメイトが「審判の指示に従え」といったが、

「僕はやっていないのになぜ?」と講義を続けた。すると、審判が赤いガードをだした。レッドカードになった。

ペナルティーキックを打たれ、試合は2−3になって負けた。

家に戻り、兄に試合のこと話した。

審判にだって間違えることもあるだろうし、そんなことあるでしょ?

すると、兄はサッカーをやめろと言った。

そんな話をしながら陸上のテレビが流れる。優勝候補の一人の選手がフライングで失格なっていた。会場も泥めいている。

兄が言った「これがルールだ」

という3つの話を読んでくださいました。

塾長曰く、日本のスポーツの特徴ではないですが、海外では年を取ってもスポーツを続けています。なんとなくわかる気がします。子供はスポーツを大人にさせられているんですかね?そうであれば、確かに大人になってもスポーツをするという考えは希薄しますね。

道徳が教科になり、答えを教える、答えが出てくるとしたら、ちょっと怖い気がしますね。星野くんの二塁打の話ではないのですが、監督の意見にただ従うことが必ずしも正解なのでしょうか。考えなしに、はいはいと誰かに従ったりすることは危険な気がします。

そんな話を塾生でやっていると、塾長が1年生の道徳の教科書を持ってき、一つの話を読んでくださいました。

おじさんの手紙

小学校にお手紙が届きました。

「おじさんは皆さんと同じ電車に乗っていました。みんなが乗ってきたときには、ちょっと嫌な気持ちになったのです。どうせうるさいだろうからと思ったからです。しかし、皆さんはとても静かでした。それをみて、おじさんは恥ずかしくなりました。

嫌な気持ちになった自分が恥ずかしい。

電車の中ではみんな、にこにこで降りていく

そんなみんなを見送り、

みんなにお礼を言いたく手紙を書きました」

というような内容でした。

塾長「4つの話を聞いて、若い人はどう思うのか聞いてみたいのだけど」

高橋くん「自分は野球をやっていたので、それについて。うーん、深くそれを知っていれば、そうかもと思うのですが、小学校6年生でってことを考えるなら、この教材はどうなのかなと思います。大人になった今の自分なら、入りたいチームの監督を知っていて、それで選べるので監督の指示にも従いますが」

と話していました。

塾長が小学校の先生をしていた時、道徳の研究授業の講師をしたことがあるそうです。そこでは、勇気についての授業だったそうで、授業をされていた先生が「これは勇気ですか?」と生徒たちに質問しました。すると手を上げる生徒がいて、それに対し、「はい皆さんは違います,×です。次にいきましょう」と話が進んだそうです。塾長はこれに対して、なぜ、子供たちが勇気と思ったのか、その理由を聞かないといけないと話されました。

今回の塾で紹介4つの話はというわけではないですが、「集団の怖さ」が出ているような気がする。子供集団が大切だといっているが、こう言うことではない。集団はみんなの意見に従うからいい集団なのではなく、色々な意見があってそれを認めあうからいい集団だと話されました。本当にその通りですね。

そして、子供は生まれながらにして社会のルールを知っているという話に移りました。

どういうことかというと、塾長が子供社会でルールが出来上がっていく瞬間をみたということでした。

子供たちが体を動かしたくて走り出します。しかし、それぞれが好きな方向で走ってしまうと当然ぶつかってうまく走れません。そこで、子供たちが自分たちで、同じ方向に走ろう!しかし、みんなが同じ方向に走っても、今度は走るスピードが違いうまく走れません。そしてら、同じリズムで走ろう!となったそうです。すると、全員がぶつかることなく走ることができたそうです。

ルールは誰かを縛るものではなく、お互いが心地よく過ごすためにある。そう考えれば、確かに集団生活していく子供達が独自のルールを自分たちで作りそれで仲良く遊んでいるような気がします。子供って本当にすごいですね。

そんなことを思うと、道徳で何かを教えようという教科はどういうことですかね。いろんな考えがあっていい!時にはそれをお互いに折り合いをつけながら、その場にあった考えにまとめていくことが大切な気がしますが。難しいですね。

という話をし、塾は終了しました。今回の塾はとても白熱し、いつも以上に濃い内容の塾だったように感じます。楽しい時間はあっという間でした。まだまだ書き足りていない部分がありますが、今回の報告はこれでおしまいにしたいと思います。

報告者 横田 龍樹