象徴機能 4

『字』についても塾長から話がありました。

(漢字を)書く(ことを教える)ためには字画が少ない字から教えますが、読みを教えるには具体的なものから教えたほうがいいかもしれない。

私が絵画指導をやった時に、前の子の目を見させて、『目』の写生をさせた。最初は点とか(子どもたちは)やるのだけど、よく見ると、まなこがあるじゃない。それ(出来上がった絵)を縦にすると『目』で、漢字を表してるじゃない。
よく見て書く(ことを積み重ねていく)と、物を表す漢字が読めるようになるよ。
そうすると、全然(何の漢字かを)言わないで、『耳』と『鼻』を書くと、殆ど(の子が)読める。
鼻(という字)は下(の部分)が鼻水垂らしたみたいに見えるんだろうね。

更に塾長から、

字画が少なくて、ものの形を言えるものということでは、『曜日』、月、火、水、木、金、土、日、などが入りやすい。

あと顔の部分、ね。

なるほど、わいらんすい(3・4・5歳児クラス)では朝の会で今日の日にちと曜日を確認するのですが、その曜日の部分が漢字である理由は、このような所にあったのですね。

だからこそ、三重苦を背負ったヘレン・ケラーの凄みを感じます。象徴機能の獲得に不可欠ではないかと一般に思われるような視覚のない中で、字を獲得していくということは、並大抵のことではありませんね。

観賞終了

学び深き時間をありがとうございました。

最後に、宮城さんから

世界文化社に所属する宮城さん。これから塾長の教えをより広域へ展開していく為にアイデアを貰えたら、とのことで、塾生一同頭を絞りました。

このような機会が増えることはもちろん塾生の学びにもなりますし、また塾生が届かない視点を、様々な先生方、先輩方から学ぶ機会にもなるように感じられました。

塾後、塾長宅のドアを開けると、外は春の匂いがしました。新しい季節、新しい風が吹いています。

(報告 加藤)

象徴機能 3

ヘレン・ケラー

赤ん坊の頃に熱を伴う病気にかかった後、視力と聴力を失い、話せない状態となる。顔の表情で大雑把な喜怒哀楽は表現できるが、具体的な細かいことまでは表現できない。また、甘やかされて育ったため、要求が通らないと相手を叩いたり周りにある物を壊すなど時折かんしゃくを起こす。人形遊びが大好き。(wikipedia)

塾長は言います。

目も見えず、耳も聞こえず、話すこともできない。そうすると象徴機能が発達しないから、いくら手話で『水』と教えてもそれが何を意味するか、がわからない。思い浮かべようにも見たことがないし、聞いたこともないから、だから最初まるで動物を育てるかのように育てられる。その人が世界的な有名な人になるんだよね。

そして、彼女に象徴機能を身につけさせたのが家庭教師のサリバン先生。

子どもの頃は、これを見ても意味がわからなかったけど、ね

と塾長。そして、

象徴機能が育たないってことは、逆に象徴機能を育てる為には色んなことを見たり聞いたりしないとその機能って発達しないってことだよね

幼少期における象徴機能の発達についての塾長の見解ながら、成人してからの成長にも当てはまるように思えてきます。百聞は一見にしかずのように、想像をしたり、人の気持ちを考えたり、思いやることや、言動に配慮をすることなど、人生の経験値がそれを可能にさせるものなのかもわからないと思えてきます。

また、森口先生は、

ちっち(0歳児クラスの子どもたち)でも(象徴機能を働かせたやりとりを)やってると思う

と言います。互いに、言葉にならない言葉のようなものを交わしながら、落とし所を見つけてやりとりをするような姿は確かに想像することができます。

今年のテーマである、象徴機能。これから日々の学びの中で、より深めていきたいですね。

更に夜は深まります。

(報告 加藤)

象徴機能 2

象徴機能とは、『今そこにないものを呼び起こす働き』のことを指す機能で、そこにないものを呼び起こす働きをする。つまり、意味するものと、意味されるものとを区別して使うことが可能になるということ。

塾長は続けます。

今そこに知覚しているものを手がかりにして、そこにないものを思い浮かべて、それに反応することが可能になる、ということ。

話は、具体的になっていきます。

1歳半から2歳にかけて象徴機能が現れ始める。今、目の前にない物事についても頭で思い浮かべて、実際に行動してみなくてもその様子を頭で思い描くようになる。つまり、具体的な知覚体験を基に、自分なりのイメージを構成し、それを利用して、時、場所をかえて自分なりのやり方で活動するようになる。

初期の活動として、遅延模倣。

例えばある子どもが「ガーン」「ゴーン」と言いながら、長方形の箱を動かして、時々箱を止めて、自分の体の動きも止めて「プシュー」と言った。というのは、電車に乗った時のイメージを基に後日、『模倣を後になって(家の中で)その特徴を再現している』、電車ごっこというかね。この模倣行為には『箱を電車に見立てる活動』『箱や体を動かしたり止めたりして電車に乗っているフリをする活動』が含まれている。ここでの箱や子どもdの音声、仕草は、電車という指示対象を意味するもので、すなわち象徴、音声言語に限らず、言葉の発達そのものには象徴機能の発達が前提である。ということは、象徴機能の最初は音声言語。今ないものを言葉で言うことでそのものを指すことをする。例えば、うさぎと言うとうさぎをイメージするような。

3歳くらいになると、今度子どもはフリや見立てを複雑に組み合わせて、虚構の世界を作り上げるようになる。絵本を何冊も抱えて持ってきて、大勢を集めながら一冊ずつ開いては、「うんうんうん」「〜でした。おーしまい。」などの様子を観察することができる。この場合子どもはまだ字が読めていないのに、いかにも読んでいるかのように見せている。それは単なるモデルの模写ではなく、自分のイメージや知識に基づいてして演技をしているのだ。

やがて子どもは遊びの中で役割を意識し、それにふさわしい動作を思い描き、状況を設定することによってごっこ遊びが展開されるようになる。

以上のようにして象徴機能が発生する。

それではこの機能が十分に形成されていない子どもにはどのような問題点が発生するだろうか。

塾長は続けます。

象徴機能とは、今そこに知覚しているものを手がかりにして、そこにないものを思い浮かべてそれに反応するということが可能になるということだから、象徴機能の獲得が困難な子どもは、やっていることの意味がわからない、意味が見えにくいのである。本来ならば多機能、いろいろなところの発達と共に人とのコミニュケーションが意味をもって受け止められていくのだが、それができていないと、大人のやっていることの意味が見えにくい。また、自分のもっている力が意味をもって中々使えないのである。家の遊びでも生活でも中々広がっていかない。象徴機能に弱さがあると中々言葉が出てこない、或いは言葉があってもそれが意味あるものとして使えず、ただやっているだけになってしまう。

言葉が中々出てこないということは、自我の育ちとも大きく関連していて、行動面では大人の意図を受け止めての行動とはなりにくい為、どうしても欲求に支配された行動となりやすく、また、自分のやりたいことを相手に上手く説明できないために、パニックに陥りやすくなる。

そこで塾長から映画『ヘレンケラー』の提案が

60年近く前の映画から、最新の知見を得る夜となります。

(報告 加藤)

象徴機能 1

春も近付く臥竜塾。今夜のメニューは、

みんな大好きチャンピオンカレー
みんな大好き柿崎先生がコトコト温めて下さって
みんな大好き川邊先生はアスパラの下ごしらえを
今日の特別なトッピング
持ってきて下さったのは宮城さん

ウィットに富んでいますね。

塾長は龍のお皿で
ほうれん草も添えられて

高橋先生の手によってよそられていきます。

更に鳥の唐揚げ、その上からルーをかければ完成

今日は塾頭山下先生からのホタルイカも

豪勢な夕ご飯となりました。とても美味しかったです。

ご馳走様でした。

この日は、それぞれの好きな食べ物の話から。

それぞれに大臣という役割を持つ塾生ですが、改めて大臣の定義を確認。

三食食べたい程に大好きな食べ物

宮城さんは、お刺身、とのことで、今度はそれに因んだ夕ご飯になりそうですね。

因みに高橋先生はキムチ、納豆。確かによく食べています。体にいいものを選ばれるところはやはり高橋先生ですね。

会話は弾み、いよいよ本題へ。次年度のテーマでもある『象徴機能』について、学び深い夜となりました。

(報告 加藤)

コロナ

新型コロナウィルスに関する動向が気になる今日この頃ですが皆様手洗いうがいは忘れずに行っているでしょうか。外から帰ったときや子供の排泄を手伝った後などはいつも以上に念入りに手を洗ってしまいますね。

正直騒ぎすぎではないかと思うこともありますが、ならずにすむなら病気にはなりたくないものです。

未知というのはなんであっても怖いもので我々がコロナを怖がる思考と子供達がお化けや鬼を怖がる思考というのは同じなんでしょうね。

ちなみにコロナウィルスは拡大すると冠状の突起がいくつも表面についていることからこう呼ばれているそうで学術的な名称は未だに正式にはついていないそうです。

それでは3/4の塾報告です。

今日はなんと様々な事情が重なり塾生5人+塾長というなんとも珍しい塾になりました。この臥龍塾がはじまった当初の人数がこの人数だそうで開塾からずっとこの臥龍塾を支えてきてくださった諸先輩方は昔を思い出して盛り上がっていました。

メニューは加藤先生考案のカップ麺です。(加藤先生は事情により不参加です)

スーパーで塾生がカップ麺をあーでもないこーでもないと選んでいる姿は面白くまた珍しく、なんだか笑ってしまいます。

6人しかいないのにカップ麺は8個ありますね。

誰が何を選んだか是非予想みてください。

食事を終え一段落ついたら食の起源の最終話を見ようということになりました。

私は前回の報告でも食の起源についての報告をしたのを思い出し、そういった縁なのかと思った次第です。

最終話はズバリ「美食」についてです。

自然界に生きる動物達は生命活動を維持するために食事を行いますが、人間だけは味を楽しむ、という生きることとは別の意味を食事に持たせます。

果たしてそれはなぜなのか、どういった進化を遂げたからなのかこの最終話で明らかになりました。

まず1つ目のキーワードは苦味です。そもそも苦いものには毒があることが多く、生き物は苦味を感じると吐き出すように本能に刷り込まれていたそうです。しかし氷河期の訪れで苦いものしか食べるものがなくなった時、苦味のある食材に栄養のあるものを見つけ、それをより多くとるために苦いものを美味と感じるように進化していったそうです。

次に2つ目のキーワードはにおいです。人のにおいを感じるセンサーは味を感じるセンサーの10倍あるそうで鼻から感じるにおい以上に口の中にたまった風味をより強く感じることで美味と感じるそうです。幼いときはよく苦手なものがあるなら鼻をつまんで食べろ!といわれましたが、つまんで食べても飲み込んだ後の後味のような風味からどうやっても逃げられなかったのはにおいを感じるセンサーのせいだったんですね。

そして最も大切な3つ目のキーワードが共感力です。人は誰かが美味しそうに食べていると自分も食べたくなるそうで、チンパンジーを使った実験では一匹ではほとんど食べなかった苦い薬を塗ったリンゴを仲間が食べているのを見続けたところ食べ始めた、という驚きの結果が出たのです。これは園でもよく見る光景で、これみよがしに給食を美味しい美味しい、といいながら食べると子供たちの箸の進みもよくなるのをいつも感じていました。みんなで食べると美味しいね!という言葉は科学的に根拠のある台詞なんですね。

食というのは人にとってなくてはならないもので人が何よりも拘りをもって進化させてきたものの1つです。そしてそんな食の進化の中にあったのが人と人との関わりでした。大学時代に受講した余暇に関する授業でも、初対面の人と仲良くなるための最も効率のいい方法は共に食事をすることだと教わりました。近年個食や孤食が問題になっているからこそ、食やそれ以外の進化の中に、確かに、そして根強く存在する人との関わりということを今一度よく考え、実践していかなければならないのでしょう。

次回は塾生みんなで集まれることを祈り締めとしていただきます。

(報告者 髙橋)