単位展 4km

他にも、このような展示がありました。

紙の単位

A版

A版

B版

B版

【紙の規格サイズであるA判、B判は半分の半分の半分…と切っていっても長方形の比率がずっとかわりません。「A」「B」に付く数値は、サイズを切っていくほどに大きくなります。A判はもともとドイツの規格で、現在は国際規格。B判は日本の美濃紙をもとにつくられた規格です。】

ただ異なる紙を平行に並べるのではなく、立体的に積み上げてことで視覚的にも分かりやすく、また、インパクトのある展示になるのですね。非常に参考になります。

 

無印良品の単位

尺貫法を元に構成されたスケール

尺貫法を元に構成されたスケール

商品や並べ方を工夫するのみならず、その見せ方を工夫することで購買意欲を高め、商品そのものに付加価値を付け、癒し効果や安心感を生み出す展示へと変化させることが可能なのですね。

 

黄金比(1:1.618…)の単位

黄金比

黄金比

【古来より数学のみならず建築や美術に用いられてきた黄金比という美しい比率の中から偶然発見されたクマ。】

ぬいぐるみの中でも、よく「クマのぬいぐるみ」が子どもたちに人気なのには理由があったのですね。また、美しい比率ということもあって、子どもは生まれながらに美しい物とかを求め、美的感覚に優れているということが理解できます。逆に、子どもが持っているもの、求める物の中に、大人が未だ把握していない『美しいもの』があるのかもしれません。

 

命の単位

命の単位

命の単位

【いずれのほ乳類も、一生の間に打つ鼓動の回数は約20億回と言われています。身体が小さければ速く、大きければゆっくりと鼓動を打ちます。鼓動の速さはほ乳類の、物理的な時間とは違う命の単位とも言えます。聴診器を胸に当ててゾウ、ヒト、ネズミの鼓動を体験してみてください。】

左からゾウ、ヒト、ネズミの時間の進み具合を展示

左からゾウ、ヒト、ネズミの時間の進み具合を展示

ゾウが2km歩く時間感覚は、ヒトが4km歩く時間感覚に、ネズミに換算すれば40kmとなるということかもしれません。ゾウにはゾウの、ネズミにはネズミの時間が存在しています。このような違いは、ヒトの中でも見られるのではとも感じました。よく、多動な子を落ち着かせようと、あらゆる手を使いますが、多動な子どもは多動な時間で生きているわけで、そういった時間の中で気持ちよく過ごせるような環境を用意しなくてはいけないということであるようです。みんなよりも、行動も思考も遅い子どもは、そういった時間の中で生活をしているわけで、その時間を無理矢理速めようとする行為は、命を削る行為なのかもしれません。少々極端な考えですが、個々の発達を保障するとか、個人差に応じるというのは、“その子の時間を理解する”ということなのでしょう。

 

体の単位〈コップの中の空間〉

コップの中の空間

コップの中の空間

【人間にとっては水を飲むための小さなコップでも、蟻にとっては大きな家かもしれません。体の単位を変えて想像してみることで、身の回りの物の中に、たくさんの空間を発見する事ができます。】

去年度の成長展では、テーマが「共感」でした。そこで、子どもの世界に共感してみようということで、大人の湯のみ茶碗は、子どもにとってはどれくらいの大きさなのか、一般の雑巾のサイズは、子どもにとってはどのくらいに感じているのか、子どもの視野はどれくらいの範囲が見えているのか、子どもの目線カメラ映像から、子どもの目線にはどんなものが見えているのかなどの展示を行いました。それも、「体の単位を変える」という考え方であったのだと思います。そして、まさに『新たな気づきと創造性』をもたらす見方であったのだと感じました。

(報告者 小松崎高司)

2045年問題はすぐそこに・・・

最近の塾長の講演でよく耳にするのが、「2045年問題」です。

2045年問題とは、人工知能が人間の知能を上回る年だと言われています。どういうことかと言うと、最近よく使われているLINEというアプリですが、リクルートのアカウントは、自動会話ができるようになっています。今までも公式アカウントでは、こちら側からメッセージを送ると返事が返ってきていたのですが、会話にはならないことが多かったです。それが、ちゃんと会話になっているのです。また、ソフトバンクが出したロボット、pepperは、感情を持っており、表情や声からその人の感情を察する「感情認識機能」というものが備わっています。このように、意外と人口知能は身近なものになっています。そして、この人口知能やロボットが、少しずつ人間の仕事を奪っているのです。

そもそも、この2045年問題とは、アメリカの発明家である、レイ・カーツワイル氏が提唱したもので、コンピュータの処理能力が18か月で2倍になるという法則が今後も維持された場合、2045年には、全人類の能力を1台のコンピュータが上回ると言われています。

それが進んだ場合、コンピュータの人工知能化が急激に進み、いずれコンピュータがコンピュータを発明する時代となります。そうなれば、人工知能が新たな発明を生むため、人工知能は、人類最後の発明となるわけです。

そして、外に出てみると、コンピュータなど機械が人間に代わって仕事をしている光景をよく目にします。駅に行くと、自動券売機で切符が買えて、改札で切符を切るのも機械がやっています。今回私が、この2045年問題について書こうと思ったのが、近所のTSUTAYAに行って見たものに、ショックを受けたからです。それがこのセルフレジです。

 

image

image (1)

 

最近スーパーなんかにもありますが、これを見たときは、とてもショックでした。ほんのつい最近までは、人が操作していたレジが、セルフレジになっていたのです。つまり、従業員が前ほど必要じゃなくなったということで、人が機械に仕事を奪われたところを目の当たりにしたのです。

これを見たときに、2045年問題といいますが、もう遠い未来の話ではないということを感じました。これからは、仕事に限らず、コンピュータに代わることのできないものが何かということを考え、それを大切にしていかなければならないと思います。

 

西村 宗玲

父親体験保育@調理室

今、臥竜塾生ブログで加藤君が「父親体験報告1」という事で報告をしています。番外編というわけではありませんが、今回調理からの父親保育も報告させてもらおうと思います。

 

今回初めての試みをしました。父親保育を始めて8年目になりますが、お父さんの希望により父親保育に限らず、初めて保護者の方が厨房に入って調理をしました。

そのお父さんは、何回も父親体験保育に参加されていて、保育士は各年齢、そして園長代理まで体験された方だったので、「次は調理がしたい」という希望を園長と相談しOKが出たので今回初めての試みとなりました。

もちろん調理室に入るという事で検便はしてもらいました。検便の結果「陰性」という事でお知らせをし、そのお父さんから園長代理に「陰性」だったと報告のメールを出したつもりが、嬉しさからだったのか、保育園の保護者全員が見ることができるアドレスに送ってしまっていました(笑)

 

そんなこんなで、お父さんと当日どういったものが作りたいか相談をしたところ「ダシ」をテーマにメニューを考えたいという事でした。そして、考えたその日のメニューは、

ご飯、里芋の味噌汁、鮭の塩焼き、鶏肉と高野豆腐の煮物を作りました。至ってシンプルな和食ですが、味噌汁は子どももわかりやすいように、ダシの入っているものと、いないもので飲み比べをしてもらい出しの旨味を感じました。そして、鶏肉と高野豆腐の煮物は炒めるところから味付けまで全てお父さんに作ってもらいました。

鶏肉を炒めているお父さん

鶏肉を炒めているお父さん

また、食事の前にお父さんが3~5歳クラスで手作りの紙芝居を披露してくれました。内容はダシ(だし汁)の紹介と共に、人をダシに使うという意味の「ダシ」を意味違いで子どもたちに話し、理解できたのかはわかりませんが、子ども達以上に周りの大人が笑う事で楽しい雰囲気の中で食事をしました。

食事前に手作り紙芝居を読んでくれています

食事前に手作り紙芝居を読んでくれています

味噌汁はもちろん、お父さんの作ってくれた鶏肉と高野豆腐の煮物もたくさん食べていました。お父さんたちがいる事は日常とは違いますが、「楽しい」という環境は食事をする上でも子どもたちにとって、そして大人も働くうえでとても大切なことというのを実感しました。

来年度も調理を希望するお父さんがいたので、今回はとても良いきっかけ作りになり次は何ができるか、今から楽しみです! (報告者 柿崎敬史)

朝の保育園

子どもが産まれたことでしばらくブログへの投稿を休んでいたので、久しぶりのブログの投稿となります。

 

先日、これもまたひさしぶりに保育園の早番をやる機会がありました。

早番というと保育園で朝から子どもたちを受け入れるために、換気や掃除、おむつやタオルの準備など様々な準備をしなければいけません。そうした準備は、久しぶりでもなんとなく覚えていました。

 

ですが、ひさしぶりに見た朝の子どもたちの様子は、日中に見るとまったく違ったものでした。

 

その日、一番初めに保育園に来る子。もちろん日によって違うのですが、大好きな先生にあえて喜んで飛びついてくる子、他の子がいない様子に少し緊張気味の子、なかなか保護者と離れることができない子と様々です。

そこから少しずつ子どもが増えていきます。だいたい保育園の朝早い時間は、0歳から5歳まで一緒に過ごすことが多いのですが、その関わりもとても面白いです。

ある程度人数が揃ってくると、保護者と別れられずに泣いている子を助けてあげるような子が出てきたり、部屋の中で何して遊ぼうか迷っている子と遊んであげる子が出てきたり、驚くのはその関わりが全くかかわったことがない子でも起こることです。

 

そんな時に、ついつい思ってしまうのが、自分が子どもの立場だったらどう感じているのだろうなということです。

もし4歳ぐらいなら、、、泣いている子や、遊んでほしそうにしている子がたくさんいる環境に、色んな意味でやる気を持っていたでしょう。

もし1歳くらいなら、、、迷っていると助けてくれる人がいる、知らない子でも声をかけてくれてそこから仲良くなれる。

大人の世界でも、そうしたことはあるでしょうが、こうした環境が毎日、そして何度もあるということはそうそうないでしょう。

そう考えると、この瞬間の子どもたちの環境は本当にすごいものだなと感じてしまいます。

(報告者  西田)

単位展 3m

面白い展示を見つけました。

???

???

これは、時計でしょうか…。時計が見えそうなところを見てみても、長針も短針も見当たりません。しばらく見ていると、なんと時計の中に“おじいさん”が現れてきました。すると、そのおじいさんは、黒のペンで、今の時間を示す長針と秒針を手書きで書き始めたのです。

時計の中におじいさん

時計の中におじいさん

時間が進むにつれて、消しては書いてを繰り返していました。まさに、手書きというアナログさとデジタル映像との融合であり、時間という単位を面白く表現した展示だなぁと感じました。

また、私が思っていた“時間”に対する考えも、ここで大きく変わることが出来ました。よく、「命と時間」は、誰もが平等に与えられたものであるとされています。つまり、時間は誰もが一緒で、変わることがないもので、決められているものであるということです。しかし、その「時間」を人間が書こうとする映像から、時間は決められているもの・やってくるもの・受け入れていくものとかではなく、『書き加えていくもの』であるのかなとも感じました。平等でありながらも、そこに向き合う時間は各々の自由であるということです。単位を通して、世界を平等にし、ただそれを受け入れるためのものではなく、その手段を通して、自分の生活に潤いと好奇心を書き加えていく、そんな「単位」という存在でもあるのでしょうか。

そして、どうして時計の中にいるのは「おじいさん」なんだ?…と考えていると、…そうか!「大きなのっぽの古時計」に出てくるのが“おじいさん”だからだ!!と…、一人で感動していました。(笑)こういったように、作者や企画者、また、目の前にいる相手が、どんな思いでそれらを構成し、作り上げていったのかをあれやこれやと考えること・知ろうとすることはとても楽しいです。それが、私の趣味なのかもしれません。

 

こんな展示もありました。

数字の階段

数字の階段

これらは、「1—100のものさがし」というもので、日常何気なく目にしている物や使用しているものなどの中から、1㎝の物から100㎝の物を1㎝刻みで探していった結果の展示でした。非常に面白いですね。単三電池が5㎝であることや、中濃ソース容器が10㎝であることを始めて知ったなんて方もいるのではと思います。そして、今「それを知ったところでどうなるの?」という疑問を抱いた方…。私も、そう思いました。しかし、3mくらい先を見て考えていると、きっと自分が話したいなぁ、知りたいなぁと思っていた人と自分との前に、ちょうど、単三電池や中濃ソースがあれば、その話題をきっかけにコミュニケーションがとれるかもしれないとも思ったのです。これも立派な、生活の潤いですね。

67㎝は募集中

67㎝と72㎝は募集中

そんな時、同時に、子どもたちがブロックゾーンで遊んでいる姿を思い出しました。あるブロックとあるブロックつなげたいのにうまく噛み合わず、どうしても崩れてしまう状況に陥った5歳児が、別の場所からそこに必要な幅であろう物を探し、そこに加え、挟み込むような形で作品を完成させていたのです。きっと、子どもたちは、単位というものを体で理解していっているのであろうなと感じたと同時に、これは園でもできるのではと思いました。

その名も、「保育園の1—100のものさがし」です。子どもの「これくらい・あれくらい」を実際に数字で知り、数という単位を、遊びを通して学ぶための環境です。具体的には、数個のメジャーと1—100の数字が書かれた大きな表があればすぐに行えます。子どもたちは、メジャーを持ちながら、様々な物の長さを測っていくでしょう。そして「5㎝あった!」などと見つけます。大きさ審査員である職員が特別なかっこいいメジャーで測り、厳正な審査を行います。「確かに、これは5㎝ですね。おめでとう!」と言って握手なんかして、デジカメでその物の写真を撮り、現像して表の「5㎝」の部分にそれを貼るのです。

1ー100のものさがし

1ー100のものさがし

慣れてきたら、審査員を子どもがしたり、単位を「色」や「形」、「重さ」などと派生していっても面白いですね。今年のテーマが「伝統」ということもあり、貫という重さや尺という長さの『尺貫法』についての体験ができる環境にしてもいいですね。また、これは、興味がある3・4・5歳児全員が対象であり、「表をみんなで完成させよう!」という共通のゴールを目指した、一種の協力ゲームでもあると思います。

単位展から、このような保育の形も想像できました。

(報告者 小松崎高司)

試行錯誤

最近はよく職員でゾーンの環境について話し合う機会が多くあります。

新しい環境を作るにあたり、難しく感じることも多くありますが、ワクワクする気持ちも多くあります。
ただ、アイディアがまだ乏しい私は様々な先生からアイディアを盗んでいこうと日々他の先生をたくさん見ています。笑
その中で気になる環境の作り方をしている先生を見かけました。
今年度から製作ゾーンが新しくなり、色鉛筆を置く場所であったり、ハサミを置く場所、素材を置く場所など、どこになにがあったら子どもたちにとって良いのかなど、基本的な部分から設定していくことをやっています。
もうだいぶ定着はしてきましたが、まだまだといったところです。
この基本的な部分を設定するのは実にワクワクします。初めから作れるということに私は楽しさを覚えています。
以前、細かいですが色鉛筆はどう置こうかとなど悩んでいました。あまりにも上手に色鉛筆が片付けられないことから子どもたちが「わかりにく環境にしてしまっているね」という考察にいたり、環境の見直しにかかります。
するとある日こんな光景が目に入ってきました。
IMG_5210
この写真はある先生がこれは「見やすい?」「これはどう?」と聞きながら環境を設定していました。
子どもも「これの方がいいんじゃない?」と素直にやりやすい方法を提案していました。
私たちが頭の中でこうしたらわかりやすいと考えたとしても実際に環境に働きかけるのは子どもたち自身であることは言うまでもありません。
その子どもたちにどんなことが良いか素直に聞いてみてから環境を設定することも大事なことなのかもしれないと思えました。
子どもの姿からどんな環境を設定していくかというのは基本的な部分で忘れてはいけないところです。最近その考えが薄れてきてしまっていたのは反省すべきところですが、改めて環境を設定することの大切さを身を持って体験しています。
子どもの姿から環境を計画していく、
Do See Planから子どもたちの環境を設定していく上で当たり前のことなのかもしれませんが、直接細かい部分まで一緒に考えてやる姿勢というのは私にとってはとても新しいものでした。
より細かい部分を一緒に考えることの方が合理的なのかもしれませんね。
その一緒に考えた環境はこれからの子どもの姿をまた考察し、どうしていくを考えることも楽しみの一つでもあります。
子どもたちの意見を上手く取り入れ、大人の良いと思うところを上手くすり合わせながら現在は試行錯誤を重ねながら環境を設定しています。
その試行錯誤からの発見というのはより良い環境を作るための階段であるように思いますのでどんどんそういった取り組みを重ねていき、行動に移していきたいと思える出来事でした。
(報告者 本多悠里)

行事ってこんなに楽しい!父親体験保育報告 1

先日、父親体験保育が開催されました。参加されたお父さんはOBの方も含めると約40名、子ども達も土曜日に関わらず80名以上の参加があり、大盛況で幕を閉じました。

父親体験保育については、藤森先生が10年間毎日更新されている『臥竜塾ブログ』の中で、詳しく解説されていますので、臥竜塾ブログの検索スペースに『父親保育』と入れて検索してみてください。

さて、今年もまた数々のドラマがありました。

写真と共に紹介していこうと思います。

「おはようございまーす」「よろしくお願いしまーす」

「おはようございまーす」「よろしくお願いしまーす」

まずはガムテープを見えやすいところに貼っていただき、名前を書いていただきます。

こちらから何も言わなくても、「名前をお願いしまーす」と、お父さん方から発信して下さり、とても段取りよく進んでいきます。

何度も参加されているお父さんの経験値に脱帽してしまいます。

「今日はよろしくお願いしますね」

「今日はよろしくお願いしますね」

「何か仕事はありますか?」とお父さん方からお声掛けをいただきました。布おむつを畳んでいただいています。

挨拶や日常の話などをしながら、良い雰囲気です。

そして、朝の大きな仕事の一つと言えば、〝受け入れ〟ですね。

来てみたらお父さんだらけ(笑)の空間に、びっくりする子ももちろんいます。

そこでまた、ドラマが生まれるのです。

「そうだよね、お母さんがいいよね」

「そうだよね、お母さんがいいよね」

そして、数分後。

受け入れ後、お父さん先生が選んだ絵本を読んでいます。

受け入れ後、お父さん先生が選んだ絵本を読んでいます。

「よし、もう大丈夫だね」「今日一日よろしくね」

「よし、もう大丈夫だね」「今日一日よろしくね」

このお父さん先生は、父親保育には欠かせない常連の方でもあり、今回はにこにこ組のリーダーのお役目を務めて下さいました。

抱きかかえられている子も2歳児クラスの子です。こんなやりとりからも、瞬く間に、子ども達との信頼関係を築いていくのですから、驚いてしまいます。本当に勉強になります。

一方職員室では、藤森先生を迎えて朝会が行われました。

〝園長代理〟のお父さん先生が、いつもは藤森先生が座られている椅子に座って朝会が始まります

〝園長代理〟のお父さん先生が、いつもは藤森先生が座られている椅子に座って朝会が始まります

司会の方は、今回初の試みの一つ〝OBのお父さん先生の参加〟による、お父さんです。

お子さんが新宿せいが保育園を卒園して尚、保育園に、また、父親保育に思い入れがあり、

今回初めてOB枠を設けさせていただき、肩書きとしては、『名誉顧問』『オブザーバー』という形で、参加をしていただきました。

藤森先生は、この朝会で最初にお話をいただいた後すぐに島根へご出張に行かれています。

滞在時間はなんと約10分!

ご多忙にも関わらずこうして、藤森先生にご出席いただくことで、指揮が高まるということを本当に感じました。

園長代理からもご挨拶をいただき、いよいよ父親保育開催です!!!

 

(報告者 加藤 恭平)

 

ちょっと変わった職員が考えるリーダー論 4  〝人の器量〟

 その優しさが教えてくれる。〝子どもを育てることは信じることと、許すこと〟

 母なる優しさに包まれて、見守る保育は育くまれていく

 

 藤森先生が10年間毎日欠かさず更新されている『臥竜塾ブログ』の2010年5月25日『器』の中で、

大きな器量をもった人を、大きな器をもった人と言います。そのような人は人の話をよく聞き、人を受容し、共感する力をもっています。〟と書かれています。

 このブログを読んで、すぐに頭に浮かぶ、新宿せいが保育園が誇る我らがベテランの先生がいます。
 僕が新宿せいが保育園で勤めることができるようになったのも、この先生のお陰です。
 当時その先生は縁があって僕の妻と知り合いでありました。半ば強引にその先生のお力を(正確にはお名前を)お借りして、
新宿せいが保育園とコンタクトを取られていただきました。
 藤森先生は、てっきりその先生と僕が直接の知り合いと思って下さっていたようで、
藤森先生の前で、その先生と「初めまして」と挨拶をした時にすごく驚かれたことを思い出します(笑)
 今となってはいい笑い話だと思っています。
 
 住んでいた場所がとても近かったこともあり、勤めてすぐの頃から、帰り道、電車の中でもたくさん話をさせていただきました。
 仕事のこと、プライベートのこと、なんでも話したくなってしまうのは、
3人の立派な男の子を育てられたお母さんの織り成せる懐の大きさによるものなのでしょうか。
 同じような気持ちを、僕だけでなく多くの職員も感じられていることを感じます。
その先生が、話す僕に対して、〝うんうん〟〝そうだよね〟〝わかるよ〟と、
言葉少なに、最高のタイミングで入れて下さる合いの手が、話し手に、最高の信頼感を与えるのですね。
 〝大きな器量をもった人を、大きな器をもった人と言います。そのような人は人の話をよく聞き、人を受容し、共感する力をもっています。〟
 その先生が、本当に親身になって話を聞いて下さることが、目でも耳でもわかることが、その先生の共感する力をすごいと話し手に感じさせ、
また、その人の器の大きさを感じさせるのだと思います。
 その先生が差し伸べてくれる、合いの手とは、まさに〝愛の手〟とも言えるかもしれません。
 先日から、その先生は声が本調子でなくなっています。
 マスクをして、それでも子ども達の前に出る姿に、胸が熱くなります。
 その姿を見て、思い出すことがあります。少し長くなってしまうのですが、そのまま抜粋させていただきます。
 『臥竜塾ブログ』2006年1月14日『無記』より
〝私の園に、実習生が来たときです。彼女は、実習の途中で、風邪をひいてしまいました。そこで、しばらく休んでいたのですが、ほぼ治ったので出てきました。しかし、声が出ません。出そうと思っても、息が出るだけです。しかし、実習期間が終わってしまうので、まあ、2歳児の担当でしたので、声が出なくても大丈夫だろうとそのまま保育をしてもらいました。ところがとても面白い経験をしました。まず、朝、登園してくる子に声がかけられません。「おはよう」と、部屋に入ってくる子に「おはよう」と声がかけられないので、そばに行って、にっこりうなずくしかないのです。そのあと、子どもを呼ぶときも、子どもに何かを指示するときでも、何かを表現しようとすると、声が出ないので困ってしまいました。本当は、言葉とは、声だけではないはずです。ボディーラングェッジという、体での表現もあります。アイコンタクトという、目での表現もあります。絵で表したり、文字で表すこともできます。人の体は、いろいろな機能を持っています。しかし、その中で、多くの人は、声に頼っていないでしょうか。特に、言葉を使って保育をしていることが多いのではないでしょうか。声で、子どもを動かそうとしていることが多いのではないでしょうか。昔、電車の車内販売の売り上げのトップの人は、声で売り歩くのでなく、乗客の目を見ているのだということを聞いたことがあります。声での掛け声で止まる売り子に、私も思わず言いそびれてしまうことがあります。しかも、どうしようかと迷っているときに素通ってしまうと、「まあ、いいか。」と思ってしまいます。それを、乗客の目を見て歩くと、買いたそうな人がわかります。声をかけようとした人がわかります。子どもにも、「だめ!」と叱るよりも、とても悲しい顔をすることで、大切な人を悲しませたくないという思いからやめることがあります。登園をしてきた子どもに、よく来たねという気持ちは、声をかけても、他を向いていたり、いやそうな顔をしていたら、子どもには伝わりません。〟
(この日のブログは、「瀬戸内寂聴」著の「釈迦」の中の一節を紹介されて締めくくられています。興味のある方は、『臥竜塾ブログ』の検索スペースに『無記』と
入れて、検索をしてみてください。)
 その先生がとった方法は、〝筆記〟でした。
子ども達の話し声は自然と静かになっていきました

子ども達の話し声は自然と静かになっていきました

 自然と静かになっていく子ども達。ゆっくりと字が書かれていきます。
一文字ずつ子ども達が読んでいくのです。「し」「ず」「か」「に」…

一文字ずつ子ども達が読んでいくのです。「し」「ず」「か」「に」…

 「し」「ず」「か」「に」…書かれている間にも、「しーだよ!」「しーして!」と、子ども達から声が挙がっていました。
「しずかにしてくれてありがとう。ゆうがたのゾーンをきめよう。てをあげてね」

「しずかにしてくれてありがとう。ゆうがたのゾーンをきめよう。てをあげてね」

 

思わず、目頭が熱くなります。

幼稚園の先生を経験され、新宿せいが保育園の前身である『せいがの森保育園』での勤務を経験され、新宿せいが保育園の立ち上げ、3人の息子さんを育て上げられたその功績は計り知れないものがあります。

その先生が、僕の話を聞いてくれ、「いい話ができてよかった。ありがとう。」と恐縮にも感謝をしてくれることさえあるのです。

臥竜塾ブログにて、『器量』と検索していただけると、2010年5月12日『教思』というブログに出会います。

そこにはこう書かれています。

〝組織を保つために、リーダーは技や力を他と競う必要はない。力のないリーダーであるからこそ、多くの人の能力を発揮させることができる。それが「大中」。これは大いに中庸を心得る者をいう。「大中にして上下これに応ずる」とは、ろうそくの芯に火が灯るような様をいう。ろうそくの火を思い描いてほしい。芯の部分は暗く、芯自体は光を発しないが、ひとたび火がつけば、芯を中心にまわりが明るく燃え上がる。」

そして、この素晴らしい時期を保つためには、「本来、能力があってもそれを覆い隠し、立場をわきまえ、自らの中に陰を生み出して、後継を育てるからである」というように、自分が光り輝くよりも、周りの能力を引き出してこそリーダーなのです。〟

この先生をリーダーと呼ばずして、なんと呼ぶのでしょうか。子ども達へ向ける眼差しの優しさ、職員へ向ける眼差しのその優しさに僕らは魅了されてしまうのです。

(報告者 加藤 恭平)

 

個性心理学③

またまた個性心理学の話しになりますが、他にもいくつか面白い内容を紹介させてください。

とは言っても私自身、心理学を勉強をしたことがないので、そこまで書くこともできませんが、

心理学有名な「ジョハリの4つの窓」があります。

人間の心を4つの窓にたとえて定義しているそうですが、

 

開放の窓「自分も他人も知っている自分」

盲点の窓「自分は知らないが、他人が知っている自分」

秘密の窓「自分は知っているが、他人が知らない自分」

未知の窓「自分も他人も知らない自分」

 

こうして見ると、実は自分が知っている窓はたった2つしかないのです。

開放の窓「自分も他人も知っている自分」の窓を大きく広げる事で人間関係が大きく改善していきます。そのツールのために個性心理学を利用して欲しいとのことです。

WS000000

 

もう少し項目ごとに詳しく書いてみます。

まず「開放の窓」については既に書いていますが、自分が知っている姿と他人に見えている姿が一致すれば、円滑なコミュニケーションができるようになります。

そのために窓を広げると言うのは、自分の姿を他人に知らせるということです。ただ全てを他人にさらけ出すという意味ではなく、

例えば自分の性格が怒りっぽいのであれば、それを他人が知っているのと、知らないとではお互いにストレスはかなり少ないはずです。

その一つ一つの自分の性格や考え方を相手に伝える事で、余計な事を考えなくて済みます。

では簡単に広げると言いますが、ここで「盲点の窓」との関係でより「解放の窓」が大きく広がるというのは・・・何となく理解できますよね。

例えば「あの人、自分では気づいていないけど短気だよね」と言われた時に、自分では知らなった部分を、どう受け取るかです。

頑なに拒んで、自分は短気でない!と思うと「盲点の窓」は一向に縮小することがありません。

それを真摯に受け止め、知らなかった自分を受け止め、自分が短気という事を理解することで「盲点の窓」から「解放の窓」へと変化し、大きく広がります。

では「秘密の窓」というのは、言葉通りです。他人に隠している自分の姿です。

もちろん人は誰でも隠し事というのはあると思います。しかしその隠し事が多すぎる「秘密の窓」の領域が大きすぎると、

かえってコミュニケーションが不自然になってしまい、結果的に「開放の窓」は大きくなりません。

そして「未知の窓」自分も他人も知らない自分。それこそ人が生まれ持って秘めている可能性、潜在能力かもしれません。

だからこそ色々な事にチャレンジをし、新しい自分を見つけることで、「解放の窓」を広げていけると思います。

その時に失敗が出来る環境、人間関係が必要になってきます。他人の目を気にしていては何も行動に移すこともできませんし、チャレンジする心も失せてしまいます。

 

私自身そうでしたが、自分が失敗する姿を想像、見たくないのかもしれません。

実際に仕事でも勝負事でも自分に自信がある時、自身がある箇所しか行動に移しませんでしたが、それらがない時は、行動しませんでした。

よく言えば自分の事を知っているかもしれませんが、悪く言えばチャレンジ精神がないですね。

 

人生一度きり、守りの人生に徹するより、新しい事にどんどんチャレンジする攻めの人生に徹したいです。しかしここで大切なのは行動する時期です。

長い人生において必ず波があります。波に乗っている時期、乗っていない時期、それをしっかり見極め、波に乗っている時こそどんどん動き、

波に乗っていない時の為のパワーを蓄えておく必要があると思います。(報告者 山下祐)

単位展 2cm

単位には、6つの働きがあります。

■はかる

長さや時間など、自分の身体や、ものさし・時計などの目盛りと比べて、数値で表すことができる。

■共有する

「この量が必要だ」と離れた場所にいる人に伝えたり、数値を記録して別の人に伝えたりして、様々なものの量を共有できる。

■規格化する

「この単位のこの大きさを基準にして合わせよう」などと規格化することで、効率よく、無駄なくモノをつくったり、収めたりできる

■比べる

「どっちが早く着くはずだろう?」「あれよりこれが重いはずだ」というように、目の前にないものでも数値で比べられる。

■計算する

「これを何杯入れると、この量になる」「あれとこれをつなぐと、この長さになる」というように、簡単かつ正確に計算できる。

■変換する

「この量をためるには何分かかる」など、単位の間で変換もできる。また、[km]÷[h]=[km/h](時速)のように、単位を組み合わせて別の単位もつくれる。

 

これら6つを踏まえて、企画内容を構成しているようです。

 

実際に建物の中に入り、受付をすると、紙でできた100cm(1m)のメジャーを渡されました。

紙メジャー

紙メジャー

それによって、様々なものの大きさを実際に測って知ることができます。面白いですね。ある一定の基準を渡す事が、企画を分かりやすく楽しいものにするということが分かりました。今後、何かに活かせそうです。

早速、館内を眺めてみると、1F右にはショップがありました。最後にここの思い出をということで買い物をしたので、その報告もできたらと思います。左の地下に通じる階段を下がって目に着いたのが、この光景です。

 

1meter party!

1meter party!

【はかる】

始めは何なのか理解できませんでしたが、先を進むと理解できました。これは何をお祝いしている場面だと思いますか?(ヒントは「100」という数字)

100?

何の100?

実は、その子の身長100cm(1m)到達記念写真であったのです。よく、1歳とかの誕生日はお祝いしますが、100cm祝いというのも面白いですね。隣には、レゴブロックを積み上げた100cmの見本もありました。

祝100㎝!

祝100㎝!

【規格化する】

次に、「あれくらい・それくらい」の確信に迫るようなブースがありました。皆さんは、りんごの大きさを両手で表現できるでしょうか。その両手で作られた大きさは、本当にりんごくらいの大きさでしょうか。それを楽しく知れる体験ができました。

このくらいってどんな物?

このくらいってどんな物?

機械の上に両手をかざし、その両手である大きさを5秒で表現します。すると、その大きさの物が画面にでてくるというものです。来館していた人たちは、様々な大きさを両手で表現して、ダルマやバランスボール、オレンジやグリーンピースなどを出していました。今度、子どもたちにも「りんごの大きさってどれくらい?」と聞いてみようと思います。大人と違った表現をするかもしれませんね。

こんな物!

こんな物!

メートル原器(レプリカ)

また、どのように「1m」の長さが決まったのかを展示していました。メートルの原器は、1799年に北極点から赤道までの長さの1000分の1の長さをもとに製作され、1960年まで1mの基準として用いられました。化学的に非常に安定している白金とイリジウムの合金でできており、0℃のときの両端近くの目盛りの距離が1mと設定されています。この存在が、私たちの生活を豊かに大きく変えたと考えると、感謝の思いみたいなものも沸き上がってきます。これを初めに考えた人は、どんな楽しい事を考え、何をしようとしたのでしょうか。相手が言っている「あれくらい・これくらい」を知りたいという好奇心であったのかもしれないなどと、色々想像してみると面白いですね。

メートル原器

メートル原器(レプリカ)

単位について、2㎝くらい理解できてきた印象です。

(報告者 小松崎高司)