食べる機能 2

前回の「食べる機能」の記事から、気づけば1ヶ月も立ってしまいました。前回は子どもの食べる機能には環境との相互作用が大切であり、子どもを取り囲む周囲からの適切な刺激が子どもの機能にも大きく影響するという「個体(子ども本人)と環境の相互作用」と子どもの発達には活発に起こる時期があります。そのときに適切な働きかけをする必要があるという「発達には適切な時期がある」があるということを紹介しました。これは日本歯科大学付属病院准教授 口腔介護・リハビリテーションセンターの田村文誉先生の記事をもとに改めて子どもたちの食べる機能の発達をみていったのですが、では残りの4つの部分はどういったことが大切だと言われているのでしょうか。

 

3つめは「一定の発現順序がある」です。

それは「乳幼児が摂食・嚥下機能を獲得していくには、身体の発達と同じように一定の発達順序があります。多少前後することはあるにしてもある程度の順番があることを、多くの人が理解していますが、食べる機能にも発達の順序があることは、意外と意識されていません。そのため、離乳食の進め方を急ぎすぎたり、子どもの機能に合わない硬さの食べ物が提供されたりしてしまうことがある。」とのことでした。

 

4つめは予行性がある。

「ある動きが上手になると、次の段階の動きが現れやすくなるということです。たとえば、舌の動きがよくなり、舌で押しつぶすことが上手になってくると、ある表紙に咀嚼の動きが出てくることが起こります。」

 

5つめは直線的でない。

「発達はまっすぐに順調に伸びていくわけではありません。できるようになったなと思ったら、急に下手になったり、また、急に上手になったりと進んだり後戻りしたりしながら発達していく」

 

6つめは個人差が大きい

「機能の発達の進み方には個人差があります。同じ年齢や環境であっても、同じようなものが同じように食べられるとは限らないのです。隣の子どもが肉や生野菜を食べているからといって、いやがるものを無理に食べさせる必要はありません」

 

そして、最後にこの章ではこのように締めくくっています。「以上のように発達には原則があります、スタート地点を急ぐ必要もないし、急いでもそれが有利につながることもありません。子ども自身の持てる力に合わせて、進めていけばよいということです。」

 

上記の田村先生の6つの発達の条件は決して、「食べる機能」に置いてだけではなく、子どもたちの発達において必要な事柄であり、場面においても必要なことですね。子どもにあわせた環境を用意することで子どもたちの持てる力はより発揮されていくことだろうと思います。

 

また、食育講師の井上ききさんのブログにはこういったことも書かれていました。

「消化に気持ちは大きく反映され、大きく関係します。楽しい食事をすると消化も順調に行われやすく、消化吸収もいい。十分に機能が働いていると今の身体に必要な栄養素を効率よく吸収できます」「一方、楽しくない食事は緊張状態や悲しい状態では、内臓の機能が萎縮して十分働いていません。消化不良になります。便秘や下痢になるし、せっかく食べても、栄養になりにくく、栄養失調状態になることもある」

 

それほど、子どもたちの食べる環境の必要性や子どもたちの発達は「食べること」「遊ぶこと」「生活すること」すべてにおいて見る視点は共通点があるということを知ることはとても大切だということを改めて感じました。

 

藤森先生の臥竜塾ブログ「食事」という内容の最後にこう書かれていました。

「指針にも「喜んで食べることが心と身体の栄養となる」と書かれているように、逆に言われて食べることは、心と身体を壊すことがあります。そのため、「食事の環境を様々に工夫し、明るく楽しい食事の場にするとともに」と書かれてあるように、食事の場の持ち方が栄養にずいぶん影響するものです。栄養価、栄養素、摂取量ばかり言い過ぎている気がします。」

 

大人の意識やよかれと思っていることが子どもたちにとって本当に良いことなのかと見直すことが大切ですね。

(投稿者 邨橋智樹)

見て学ぶ

以前新宿せいが保育園に勤めていた先生が実習に来られ、そこでの体験を論文かなにかにまとめた文章を聞かせてもらったことがありました。ちょうどその実習に来られた時はおたのしみ会といって劇や歌、合奏などを通して発達を見てもらう会がすぐありました。少し、クラスごとに練習をしている姿を見ていたそうです。その中での感想がとても素晴らしいものでした。各クラスのことをどのような感想を述べるのかと思っていたらそうではなく、

「年長組の練習はさすがでしたがそれ以上にそれを見ている年中組が熱心に見ていることが印象的だった」
とありました。
この視点というのは当時視野が狭かった私には非常に参考になるお話でした。今も狭いですが…
1年後自分が年長になった時こんな風にやりたい、こんなことが出来るんだという憧れのようなものがそこにはあります。子どもにとってその憧れや、やってみたいという気持ちはその子を主体的にできる一番の材料であるように思います。
現在の幼児クラスでもじーっと年長や同年代の子をよく見ていていきなり出来るようになっている子もいます。ずーっと見て自分の中で温めて出来ると思ったときにやってみるその自分の力量を知っている様は子どもが自分のことをよく理解している証拠でもあるように思います。
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先日卒園式がありました。その卒園式には年中組も参加します。1度練習した際、年中組が年長組を見る眼差しはキラキラしているように私は見えました。ある子どもは親に練習の模様を事細かに説明していたそうです。きっと今度は私たちもやるんだという意識は少なからず持てたように思います。
その様子を見ることで、見ることと見ないことの差を大きく感じることができました。
年度末ということでそれぞれの学年が1つ上がります。
その中で年長から年中へ伝承されていくものがあります。その中の1つが新宿せいが保育園では雑巾がけです。
1年間年長の雑巾がけを見てきた年中の子たちは一体年長になったときにどんな雑巾がけを見せてくれるのか楽しみです。
年長の雑巾がけを興味深く見ています。

年長の雑巾がけを興味深く見ています。

見て学ぶというのは赤ちゃんから始まり大人になった今でも同じことだと思います。更に同じくらいの年齢から学ぶことは非常に多いようにも思います。
保育をしていく中で互いに刺激し合える環境というのを意図的に作っていくことをより意識していこうと思えました。
(報告者 本多悠里)

自由の制限

先日、家族で動物園に行ってきました。うちの娘は決まって象と虎に大興奮なので、なんとなくのルートは決まっているのですが、その日はサル山がなんだか人だかりで盛り上がっていました。なんだろうと覗いてみると、サルのオスとオス同士がボス争いなのか、ケンカをしていました。その激しさと迫力に、みんな見入っていました。

 

もちろん私も面白いなと思って見ていたのですが、娘がふと「ケンカしてるね。危ないね。」と言い出しました。確かに、あまり見たことがないと“そんなことをするのか”と変な感じに感じるのでしょう。

一応、その場では、「お猿さんのリーダーを決めるためなんだよ」と、サル山のボス争いや、動物の本能といったことを説明したのですが、後で少し考えてしまいました。

 

それは、藤森先生の話で「ミラーニューロンが委縮していると人の痛みを喜んでしまう。」という話を思わず思い出してしまったからです。動物と人は違うと思うのですが、「争いを見て面白く感じる」というのも少し悲しい気もします。

 

ちょっと話がずれてくるのかもしれませんが、TVを見ていた時に興味深い話がありました。

内容は刑務所の話で、受刑者は毎日規則正しい生活しかなく、娯楽といったものがほとんどない。そんな中で過ごしていると、人はなんとか面白いことを探そうとするそうです。ですが制限された生活の中では、見つかるはずもなく、唯一見つけるのが、弱いものを見つけて、いじめるということだそうです。

 

刑務所という全く想像もつかない分野ですが、人の心理をついている問題だけに、子どもの世界にも似たような話があるのではないかと思います。もしも子どもたちの行動が制限され、自由がなくなったら、、。子どもたちはどのようにして、楽しみを見つけるのでしょうか。

 

子どもたちの中でケンカやトラブルが多いなど、いつもと違う様子が見られた時は、私たちが子どもたちの自由を制限してしまっているというサインなのかもしれませんね。子どもたちが正しく面白いことが探せるようなミラーニューロンになるように、環境をしっかりと調えてあげたいですね。

(報告者 西田)

環境② ―環境はきっかけ―

 

「環境」は“きっかけ”にすぎないのかもしれません。

 

ある環境を用意したら、それで保育者の仕事は“終わり”であるかのような錯覚を起こしてしまいがちです。実際、私もそう思っていました。しかし、そうではなく、その環境に子どもたちがどのように関わり、その関わりをもっと深めるためには何が必要かと、考える事が重要であると感じました。それが、藤森先生が言われる「発展」であるのだと思います。

先日の成長展では、その「発展」の過程を各ゾーンごとに展示しました。

ブロックゾーン

ブロックゾーン

絵本ゾーン

絵本ゾーン

伝承遊びゾーン

伝承遊びゾーン

ごっこゾーン

ごっこゾーン

文字・数ゾーン

文字・数ゾーン

製作ゾーン

製作ゾーン

科学ゾーン

科学ゾーン

ゲーム・パズルゾーン

ゲーム・パズルゾーン

子どもたちが環境にどう働きかけて遊びが発展していったのか、職員がそんな子どもたちにどうアプローチして発展させていったのか、その間に確実にある「プラスα」の存在を、“分かりやすく”展示しようと思ったのがきっかけでした。

先日、ある女児が「先生、こっちに来て!」と嬉しさを押し込めたような表情で言ってきました。ついていってみると、科学ゾーンに素敵な作品がちりばめられていました。何かを試したり、調べたりするものとしてではなく、科学ゾーンにある、科学の力を利用して「造形」をした子どもの姿を見たのは初めてだったので、非常に感動しました。

科学ゾーンの物で作った造形作品

科学ゾーンの物で作った造形作品

しかし、感動するのは早かったのです。テーブルには、こんな置き紙がありました。

「これでみてみてね!」

「これでみてみてね!」

促されるまま、その光景を覗いてみれば、そこにはまた美しい光景が広がっていました。造形をしておしまいではなく、作った作品をこれで覗いて眺めるといった体験型の作品であったのです。

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その遊びに感動したもう一人の職員が、「みんなにも見せてあげようよ!」と提案し、即座にその子の“体験型作品ゾーン”を作ったのです。普段なら、遊んだ玩具は解体して元に戻す事が前程となっていますが、この感動を他の子どもたちにも味わってもらいたい、その子の遊びを深めたいといった思いから、科学ゾーンの棚の中に、そのブースを作ったのだと思います。

科学ゾーンに、磁石や万華鏡を用意するのは簡単です。しかし、そんな環境を通して、子ども同士がつながるような仕組みを生み出したり、その遊びが発展するような言葉がけや更なる環境を“その瞬間に”用意することはなかなか簡単なことではないと同時に、そのような柔軟性や発想が保育士に求められていることでもあるのだと思います。個人的に思うのは、それができるのは「その人の経験値」が非常に関連しており、これまでにどんな経験をしてどんな思いを抱いてきたのか、そしてどんな好奇心と共に歩んできたのかが、ポイントのようでもあると感じています。正直私は、そんな多様な経験をしてきているとは思っていません。なので、周囲の人の「良い所」「面白いと思った所」を真似して自分のものにするしかありません。もちろん、そこから生まれた自分の好奇心を追求・探求していきたいとも思っています。

「環境」は終着点ではなく、あくまでもきっかけであり、そこから保育が始まるのだと思います。

(報告者 小松崎高司)

環境① ―その瞬間をどう活かすか―

2月の寒い朝、用務の西村氏が、テラスに出来ていた「氷」を3・4・5歳児クラスに持ってきてくれました。非常に大きくて分厚く、子どもたちも興奮気味に手で氷の感触を楽しんでいました。その氷も、ちゃんと“子どもたちに氷遊びをさせたい”といった思いから、前日に水を貼って意図的に氷を作っていたということを聞きました。さすが、環境マイスター山下氏の弟子ですね。私は、そういうのに弱いです。人の思いをなんとかして活かしたい、子どもたちに、氷遊びを通して不思議を味わわせたいと感じて頭に思い浮かんだのが、去年学童児とやっていた先輩保育士のある「実験」でした。

その実験とは、氷にストローを押し当て、息を吹きかけ続けたらどうなるかという実験です。さっそく、製作ゾーンにあったストローを持ってきて、子どもたちに問題提起をしてみました。子どもたちは「氷が動く」「解ける」などと予想しながら、実験し始めました。

実験中

実験中

氷の厚さは2㎝くらいあるので、なかなか結果がでません。しかし、子どもたちは一心不乱に息を吹きかけ続けていました。しばらくすると、ひとりの男児が、その部分だけ氷が解けて窪み始めたことに気がつきます。実際に手で触れてその窪みを確認したり、周囲の子どもたちもその感触に感動していました。「もっとやってみよう」といって、さらに続けていると「あ!穴があいたー!」と叫び、達成感と満足感を浮かべた表情をしていました。

氷に穴

氷に穴

 

先日、ある子どもが粘土遊びをしていました。「俺ね、長—いやつ作る!」と意気込んでいます。すると、粘土をうどん状に細長くし始めました。一緒に粘土遊びをしていた子どもも、その様子を見て“楽しそう”と感じたのか、おれもわたしもと、粘土を細長く作り、それをつなげ始めたのです。“これは、面白いことが始まるぞ”と、私の面白センサーが反応をしたので、「メジャー(巻尺)」をすぐに出せるよう用意していました。子どもたちは、ものの数分でテーブルの長さほどの物を作り、そして、そこでは足らないと、ついには、床でつなぎ合わせていました。

しばらくして、満足いく長さに到達したのか、「ほら!長いでしょ!」と言ってきました。私は、メジャーを出したくて出したくて仕方がなかったので、「どのくらい長い?」と、少々意地悪な質問を投げかけました。すると、みんなに「?」が浮かび、沈黙になりましたが、一人の男の子が「測ってみればいいんだよ」と言ったのです。以前、ブログでも紹介した「身長計」を使おうとしていたので、もっと便利な物があると、手に持っていた「メジャー」を自慢げに出すと、子どもたちは「うおぉ〜!」とうなっていました。まさに120点の反応です。(笑)

測定中

測定中

さっそく、みんなで長さを測ってみました。結果は、203㎝。子どもたちの中で、「203㎝」は粘土で表現できるという一つの経験になったと思います。最後に、中心になって指揮をとっていた男児が、その203㎝の粘土をきれいに渦巻き状にしていました。“面白い!”と思って、その長さも測ってみると、なんと12センチ。「203㎝が12㎝になった!」と、何に使えるかは分かりませんが、そんな変化球も伝えてみました。

 

変化球

変化球

子どもの姿を見て、その瞬間をどう活かそうかと考える大人のように、そんな大人の姿を見て、それはどこに活かせるかと状況を見て考えて選択できる、そんな子どもの姿を望んでいきたいです。

(報告者 小松崎高司)

閉所式

先週末に保育園の卒園式があり、その後に今年度で新宿せいが学童クラブが閉所するということで閉所式を催しました。

新宿せいが学童クラブが開所してから閉所までの8年間で在所していた子どもたちを呼び、大人と子どもを合わせて、総勢200名もの方々に参加していただきました。

私は新宿せいがに勤めさせていただいてからまだ2年しか経っていないため、現在の小学4年生までしか見覚えがないのが残念だったのですが、現在の高校1年生の子たちまで参加してくれて、初年度からの先生方にとっては、久々の再会となり、思い出話に花が咲いている様子でした。

式は約2時間行われ、メインは歴代の卒所児の子たちに前に出てきてもらい、代表の1人に学童での思い出等を一言話してもらいました。

その中で初年度の高校1年生の卒所児が面白い思い出話をしてくれました。

それは、初年度学童職員だった本多先生が頭を切ってしまった事件です。

思い出がたくさんあった中でのこのチョイス…

相当心配したことでしょう…

他の学年の子どもたちも自分の言葉で思い出等を話してくれました。

その話を聞いていると、子どもたちにとって新宿せいが学童クラブがどのような場所だったのか、改めて思い知りました。

現在の在所児の子どもたちは、数年後に新宿せいが学童クラブでの思い出を話してくれる機会があったら、どのような思い出を話してくれるのかと考えていると、楽しみに思えると同時に新宿せいが学童クラブで過ごす時間が残り2週間しかないという現実と向き合うきっかけとなりました。

残り2週間で何ができるかも重要なことかもしれませんが、私は今年度子どもたちと過ごしてきた1年間を一緒に振り返れる時間を作りたいと思っています。

また、参加してくれた保護者の方々や職員、そして子どもたちに「新宿せいが学童クラブへ一言」を付箋に書いてもらいました。

それがこちらです。

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新宿せいが学童クラブへ一言

 

学童職員として子どもたちと関われたのはたった1年ですが、これを見ると涙腺が緩んでしまします。

初年度からの先生方などの気持ちを察すると、尚一層涙腺が緩む思いです。

更に、私ではないのですが、もう1人の学童職員の方のご友人で、音楽業界でお仕事をなさっている方に「新宿せいが学童クラブの歌」を作ってもらい、なんと当日までお越しいただいて参加していただけた全員の前で歌ってくださいました。

次回の報告で作曲までの流れを報告させていただこうと思っています。

(投稿者 若林)

one more chance

先週の報告にも上がっていたのでご存知の方もいると思いますが、3月の初めに成長展と言う行事がありました。

 

保育園の行事の看板はいつも学童クラブの子どもたちが作っています。(そんな機会もこれで最後と思うと寂しい気持ちでいっぱいなのですが、、。)今回は「共感」がテーマと言うことで、共感と名前のついた絵を見て、そこから看板のデザインを決めていきました。

 

決めたデザインの絵には二匹の象がいて、いろんな色がきれいに描かれているものでした。

このデザインが決まった時、私の中ではいろんな色がある=難しいというイメージでした。

なぜかというと、クレヨンにしても、絵の具にしても色が沢山混ざると、黒っぽいあまりきれいな色とは言えない色になってしまうからです。そこを混ざらないように、きれいな色のまま、沢山の色を使う。そのためには、看板を作る子みんながその事を知っていなければなりません。小学生は図工の時間もあり、さすがにその事を知っているかなと思う所もあったので、とりあえず何もいわず子ども達だけに任せてみました。

 

大きな看板だったので看板本体、大きな象、小さな象という3つにわけて色塗りに取り掛かりました。

 

初めは、一番塗る場所が多い看板本体。

元のテーマの絵が柔らかいタッチだったことから、スポンジを使って絵の具で色を塗ることになりました。

なんとなく色が混ざると、汚い色になってしまうということがみんな分かるのか、一度色をつけた所は、乾いてからまた色をつける様にしていました。これなら大丈夫そうだなとみていると、その後手を使って描いたり、型紙を使ったりと色々と工夫をしていました。

 

また、別の日に今度は大きな象の色塗りをしました。

今回も大丈夫だろうと、そのまま任せて、後で見るのを楽しみにしていました。

ですが、出来上がった作品はものの見事にどす黒く、しかも色を塗りすぎて破れかけているところもあるという様子でした。

 

もっと早く気付けばよかったのですが、前回やった時はほぼ3年生ばかりだったのが、今回は1年生中心で3年生もいたのですが、1年生の色々やってみたい熱気に押されてという感じでした。

 

やるだけやって満足した子はいなくなり、残された何人かの子「どーするの?」という空気とともに、その作品を見ていました。私自身も「やったなー」と思ったのですが、何も言わず、大きな紙をもう一枚渡してみました。すると、1人だけいた3年生が、「じゃあこの絵(元のデザイン画)を見ながら、誰がどこをやるかいうね」と、1年生に指示を出し始めました。

そんな様子に1年生もやる気を取り戻し、再び看板作りに取り掛かっていました。今度は前回の失敗をみんな経験していたこと、そして全体を見てくれる人がいることで格段にいい作品になりました。そしてうまくできたことに満足したのか、元のデザイン画をベースにしながらも、そこにキラキラのまつ毛を付けるなどよりいいものに仕上げていました。

 

「失敗した時、何も言わずにもう一度チャンスを上げること」は子どもたちのよい経験にもなり、また周りを引っ張っていかなければと思う気持ちも芽生えるチャンスになるのですね。看板作りはこれで最後ですが、また別の機会に試してみたいと思います。成長展看板

 

(報告者 西田)

地域?文化?

 

私の働く幼稚園・保育園は大阪にあります。最近いろんな保育園が見学に来ることがありますが、今、見守る保育を進めているというと、よくこういった質問があります。

 

「東京と大阪とでは、環境が大きく違うので同じことはできないのではないですか?」

「保護者の見方も、場所によって違うのでなかなか理解してくれないのではないですか?」

といったような質問がでることがあります。

 

確かに、地域性といいますか、その違いや文化の違いは少なからずあるのは当然なのですが、今回、自園において成長展をしたことで改めて気づいたことがありました。

 

先日、私たちの園で成長展を行いました。といっても、今年度より始まった1歳児・2歳児クラスだけであって、まだ、幼稚園全体での取り組みではないのですが、新宿せいが保育園の資料や手法を真似て、そのまま、取り組んでみました。

 

今回の場合は、1回目ということもあり、シンプルに中心となる部分(自由画・人物画・塗り絵・シルエット)そして、遊びの環境の代わりや子どものたちの関わりの写真、身長・体重、メッセージ、手足型、といったものを行いました。というのも、初めての先生も多く、見るのも初めての先生が半数なので、「成長展とは・・」ということから伝えていきました。なので、あまり、広げすぎず、シンプルにしました。

 

子どもたちの成長を「他児と比較するのではなく、一年の成長を実感し、幼稚園と一緒にそれを喜ぶ」原点をしっかりと見つめて始まった行事です。実際、始めは最初に書いたように「大阪の文化、東京との違い」というものは少なからずあり、この行事が保護者にとって、どう受け取られるか、わくわくしていたのですが、始まってみると、思った以上に大反響があり、クイズを必死にやるお母さん、じっくり考えてクイズを当てるお母さんがほとんどで、全員の保護者が「楽しかった」といっていました。なにより「これほど一年で大きくなっているとは思いませんでした」という最高の褒め言葉をいただいたので、まさに上場でした。

 

ここで思ったのは、やはり地域や文化だけで、子どもの見方は変わらないということです。「親は親であり、どこの地域でも、どんな文化の中でも、子どもたち一人一人の成長を見て、感じる感動や喜びは同じ」ということを改めて強く感じました。そして、自分自身、どこかで、「大阪の保護者は」とか「大阪の文化は」と少なからず思っていたことをとても恥ずかしく思いました。こういったように子どもたちの成長を保護者に「実感や共感」する機会や一緒に成長を喜ぶ機会があまりにも少ないのが一番の偏見や既成概念を作る要因だということに気づきました。そこに気づいたことが私の成長展をしたことにおいて学んだことです。

 

成長展の資料のなかで藤森先生は

「子どもの成長は目標ではなく、課題ではなく、喜びであるような保育を展開する必要があります。また、他の子との比較をするのではなく、その子の成長を喜ぶことが必要です。」

「保育、育児の楽しさは、子どもたちの成長する過程を知識として知ることではなく、その過程を見ることができること、そして、それに関わることが出来る喜びです。」

と書かれています。

 

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IMG_4480 成長展の展示

(投稿者 邨橋智樹)

「敵の敵は味方」

最近の土日の過ごし方は、池袋にある水族館に行くことです。
年間パスポートを購入したので、何をするか迷った時はほとんど水族館に行っています(笑)
息子は同じ場所でも、毎回新鮮な反応を、してくれるので連れていく側としては嬉しいですね。
ただ魚も毎回同じ動きをしている訳ではないので私としても何度見てと面白いですね。
特に大きなミズタコが一匹だけいる水槽があるのですが、基本的に全く動かないので、ある時は端にいて見にくい日もあれば、正面にいて見やすい時もあります。
それだけでも楽しみになってしまいます(笑)
さて話が大きくそれてしまいました。本題に移りますね。「敵の敵は味方」という事ですが、映画などてよく言う台詞です。

水族館に行く前にショッピングモールを歩いていたら高知県の特産物を販売しているイベントがありました。
ただ特産物と言うよりも、高知県で行われている特殊な方法で栽培した野菜の販売なので、特産物と言うよりも、その栽培方法を宣伝している感じです。
その方法と言うのは…勘が鋭い人はすぐにピンときたのではないでしょうか?
そう害虫を使うのです。

害虫というと農家にしたら天敵です。その天敵を使った栽培方法です。
高知県では化学肥料や農薬の使用を減らして、周辺環境に配慮した取り組みとして、施設野菜を中心に、
天敵昆虫や防虫ネット、黄色防蛾灯などを利用した総合的・病害虫管理技術(IPM技術)の導入や、有機質資源を利用した、たい肥の使用、
さらに廃棄物の適正処理や省エネ対策による環境保全型農業を推進しているそうです。
具体例を出すと、タバココナジラミという害虫がいます。
その害虫の天敵はタバコカスミカメとクロヒョウタンカスミカメという二匹が害虫であるタバココナジラミを捕食するので、
その二種類の害虫をあえてハウス栽培の中に放すことで、タバココナジラミを退治するという方法です。
他にも色々な害虫に合わせて天敵を放してしるそうで、
その天敵達を「天敵ヒーローズ」と呼んでいます。
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まず天敵を確保するためには外から持ってきても天敵が環境に適応していないために、効果が現れないので、
「土着天敵」と言って畑の付近にいる地元の天敵を利用することが重要だそうです。
しかしだからと言って「土着天敵」をむやみに利用してもいみがないのため、農家が一ヶ月後を見越した前倒しの対応が必要なこと、
また「土着天敵」は生態も明らかになっていないため採取できる時期も限られています。
そこで「土着天敵」を農業技術として安定的に利用するため、高知県では土着天敵の温存技術が開発され、地域や品目を越えた協力体制がとられいるそうです。
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ちなみに日本では農薬の使用については農薬取締法という法律で厳しく定められています。
農薬取締法では、天敵も立派な農薬。そのため、その他の農薬と同じように効果や安全性、環境への影響を試験して、
農薬として登録されたものが販売されています。こうした農薬として登録されている生き物を「生物農薬」といい、いろんな種類があります。
天敵も農薬として登録されているのは、なかなか面白いですね。
しかしIPM技術は簡単に上手くいかなかったそうです・・・。
1998年ごろから天敵の導入が始まった高知県は、2003年ごろには施設ナスや施設ピーマンでタイリクヒメハナカメムシを中心としたIPM体系ができつつありました。
しかし、そのころから、海外から日本にやってきたタバココナジラミという侵入害虫の被害が全国で拡大し、高知県内でも大きな問題となりました。
特に天敵を導入しているために農薬散布が遅れた農家が甚大な被害を受けることとなり、一時は天敵に対するあきらめと失望が広がったそうです・・・。
しかし天敵を導入している農家から
「せっかく自分たちが築いてきた天敵の利用技術をあきらめたくない」と言う声があがりました。
そしてタバココナジラミの被害を受けながらも天敵を使い続けたのです。すると、そのハウスでタバココナジラミを捕食する正体不明の虫たちが報告されたのです。
その正体不明の虫たちが「タバコカスミカメ」と「クヒョウタンカスミカメ」です。その二種類はハウスの外からやってきて、タバココナジラミを退治していました。
天敵を生かすために化学合成農薬を使っていないハウスだからこそ、起こった奇跡だそうです。
おそらく途中で諦めていたらIPM技術は失敗し、結局は農薬に頼ることになっていたかもしれません。
それを最後まで諦めずに信じて続けたかこそ、奇跡は起きたのです。
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今では高知県は天敵導入率が日本一で、
ナスは高知県で代表的な野菜です。そして高知県で収穫されたナスの50%は天敵ヒーローズが害虫から守ったナスです。
もしかしたら今まで食べたナスナスの中にあったかもしれませんね。
私たちも、せっかくなので立派な米ナスを購入し、味噌田楽にして夕飯にいただきました。
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今年の成長展で保健のブースではミツバチに関する展示がありました。
よく外でハチに遭遇すると手で払っておいやる人がいますが、基本的に逆効果です。
ハチはこちらが何もしなければむやみに襲っては来ないそうです。
ドイツの園庭でも、あえてハチを呼ぶための巣箱を置くほどです。
まさに新宿せいが保育園の理念「共生と貢献」です。
高知県のIPM技術も虫と共生し、お互いに貢献しあっています。
最近の塾長のブログにも書いてありましたが宇宙はビックバンと共に始り、1秒後には全てが揃ったと。
人間同様、虫にも何か意味があるから生まれてきたのかもしれません。
そんな可能性を少し感じた一日になりました。(報告者 山下祐)

子ども道(みち)

獣が何度も通っている間に道が出来る「獣道」があるように、子どもが通っている間に道ができる「子ども道」というのもあると思います。先日、その「子ども道」を散歩先で見つけることが出来ました。その公園は、「第二の園庭」とも言われているくらい、子どもたちと頻繁に訪れる場所でもあります。

子ども道

子ども道

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私も幼い頃、雑木林の中の道無き道を進んで、小さな小空間を見つけ、感動し、そこを「秘密基地」にして遊んでいた事を思い出しました。そうして出来た“道”には、自分の歴史があり、想いが潜んでいるのだと思います。目の前の子どもたちにも、きっと“この先に何があるか”を求めたり、そこまでに至るまでの道のりがあったのだと思います。そう考えていると、ずっとこのファインダーを覗いていたいといった感情が沸き上がってきました。

私はこれまで、「道」というのは、人や物が通るべきところといった解釈をしていました。既に道は存在していて、ある目的を達成するために通る手段や方法であると思っていました。よく、ある目標があって最短でその場所に行くための方法として、「その道を通った人に聞く事」があげられます。実際に経験した人の言葉というものは、やはり心に響く説得力とノウハウを感じるとることができますものね。

しかし、子どもたちの姿を見ていると、私が思い描いていた「道」とは異なる「道」を歩んでいる事が多いと感じるのです。最初に話した、「獣道」のような「子ども道」のように、誰も歩んだことがない道を歩もうとする傾向があると感じています。一見、その行為というのは遠回りのようにも感じますが、様々な経験と瞬時に判断して動く対応力などを身につけるという“遠回り”が、子どもならではの「道」なのかもしれないと思いました。

つまり、私たちと子どもとの間には、「この道を通ってくれば安心だ」「この道に間違いはない」といった大人の意見と、「そんな道はつまらない」「こっちの方がワクワクする」といった子どもの意見との相違が存在してしまうということだと思います。その相違が、子どもをがんじがらめにさせている原因でもあり、“ケガ”というリスクマネジメントととの折り合いである気がします。

道無き道を進む子どもたちを、いかにして見守るか。挑戦して発達を遂げようとしている子どもたちをいかにして見守るか。そのテーマは、子どもと大人との永遠のテーマでもあるのだと思います。私たちは、何かに駆り立てられながら進む子どもたちの「子ども道」を後から追いながら、その道の途中にある子どもの心や体の動きの形跡に、敏感に反応しなくてはいけないのだなと、ふと、そんなことを感じました。

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(報告者 小松崎高司)