シーソー

学童の子どもたちと近くの公園へ遊びに行った際に面白い遊びの発展が見られました。

シーソーの遊具がその公園にあり、女の子4人でその遊具で遊んでいた際に私が

「AちゃんとBちゃんよりCちゃんとDちゃんの方が少し下に傾いているね。」と言うとDちゃんが

「私はクラスで背の順が後ろから3番目だからAちゃんBちゃんCちゃんよりも重いの!」と言いました。すると背の順をお互いに言い合い、

「じゃあAちゃんとCちゃんを交換すれば同じになるってことじゃない?」とBちゃんが提案します。

その案に他の子が賛同し、再度チャレンジ。

しかし結果はあまり変わらず…

この日は全員で公園に遊びに来たのではなく、選択制にしていたため、他に女の子がおらず、男の子たちは鬼ごっこに夢中であったため、そこでこの遊びは終わってしまいました。

しかし、その後に4人で話し合ったらしく、その話し合いで出た答えを私に言いに来てくれました。

「背の順で○番目のEちゃんをAちゃんかBちゃんのところに入れれば同じになると思うの!だから今度この公園に遊びにきたらもう1回やってみる!」と言ってきました。

今回の遊びの発展に、私がかけた声かけは最初の1度きりで、その後のやりとりは全て4人の子どもたちだけでのものです。

私の1回の声かけでこうも遊びが発展するのだと保育者の声かけの重要性を感じたと共に子どもたちの探究心に驚いた出来事でした。

しかし、今回は背の順と体重が比例すると思い込んだ末の結論となってしまっています。

次回にEちゃんを交えてチャレンジした際、子どもたちはどのような結論を見出すのでしょうか。

楽しみです。

願わくは、同じにならず、再び子どもたちが考える機会となり、大人を介せずに子どもたちだけで背の順と体重は比例しないという結論に至ってくれたらと思っています。

そうなるとその後この遊びはどう発展するのでしょうか。

どう転んでも良い学びとなるよう見守り、時には子どもたちの探究心、好奇心を擽る声かけができたらと思います。

(投稿者 若林)

「チョコレートドーナッツ」

塾長は以前雑誌の掲載で映画の評論を一時期書いていました。もちろん子どもに関する映画です。
私たちも過去の塾で塾長が薦める映画を見て解説を聞いた会もありました。
私も映画は好きで、以前はよく見に行ったり借りたりしていました。
また保育園に勤めているせいか、子どもに関する映画が始まると注目するようになりました。
そこで、今回の報告は塾長のように上手く書けませんが、ある映画について書いてみようと思います。
ただ私一人では難しいので今回は小松崎先生とコラボしてみました。
今回は「チョコレートドーナッツ」という映画を見ました。
おそらく見たことがある方もいると思います。
では、見たことがない方にあらすじを…。
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1970年代末期のカリフォルニア。歌手を夢見るショーパブのダンサー・ルディ(男性)は、

検事局のポール(男性)と一目ぼれしてカップルとなりました。
あるとき、ルディの近所に住むダウン症の少年マルコの母親が薬物所持の罪で逮捕されてしまい、
施設送りになるならと、ルディとポールはマルコを引き取って育てることを決意しました。
しかし二人の関係は当時のアメリカでは理解を得られず、
ゲイであることを隠したまま3人で暮らすことになります。マルコも特別支援学校に通うことになり、
3人で幸せな時間を過ごしていました。しかし幸せな時間も一年足らずで終わってしまうのです。
当時のアメリカはどうしてもゲイという事に大きな偏見を持っているせいか、
執拗に二人を追い詰め、二人からマルコを奪ってしまうのです…。
結末は私の口からは言えないので、気になるかたは自分の目で確認していただけたらと思います…。

山下「今は性同一性障害という言葉が周りに周知されているから、例え知り合いや身近な人で、そういう人がいても、そこまで特別視はしなくなったけど、その言葉を知るまでは正直、偏見な目で見ていたかも…。」

小松崎「制作者の意図としては、現実を知ってもらいたかったのですかね。また人間の本性というか、誰にだって秘密はあると思いますが、それを人との出会いによって引き出されるものがありますよね。ルディと出会うことでポールの秘密が打ち明けられたように。」

山「あと一番気になったのが、裁判の内容が子どもの親権でなく、二人の関係を追及する内容ばかりだったシーンがショックだったな…ただその時にルディが「一人の人生ついての話しだぞ!あんたらが気にも留めない人生だ!!」という発言は大切な言葉だったね。」
小「そうですね。ただルディがマルコにどうして、あそこまで思い入れたのか、気になりましたね。」
山「確かにそうだね。映画の中ではマルコが隣に住んでいたのは知っていたそうだけど、実際に関わったことも会ったこともない感じだったもんね。」
小「ファーストコンタクトは音楽の音がうるさく、ルディが文句を言いに行って隣の部屋に入った時に、部屋の片隅で一人座っていたマルコを見たのが、ちゃんと初めて会いましたよね。」
山「そうそう、その時に母親が薬物所持で逮捕されて、家庭局の人が来て何も言わずにマルコを施設に連れていったけど、その夜にマルコが抜け出したところをルディとポールが見つけて、ルディが自分の家に連れていって、自分が面倒を見るって決心した感じだね」
小「しかし、赤の他人をそこまで面倒見ようと思ったのはマルコに何か感じたものがあったんでしょうね。」
山「自分と被ったのかな?」
小「そうかもしれないですね、自分自身、周りと変わっているからこそ、障がい児に対しても偏見な目で見ないのかもしれないですね。あとは家族が欲しかったんじゃないですかね?当時は残念ながらレズを認められないし、もちろん実際に家庭を持つのは難しかったから、どこにである幸せな家庭を持ちたかったのも引き取った理由かもしれませんね」
山「そうかもしれないね。マルコを引き取ったあとは、どこにでもあるような幸せに過ごしていたからね。そして自然と父親役と母親役になっていたね。それを決定づける瞬間が夕食の時に、マルコに『何を食べたい?』と聞いて『ドーナッツ』とマルコが答えると、ルディが『夕食にドーナッツなんて』という発言にポールが『たまにはいいじゃないか』と諭したシーン。あれは完璧に夫婦の会話だね」
小「そうでしたね~。まさにチーム保育ですね!自然と自分の役割というのを理解している感じですね。自分の得意分野を活かすという意味では、ルディは母親のようにマルコに寄り添い、ポールは父親のように少し離れたところから二人を見守っている・・・という絵でしたね」

山「あとは二人(ルディとポール)と暮らしてからのマルコの変化が、一番印象に残ったかも」

小「確かに、そうですね」
山「今まで母親に全くかまってもらえないまま育てられた結果、知能的に遅れていたけど、二人に出会い、何よりも学校に行き集団という中で過ごす事で、マルコ自身の発達は著しかったね。マルコの担任も2人の存在がマルコの成長に大きく影響していると言ってたしね」
小「園長先生の講演でも、新宿せいが保育園でダウン症の園児が集団で過ごす事で、みるみる発達をしていたという実例をよく話していましたよね?」
山「そうそう、おそらく映画ではルディとポールのお陰でマルコの発達が著しく成長したように話しているけど、そうは言っても例えマルコと同じ障がい児でも集団がマルコにも大きく影響していると感じたなぁ・・・」
小「そうですね、言われてみるとそうかもしれませんね。ただそういう視点は普通の人は感じないでしょうね(笑)」
山「そうだね、おそらく藤森先生の話しをよく聞いていると、集団というキーワードに視点がいくね」
小「ちなみに園長先生(藤森先生)が見ると、どういう感想を言われるか気になりますね」
山「確かに・・・どういう視点で捉えるのか・・・今度、臥竜塾で見てみようか・・・」
と言った感じで2人で「チョコレートドーナッツ」の感想を述べてみました。
一番は自分の目と耳で確認していただいた方がいいかもしれません。
マルコがダウン症だから、ルディとポールが同性愛だから可哀想と思って見るのでなく、
劇中でのセリフ「一人の人生についての話しだぞ」とルディが叫んだ言葉の通り、
障がいという偏見を持たずに見ていただくといいかもしれません(報告者 小松崎・山下)

マイスターから

新宿せいが保育園には製作ゾーンがあります。そこでは絵を描いたり、粘土で作品を作ったり、折り紙をしたり、箱で立体物を作ったりと様々です。子どもたちは皆そこでゾーン体験をしているようです。

ある子が粘土で上手に動物や自分で想像したものなどを次々と作り出していっていました。まさにゾーン体験ですね。それを見た職員たちは驚き写真を撮るほどです。
「この上手さはマイスターだね!」ということで粘土製作マイスターというものができました。少し特別感があり、更にマイスターのみ、紙粘土で製作ができるようになりました。絵の具で色も付けられます。
その紙粘土製作を嬉しそうにその子はやっていました。その様子を見ていたお友だちも興味津々‼︎僕、私もなりたいというような刺激を受けていました。
できた作品は、男性職員が「こんなのに入れたらカッコよくないですか?ピッタリっす!」といって展示してくれました。これもまた作った子にとっては嬉しかったようです。
作品を展示

作品を展示

このように子どもそれぞれの特性を活かし発展させてあげることでその子の自信へと繋がることがわかります。
さらにその子の兄妹(妹)の面談があり、その面談をした男性職員から聞いたのですが、兄の話まで盛り上がり、「ここの保育園は本当にそれぞれの特性を活かしてくれる。兄はその粘土のマイスターをもらったことで自信がついたようです。」という言葉もらったそうです。
こうして、やっていることが保護者にまで伝わっていることが嬉しく感じ、しっかりと保護者にまでこの保育を理解してもらえていることがわかります。こうした積み重ねがあるからこそ、保護者との信頼関係も強いものとなっていくのだと感じます。
この流れは、その子の特性を発見した職員、発展させた職員、展示した職員、違うクラスで面談した職員がクラスに関係なくこちらに伝えてくれることで共通に理解しているからこそ成り立っていることがわかります。この流れもチーム保育ならではなのでしょうね。
このチーム保育というのが子どもに自信を持たせ、保護者理解にも大きく影響していることがわかる出来事でした。
(報告者 本多悠里)

ユビキタス

先日、家族で上野動物園に行った時に面白いものを見つけました。

それは、これです。

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東京ユビキタス計画と書かれたこの看板。

よく見てみると子どもたちが小さな機械を持って、このUcodeと書かれている場所にその機械をかざしています。

 

すると、機械の画面にその動物の写真や説明みることができ、鳴き声までも聞くことができる様でした。よく美術館などで、こういった機械を貸し出しているを見たことがあったのですが、貸し出しをしている窓口に行ってみると、もっと大規模なもののようでした。

 

調べてみると、東京全体で何年前から試験的に導入され、今では銀座や、東京ミッドタウン等と言ったところでも使われているようです。銀座や東京ミッドタウンの場合は、動物園とは違い、大人向けで、商品の説明だったり、野菜の産地、作っている人の情報を知ることができるらしいのですが、これまで生活をしてきて全く気付かなかったので少し驚きでした。

 

この「ユビキタス」(ubiquitousは、元々は英語で「神様が遍在する」という意味だったらしいのですが、ラテン語のUbiqueの「いつでも、どこでも」の意味で最近では使われているようです。また、欧米で神様が「唯一神」なのに対し、日本では「八百万の神」ということもあり、日本的ユビキタスとして、やおよろずプロジェクトとしてたちあげているところもあるそうです。

 

と、ユビキタスについて長々と書いてしまいましたが、私が動物園で感じたのは、「これなのだろうか?」という疑問でした。

 

私が、子どもの頃などは、動物園の看板をわくわくしながらで読んだり、読めない字がある時、親に聞いたり、うまくいけば飼育員さんに聞いたりした記憶があります。

 

もちろん今も看板はあり、ガイドさんによるツアーもあるのですが、機械を持って子どもたちが嬉しそうに走り回り、色んな情報を得る。

確かに手軽で、分かりやすいのですが、すぐに答えを知ることができるというのは科学の発展ともいえるのかもしれませんが、子どもたちの科学発見という意味では少しもったいなさも感じてしまいます。子どもたちの興味をうまく引き出し、それをうまくつなげるのは難しいものですね。

 

(報告者 西田泰幸)

 

 

参照 上野動物園ユビキタス http://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/uc/index.html

ユビキタスシステム http://ts.uctec.com/uctec/jp/system/s_01.php

ちょっと待ってみる

個人的に、日々の保育を行ううえで“ちょっと待つ”ことを意識しています。言葉がけも、行動も、思考においても、自分の限界からちょっと待つことをすると、自分が思い描いていた想像の世界とは異なった世界が、そこに繰り広げられていたなんてことが多くあります。そんなことをこのように言っていながら、「そのつもりになっていただけだった…」「まだまだだなぁ…」と感じた出来事がありました。

皆さんは、この写真を見て率直にどう感じるでしょうか?

積み上げられた図鑑

積み上げられた図鑑

私は、隣のテラスで洗濯物を干し終えた後、部屋に入ってきたらこの光景が目に飛び込んできました。素直に、「なんだこりゃ?」と思いました。何かしようとしているのかなと思いつつも、本は一冊ずつ本棚から出して見ればいいし、片付けが大変だろうにぃと思ってしまいました。この場面は夕方だったこともあり、精神的に疲れていたのかもしれません。私が「図鑑出し過ぎじゃない?」と呆れ口調で言おうとした瞬間…

「パソコンとDVDらしいですよ。」

という声が後ろから聞こえました。「えっ?」と後ろを振り返ると、同じクラスの新人の職員が立っていました。もう一度、子どもたちの姿をよく見てみると、確かにデスクトップパソコンとキーボードです。

パソコンとDVD

パソコンとキーボード

手を素早く動かしながら、タイピングの物マネまでしていました。その職員に話を聞いてみると、どうやら子どもたちは、デスクトップパソコンでDVDを見ようとしていたそうです。また、積み上がっていた図鑑は、その大事なDVDだったのです。子どもに対して申し訳ない気持ちになったと同時に、その職員のタイミングのよい一言に救われた気がしました。

人は不完全であると思います。むしろ、不完全であるから魅力的なのかもしれません。いつも言っていることが実行できているとは限りません。しかし、その都度それを補ってくれる人の存在がいるということを感じました。例え、それが新人職員であってもです。その職員は、よい意味で思考も行動もゆっくりです。だから「ちょっと待ってみる」が自然にできるのかもしれません。それが、その人の特技であるのかもしれません。これからも、その特技に甘えてみようと思いますし、あの言葉を言われた瞬間「余計なお世話だ。新人が何を言ってるんだ!」などと思っていたら、きっと私の成長や学びは終わりなんだと思います。

最後に、その子どもたちはしっかりと全ての図鑑を片付けていました。むしろ、いつもより早いくらいでした。十分に、満足した遊びが行えたからでしょうね。

(報告者 小松崎高司)

話し合い

今回も学童での子どもたちの話し合いの様子を紹介させていただきます。

今回の話し合いは、2月の月案を子どもたちが決める際に小学校で土曜に授業参観があるため、振替休日として平日に子どもたちのお休みがズレたことにより、2月中に1日だけ子どもたちが丸1日学童で過ごす日ができ、その日に何をするかで意見が割れたために行われたものです。

出た案は、夏休み等の長期休みの際に必ず月案に出る、電気製品以外のおもちゃを学童に持ってこられる「おもちゃもってきほうだい」と普段は距離的になかなか行くことができない公園に行き、みんなで遊んでみんなで一緒に青空の下でお弁当を広げて食べる「ピクニック」です。

この2つの案をめぐって2グループで話し合いをしました。

ちょうどその頃、塾長のブログに話し合いに関して書かれている内容のものが「話し合い」「ディベートとディスカッション」「話し合いでの役割」の3つがありました。

私たち学童職員間でも、現在学童で子どもたちが話し合う機会を多くとっている最中ということもあり、私自身とても勉強になりました。

今回の話し合いは、特に「ディベートとディスカッション」に書かれている内容のものとリンクする点が多くありました。

この内容によると今回の話し合いは、ディベートに近い話し合い形式となっています。

2グループが向き合い、真剣にお互いが出した案の魅力を伝え合います。

その際に意見が動いた場合、グループの移動は自由です。

しかし、「ディベートとディスカッション」にも書かれている通り、ディベートは勝敗が付き物となってしまいます。

ディベートは、第3者(ジャッジ・観客)をより説得できたかで勝敗が分かれます。

ですので、勝敗の区切りを付けないためにも、第3者(説得対象)を我々保育者にせず、お互いが説得対象者となり、第3者を設けない形で、片方のグループが納得をして、全員が1つの案にまとまるまで行おうと考えました。

結果を言ってしまうと、「ピクニック」側に心が動いた子が多かったものの、全員とまではいきませんでした。

ですが、天気が良ければ「ピクニック」、悪ければ「おもちゃもってきほうだい」という案が途中で出て、子どもたちもこの案がお互いの意見が両方共に尊重されるためか、意見が統合されました。

しかし、子どもたちの意志によりこの話し合いは現在も進行中です。

ホワイトボードを用意し、新たに出た魅力や案を書けるようにしました。

そこには新たな話し合いの題目となるような内容が書かれていました。

それは「天気の良し悪しは登所してから変わることもあるから難しいのでは」といった内容です。

今後この題目で話し合いの機会を設けられたらと考えています。

今回の話し合いにより意見は統合されつつあるので、今度の話し合いはディスカッション形式で行ってみようと思います。

ディベートに似た今回の話し合いでもグループ間で協力的な姿勢を見ることができましたが、全員が1つの題目に向き合い、ディスカッションを行うとどんな協力的な姿勢が生まれるのか、そしてそこからどんな案が出てくるのか、未知数ですね。

未知数だからこそ面白い!

今後の話し合いでの子どもたちの様子も今後の活動報告で報告させていただきたいと思います。

(投稿者 若林)

子ども同士の影響

子どもたちの影響力は保育者を越えるということを改めて最近経験することができました。

というのも、今私の働く園の1・2歳児のクラスで言葉のまだでない子どもがいました。今年度が始まった当初も話を聞くことは特に問題はなかったのですが、言葉は「ア~ア」や「ン、ン」といった喃語のような言葉でした。園にもなかなか慣れなかったのですが、先生の中で落ち着く先生を見つけてからは少しずつですが、保育室の中でその先生の近くで遊ぶなど少しずつ慣れてきました。そんな子なのですが、最近になって、一語文が少しずつ出てきました。保育士はなによりもそのことが嬉しく、今その子の様子を見ています。では、その子にとって、何が言葉を出すきっかけになったのでしょうか。

その子は家庭でも、言葉の練習をしても、あまりうまくいきません。単に言葉の遅れだとはいえ、それでも2才児で高月齢の子どもにとってはやはり遅いです。そこで言語療法士のかたからのアドバイスがありました。「一番良いのはお世話の好きな女の子がいると言葉が出てくるかもしれません」なるほど、それはあるかもしれない。そんなことを言われたからかどうなのか、今年度も終盤に入っていく12月になんとお世話をする子どもと遊んで居るではありませんか!!「おやおや」と見ていると、その女の子と一緒に遊んでいるうちに喃語の発声がとても力強くなってきます。もう少しだね。保育士の他の先生といっていると家庭から来るお便り帳には「初めてパパ、ママと聞きました」という内容が!それからは「保育者の名前が出てきました」というように少しずつですが、言葉の出てくることが多くなってきました。

まだまだ、保育園ではそれほど言葉を発していないのですが「嫌」や「パパ、ママ」など確実に単語は増えています。もちろん発達によって追いついてきたという見方はあるのでしょうが、安心する先生、慣れていた環境、そしてなにより子ども集団の中にいたからこそ、より言葉の発達が促進されたというのは間違いないことだと思います。大人はジェスチャーで察したりしますが、子ども同士ではそれだけでは伝わりきらないところもあったと思います。しかし、そうではなく、一番は声の出ない子にとって、発声している子どもの姿がモデルになったからではないかと思いました。考えてみるとその子は職員の膝の上にいながらも子どもたちの遊ぶ様子を観察していました。

言葉のでなかった子どもの変化はそれまで大人と関わりばかりだったのが、子ども同士に変わってきたその時に大きく変わりました。改めて子ども集団の大切さを感じるとても良い機会でした。藤森先生の講演の中で「ミラーニューロン」というものがありました。そこの記述にとても気になることが・・。「ミラーニューロンが言語の発達と言語の進化にとって極めて重要な脳細胞であるという仮説において信憑性を持たせることになるのです。」なるほど、もしかしたら、子どもたちのこの変化はミラーニューロンが大きく関わっている様子ですね。ブログ臥竜塾の中に「ミラーニューロンは、他人が受けている状況に共感する能力」とあります。そして、その能力は「非言語コミュニケーション」や、「模倣」はそのミラーニューロンのためにできるらしいです。たしかに子どもたちにとって、大人の模倣もモデルとしては必要でしょうが、やはり子ども同士の関わりというのは一番近いモデルであって、大人がモデルを示すより、より大きな影響を子どもに与えているというのを感じます。そして、それは遊びだけではなく、子どもたちの生活や発達にまで、大きく影響が起こることだということを改めて感じました。

(投稿者 邨橋智樹)

「ラッキーBOY ラッキーGIRL」のその後

数日前に、山下先生によって「ラッキーBOY・ラッキーGIRL」の報告がありました。今回の報告は、その後の話です。

椅子に貼られたシールは、職員が仕掛けた物でした。子どもたちは、おやつの時間や昼食の時間になると「今日は、ラッキーBOY ラッキーGIRLあるかなぁ?」などと言って、楽しみにしている様子が伝わってきます。

そんな日が、数日続いたある日。一人の5歳児の女の子が「先生、お話があるんだけど…」と来て、私の耳にヒソヒソ話をし始めてこう言いました。

「…あのね、次はね、私がそのシールに絵を書いて、椅子に貼りたいの!」

この言葉を聞いた時、その子が無償に愛おしくなりました。「いいね、それ!」と言いながら、すぐに真っ白いシールとペンを渡しました。その子も、ニコニコ楽しそうに笑いながら、すぐにシールに絵を書いていました。

子どもが描いたシール

子どもが描いたシール

新宿せいが保育園の【保育目標】には、「やりたいことをやれる子ども(意欲的な子ども)」、「人の喜びを喜べる子ども(思いやりのある子ども)」があります。そのような育ちになっている喜びと、何よりも人の喜びを感じて、それをさらに生み出そうとする心意気に感動したのです。

そして、ある昼食の日。その子が「今日さ、私が書いたシール付けていい?」と言ってきたので、子どもたちに見られないように隠していたシールを渡しました。その子が、どのようにシールを貼るのかドキドキして観察していました。当然のように、他の子どもたちに気づかれないように設置しなくてはいけません。しかし、その子は、昼食をもらおうと友だち同士で並んでいた子どもたちに向かって、両手を振りながら大声でこう言ってしまったのです。

「何もしてないから私を見ないで〜」(笑)

職員たちは爆笑です。職員は慌ててその子を呼び寄せ、シールをばれずに仕掛ける趣旨をもう一度確認しました。気持ちが高揚しすぎているのを和らげ、その子は再びチャレンジします。幸いにも、並んでいた子どもたちは、その子の言葉を聞いても「……?」だったので、計画は続行できました。計画は、まず仕掛ける椅子を目立たないところに移動し、そこでシールを貼り、気づかれないように椅子を戻すといった内容です。その様子がこの写真です。

椅子を設置しているところ

椅子を設置しているところ

平然を装っている様子が、後ろ姿からでも伝わってきますね。

無事に、気づかれずに椅子が設置され、みんなが揃って“いただきます”をする前、ラッキーBOY・ラッキーGIRLの発表をその子からしてもらいました。その時の喜びといったら、シールが貼ってある椅子に座ってラッキーGIRLとなった女の子以上の喜びを表現していました。

人に与える喜びは、自分の喜び以上のものであることを子どもから学んだ気がします。

 

〈エピローグ〉

人に与える喜びを味わったその子は、また次なる喜びを生み出すために、別なラッキーシールを作っていました。

喜びは続きます

喜びは続きます

こういった活動や喜びの渦を、クラスへ・保育園全体へ・地域へと広げていくことが私たちの役割でもあります。

 

(報告者 小松崎高司)

何が目的で、何が大切なのか?

新宿せいが学童クラブでは、来年度の保育園増設に向けた工事が始まり、子どもたちの生活するスペースが少し狭くなっています。普段は、子ども広場という学校の校庭を自由に使えるという場所があるので、それほど気にすることはありません。

ですが、雨の日となると、外に出ることもできず、少し子どもたちの熱気であふれてしまいます。そんなこともあり、学童部屋の、隣の保育園のホールが空いている時は遊びに使わしてもらっています。

私も6年ほど前は、学童の担当だった時があったですが、その時はそのホールを使う時はいくつかルールがありました。

1つは、危険な遊びをしないこと。

2つめは、何をして遊ぶかちゃんと話し合って決めること。

3つめは、上履きをちゃんと履いて遊ぶこと。Etc

 

今では、そのルールも特に大人からいうこともなく、子どもたちの中でルールを作って遊んでいるようです。

つい先日も、ホールが空いていて使えるという時に、子ども達で集まり、何をするかということを決めていました。ほとんどの子が「ドッチボールがいい」といいそれで決まりそうでした。ですが、ある子が「待って。上履きを履いていない子がいる!」と言い出しました。見ると確かに数人の子が上履きを履いていませんでした。

子どもたちの中で、

「上履き履いていないと、危ないからできないんだよ」

「また履いてない人は今度だね」といった声が上がる中、

「なんで上履きを履いてなきゃいけないんだっけ?」という子がいました。

「だって上履き履いてないと滑るからでしょ。」

「間違って踏んじゃうと危ないし」といった意見が出ると、その子が「じゃあ、みんな裸足になればいいじゃん。」と言いました。

「確かに、じゃあみんなで裸足になろう!」とみんなで靴を脱ぎ、楽しくドッチボールを始めていました。

 

私は、子どもたちが「目的が何なのか?」「なぜそういうルールがあったのか?」という大切なことをしっかりとみんなで考え、そして自分たちの楽しくできるように変化させていく姿に見ながら、とてもうれしく感じて今いました。

実は私がいた頃の3つ目の上履きをちゃんと履いて遊ぶことのルールには、実は上履きを忘れて持ってこない子や、ほったらかしにして遊んでいる子が多く、自分の身の回りのことをしっかりしてからホールで遊ぼうという意味もありましたが、もちろん、そんなことは伝えませんでした。

大人も子ども達と同じで、「何が目的で、何が大切なのか?」ということを考えた時、大人がどう動くべきかは、自然と決まるものですね。

(報告者 西田泰幸

自由

先日、残り2か月の学童生活をどう過ごしていくかを子どもたちと話し合いました。

これは私ではなく、もう1人の学童職員がその機会を設けてくださいました。

このような話し合いに至った経緯は、全員で同じ時間を共有する際に、まとまりやメリハリがなく、子どもたちがどうしたいのかがわからないということからです。

学童での日常生活の中で全員が同じ時間を共有する時が2回あります。

1回はおやつの時間で、その際に今日の活動内容等を職員から子どもたちに伝えたり、その日開けるゾーンなどをお当番さんが皆の意見を聞き、決めていきます。

もう1回は、17時で一区切りとしていて、17時になる前に全員で1度集まり、お部屋全体を全員で掃除するというものと、17時以降のゾーン決めを行うものです。

この2回とも最近はまとまりやメリハリがなくなってしまい、時間までに終わらなくなってしまうことがしばしばという現状でした。

しかし、この2回に含まれるゾーン決めも17時前の掃除も子どもたちが決めたことなのです。

今回行われた話し合いの意図は、「子どもたちだけではまとまりもメリハリもなくなってしまって、せっかく遊べる時間も自分たちで潰してしまっているのが現状だから先生たちが一から十まで決めてあげようか、その方が遊べる時間が多くとれるよ?」と提案し、自分たちが普段どうしていくべきなのかを気付いてもらうというものです。

そこで各学年に分かれて話し合ってもらい、話し合いで出た案を紙に書いてもらいました。

書いてもらった内容に最も多く書かれていた言葉が「自由」です。

子どもたちが主体の学童、子どもたちの学童だからこそ月案からゾーン決めまでの全てを子どもたちが決めます。

子どもたちはそれを「自由」と捉えていたのでしょう。

あながち間違いでもありませんし、むしろ正しい捉え方なのかもしれません。

しかし、自由には責任が伴います。

話を聞いていると子どもたちはしっかりわかっているのです。

ただ、自分以外に多くの人が共に過ごしている学童では、全員で決めた事も「私が決めた事ではないから」と責任を逃れようとしてしまう子もいます。

これが今回の話し合いにまで至ってしまった問題の根底にあるものである気がします。

子どもたちみんなの学童であり、子どもたち一人一人に決定権があるということは、子どもたち全員で1つのチームであるということだと思っています。

よくチームスポーツで、チームの誰かが問題を起こしたら、連帯責任となり、チーム全員の問題となることがありますが、根本的には同じことが言えると思えます。

今回の話し合いでは、このようなチームの定義を感覚的ながらも子どもたちにわかってもらえていれば良いのですが…

今後の子どもたちの動向が楽しみです。

(投稿者 若林)