先日、対人知性についての報告をさせていただきました。
今回もそれに少し関連した出来事があったので報告させていただきます。
スポットを当てるようになると、今までなら受け流していたことも、関連性を帯びたものとして捉えられるような感覚になるから不思議です。
写真右の子がテーブルいっぱいにおままごとを広げていることがことの発端でした。緑の服を着た子が見つめています。その遊びに加わりたいようですが、きっかけを見つけているのか、中々声をかけられずにいます。
これも一つの対人知性と捉えます。アメリカの心理学者ハワード・ガードナーは、
- 対人知性とは、他人を理解する能力をいう。この人の動機は何か、あの人はどう動くだろうか、皆と協調して動くにはどうすればいいのか、といったことを理解する能力だ。
- 対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」である
と、対人知性を説いています。言い出せない子に勇気が足りない、と一側面的にはそう見てとることもできるようにも感じますが、〝遊んでいる子の気分を察して言い出さずにいる〟という、大人で言う〝空気を読んでいる〟行為ともとれるように感じています。それらが生む葛藤をしっかりと心の中で感じながら、それが表出されたような表情が写真には現れているように感じるのですが、いかかがでしょうか。
ここで、先日報告させていただいたブログ(泣いていた子のそばに来た子ども達が面白いことをして笑わせた、というような内容の報告です)から、藤森先生がこんなことを仰っていたと本多先生から伺いました。要約した内容を書きます。
「泣いている子をただ単に保育者が受け止めてしまえば、そこにその子を笑わせようとする子どもは現れなかったかもしれない。保育者が見守ることによって子ども達同士の関わりが生まれ、その子達の対人知性を伸ばすきっかけが生まれた、とも考えられる。もし、そこで生まれた関わりが見守ることの難しいものだった場合には、例えば軌道修正してあげたり、援助してあげたりすること。それこそが保育者の役割ではないか。」
藤森先生が僕の報告を話題にして下さったことの嬉しさと同時に、そのことを僕に教えてくれた本多先生に感謝の気持ちでいっぱいになります。
〝軌道修正〟
〝援助〟
その言葉に触発され、ありきたりながら、この子ども同士の関わりの中に、ちょっと顔を出そうと考えました。
すると、面白いものです。「いーれーて」の言葉なしに、その子は遊びの中に入ることができました。緑の服の子も嬉しそうです。
すると、ここでちょっとした問題が発生します。
写真右側の男の子が、勝手にそこにあったバナナをとってしまいます。
すぐに元にあった場所へ戻していました。その子もどうやら遊びの中に入りたいようです。緑の服の子がどう入れてもらおうか迷っていたこととは大違いな大胆な入り方ですね(笑)
なので、ちょっと落ち着いたところで、その子にもコップを渡してみました。
すると、
あそびに入れてもらえた満足感からか、自分であそびを発展させていました。
ここで、ちょっと見守ってみることに。この後、また一人加わるのですが、その子は遊んでいる様子を見た後、どこか別の遊びに向かっていきました。
さて、数分後。
もしかしたら子ども達の関わろうとする思いだけでは進展し得なかったことも、一緒に遊べたり、遊びを発展していくきっかけになったりとすることが、大人の援助によって、可能になることを実感しました。
また、関わろうとする力、つまり対人知性にもそれぞれが育くんできた感覚というものがあるのか、ゆっくりと距離を縮めていく子もいれば、いきなり玩具をとるような形で関わりを生み出そうとする子もいるようです。どちらがいい悪いということではなく、それぞれが子ども個人の持ちうる最高の能力でもって関わっているということを大人が理解して、援助をしようとすることが大切と言えるのかもしれません。
「保育者が見守ることによって子ども達同士の関わりが生まれ、その子達の対人知性を伸ばすきっかけが生まれた、とも考えられる。もし、そこで生まれた関わりが見守ることの難しいものだった場合には、例えば軌道修正してあげたり、援助してあげたりすること。それこそが保育者の役割ではないか。」
時に自分に問いかけながら、保育者としての役割を、これからも担っていきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)
ペットボトルを渡す、コップを渡すという行為だけで、子ども同士の関わりを生み出すことができるのですね。また、「ゆっくりと距離を縮めていく子もいれば、いきなり玩具をとるような形で関わりを生み出そうとする子もいる」という言葉が感動しました。私も、主体性や自発性には、各々種類があるようにも感じます。それはスピード感であったり、思考時間であったり、物静かさであったりなど、大切なのは“その子の時間”を把握するということのようだと考えさせられました。
子どもたちが行っている行為に対して、私たち大人の価値観だけで判断してはいけないなと思わされました。その子によって、関わり方は様々です。ちょっと強引な子もいれば、どうして関わっていいのかなと迷いながら、葛藤している子もいます。そのことに私たちが気がつき、認めることが多様な価値観を肯定することにもつながっていくのかもしれませんね。また、加藤さんのペットボトルを渡すという行為から生まれる子どもの姿に、子どもたちの関わりを生み出す可能性を感じました。私たちは子どもたちの様子を観察し、あれこれと試してみて、そこから生まれる子どもたちの関係性をさらに考えていくというまさに実験と研究の実践の場に身を置いているのですね。なんだかそのことに気がつき、いい意味で興奮するようでもありました。保育は奥が深くて、おもしろいですね。