求めるもの

子どもはなぜ、他児との関わりを求めるのでしょうか?

1歳児同士で玩具の取り合いがありました。2人は険悪なムードを漂わせます。「ケンカするなら近づかなければいいのに…」と思ってしまうのですが、またすぐにその2人は近づき、お互いの様子を見合ったり、マネをしたり、時には微笑み合ったりもするのです。

他児とのトラブルによって、打ち拉がれたように地面に突っ伏している1歳児がいました。そこへ、泣き崩れているその子を見た近くの0歳児がハイハイで寄ってきます。すると、何をするというわけでもなく、ただそばに座り込み、時折背中に手を添えたりしながら様子をうかがっているのです。

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手を繋いでいるある2人を見て、自分もそこに加わりたいと相手に訴えている1歳児がいました。しかし、相手は手を繋いでくれませんでした。半ば泣いているような声をあげながら、手を振り払われても、振り払われても、何度も手を繋ごうとします。「目の前にある玩具で遊べばいいのに…」と思ってしまいますが、どうしてか他児と手を繋ぐことを求めています。

このような子どもたちの姿を目にすると、冒頭にあった疑問が頭を巡るのです。塾長のブログには、人類誕生から生存戦略に至るまでの軌跡が数多く考察されています。そこには、ホモサピエンスの生存戦略によって、誕生以来生き延び、遺伝子をつないできたキーワードとして「協力」「共有」「助けよう」「分かち合いたい」というのがありました。そこから、先ほどの子どもの姿を考えていくと、子どもたちは「生きようとしている」ということが理解できます。どうして子どもたちは、他者とも関わりを求めたり、時には自ら嫌な思いまでするような行動をしたり、相手の気持ちを分かろうとするのかというと、それが「生きるため」には必要なことであったからなのですね。

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塾長のブログには、こうも書かれてありました。

『現在、「対人知性」と呼ばれる知性が、生きていくうえで最も大切だと言われています。この能力は、他人との関係性を築く力ですが、いわゆるコミュニケーション能力と言われるような、人と人とが言語によって会話をするとか、自分の考えをきちんと主張するという力ではなく、他人を理解する能力をいいます。例えば、「この人の動機は何か」「あの人はどう動くだろうか」「皆と協調して動くにはどうすればいいのか」といったことを理解する能力なのです。』

また、対人知性の本質は、『他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力』であるとありました。「生きていく上で最も大切」という単語には惹かれますね(笑)。

来年3月5日(土)に行われる行事「成長展」のテーマは【対人知性】です。互いに求め合う子どもたちのつながりや、他者の気持ちや行動を「察する能力」、そして、それらを考慮した反応や行動に着目して、保育を見ていきたいと考えています。

鏡を見れば、自分という他者もいる

鏡を見れば、自分という他者もいる

(報告者 小松崎高司)

雰囲気

今年度から新宿せいが保育園の3階にこんな扉が出来ました。

 

この茶色い扉の向こうには一体何があるのか子どもたちはいつも興味津々です。

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そう、この格式高い扉の向こうには茶室があります。この茶室はとても綺麗で畳のいい匂いがします。お茶をたてられるような道具、兜、掛け軸とあり雰囲気は保育園とは思えないとほどの空間となっています。

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そんな茶室でなんと年長の子たちだけでご飯を食べています。
いつも興味津々だったその扉の中に入り、ご飯を食べられることは子どもたちにとっては大きな喜びだったようです。
ただ、嬉しいだけでは食べられないのがこの茶室であります。笑
茶室は騒ぐ所ではなく、もちろん静かにしなければいけない空間です。まだまだ私も茶室に関しては知識が乏しいため、子どもたちには
「騒ぐ所ところではないので、騒ぎたい人は外で食べてね」と伝えています。
まず、そんなことを伝えて茶室にそーっと入って行きます。それだけでも子どもたちはこの茶室という雰囲気を感じ、顔はいつもよりニヤニヤしているものの、期待と好奇心を持ちつつ、いつもより落ち着いた気持ちでこの茶室に入っていきます。
そして、ちゃぶ台の横に着座するなり、ちゃぶ台に手を置き体重をかけ反対側のが浮き「ガタンッ‼︎」と大きな音…
バッ‼︎とみんなが振り返るとそのやってしまった男の子は、
「やってしまった…」
というような表情を浮かべています。
やはり、静かにする場所と伝えてはいますが、それ以上にこの茶室という雰囲気を肌で感じ、静かにしなければいけないという感覚というよりかは、体が自然と静かになっていくような体験をしてもらいたいと感じます。
それは塾長の言うメリハリへと繋がっていくことがわかります。1日をずーっとテンション高くいるのではなく、一時的に静かにする場所で落ち着いて過ごすことでメリハリがつくというイメージでしょうか。
そんな雰囲気があることで子どもたち普段味わうことのできない、経験をここでしているのではないかと思えます。
そして、いざ食事へ…
その食事を何度か繰り返すうちに新たな発見が生まれていきます。
その発見は次回に報告していきたいと思います。
(報告者 本多 悠里)

ぬか漬け

私は幼い頃から漬け物が大好物です。
漬け物が嫌いな人からは速頂くというスタンスでいつもやらせて頂いています。そんな漬け物好きの私ですが、ぬか漬けというものは食べたことはありますが漬けたことはありません。もちろんぬか漬けも大好物です。そんな大好物な物を漬けたことがないということに恥ずかしさを覚え、漬けてみることにしました。
それも自分の家ではなく保育園で…
やってみたい!と思ったらすぐに実行に移してみようと思っている最近です。
そのすぐに実行に移すというのはここ新宿せいが保育園で学んだことでもあります。
そんなこんなで準備したのが本格的な壷です。
まずは形から…笑
汚いのは終わった直後のため…いつもこんな感じです。

汚いのは終わった直後のため…いつもこんな感じです。

糠から用意しようと思ったのですが、なかなか手に入れるのが難しいようなので市販で売られている糠を購入してみました。
保育園で玄米を精米しているので、いずれその糠を使ってつけてみようと思っています。
早速、子どもたちに、
「ぬか床を作るけどやりたい子はいる?」
と聞くとぱらぱらと、
「やりたーい!」
と言ってくれました。ぬか床の意味もわからないままやりたいと言っている子も多数いましたがやってみて肌で感じてほしいと思っていたのでちょうどいいですね。
市販の糠を壺に入れ、水を加えてコネコネ…
子どもたちはこのコネコネを砂遊び感覚で楽しんでいるようでした。さらに年少の子から年長の子まで興味を示し積極的にやる姿が見られます。
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この作業をしたら調理さんに届け、冷蔵庫に保管してもらいます。
そして、毎日やりたい子だけで調理さんと一緒にぬか床をかき混ぜに行きます。
ここも自主的に行きたい子がいきますが定員オーバーなほどやりたい子が多くいることに驚いています。糠をかき混ぜることが得意な子は、もはや「ぬか漬けのプロ」と呼ばれています。笑
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ここ1ヶ月、飽きもせず繰り返してくれています。
漬けているのは、きゅうり、なす、だいこん、にんじんとスタンダードな物を漬けていましたが、最近ではどんなものが美味しいのか試してみようということになり、オクラ、ブロッコリー、とうもろこし、みょうが、ピーマンなどに挑戦していこうと思っています。
新宿せいが保育園での現在のテーマは
「伝統」です。
実は子どもたちとなにか伝統的なものを継続してやってみたいと思い、考えついたのがぬか漬けです。もちろん漬け物が好きだという理由もありますが、本当の理由はこちらです。
伝統というのは、伝統の建物自体が伝統というのではなく、作っていく過程で、昔の人がどんなように作ってきたのかが重要であり、建物であれば伝統の木の組み方を熟知している人こそが伝統を引き継いできたことになります。
そうなるとぬか漬け自体も伝統ではありますが、その作り方が1番伝統的なのではないかと思えます。
その過程を子どもたちと行うことで自然と子どもたちも伝統を体験できます。
伝統…パッと思いつきそうですが深い意味がたくさん込められている言葉でありますね。
できたぬか漬けはお昼ご飯やおやつのときに一緒に食します。
独特な味に好き嫌いはありますが好きな子はどんどん食べています。
また、あるお子さんが保育園でぬか漬けを作って食べたことを親御さんに話したようで連絡帳に…
「ぬか漬けを保育園でしているなんて感動しました。美味しいというので、うちも急いでぬか床を用意して始めます!」
と書いてありました。
こんな繋がりを持てることは幸せなことですね。
こういった取り組みを継続していけたらと思いながら日々ぬか床いじりをしています。
(報告者 本多悠里)

距離感

久々の投稿となってしまいました。

なぜ活動報告を書くにまで至らなかったのか、自分なりに見つめ直した結果、子どもたちの姿を見るスタンスに問題があったのと、慣れようと必死だったのか、気付きの少ない日々を淡々と過ごしていってしまったような気がします。

私は勤めさせていただいている新宿せいが保育園で3年目を迎えています。

今年は1歳児クラス担当ですが、1年目は3・4・5歳児クラスのフリー、2年目は学童クラブを担当していました。

3年目の現在では、様々な点で少しずつわかることが増えてきたと実感しているのですが、1年目・2年目はまだまだわからないことばかりで自分で周知している課題点だけでも数えきれないほどありました。

その中でも今回のタイトルである「距離感」が最も悩んだ課題点であり、今でも悩んでいる点です。

昨年度の学童では、言い方の表現が正しいかわかりませんが、子どもたちに活動を投げて、見守り、それを子どもたちが子ども集団内で発展させていった姿を題材に考察していたことが主だったため、今年度の1歳児クラスの子どもたちとの距離感との差が強く出てしまい、気付きが少なかったのかもしれません。

また、私自身の長年の課題もあり、それも原因の1つかもしれません。

1度慣れたスタンスを崩して、新しいスタンスに変化させることに対して何を恐れているのかわからないのですが苦手なのです。

柔軟性に欠けていますね…

なので、昨年度培ったスタンスがそのままの状態だったために、子どもたちとの距離感が近くなったことに順応できず、近くなった分視野が狭くなり、昨年度まで見えていた範囲よりかなり狭まっているように感じてしまっていたのかもしれません。

言い訳ばかりずらずらと書いてしまいましたが、自分に対する意思表明のためと再出発の意味を込めて書かせていただきました。

そして、自分の今年度のテーマは、距離感に応じた「視野の確保」と「柔軟性」を掲げていこうと思います。

今後も子どもたちの姿に限らず、より多くの気付き、学びをこの報告から深めていこうと思います。

これからも拙い報告が多くあるかもしれませんが、温かく見守ってくださいますようよろしくお願い致します。

 

(報告者 若林)

個々の発達を保障する —異年齢終章—

これまで、4回に分けて「異年齢」についての考察・振り返りを行ってきました。異年齢集団とは「大人になるための準備である」といった視点から見ると“発達の幅・多様性・能力の定着”の3つの観点が、社会の形成者としての資質のために必要な環境であることが分かってきました。しかし、それら3つが環境として存在するからといって、大人になるための準備が全て整うということでもないのだと感じます。子どもが、自分たちが置かれている環境に自ら働きかけることによって、初めてその環境の意味があるのです。子ども一人ひとりの発達に合った環境がそこになければ、当然自発性や主体性は生まれないと思います。これまでは、幅の広い異なる年齢同士が関わるとはどういうことか、それによってどのような力を得ることができるのかということを考察してきましたが、ここで一つの疑問が浮かび上がってくると思います。

「異年齢集団において、個々の発達は保障されるのか?」と。

塾長は「異年齢」ではなく、【縦割りではない異年齢】を提唱しています。それは、発達の異なる子どもを一緒にしたり合同にしたりする、ただの「異年齢」ではなく、生年月日や月齢という刷り込みを取り払い、子ども一人ひとりの発達と保育の狙いに応じて集団や関わり方を変え、個々の発達をきちんと保障するといった柔軟な「異年齢」です。その代表的な環境として、0・1歳児の、年齢で部屋を分けるのではなく、「発達で空間を分けていく環境」があり、同時に「発達の少し上の子どもの姿も目にすることができるという環境」の構成があります。これは、発達の差が激しい乳児期だからこそ必要であり、作ることができる環境でもあると仰っていました。環境に子どもを合わせるのではなく、子どもに環境を合わせていくという、保育とは“子どもが主体”であることを再認識させてくれる分け方でもあります。

また、3・4・5歳児の異年齢では、異年齢で無理矢理遊ばせるのではなく、広い幅の中から遊び相手も自分と合った友だちを選ぶことができる環境でもあり、そこでも、あくまで“子どもが主体”であることが感じられます。そして、子どもは自ら自分の発達に合った環境を選んでいるという前提のもと、「習熟度別保育」「選択制」「順序性選択」といった方法があり、自発性・主体性を妨げることがない環境が、【縦割りではない異年齢】にはあるのです。

つまり、異年齢とは、年齢の異なる子ども同士を関わり合わせることで、このような利点があるよという「目標」ではなく、個人差や発達差に対応するため、子どもの発達保障を目指す【保育方法】であったのだと感じました。なので、ただ異年齢にすればいいということではないのです。そして、塾長は「子どもを直接見て保育をすることが大切である」と仰っています。異年齢とか年齢別とかの枠組みにとらわれるよりも、刷り込みを取り払い、発達の連続性を踏まえ、ひとりの子どもが今何が出来てどの発達過程にいるのか、次の発達のための環境をきちんと保障できる保育が行えているのかということを【縦割りではない異年齢】を通して、念を押して保育界に訴えていたのだと感じました。

すべては、『個々の発達を保障するため』であったのです。

(報告者 小松崎高司)

能力の定着 ー異年齢ーを読んで

園庭でも、異年齢での関わりがとても多く見られます。小松崎先生の報告の中に〝幅の広い異年齢集団を構成することによって、新しい知識や価値観を取り入れ、さらに自分たちの能力を定着させるため、「教え・教わる」関係が自然に生まれるための環境を意図的に設定している〟とありました。

じー

じー

カゴを押しているのは2歳児クラスの子。柵に掴まっているのは、1歳児クラスの子です。何やらじーっと見つめていますね。

よいしょ

よいしょ

見送ったようです。すると、何かを探してあっちへ行ってしまいました。

これこれ。あったあった。

これこれ。あったあった。

見つけて戻ってきました。

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あ、どうも

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大満足♪

このような、関わりがとても多く見受けられます。ちょっと坂になっているこの場所でのカゴ押しは、1歳児のこの子にとっては少しハードルが高かったかのかもわかりませんね。でもやってみたい。やってみたら出来た!!2歳児のこの子は1歳児の子に教えようと思って、意図して目の前を何度も通ったわけではないのでしょうが、これこそ、〝「教え・教わる」関係が自然に生まれるための環境〟がそこにあるということであると思います。

また、これらの姿を見て異年齢の関わりそのものも素晴らしいなと思うのですが、何といっても、それらをよしとする職員の姿勢に心を打たれるのです。保育園の環境は、保育室や園庭のつくりいかんにせよ、大人が子どもに向ける眼差しによって大きく左右されます。

それをうまく説明できないのですが、例えば。カゴはその後別の遊びへその子が向かった為に、坂の途中に放置されました。多くの保育園では、もしかしたら「危ないから」「邪魔だから」「出したものは片付けよう」などして、元にあった場所へ大人が持って行ってしまうかもわかりませんね。ところが、そのカゴはずーっとそのままの状態なのです。それが、もしかしたら次の関わりに繋がるかもしれない、次の遊びに発展するかもしれない、という保育者からの意図であり、また、落ちているカゴ一つで、玩具一つでいちいちヤキモキしない(笑)心の余裕であると思うのです。

部屋や園庭の掃除を徹底することが保育者の大切な仕事ではありません。きれいにこしたことはないですが、掃除なら掃除のプロがいるわけで、その道の業者さんに任せればいいのですね(笑)藤森先生は、保育者の仕事とは『環境をデザインすること』と仰っています。

〝「教え・教わる」関係が自然に生まれるための環境を意図的に設定している〟。僕らは常に何らかの意図をもっています。その意図を、さも正しいことで片付けてしまうのはもったいないと思います。保育園で生まれるドラマの一つ一つにそのドラマが生まれる為の布石があり、その布石は、目の前の子どもや職員を見守ろうとする温かな眼差しによって生まれているのかもしれません。

(報告者 加藤恭平)

また遊んでねー

また遊んでねー

初の懇談会

先々週の土曜日に息子の保育園の懇談会がありました。

当初は出る予定ではなかったのですが、遠足が延期になってしまったので夫婦二人で参加しました。

 

基本的に私は保育園で担任をもっていないので懇談会という物に初めての参加になります。

懇談会の様子は、翌朝の朝会で聞くだけなので、実際はどのような雰囲気なのかいつも気になっていました。

ですから参加することが決まって内心はとても楽しみにしていました。

 

ドキドキしながら息子の保育園に向かい、わが子を預けて、いざ保育室に入りました。

やはり母親が多いのかな?と思っていましたが、私以外にも3人のお父さんが参加されていました。

 

まずは担任の自己紹介から始まり、続いて保護者の自己紹介です。その時にお子さんの自慢話をして下さいとのこと・・・。

それぞれの保護者の自己皆さんが我が子の自慢話を展開されて、なかなか面白かったです(笑)

ちなみに山下家の自慢話は、よく妻と歌を歌うので、歌詞の最後の部分だけ一緒に歌って楽しく過ごしていることです。

自慢話というか、一緒に過ごしていて楽しい時のエピソードですね。

 

さて懇談会の話題に入りましょう。

まずはこの時期から「イヤイヤ期」についてです。

以前、私の活動報告でも触れましたが、懇談会でも議題にあがりました。

 

お兄ちゃんお姉ちゃんがいる家庭は、この時期を一度経験しているかもしれませんが、

初めてのお子さんの家庭は、まさに未知との遭遇かもしれません。

保育園からのアドバイスとしては、「受け止めて切り返すこと」と話していました。

子どもの自我を受け止めているつもりでも実際は受け流していることがあるとのことです。

 

子どもが「いや!」と言えば「やらなくていいよ」と言い、「○○が欲しい」と言えば与えるといった、

要は子どもの言いなりになる関係でなく、

子どもの欲求を「こうしたいんだね」と共感し、意味づけをする、行動の背景を理解してあげる関係を築いて下さいと。

 

よく塾長の講演でも、この辺りの話はよく出ますし、園内研修で質問事項でも多いです。

それに対しての答えは、

「まずは本人に共感してあげること、そしてちゃんと向きあえば分かってくれますよ」と。

1歳だからといって、まだ何も分からないと決めつけるのでなく、一人の人間と接することが大切なのかもしれません。

とは言っても全員が素直に言うとおりにしてくれるか?というと、難しいかもしれません。

見守る保育の基本、子どもを信じる。

保育士はもちろん、親が我が子を信じてあげないといけませんね!

 

あとは事前に懇談会の出欠表の提出の際に、子育てにおいて疑問に感じていることや、悩みなどがある方は書いていたそうです。

 

その中で「しつけをどのようにしているのか?」という質問がありました。

何人かの家庭にどう考えているか聞いていましたが、山下家に振られ、妻が答えたのは

「逃げ道を作ってあげたい」と言いました。

「まだイヤイヤ期がピークではないので、そこまで大変ではないですが、今後成長して怒ることがあった場合、二人で怒るのではなく、

どちらか一方が怒った場合はどちらかが怒らないで安心基地になってあげる」と。

それを聞いていて、おそらく私は安心基地ではないな(笑)と思いながら聞いていました。

 

そんな具合で懇談会が終わりましたが、

感想としてはもちろん初めての体験だったので刺激が多く、いい経験をしました。

そして、わが子が安心できる保育園に入園できたことに嬉しく思います。

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親になってみて、色々なことが初体験と同時に、

自分の保育園を親の目線から見ることができるようになったと思います。(報告者 山下祐)

能力の定着 —異年齢—

異年齢集団という「発達の幅」や「多様性」が存在する環境によって、子どもたちは大人になるための準備をしています。大人社会には様々な発達や異なりが存在しているわけですが、そのような中で、社会に適応し、必要な力を携え、自分を表現し、その力をいつでもどこでも使用できるようにしなくてはいけません。その上で最も重要な行程でもあると考えているのが、「能力の定着」です。その過程が自然発生的に生まれるのが、「異年齢集団」でもあるのだと思います。

塾長は「教えることにより能力を定着させる」「学んだことを様々な方法で表現し、人に伝えようとすることは、知識を構築するうえで非常に役に立つ」と言っています。そこからは、他者から“教わるだけ”であっては自分の力にならないこと、教わったことを別の他者に“教える”場が必要であるということが読み取れます。そのため、「教え・教わる」経験を重要視しているのですが、なぜ「教わる→教え」ではなく「教え→教わる」であるのかということを考えてみました。能力を定着させるため、まずは、他者から自分にはまだない能力を“教わる”必要があるのだと思っていました。それがあって初めて、模倣からの“教え”があり、能力を定着させていくのではと思っていたのですが、最近の塾長ブログや研究などでは「赤ちゃんは教えたがり」とか、「赤ちゃんは能動的」であることが報告されています。その部分から考えてみると、子どもは生まれながらにして「教わる」よりも早く、「教え」ようとしており、そういった行動が前提にあることで「教え→教わる」につながる気がしたのです。

先日、1歳児が、以前報告でもあげたコマをクルクルと上手に回していました。その様子を0歳児がじっと見つめていたのです。その「見られている」気配を感じ取った1歳児は、さらにコマを回します。まるで、「ほら、すごいでしょ!」と見せつけるかのようです。0歳児は、それでもじっと見つめています。次第に、自分でも触ってみたくなったのでしょう。ハイハイで近寄ってきては、その回っているコマを止めてしまいました。

「見ているよ」

「見ているよ」

「触ってみよう」

「触ってみよう」

1歳児はというと、その姿を見て「いいよ、やってごらん」といった感じに、コマを譲り、別の場所へ行ってしまいました。0歳児はというと、1歳児のマネをして手や指を動かして、コマをなんとか回そうとしていたのです。これらは全て非言語コミュニケーションで行われているため、本当の意味や感情は分かりませんが、私は、この一連の流れから、0歳児は「教わる」よりも先に、じっと対象者を見つめ“あなたを見ています”といったことを「教え」ていたのだということを感じました。

「難しい…」

「難しい…」

去年度のある日、5歳児が園庭にある網状の遊具を上手に登っていました。その姿を1歳児がじっと見つめていました。5歳児は、時折その1歳児の方をちらっ、ちらっと見ながら登っているのです。明らかに1歳児を意識して登っています。5歳児がそこから降りた後、1歳児もマネをするかなと見ていると、自分にはまだ難しいということを理解しているのか、何事もなくその場を立ち去っていきました。ここから、“見られる刺激”という「見ていることを教えられる環境」が、まず必要なのだなと思ったのです。そして、1歳児の脳内では、きっと「見る」という能力の定着が行われていたのではと感じています。

見て・見られる刺激

見て・見られる刺激

発達が同じ者同士の関わりからでは見られにくい、コマの事例の1歳児であっても、遊具の事例の5歳児であっても、どちらも教えるという経験によって、“自分はこんなことができるのか!”と、自分の能力を知る機会にもつながっていくのだと思います。新宿せいが保育園では、毎年必ず“新人さん”を入れるようにしているということを聞いたことがあります。それは、子どもと同じように、幅の広い異年齢集団を構成することによって、新しい知識や価値観を取り入れ、さらに自分たちの能力を定着させるため、「教え・教わる」関係が自然に生まれるための環境を意図的に設定しているのではないかなぁと、今感じました。

(報告者 小松崎高司)

発達に合わせる

4月から新学期が始まり、5月も中旬から下旬になってきましたが、子どもたちの様子を見ていてあることに気が付きました。

私のいる幼稚園では、昨年から1・2歳児のクラスができました。そして、そのクラスの子どもたちが、今年から進級し、幼稚園のクラスに入ることになります。クラス編成がおこなわれていく中で、子どもたちはバラバラのクラスに分かれていきます。私や園長先生の思惑としては、1・2歳児でのクラスで培った子どもたちの様子を中心に保育を進める中でモデルになること、ほかの子どもたちのできることが深まることや伸びていくことを期待したのですが、その様子は少し違っていました。

 

私のいる幼稚園は比較的自由に遊ぶ時間が多いのですが、初めはそれぞれのクラスのお友どもたちとあそぶ様子がほとんどでした。しかし、最近は進級した子どもたちは自由遊びの時間になると1・2歳児クラスの時に一緒に過ごした子どもたちと遊んでいることが多くなってきたのです。また、別の子どもはお姉ちゃんのいるクラスに入りびたりになることも増えてきました。

 

初めは、気心のしれるなかの子どもたちだからそうやって一緒に遊ぶことが多くなってきたのかと思っていたのですが、よくよく考えてみるとそれだけではないのではないかと思い始めました。というのも、幼稚園は年齢別であり、一人担任です。そして、1・2歳児の頃のクラスの2歳児、つまり進級した子どもたちは9人ほどで、その他は新しく幼稚園に入ってきた子どもたちです。当然、集団の中で育つ子どもたちよりも、家庭で過ごした子どもたちのほうが多くなります。つまり、子どもたちのこういった遊びの姿やお姉ちゃんのところに行くという行動は自分の発達にあった環境ではないからなのかもしれないのです。

 

また、園での生活では幼稚園の先生方は新入児に対するケアをどうしても優先しなければいけなく、進級児はそういった活動に合わせることになります。例えば、「手を洗う」ということも手を洗う方法を教えるところから始まりますし、観察して見ていかなければいけなくなります。そのため、できるだけ全員で行くようにします。しかし、1・2歳児クラスでは生活習慣の自立を目的として進めていたので、自分たちでやることが当たり前でした。そのため、それをやってきた進級児の子どもたちは待つことが増えてきます。そして、手を洗えるからこそ、自分から行こうとすると止められることもあるそうです。こういったように日頃保育をしていく中で、子どもたちのできることと活動の動きにズレが生じてくることが多くなります。それはなにも生活の部分だけではなく、遊びの部分においても、子ども同士の発達のずれが出てきているように思います。

新宿せいが保育園にいた頃、幼児の部屋を紹介するにあたって、必ずこういった質問がありました。

「異年齢で遊ぶとそれぞれの年代の遊びって保障できるんですか?」

そのときに藤森先生は

「それはできます。子どもたちは発達によって、遊ぶ友だちを変えていきます。それぞれの発達にあった子ども同士で遊ぶことがあるので。その方がよっぽど遊びが保障されています。」

という、やり取りがありましたが、まさに進級した子どもたちが集まって遊んでいるのは発達があった友だち同士だからなのかもしれません。

保育園においては同年代のクラスが複数あることも少なく、3歳になったとしても、進級時よりも新入児の方が多くなるということになることはあまりありません。また、異年齢でのクラス編成であったら、進級の子どもたちの様子も発達に合わせた子どもを探して遊ぶことでその姿は違っていたりするのかもしれません。また、一人担任ではなく、チームであったら、進級児と新入児のケアの仕方がもっと多機能にできたのかもしれません。

以前、大阪の幼稚園の先生が集まったプロジェクトで「こども園をするにあたって3歳児は進級組と新入組を分けた方がいいのではないか」という議論になりました。初めはいろんな人とかかわることやモデルになること、見ることも大切であって、進級児がいるからこそ、家庭から来た多くの新入児のモデルになることや伝えることができると、思っていたのですが、幼稚園という一人担任、年齢別クラスという現場で進めるにはこういった問題がやはり出てきました。また、幼稚園は子どもたちを受ける人数の規模が大きいです。だからこそ、環境のあり方をもっと考えていかなければいけませんし、それを改善する方法に「見守る保育」の環境やチーム保育の考え方を見直してカスタマイズすることが大切だということを改めて感じることになりました。そして、今回の件からどう環境を作っていくことができるのかということを考える機会にもなりました。

(投稿者 邨橋智樹)

歩き方

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皆さんはこの写真を見て何か気づくことはありますか?

 

普段の幼児クラスのお散歩の様子ではありますね。少し気になるのは保育士が先頭に立って歩いていないということです。つまり先頭は子どもたちということです

 

今回はお散歩での「歩き方」について焦点を当ててみようと思います。お散歩でも色々と注目すべき所はたくさんあると思いますが、目的地に向かうまでどのように歩いているのか、そして私が先輩保育士から学んだことを紹介したいと思います。

本来ならば保育士が先頭を歩いていくのが普通ですが、私の先輩保育士はそうではありません。一瞬見ただけでは危ないのでは?と思う方も多いと思いますが、実践してみると全くそうは感じません。というのは、次の写真を見ていただければわかると思うのですが、子どもたちに何やら声をかけています。
何か言っています。

何か言っています。

なにを話しかけているかと言いますと、
「3本目の木まで行ったら待っててくれる?」
と言っていました。
本当に待っていられるの?と思う方もいらっしゃると思いますが、子どもたちはしっかりと…
「1本…2本…3本!!」
と言って自信満々でそこまで行くと止まっているではありませんか。
もちろん、先輩保育士は先頭を歩いている子がどんな子かもよく知っていて行っています。
こうすることにより、少し道を渡る時などは先頭の子に「あの電信柱まで行ったら止まっていてくれる?」など先にあるも物を見て伝え、共有し、声をかけ先に行ってもらうことで先頭の先生が次の引率の先生が来るまで子どもが渡る道に立っていられるということです。
もちろん先生は先頭をしっかり見つつ、自転車などが来た時に対応ができます。次の先生が来たら場所を代わるのでスムーズに行うことができます。
右の方に行き、危険がないかの確認

右の方に行き、危険がないかの確認

このように先が見えないので見えるところまで行き車が来ているかなども確認出来ます。
ここを渡っているときは危ないから見ていたいけど先頭だから行かなければ…と思うことはあると思います。そんなときにこうすることによって危険箇所を見ることもできますし、何より子どもたちは頼られることで自信に繋がっているような気もしています。さらいうと保育士が子どもを信じるという部分にも繋がっているように思います。
そんな歩き方をしていると、心にも余裕ができ、本来の目的である散歩の途中でも綺麗な花があることに気づけたり、あんな虫がいたね、という発見にも繋がっていくことが、実践していてわかりました。
この歩き方を教えて頂いたのは、何年か前に散歩に行ったときです。。
40人ほどのお散歩の帰りに私が先頭を歩き、間にその先輩保育士、最後にもう一人の保育士3人で歩いていました。その際、1番後ろの子にトラブルがあり、保育士一人が対応しました。
対応している間は、私と先輩保育士2人となります。少しおどおどしている私にその歩き方をささっと私のところにきて、教えてくれました。すぐにそれを実践することで視野がぐんと広がり、大人も子どもも歩きやすいことに気づきます。
また教え方もナチュラルな言い方だったのでそんな部分を私も見習いたいと強く思っています。
そして、この実践を繰り返すうちに思うことは先頭の子に「何本目」などというワードが出てきます。数の数え方の概念や量の把握にもつながり様々なメリットがあるのではないとも思えています。
普段何気なくしている散歩の中にも様々な要素が含まれていることがわかりました。
(報告者 本多悠里)