仕事・職場・遊び心

私の保育園では12月の終わりに生活発表会があります。今年から実際に保育が変わり、その一年目の発表会です。そして、今年から新宿せいが保育園の発表会を参考にして、できるだけ子どもたちの発達に近いことをしていきたいと思っています。

 

その中で、いかに先生たちにその趣旨を伝えていくか、考えていくかを伝えることはとても難しいことです。以前からの保育の様式があればあるほど、その趣旨からずれることもしばしばあります。そのズレをどう考えるか、伝えるかは毎回悩むことがあります。

 

あまり、積極的に言い過ぎると、周りの先生方は考えるのをやめて、言われるがままやってしまうことなります。その反面、言わないでいるとドンドン理念や目的からずれてきます。そんな中、新宿せいが保育園の発表会を見に行くことになり、その中で一つのキーワードを見つけることになりました。それが先日柿崎先生のアップした内容「先輩のフォロー力」でした。そして、その事柄はいわゆる「保育園の文化」であり、「雰囲気」に繋がっているように思います。藤森園長先生始め、ベテランの先生方の雰囲気が保育園の文化そのものに影響があるということが行事を見ている中で見えてきました。そして、それらはその園の文化の中で育つ新人職員やそのほかの職員に伝染していきます。チーム力が高まると、それぞれの立ち回り、役割を自分の中で解釈し動き始めます。チームワークを作る中でどういった役割を担い、チームがいかに円滑かつ、効率よく動くことができるかをそれぞれの先生方が考えている姿から見て学ぶことは多くありました。

 

実際、自園に帰り、園内で発表会のビデオを見て、あるベテランの先生と話す機会がありました。その先生の感想は「みんなが楽しそうにやっている姿が印象的ですね。そして、普段の保育がどうやっているかがとてもよく分かる」と言っていました。最近、よく思うのですが、「行事の為に保育をするのではなく、保育を進めていく上で行事がある」ということを思うことがあります。新宿せいが保育園の発表会の始めに藤森先生は散歩でそのことを例えていました。そこでは「散歩も目的地にいくことが大切なのではなく、散歩に行く過程が大切です。だから、行事でも行事ではなく、普段の保育が大事です」ということをおっしゃられていました。それを踏まえ自園の予行を見ているとたくさんのことが見えてきます。いくら発表会の為にとはいえ、私たちの仕事は「保育」であり、「保育の業務」をこなすことが仕事ではない。ということを最近は常々思うことが多いです。

 

そのベテランの先生はこうも言っていました。「私たちはまじめに取り組み過ぎて、楽しむことを忘れていたかもしれないですね。新宿せいが保育園のように遊び心は必要ですね。」とも言っていました。まじめに取り組むことはとても大切なことです。しかし、仏頂面ではやはり子どもたちは楽しむことができません。先生も一緒になって楽しむことももっと追求してもいいのではないでしょうか。それは結果として、子どもたちも楽しく取り組むだけでなく、自然な形でいろんなことを学んでいきます。この言葉が自園の先生が言い始めたことに何とも言えないうれしさを感じながら、思えば新宿せいが保育園でもこの「遊び心」というものはとても大切にしているのを思い出しました。しかも、それが行事の中で見えていることにその奥深さや大切さ、普段の保育から遊び心をもって取り組んでいるからこそ、行事でにじみ出ているということも分かります。

 

そう考えると「遊び心」というのは「保育士の専門性」の一つなのかもしれません。

それぞれの先生の持てる能力を出せる環境や「遊び心」が出せる保育園環境を目指していくことは大切ですね。

(投稿者 邨橋智樹)

実習日誌③

 私の実習3日目は、1歳児クラスに入りました。
 
 「1歳児の生活の様子を観察し、発達段階を理解する」という目標のもと、1日子どもと関わって抱いた感想がこちらです。
 
 『今日、感じたキーワードは“言葉”です。個人差もありますが、月齢が高い子は「おしっこ」と自分の口で言えたり、保育者や友だちに対しても言葉での関わりの多さに驚きました。発達段階も言葉がでてくることによって高くなり、言葉の数が多い子ほど、友だちとの関わりを楽しんでいる所があると感じました。なかには、自分の気持ちを言葉で伝えようとしているのになかなかその言葉がでてこない子もいると思います。そんな時に保育者が、その子の気持ちを言葉で伝えることで、「あ、こういう時はそう言えばいいのか」と自然に言葉を覚えるきっかけになると思うので、この時期の保育者の“言葉”は発達上とても重要になると学びました。』
 
 まだ、発達を段階的に捉えていたり、言葉以外にも子ども同士は関わり合っていることには気がついていないようですね。しかし、発達を一番分かりやすい「言葉」の面から観察したことにより『明日は、子どもの気持ちを汲み取れるように、「おしっこ?」「おかわり?」「青いおもちゃがいいの?」「うれしいよね」「気持ちいいね」などと様々な声かけをし、発語を意識したコミュニケーションをしたいと考えています。』とも書かれており、その時期の発達(発語)を促す環境として“保育者の言葉”に注目してみようとする様子もありました。
 
 塾長の「臥竜塾」ブログには、『「共感」というのは、とても大切なことであり、子どもたちの「フロー」という状態に対しても、「共感」が必要になります。子どもと一緒になって、常に今起きていること、子どもが現在直面していることに、一緒になって興味・感心を示すことが必要です。他人がどう感じているかを察する能力は、子育てや教育だけでなく、セールスや経営や恋愛、あるいは気配りから政治的行動にいたるまで、人生のありとあらゆる場面で必要になるとゴールマンは言います。』と書かれてあります。
 
 今思い返してみると、実習園の保育者が発していた言葉とは、すべてが子どもに対する「共感」の言葉であったと感じます。そうすることで、「他人がどう感じているかを察する能力」を促し、生きていく上で必要な「共感」を育もうとしていたのだと理解しました。
 
 その日の〈実習指導者所見〉欄には、こう書かれてあります。
 
 『実習お疲れさまでした。1歳児クラスでも月齢差が大きく、体の大きさや言葉がたくさん出ている子や、まだ喃語しか出していない子と様々ですね。なので、自分の気持ちを言葉で伝えられず、つい手が出てしまう子もいます。その都度、私たちはその子の前後の行動、気持ちを理解し「こうしたかったんだよね」などの声かけをしています。言葉で伝えるというのはとても重要なことだと私も思います。私も子どもの気持ちを汲み取ることを難しく思っています。小松崎さんも、子どもの気持ちを汲み取れるよう頑張って下さい。』
 
 この園の保育士は、実習生に対しても「共感」を実践しています。また、保育士になったとしても必ず子どもの気持ちを理解できるということではなく、現場の職員も日々悩んでいる、その過程を一緒に共有・共感し合って学んでいきましょうといったメッセージが込められているのでは、と感じました。子どもと関わる同じ“人”として見てくれている感じがして何だが嬉しかったです。
 
(報告者 小松崎高司)

保護者同士のつながり

先日、学童クラブにいた時に驚かされる出来事がありました。

 

学童クラブでは学校から帰ってきてから、宿題をやったり、遊んだりしながら降所予定の時間になったら自宅へ帰ります。降所は、明るいうちは一人で家まで帰る子が多いのですが、外が暗くなる時間帯はお迎えのみの降所となっています。

また、習い事をやっている子もいて、一時的に学童クラブから出て、また学童クラブに帰ってくることもできます。

最近少し困っているのが、この習い事がなかなか終わらず、学童クラブに戻ってくるのが遅くなると、一人で帰る予定だった子が、暗くなってしまい帰れない時間になってしまうことがあります。

 

この間も、習い事に行った子が教えてもらうことが多かったのか戻ってくるのが遅くなり、学童に来た時には外が暗くなり始めていました。まだ、一人で帰っても大丈夫な時間ではあったのですが、その子は「暗くなり始めているから、一人で帰るのは怖い」と帰れませんでした。保護者に連絡を取り、お迎えに来れるかを確認したのですが、連絡がつかず、学童でしばらく待つことになりました。

 

そんないつもと違う様子に、他の子をお迎えに来た保護者が、「どうしたんですか?」と事情を聞いてくれました。そして、「良かったらお家を知っているので、一緒に送っていきましょうか?」と声をかけてくれました。

その子の保護者と連絡が取れていなかったので、とりあえず連絡が取れてからとお話ししたのですが、その後、また他の子を迎えに来た保護者も「どうしたんですか?」「よかったら送っていきましょうか?」。また別の保護者も「送っていきましょうか」と声をかけてくれました。私の記憶する限り、声をかけてくれたどの保護者の家も、それほどその子のうちから近くはないのですが、保護者同士のつながりの深さに驚かされました。

 

そこで感じたのが、実は「帰るのが遅くなっている子」も、「声をかけてくれた保護者」も、保育園から学童に上がってきた家庭で、保育園と家庭がいい関係を築くことができれば、自然と保護者同士もよい関係になるのではと感じました。

良い保育をすることそれは周りにも影響がでるものなのですね。

 

(報告者 西田)

世代間交流5

今回は前回同様、日常的な子どもと高齢者の世代間交流の観点に、子どもと高齢者の複合施設という観点を交えて書いてみようと思います。

高齢者と子どもが、相互にケアされる立場として行われる交流として、幼老統合ケアがあります。

ケアという言葉の語源は、「気づかい」「世話」などがあります。

そのケアが、お互いに子どもと高齢者間あるいは三世代相互に行われ、統合されていく状態が統合ケアです。

そんな幼老統合ケアを幼老複合施設の観点で見ていきます。

子どもと高齢者が共に参加する交流は、地域コミュニティーにおいてイベントとして催される場合もあるが、主に幼老複合施設において行われている場合が多いそうです。

いわゆる複合施設には、様々なものがありますが、幼老複合施設とは、このうち保育園や児童館、小学校などの子ども関連施設と、デイサービスセンターや特別養護老人ホーム、ケアハウスなど高齢者の介護関連施設が合築(併設)された事例を指します。

この幼老複合施設における世代間交流のメリットは意図的な交流だけでなく、意識することのない交流が生まれること、つまり日常的な交流を図れる点だと思っています。

幼老複合施設では、空間の利用や設備の配置等の環境次第で子どもと高齢者のかかわりの頻度が異なってくる。

例えば、高齢者のリハビリ室や食堂を保育所の遊戯室や園庭がみえる配置にしたり、幼老両施設の境界部に設置される扉を格子にすることがあるそうです。

このようにすると、お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができるのです。

つまり、環境次第で関わり方頻度、バリエーションが増え、質も高くすることができる。

これは保育園でも同じことが言えますね。

そして私が勤めさせていただいている園では、01歳児クラスのお部屋で各クラス共に覗くことができる高さのパーテーションで区切られています。

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0歳児クラスを区切るパーテーション

 

これは先ほども書かせていただいた「お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができる」ことと同様の点であるのです。

また、日常的に交流を行うことでのメリットには、子どもは高齢者に対し「つえをついている」「よぼよぼしている」などのステレオタイプ的なイメージではなく、高齢者の現実的な

心身の特徴などを学ぶ良い機会となるのではと思っています。

子どもと高齢者の日常的な交流の場として「保育園で…」と前回の報告で書かせていただきましたが、幼老複合施設でという手段もあり、複合施設だとより日常的な交流を図れると思えてきます。

しかし、そんな幼老複合施設にも課題点があるそうです。

それは、子どもが苦手な高齢者への精神的負担と、保育者の高齢者理解、介護者の子ども理解の必要性です。

また、保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識がなかったり、逆に介護者が子どもの身体的・心理的特徴に関する知識がないため、危険予測が十分にできず、戸惑ってしまい、介護者・保育者が幼老統合ケアに対し負担を感じてしまうことも考えられるそうです。

そのような課題点があると考えていると、私たち保育者は子どもの健やかで豊かな育ちを見守るのが仕事、そのためにも子どもと高齢者の交流が必要となる場合があり、子どもと高齢者が保育園や幼老複合施設で交流するにも保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識を得ていくことが必要になってくると思っています。

しかし、子どもに関してでもまだまだな私には遠い道のりですが…

(投稿者 若林)

『満足』

塾長の言葉でこんな言葉があります。
「満足したら、そこで学びは終わり」
これは私が、まだ塾長の助手として出張に行って、間もないときに言われた言葉です。
今でも心がけていることです。
お陰さまで見学者の案内やギビングツリーの環境セミナーでの発表、
様々な場所で私が話す機会が多くありますが、
満足した見学者の案内や発表をしたという気持ちになったことはありません。
毎回、見学案内や発表が終わるたびに
「あの時に、こういう風に言えば、もっと分かりやすく伝わったかな?」
「ちょっと攻めすぎたかな?」
と色々と反省点が見えてきます。

と言うのも、私が見学者の案内や発表などを、まだまだ駆け出しの頃に、
当時としては自分の中で満足した発表ができて、それを塾長に報告した時に言われた言葉が冒頭にも書きましたが

「満足したら、それ以上の学びはないよ」です。
言われた瞬間は、どうしてだろう??と疑問が浮かびましたが、
それから案内や発表を終えるたびに振り返るくせを付けるようにしました。
そうすると、今まで気づかなかったことや、新しい発見ができるようになり、
案内が前回よりも、より深く説明できるのようになったり、自分なりの言い方を見つけることができるのうになりました。
おそらく塾長は、こういうことを私に伝えたかったのかもしれません。
もしそこで満足していたら、それ以上学ぼうとせず、ずっと同じレベルのままでしたね…。

さてさて先日、GTリーダーセミナーがありました。
セミナーで一番最初のプログラムは塾長の講演です。

講演内容は「リーダシップ論」です。まず塾長から講演内容の触りを話したあとに、
西村君が一年目から見た新宿せいが保育園のチームワークについて40分程度、話しました。
どうやら西村君は2回目の発表だったそうで、1回目はそのセミナーの前の週にGT関東で同じ内容を発表したそうです。
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無事に発表を終えて私の隣に座りました。彼の感想としては「前回の方が良かったです…」と反省していましたが、
私としては、笑いもとれて、一年目から見たチームワークの内容も分かりやすくまとめてあったと思います。
それでも反省していた西村君を見て、過去の自分の姿とリンクし、懐かしいなぁ…と思うと同時に少しずつ塾長の助手として頼もしく成長しているなぁと感じました。
案の定、塾長も西村君に
「反省するということは、前回よりも新しい事を発見して、より深く学んでいることだよ」と声を掛けていました。

私は助手という立場をしばらく休業し、また保育園でも違った役割になってきました。

現状に満足せず、常に自分を振り返っていきたいと思います。

それが、せいが保育園の「省我(我を省みる)」です。(投稿者 山下祐)

甘やかす?

今、自分の中で一つの葛藤している課題があります。それは「甘やかす」と「受容する」との違いをどう考えるかということです。保育をしているとこの手のことをいつも葛藤の中で保育をすることが多いですね。

 

たとえば、2才など散歩のときに手をつなぐのをいやがることや、やりたいことができず癇癪を起こすとき、そういったときにどう対応したらいいのか、こちらが折れて、ある程度欲求が改善するまで付き合った方がいいのか、今は違う時間だからと説得するのか。はたまた、我慢できず強硬手段をとるのか。とても悩ましい選択を迫られることがあります。

 

自分としてはその甘やかすと受容するとの違いはどういったときかと考えると、「甘やかす」は子どもの欲求を全面的に受け入れたり、最終的に保育者が根負けして折れてしまったりということかなと思っていました。一方、「受容する」は「何か困難に遭遇したときや嫌なことがあったときに大人が共感し、受け入れる」ということだと思いました。

 

当然、後者の方がより、保育士に求められることだと思います。そうはいっても、根負けして、ある程度欲求に答えることで次に子どもたちが向かうことができることもあります。それは「甘やかす」になるのでしょうか。人によっては「甘やかす」になるのでしょうが、そこに「共感」があるのであれば「甘やかす」にはならないのではないかと思います。しかし、ある程度の線引きは必要であって、それがないと子どもたちにとっては、何でもあり状態になり、結果「甘やかす」になるのではないかと現場を見ていると思いました。ある意味で線引きをすることで子どもたちに「責任」を持たせる必要はあるのではと思いました。

 

藤森先生に聞いたところ

「甘やかす」とは共感や発達理解がなく、自分(大人)のため、たとえば「好かれたい」とか「子どもたちの人気」のために受け入れることをいうのではないかと伝えられました。そして、「受容する」と「甘やかす」の違いは「子どもの気持ちに寄り添ったか」ということです。なぜ嫌なのか、なにをしたいのか。その気持ちに寄り添うことで切り替えることが必要です。また、駄々をこねる子や泣いている子をどうしようもないからといって、放っておくことも一種の「甘やかす」ではないか。結果それは子どものためにはあまり効果はなく、その行為を肯定してしまうことに繋がるのではないか。それは共感ではないですね。

 

ここでさっきの話に戻りますが、子どもたちに一つの線引きや妥協点を出して、責任を持たすことにおいても、「共感」がなければそれは結局子どもたちに寄り添ったものではなくなります。今の子どもたちは自分の中で責任を持つことも、共感されることにも飢えている気がします。だからこそ、「甘える」ことや「共感」されることは乳児期から丁寧にしていくことがとても大切であるということをとても感じます。そのためにいろんな価値観をもって子どもたちに対応するチーム保育が必要ですし、大人から関わるのではなく、子どもたちから関わってくるような「見守る」という姿勢が必要であり、それがコミュニケ-ション能力に繋がるように思います。

 

当たり前のことといえば、当たり前のことなのですが、あらためて考えることや意識し直すことの大切さを感じます。そして、子どものことをしっかりと共感できることや寄り添うことができるチーム作りのため、お互いのやり方を理解し、信頼していけるチームを目指していくことが大切だと考えていて思いました。

 

(投稿者 邨橋智樹)

岩場

塾長のドイツ報告にもありましたが、ドイツの園庭はこんなようになっています。ゴツゴツとした岩は普通にあり、ここで子どもたちはいつも遊んでいるそうです。

ドイツの園庭

ドイツの保育園の園庭

こんなところでは怪我が絶えないのでは?と思う方も多いと思いますがドイツの保育園では2年間でばんそうこうすら出したことがないそうです。つまり怪我をしていないということです。
なぜ怪我がないのか。それは一斉保育ではなく、子どもの自主性を大切にしているからというところに行きつきます。
一斉保育にして、危険な物は排除して安全な環境にすることで子どもたちは自ら危険を回避する力がなくなってきているのではないかと思います。子どもはこういったところが大好きです。実際私が幼い頃は大人からしてみたら少々危険だなと思うところが格好の遊び場でした。
自らがその岩場を体験することで自分で危険を回避する力を育まなければ将来ちょっとした危険も回避することはできないでしょうね。
私の勤めている保育園の近くには自然豊かな公園があります。そこには石畳や石段があり、子どもが自らが危険を回避しなければいけない環境にあります。最近その公園の工事が進み新しい公園ができました。そこには毎日のように散歩に行き、子どもたちが遊んでいます。
そこにはドイツのような岩場ありました。
新しくできた岩場

新しくできた岩場

このような感じです。
この岩場で遊ぶのは子どもたちは大好きでよく遊んでいます。初めて行くところですし、注意して見ていましたが、子どもたちは一切怪我することなく遊んでいました。更に毎日のように行っていても怪我をする子はまだ出てきていません。すり傷すらまだない状況です。
以前から自ら危険を回避しなければいけない環境にあることで自然と身についていることがわかります。よく見ているとそんなに危ない遊びはしていない様子でした。自分が無理そうだなと思うようなことは自らが回避しているようにも見えました。
もちろん大人が見ているのも大事ですが、やはり1番大事なのは子ども自身が自らが危険を回避することが大切であることを改めて感じます。
これからも子どもたちの将来のために危険な物を排除しすぎないことを意識していこうと思う環境だと思えました。
(報告者 本多 悠里)

実習日誌②

 まず実習の良いところに、その日の「実習目標」を書くことがあると思います。その日、自分はどんなところに注目して、そこから何を感じて、どう理解したのかを考えることで、これまで生きてきた過程において、数多くしてきた自分独自の考察の仕方を把握することでもあるように、目標に応じた「振り返り」作業をします。「実習目標」は、一種の“テーマ”でもあり、目標を絞ってミクロの世界に着目することで、学びを深いものへと変えていく傾向があると感じています。また、小さな世界を深く理解したと感じることで自信につながり、知っていこうとする楽しみを覚え、次への学ぶ意欲にもつながる効果があると感じます。大学の実習担当の先生から「実習目標はより具体的な方がよい」と言われていたことを思い出しました。それには、きっとこのような意図があったのでしょうね。
 
『子どもたちと表情豊かに接し、介入のし過ぎに注意する。』
 
 これが、実習1日目(0歳児クラス)に入ったときの実習目標です。この目標を決めたからでしょう。「実習生の活動」欄には、“子どもに微笑みかける”とか“子どもが玩具を持って近寄ってきてくれたので笑顔で応える”などの記入がされていました。また、“介入”について『本日のまとめ、反省、考察、感想等』の欄には、「実際、現場で体験してみると、どうしても子ども同士のトラブルには口をはさんでしまっていたと思います。また、その時の声かけもその子を理解したうえでの声掛けにはほど遠く、介入するかしないかは日々の子どもの様子をよく見ておかないと判断できないものだと学びました。」と書かれてあります。そして、感想等として『今日感じたキーワードは“ひとりひとり”です。時間に追われることなく、子どもひとりひとりに合ったペースで保育している様子がうかがえました。また、保育者が「◯◯くんはここまでできるから、次はあれに挑戦させてあげよう」と、新しい環境を用意し、それが“ひとりひとりの把握”につながっていくのだなと思いました。』と記入されていました。
 
 介入するタイミング、仕方、言葉掛け等は、子どもの発達を理解していないと難しく、日々子どもたちと生活を共にしているからこそできることだと学んだようです。そう考えると、新しいクラスに変わったときの保育士と実習生の存在は、子どもにとってはほとんど変わらないようにも感じます。発達を把握していくノウハウやスピードはもちろん違いますが、保育士も、毎日子ども理解に努めているように、実習生だからといって「何もできない存在」として見るのは違いますね。「子どもを一番新鮮に感じることができる」存在として関わっていきたいと思いました。
 
 そして、この実習日誌を読んで客観的に思うことは「気負いすぎている」ということです。よく考えてみると、これが実習の1日目です。もっと、子どもという存在を不思議がったり、一緒に楽しんだりするという姿勢が大切だよと、過去の自分にアドバイスをしたいです。
 
 1日目の日誌の最後にある『実習指導者所見』欄には、「緊張されていたそうですが、子どもたちに対する笑顔がよかったと感じます。」と書かれていました。実習生にとっては、先生方のこのような言葉が何よりもの救いになります。それはきっと「目標」にしていたことが評価されていたことも大きかったのだと思います。
 
(報告者 小松崎高司)

世代間交流4

今回で世代間交流について4回目の報告となりました。

ここまでは小学生と乳児・幼児の交流について私の思うところを書かせていただきましたが、今回は乳児・幼児・小学生全てを含んだ子どもと高齢者の世代間交流について書かせていただきます。

高齢者と子どもが行う世代間交流は、主に高齢者から子どもへ伝統文化や生活の知恵を伝承することができるのではと考えています。

竹トンボやベーゴマを教える、昔の話をするなど、現代の子どもたちには新鮮なことばかりではないでしょうか。

高齢者にとっては、自身の存在価値を確認できる機会となり、生きがいを持つことことに繋がっていくようにも思えます。

このような交流は、日常的に行われるのではなく特別な機会を設けて行われることが多いそうです。

そのため、高齢者をより特別視してしまう可能性があることが指摘されています。

更に現代は、核家族化の進行に伴い、祖父母世代との交流の機会が昔と比べて著しく低下していると聞きます。

だからこそ高齢者と子どもの交流は日常的という観点で推進していかなければならないと思えてきます。

交流を日常的にするには交流の場が必要不可欠です。

そしてその交流の場が、彼らを取り巻く人の関わりと街づくりへと発展していくと思うのです。

ここで着目したいのが、保育園をこの交流の場とできるのではないかということです。

私は去年345歳児クラスのフリーを担当していたとき、よく子どもたちと遊びに行った公園で高齢者の方々がゲートボールをしているところに何度か立ち会いました。

そのとき一緒に子どもたちを先導していた先輩保育者の方が、

「保育園にゲートボールの道具もあるし、ゲートボールをしている高齢者の方にお願いして保育園の園庭で子どもたちにゲートボールを教えてもらおうよ。」とおっしゃいました。

そのころの私では全くその発想が浮かばなかったので、このような交流の仕方もあるのかと勉強になりました。

実際に「お願いしてみましょう!」と意見が一致し、その後何度かその公園に遊びに行ったのですが、タイミングが合わず結局断念した結果となってしましました。

今後機会があれば実現させてみたいものです。

その他にも何らかの遊びを通して子どもと高齢者との交流の場を設けることができると思います。

現に学童でも毎週火曜日に多様な製作遊びを子どもたちに教えながら一緒に遊んでくださる方がボランティアとして来てくださっています。

その方と子どもたちの交流の時間はかけがえのない時間で、子どもたちも火曜日をとても楽しみにしていて、その様子は正におじいちゃんと孫です。

このように交流を日常的にしていくことが、核家族化の進行によって招いてしまった子ども高齢者間の関係の希薄化に対抗する手段でもあると思います。

ゲートボールの例のような機会を次回は活かしていき、今後子どもと高齢者の有意義な交流の場を設けていけたらと思っています。

(投稿者 若林)

世代間交流3

前回乳児と小学生の世代間交流に続いて、幼児と小学生の世代間交流についての私の思うところを書かせていただきます。

幼児との交流機会もまた乳児のときと同様に、家に弟や妹がいれば日常的に行うことができますが、幼児は乳児に比べ動きも増え、外で遊ぶことも多くなるため、家の外で家族ではない幼児とかかわる機会もあるかもしれません。

しかし現代では、そのような機会が少なくなってきているようにも感じています。

また、幼児に興味を持って自ら交流機会を得ようとする小学生もなかなかいないように感じてしまっています。

前回に学童の子どもたちがお手伝い保育に関してとても意欲的なことを書かせていただきましたが、実は幼児クラスにお手伝いにいきたいと言う子がほとんどいません。

幼児期は、自分の意思を持ち、様々なことに関心を示して、活発に活動するようになる時期であり、乳児は母親を中心とする養育者の助けの中で生活しますが、幼児になると生活の様々な場面で少しずつ自立していくようになる。

しかし意思表示の仕方が上手くいかなかったり、生活の中で周りの支えが必要なこともまだまだたくさんあるように思えます。

自我が芽生えてくるが、まだまだ色々な面において完全ではないこの時期の子どもは対応が難しいことも多いのではないでしょうか。

そのような幼児と小学生が交流することは、互いに多くの発見、成長が期待できるのではないでしょうか。

まず、小学生にとってのこの交流の価値は年上(小学生)としての自覚や責任感を持てることであると思っています。

幼児と共に活動をすることで自然と「自分がしっかりしなければ」という気持ちが生まれ、大変な思いもしながら活動をしていくことで、その経験が自信につながり、普段の生活では気付くことのできなかった自分の一面に触れることもできるかもしれません。

また、幼児との絆が深まっていくと幼児に対する思いやりも育ち、自分自身の幼いころの様子を考え、成長を振り返る機会にもなるようにも思えます。

そして幼児にとっても小学生と交流することは価値のあることであり、小学生に色々教わり助けてもらうことで、憧れや成長への意欲を見出すことができる。

これが私が考えるこの交流の最も重要視している点です。

異年齢保育の1つの良き点として、年長児の子どもたちが最も年上で、その下のクラスの子どもたちが年長児に対して憧れを抱けることがあります。

しかし、年長児は最も年上の為、憧れを抱く相手が園内には大人以外にいなくなってしまいます。

それを担えるのが学童の子どもたちであると思うのです。

そして年長児にとっては小学校や小学生を身近に感じ、進学への期待を膨らませることのできる経験となるとより良いですね。

しかし、先ほど書いたように学童の子どもたちの幼児クラスへのお手伝いの意欲は決して高くないので、これから保育園・学童のイベントを通して徐々に交流を深めていき、お手伝い意欲の向上に繋がればなと思っています。

小学生、幼児は共にどんなことでも成長へとつなげていける時期の子どもたちです。

その交流からも大人の予想していなかったような発見、成長が期待できるのではないかと今から楽しみです。

(投稿者 若林)