世代間交流5

今回は前回同様、日常的な子どもと高齢者の世代間交流の観点に、子どもと高齢者の複合施設という観点を交えて書いてみようと思います。

高齢者と子どもが、相互にケアされる立場として行われる交流として、幼老統合ケアがあります。

ケアという言葉の語源は、「気づかい」「世話」などがあります。

そのケアが、お互いに子どもと高齢者間あるいは三世代相互に行われ、統合されていく状態が統合ケアです。

そんな幼老統合ケアを幼老複合施設の観点で見ていきます。

子どもと高齢者が共に参加する交流は、地域コミュニティーにおいてイベントとして催される場合もあるが、主に幼老複合施設において行われている場合が多いそうです。

いわゆる複合施設には、様々なものがありますが、幼老複合施設とは、このうち保育園や児童館、小学校などの子ども関連施設と、デイサービスセンターや特別養護老人ホーム、ケアハウスなど高齢者の介護関連施設が合築(併設)された事例を指します。

この幼老複合施設における世代間交流のメリットは意図的な交流だけでなく、意識することのない交流が生まれること、つまり日常的な交流を図れる点だと思っています。

幼老複合施設では、空間の利用や設備の配置等の環境次第で子どもと高齢者のかかわりの頻度が異なってくる。

例えば、高齢者のリハビリ室や食堂を保育所の遊戯室や園庭がみえる配置にしたり、幼老両施設の境界部に設置される扉を格子にすることがあるそうです。

このようにすると、お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができるのです。

つまり、環境次第で関わり方頻度、バリエーションが増え、質も高くすることができる。

これは保育園でも同じことが言えますね。

そして私が勤めさせていただいている園では、01歳児クラスのお部屋で各クラス共に覗くことができる高さのパーテーションで区切られています。

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0歳児クラスを区切るパーテーション

 

これは先ほども書かせていただいた「お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができる」ことと同様の点であるのです。

また、日常的に交流を行うことでのメリットには、子どもは高齢者に対し「つえをついている」「よぼよぼしている」などのステレオタイプ的なイメージではなく、高齢者の現実的な

心身の特徴などを学ぶ良い機会となるのではと思っています。

子どもと高齢者の日常的な交流の場として「保育園で…」と前回の報告で書かせていただきましたが、幼老複合施設でという手段もあり、複合施設だとより日常的な交流を図れると思えてきます。

しかし、そんな幼老複合施設にも課題点があるそうです。

それは、子どもが苦手な高齢者への精神的負担と、保育者の高齢者理解、介護者の子ども理解の必要性です。

また、保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識がなかったり、逆に介護者が子どもの身体的・心理的特徴に関する知識がないため、危険予測が十分にできず、戸惑ってしまい、介護者・保育者が幼老統合ケアに対し負担を感じてしまうことも考えられるそうです。

そのような課題点があると考えていると、私たち保育者は子どもの健やかで豊かな育ちを見守るのが仕事、そのためにも子どもと高齢者の交流が必要となる場合があり、子どもと高齢者が保育園や幼老複合施設で交流するにも保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識を得ていくことが必要になってくると思っています。

しかし、子どもに関してでもまだまだな私には遠い道のりですが…

(投稿者 若林)

『満足』

塾長の言葉でこんな言葉があります。
「満足したら、そこで学びは終わり」
これは私が、まだ塾長の助手として出張に行って、間もないときに言われた言葉です。
今でも心がけていることです。
お陰さまで見学者の案内やギビングツリーの環境セミナーでの発表、
様々な場所で私が話す機会が多くありますが、
満足した見学者の案内や発表をしたという気持ちになったことはありません。
毎回、見学案内や発表が終わるたびに
「あの時に、こういう風に言えば、もっと分かりやすく伝わったかな?」
「ちょっと攻めすぎたかな?」
と色々と反省点が見えてきます。

と言うのも、私が見学者の案内や発表などを、まだまだ駆け出しの頃に、
当時としては自分の中で満足した発表ができて、それを塾長に報告した時に言われた言葉が冒頭にも書きましたが

「満足したら、それ以上の学びはないよ」です。
言われた瞬間は、どうしてだろう??と疑問が浮かびましたが、
それから案内や発表を終えるたびに振り返るくせを付けるようにしました。
そうすると、今まで気づかなかったことや、新しい発見ができるようになり、
案内が前回よりも、より深く説明できるのようになったり、自分なりの言い方を見つけることができるのうになりました。
おそらく塾長は、こういうことを私に伝えたかったのかもしれません。
もしそこで満足していたら、それ以上学ぼうとせず、ずっと同じレベルのままでしたね…。

さてさて先日、GTリーダーセミナーがありました。
セミナーで一番最初のプログラムは塾長の講演です。

講演内容は「リーダシップ論」です。まず塾長から講演内容の触りを話したあとに、
西村君が一年目から見た新宿せいが保育園のチームワークについて40分程度、話しました。
どうやら西村君は2回目の発表だったそうで、1回目はそのセミナーの前の週にGT関東で同じ内容を発表したそうです。
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無事に発表を終えて私の隣に座りました。彼の感想としては「前回の方が良かったです…」と反省していましたが、
私としては、笑いもとれて、一年目から見たチームワークの内容も分かりやすくまとめてあったと思います。
それでも反省していた西村君を見て、過去の自分の姿とリンクし、懐かしいなぁ…と思うと同時に少しずつ塾長の助手として頼もしく成長しているなぁと感じました。
案の定、塾長も西村君に
「反省するということは、前回よりも新しい事を発見して、より深く学んでいることだよ」と声を掛けていました。

私は助手という立場をしばらく休業し、また保育園でも違った役割になってきました。

現状に満足せず、常に自分を振り返っていきたいと思います。

それが、せいが保育園の「省我(我を省みる)」です。(投稿者 山下祐)

甘やかす?

今、自分の中で一つの葛藤している課題があります。それは「甘やかす」と「受容する」との違いをどう考えるかということです。保育をしているとこの手のことをいつも葛藤の中で保育をすることが多いですね。

 

たとえば、2才など散歩のときに手をつなぐのをいやがることや、やりたいことができず癇癪を起こすとき、そういったときにどう対応したらいいのか、こちらが折れて、ある程度欲求が改善するまで付き合った方がいいのか、今は違う時間だからと説得するのか。はたまた、我慢できず強硬手段をとるのか。とても悩ましい選択を迫られることがあります。

 

自分としてはその甘やかすと受容するとの違いはどういったときかと考えると、「甘やかす」は子どもの欲求を全面的に受け入れたり、最終的に保育者が根負けして折れてしまったりということかなと思っていました。一方、「受容する」は「何か困難に遭遇したときや嫌なことがあったときに大人が共感し、受け入れる」ということだと思いました。

 

当然、後者の方がより、保育士に求められることだと思います。そうはいっても、根負けして、ある程度欲求に答えることで次に子どもたちが向かうことができることもあります。それは「甘やかす」になるのでしょうか。人によっては「甘やかす」になるのでしょうが、そこに「共感」があるのであれば「甘やかす」にはならないのではないかと思います。しかし、ある程度の線引きは必要であって、それがないと子どもたちにとっては、何でもあり状態になり、結果「甘やかす」になるのではないかと現場を見ていると思いました。ある意味で線引きをすることで子どもたちに「責任」を持たせる必要はあるのではと思いました。

 

藤森先生に聞いたところ

「甘やかす」とは共感や発達理解がなく、自分(大人)のため、たとえば「好かれたい」とか「子どもたちの人気」のために受け入れることをいうのではないかと伝えられました。そして、「受容する」と「甘やかす」の違いは「子どもの気持ちに寄り添ったか」ということです。なぜ嫌なのか、なにをしたいのか。その気持ちに寄り添うことで切り替えることが必要です。また、駄々をこねる子や泣いている子をどうしようもないからといって、放っておくことも一種の「甘やかす」ではないか。結果それは子どものためにはあまり効果はなく、その行為を肯定してしまうことに繋がるのではないか。それは共感ではないですね。

 

ここでさっきの話に戻りますが、子どもたちに一つの線引きや妥協点を出して、責任を持たすことにおいても、「共感」がなければそれは結局子どもたちに寄り添ったものではなくなります。今の子どもたちは自分の中で責任を持つことも、共感されることにも飢えている気がします。だからこそ、「甘える」ことや「共感」されることは乳児期から丁寧にしていくことがとても大切であるということをとても感じます。そのためにいろんな価値観をもって子どもたちに対応するチーム保育が必要ですし、大人から関わるのではなく、子どもたちから関わってくるような「見守る」という姿勢が必要であり、それがコミュニケ-ション能力に繋がるように思います。

 

当たり前のことといえば、当たり前のことなのですが、あらためて考えることや意識し直すことの大切さを感じます。そして、子どものことをしっかりと共感できることや寄り添うことができるチーム作りのため、お互いのやり方を理解し、信頼していけるチームを目指していくことが大切だと考えていて思いました。

 

(投稿者 邨橋智樹)

岩場

塾長のドイツ報告にもありましたが、ドイツの園庭はこんなようになっています。ゴツゴツとした岩は普通にあり、ここで子どもたちはいつも遊んでいるそうです。

ドイツの園庭

ドイツの保育園の園庭

こんなところでは怪我が絶えないのでは?と思う方も多いと思いますがドイツの保育園では2年間でばんそうこうすら出したことがないそうです。つまり怪我をしていないということです。
なぜ怪我がないのか。それは一斉保育ではなく、子どもの自主性を大切にしているからというところに行きつきます。
一斉保育にして、危険な物は排除して安全な環境にすることで子どもたちは自ら危険を回避する力がなくなってきているのではないかと思います。子どもはこういったところが大好きです。実際私が幼い頃は大人からしてみたら少々危険だなと思うところが格好の遊び場でした。
自らがその岩場を体験することで自分で危険を回避する力を育まなければ将来ちょっとした危険も回避することはできないでしょうね。
私の勤めている保育園の近くには自然豊かな公園があります。そこには石畳や石段があり、子どもが自らが危険を回避しなければいけない環境にあります。最近その公園の工事が進み新しい公園ができました。そこには毎日のように散歩に行き、子どもたちが遊んでいます。
そこにはドイツのような岩場ありました。
新しくできた岩場

新しくできた岩場

このような感じです。
この岩場で遊ぶのは子どもたちは大好きでよく遊んでいます。初めて行くところですし、注意して見ていましたが、子どもたちは一切怪我することなく遊んでいました。更に毎日のように行っていても怪我をする子はまだ出てきていません。すり傷すらまだない状況です。
以前から自ら危険を回避しなければいけない環境にあることで自然と身についていることがわかります。よく見ているとそんなに危ない遊びはしていない様子でした。自分が無理そうだなと思うようなことは自らが回避しているようにも見えました。
もちろん大人が見ているのも大事ですが、やはり1番大事なのは子ども自身が自らが危険を回避することが大切であることを改めて感じます。
これからも子どもたちの将来のために危険な物を排除しすぎないことを意識していこうと思う環境だと思えました。
(報告者 本多 悠里)

実習日誌②

 まず実習の良いところに、その日の「実習目標」を書くことがあると思います。その日、自分はどんなところに注目して、そこから何を感じて、どう理解したのかを考えることで、これまで生きてきた過程において、数多くしてきた自分独自の考察の仕方を把握することでもあるように、目標に応じた「振り返り」作業をします。「実習目標」は、一種の“テーマ”でもあり、目標を絞ってミクロの世界に着目することで、学びを深いものへと変えていく傾向があると感じています。また、小さな世界を深く理解したと感じることで自信につながり、知っていこうとする楽しみを覚え、次への学ぶ意欲にもつながる効果があると感じます。大学の実習担当の先生から「実習目標はより具体的な方がよい」と言われていたことを思い出しました。それには、きっとこのような意図があったのでしょうね。
 
『子どもたちと表情豊かに接し、介入のし過ぎに注意する。』
 
 これが、実習1日目(0歳児クラス)に入ったときの実習目標です。この目標を決めたからでしょう。「実習生の活動」欄には、“子どもに微笑みかける”とか“子どもが玩具を持って近寄ってきてくれたので笑顔で応える”などの記入がされていました。また、“介入”について『本日のまとめ、反省、考察、感想等』の欄には、「実際、現場で体験してみると、どうしても子ども同士のトラブルには口をはさんでしまっていたと思います。また、その時の声かけもその子を理解したうえでの声掛けにはほど遠く、介入するかしないかは日々の子どもの様子をよく見ておかないと判断できないものだと学びました。」と書かれてあります。そして、感想等として『今日感じたキーワードは“ひとりひとり”です。時間に追われることなく、子どもひとりひとりに合ったペースで保育している様子がうかがえました。また、保育者が「◯◯くんはここまでできるから、次はあれに挑戦させてあげよう」と、新しい環境を用意し、それが“ひとりひとりの把握”につながっていくのだなと思いました。』と記入されていました。
 
 介入するタイミング、仕方、言葉掛け等は、子どもの発達を理解していないと難しく、日々子どもたちと生活を共にしているからこそできることだと学んだようです。そう考えると、新しいクラスに変わったときの保育士と実習生の存在は、子どもにとってはほとんど変わらないようにも感じます。発達を把握していくノウハウやスピードはもちろん違いますが、保育士も、毎日子ども理解に努めているように、実習生だからといって「何もできない存在」として見るのは違いますね。「子どもを一番新鮮に感じることができる」存在として関わっていきたいと思いました。
 
 そして、この実習日誌を読んで客観的に思うことは「気負いすぎている」ということです。よく考えてみると、これが実習の1日目です。もっと、子どもという存在を不思議がったり、一緒に楽しんだりするという姿勢が大切だよと、過去の自分にアドバイスをしたいです。
 
 1日目の日誌の最後にある『実習指導者所見』欄には、「緊張されていたそうですが、子どもたちに対する笑顔がよかったと感じます。」と書かれていました。実習生にとっては、先生方のこのような言葉が何よりもの救いになります。それはきっと「目標」にしていたことが評価されていたことも大きかったのだと思います。
 
(報告者 小松崎高司)

世代間交流4

今回で世代間交流について4回目の報告となりました。

ここまでは小学生と乳児・幼児の交流について私の思うところを書かせていただきましたが、今回は乳児・幼児・小学生全てを含んだ子どもと高齢者の世代間交流について書かせていただきます。

高齢者と子どもが行う世代間交流は、主に高齢者から子どもへ伝統文化や生活の知恵を伝承することができるのではと考えています。

竹トンボやベーゴマを教える、昔の話をするなど、現代の子どもたちには新鮮なことばかりではないでしょうか。

高齢者にとっては、自身の存在価値を確認できる機会となり、生きがいを持つことことに繋がっていくようにも思えます。

このような交流は、日常的に行われるのではなく特別な機会を設けて行われることが多いそうです。

そのため、高齢者をより特別視してしまう可能性があることが指摘されています。

更に現代は、核家族化の進行に伴い、祖父母世代との交流の機会が昔と比べて著しく低下していると聞きます。

だからこそ高齢者と子どもの交流は日常的という観点で推進していかなければならないと思えてきます。

交流を日常的にするには交流の場が必要不可欠です。

そしてその交流の場が、彼らを取り巻く人の関わりと街づくりへと発展していくと思うのです。

ここで着目したいのが、保育園をこの交流の場とできるのではないかということです。

私は去年345歳児クラスのフリーを担当していたとき、よく子どもたちと遊びに行った公園で高齢者の方々がゲートボールをしているところに何度か立ち会いました。

そのとき一緒に子どもたちを先導していた先輩保育者の方が、

「保育園にゲートボールの道具もあるし、ゲートボールをしている高齢者の方にお願いして保育園の園庭で子どもたちにゲートボールを教えてもらおうよ。」とおっしゃいました。

そのころの私では全くその発想が浮かばなかったので、このような交流の仕方もあるのかと勉強になりました。

実際に「お願いしてみましょう!」と意見が一致し、その後何度かその公園に遊びに行ったのですが、タイミングが合わず結局断念した結果となってしましました。

今後機会があれば実現させてみたいものです。

その他にも何らかの遊びを通して子どもと高齢者との交流の場を設けることができると思います。

現に学童でも毎週火曜日に多様な製作遊びを子どもたちに教えながら一緒に遊んでくださる方がボランティアとして来てくださっています。

その方と子どもたちの交流の時間はかけがえのない時間で、子どもたちも火曜日をとても楽しみにしていて、その様子は正におじいちゃんと孫です。

このように交流を日常的にしていくことが、核家族化の進行によって招いてしまった子ども高齢者間の関係の希薄化に対抗する手段でもあると思います。

ゲートボールの例のような機会を次回は活かしていき、今後子どもと高齢者の有意義な交流の場を設けていけたらと思っています。

(投稿者 若林)

世代間交流3

前回乳児と小学生の世代間交流に続いて、幼児と小学生の世代間交流についての私の思うところを書かせていただきます。

幼児との交流機会もまた乳児のときと同様に、家に弟や妹がいれば日常的に行うことができますが、幼児は乳児に比べ動きも増え、外で遊ぶことも多くなるため、家の外で家族ではない幼児とかかわる機会もあるかもしれません。

しかし現代では、そのような機会が少なくなってきているようにも感じています。

また、幼児に興味を持って自ら交流機会を得ようとする小学生もなかなかいないように感じてしまっています。

前回に学童の子どもたちがお手伝い保育に関してとても意欲的なことを書かせていただきましたが、実は幼児クラスにお手伝いにいきたいと言う子がほとんどいません。

幼児期は、自分の意思を持ち、様々なことに関心を示して、活発に活動するようになる時期であり、乳児は母親を中心とする養育者の助けの中で生活しますが、幼児になると生活の様々な場面で少しずつ自立していくようになる。

しかし意思表示の仕方が上手くいかなかったり、生活の中で周りの支えが必要なこともまだまだたくさんあるように思えます。

自我が芽生えてくるが、まだまだ色々な面において完全ではないこの時期の子どもは対応が難しいことも多いのではないでしょうか。

そのような幼児と小学生が交流することは、互いに多くの発見、成長が期待できるのではないでしょうか。

まず、小学生にとってのこの交流の価値は年上(小学生)としての自覚や責任感を持てることであると思っています。

幼児と共に活動をすることで自然と「自分がしっかりしなければ」という気持ちが生まれ、大変な思いもしながら活動をしていくことで、その経験が自信につながり、普段の生活では気付くことのできなかった自分の一面に触れることもできるかもしれません。

また、幼児との絆が深まっていくと幼児に対する思いやりも育ち、自分自身の幼いころの様子を考え、成長を振り返る機会にもなるようにも思えます。

そして幼児にとっても小学生と交流することは価値のあることであり、小学生に色々教わり助けてもらうことで、憧れや成長への意欲を見出すことができる。

これが私が考えるこの交流の最も重要視している点です。

異年齢保育の1つの良き点として、年長児の子どもたちが最も年上で、その下のクラスの子どもたちが年長児に対して憧れを抱けることがあります。

しかし、年長児は最も年上の為、憧れを抱く相手が園内には大人以外にいなくなってしまいます。

それを担えるのが学童の子どもたちであると思うのです。

そして年長児にとっては小学校や小学生を身近に感じ、進学への期待を膨らませることのできる経験となるとより良いですね。

しかし、先ほど書いたように学童の子どもたちの幼児クラスへのお手伝いの意欲は決して高くないので、これから保育園・学童のイベントを通して徐々に交流を深めていき、お手伝い意欲の向上に繋がればなと思っています。

小学生、幼児は共にどんなことでも成長へとつなげていける時期の子どもたちです。

その交流からも大人の予想していなかったような発見、成長が期待できるのではないかと今から楽しみです。

(投稿者 若林)

落ち葉

3,4,5歳児クラスのお散歩で面白いこと出来事がありました。

 

新宿せいが保育園では毎週水曜に近くの小学校の校庭を借りて遊ぶイベントがあります。

校庭が使えるのは、9時半までで、そこから子ども達は再び室内遊びと外遊びを選択します。室内を選んだ子は園に戻り、外遊びを選んだ子はさらに、11時半過ぎまでとたっぷり外で遊べます。

 

その日はちょうど水曜日で、校庭の後の外遊びは、最近できたばかりの公園に行きました。そこはとても広く、また日が出ている時はごろんと横になりたくなるくらい気持ちのいい芝生が生えている公園で、子ども達は、ほどよい日差しを浴びながら、ボール遊びをしたり、かけっこをしたり、ムシさがしをしたりと思い思いに遊んでいました。

 

私も、なんとなくいすに腰掛けながら、子どもたちの様子を見ていたのですが、ある子どもたちのグループが目に留まりました。そのグループは、芝生の上に落ち始めているたくさんの落ち葉をせっせと拾ってきては、一か所に集めながら何か話していました。

 

少し離れていたので良く聞こえないところもあったのですが、

「もっと集めてきて」「後でお店屋さんを・・・」と、何やらごっこ遊びをする準備をしているようでした。

楽しそうだなと思って見ていると、公園の手入れをしてくれているおじさんたちが、芝生に落ちている葉っぱの掃除にやってきました。

 

おじさんたちが熊手で芝に落ちている葉っぱをきれいにしてくれている横で、かすめ取るように葉っぱを集めていく子ども達。

私はそれを見ながら、「おじさんたち掃除しにくいかな~」と思っていると、

 

おじさんが「遊ぶのはいいけど、ちゃんと持って帰っててよ」と一言。

 

そんなことを言われて、子どもたちはどうするのかと見ていると。

一人の子が「どうする?持ってってだって。」

突然の声掛けにしばらく止まる子どもたちでしたが、その後が輪になり、相談を始めていました。しばらくすると、パッと散らばってまた葉っぱを集めだしました。ですが今度は自分たちが集めていた場所ではなく、おじさんたちが集めている袋に入れていました。

 

どうやら、ごっこ遊びから、お手伝いと葉っぱをいっぱい集める遊びに変更したようでした。そんな様子におじさんも感心していましたが、何人かの子ども達には、おじさんが集めている熊手にたくさん葉っぱがあると、おじさんの周りを行ったり来たりで、おじさんも苦笑いでした。

 

おじさんの一言で変わった遊び。

 

もし大人だったらどうでしょう。私の場合、注意されるとそこでお終いにしてしまうかもしれません。ですが、子どもたちはそれをきっかけに新しい遊びを生み出し、更に楽しんでしまう。そんな所に子ども達の強さと魅力を感じた出来事でした。

 

(報告者 西田)

実習日誌①

 保育園には定期的に実習生が来ます。先日、私がいるクラスにも実習生が来ました。実習生は「実習日誌」に保育を記録していきます。また、保育士は「実習指導者欄」に助言という形で記入し、実習生の保育を振り返ります。その度に、自分の保育も振り返っていることに気づき、自分も「実習生」であったことを思い出します。当時を思い出すと、その期間で多くのことを学びました。そしてこう思います。
 
「どうしてそんなに学べたのか?」
「良い学びには何が必要なのか?」と。
 
 もちろん、その園が素晴らしかったということに尽きるのですが、その原因を私なりに振り返ってみたいと思います。
 
 『子どもたちの日々の生活や様々な保育環境から、子どもの本質を認識し、これからの子どもたちにとって何が大切なのかを、実習中の体験をもとにして理解し、常に子どもが自発的に活動できる環境の一部になれるよう、子ども社会への介入のしすぎに注意しながら、心にゆとりが持てる保育方法を学びたいと考えています。具体的には、活動に応じて編成される子ども集団の様子や、順序性・選択性の保育、また、習熟度やチーム保育などを子どもの様子や保育者の意図を考え、ふまえながら貴園の保育に関わり、子どもの本質や求められている子どもの将来像を感じとりたいと思います。』
 
 上の文は、私が大学4年の時、保育所実習をした時の実習日誌内にある「実習生がこの実習を通して学びたいこと」という欄に記入した文です。これを記入した時の心境を思い出してみると、“学ぶ意欲”に満ちあふれていたように思います。それもそうです。何もかもが新鮮で、ある意味自分の想像を遥かに超えた現実がそこにあったからです。その園の存在を知った時、大学側に「ここで実習がしたいです。」と頼み、自分で実習のアポイントをとりました。人を寄せ付ける魅力がそこにはありました。何よりも、「楽しそうだなぁ」と感じたのが行動に移せた最大の要因であったと思います。
 
 良い学びにするためには、まず自分に「学ぶ意欲」があること、そして「保育者の思い」を知ろうとすることが必要だと思います。それは、「興味関心」や「探究心」でもあり、同時に実習生にとっては「指導される力」でもある気がします。それは、だた言われたことだけすればいいというものではなく、真摯的に取り組んで疑問に感じたことを聞く姿勢であるように、教えてもらう人と“学びの対等”を図る行動のように感じます。
 
 異年齢保育の良さに、発達の異なる者同士が「刺激を受け合う」ということがあると思います。年齢の違いではなく、できる子どもがそうでない子どもに教えてあげる行為から、相手から新しい刺激を受ける側と、相手に教えようとすることで自分の考えを整理してどうすればうまく伝わるのかを考えようとする側との相互間に学びが存在することを両者が理解することで、その機会が素晴らしいものになる気がします。立場は違えど、学びは対等であるべきです。
 
 実習におけるそのような過程を自分はどう感じていたのかなどを、現在保育現場で働いている私と、実習をして実習日誌を書いていた大学4年である当時の私から読み解いていきたいと感じます。
 
実習日誌
懐かしの実習日誌
 
 
(報告者 小松崎高司)

アンパンマンに誘われて・・・

先週の日曜日に「歯の健康スペシャルin中野」というイベントに抽選に応募したところ当選したので行ってきました。
内容としては「歯を大切にしよう」という企画で主催は東京都歯科医師会で、お菓子で有名なロッテの他にいくつかの会社が協賛をしているものでした。
なぜ応募したのか?というと企画の中にアンパンマンショーがあったので、妻がせっかくだから行ってみようか!?と言ったので応募しました。
あとは無料なので(笑)
ですので会場に着くと子ども連れの親子がたくさんいました。
まだ息子は一歳なので…おそらくアンパンマンは分からないでしょうね(笑)
ただ会場の雰囲気などで楽しそうにしていたかな(笑)?

さてプログラムが始まり、いきなりアンパンマンショー!!
という上手い訳がありません。最初は来賓や偉い人の挨拶、そして医学博士の15分ほどの講演、その後に歌手によるミニコンサート、
そして休憩を挟んで歯科衛生士専門学校の先生と生徒による歯磨き指導、それが終わってやっとアンパンマンショーの始まりです。
まぁ、最初にアンパンマンを出してしまったら、ほとんどの人が帰りそうですもんね。
私も、最初はアンパンマンまで我慢するかぁ・・・と思っていましたが、
途中の医学博士の講演がとても面白く、聞き入ってしまいました。
その中でいくつか保育現場、特に給食に関わる大切なことを話していたので紹介します。

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まず人間の歯の役割について解説がありました。
この辺は大体の人が知っていると思います。
前歯の役割は食べ物をかじりとる為、奥歯はすりつぶす役割などです。
そこで食べ物の大きさについて、子どもに食事を提供する時に、どのくらいの大きさにしているか?です。
写真を見ていただければ一目瞭然ですが、
子どものためと言って、あまりにも小さく切ってしまうと、かえって前歯の役割を果たせず、
歯が弱くなってしまうとのことです。
ですので、あえて大きく切って、食べ物を前歯でかじりとる事を子どもにさせる事が大切とのことです。
確かに子どもの為と言って、何でも細かく切って調理したものは、
確かに喉にもつっかえないですし、安全かもしれません。
しかし、それが果たして子どもの為なのか?です。これは塾長もよく言われていることです。
子どもの為と言って、なんでもしてあげるのは結局、子どもが本来持っている能力を大人が奪っていることと同じことです。

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次は姿勢です。
もちろん姿勢よく食べることが正しいのは誰でも知っていますが、
私が注目したのは足の裏をしかりつけることです。
ここでは足の裏を床につけないと集中して食事ができないと言われていましたが、
これは以前、塾長の話で足の裏をしっかりつけて食べることで味覚が変わる、という話しを聞いたからです。

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次は歯が健康になると、食べ物を美味しく食べることで
脳内ホルモンが分泌されドーパミンがやる気を起こさせ、セロトニンがくつろぎを与え、脳血流量がアップすることで記憶力を高めるという、
精神的に人を助ける働きをするそうです。
さらに、5感を使って食事をする大切さも話していました。
味覚で基本の味を味わう
視覚は料理を見た目
嗅覚は料理の香り
聴覚は音で野菜を食べた時に「シャキシャキ」とする音を聞いて楽しむ
触覚は歯ざわり
と5感をフルに活用して食事をすることの大切さをお話されていました。

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これは保育でも同じですね。
先日、どんぐりプロジェクトで一緒にコラボをしたNPOの団体の方と再度一緒に新しい取り組みを行いました。

それはドイツで行っている森の幼稚園を日本でも実践してみたらどうか?ということで
試験的に新宿せいが保育園の子ども達と園舎の裏にある大きな公園で実践しました。
その時に大切にしていたのはやはり五感です。五感をフルに使って自然と親しむ事が目的です。
ただ、そこで塾長が懸念していたのは、どうも日本で既に実践している所は、アスレチックのように森の中でただ遊ぶという方法が多いので、
そうではなく、ドイツの森の幼稚園のように文字数指導を行ったりと、もっと保育を導入することが大切と言われていました…。

さて話を戻します…。
最近の塾長のブログで「給食」がテーマにずっと連載をされていました。

それもあってか、医学博士の講演内容が塾長の食育の考え方にとてもリンクしていた部分が多くありました。
「かじりとり」「姿勢」「五感」どれも塾長が話されている事と同じく考え方ですね。
どうしても保育を考える場合、保育の世界でしか物事を見ることができず、
気付いたら視野が狭くなっている場合があります。
そうではなく、もっと保育以外、もしくは全く保育と関係のない事を体験したり、
見たり、聞いたりするのもいいですね。
それが塾長の開催する「ブラヘイジ」だったりします・・・。
(投稿者 山下祐)