お泊り会

先週の22日、23日に学童のお泊り会を昨年に引き続き、学童クラブ内にて行いました。

別日程で、保育園でも年長組が同じく保育園内でお泊り会を行います。

私は昨年、3・4・5歳児フリーを担当させていただいたので年長組も学童もお泊り会を経験することができました。

年長組と学童のお泊り会で最も違う点は、子どもたちが自分たちでお泊り会をどうしていくか、何をするかを考え、実行することです。

今年は子どもたちが数多くの案を出してくれた中、下記のようなプログラムを実施しました。

・09;15出発。上野の「科学技術館へ!」(電車で)

・15;00に帰ってきて、スイカを含めた「いろんなフルーツ割り」(他にリンゴ・パイナップル)

・終了後、お風呂

・17;00からバーベキュー&流しそうめんの準備、18;00からスタート!

・19;00から職員による怖い話後、保育園内にてきもだめし!

・20;00から枕投げ

・21;00から寝る準備を整えてDVDを見る

・21;30就寝

・06;30起床

・07;00朝食

・08;00新聞作り(チーム毎にお泊り会の楽しかったこと、印象に残ったことを新聞として形に残し、振り返る)

・09;30保護者の方々を招いて、賞状授与式(1人ずつ「~だったで賞」を発表しながら授与)

・10;00解散

とやりたかったことを盛り沢山行えた子どもたちはとても満足気な笑顔を保護者の方々や我々保育者に向けてくれます。

そして保護者の方々から夏休みに限らず、小学校のある普段の期間の祝祭日等を使って、もう一度行えないでしょうかとアンコールの声を多数いただきました。

お泊り会では、子どもたちが自分たちで考え、自分たちで実行していくにあたり、行っていく上で壁にぶつかることがある。

その壁と真剣に向かい合い、先を見据え、打開策を練るという、生きていく上で必須な思考を1人ではなく、チームで、そして学童の子どもたち全員で行えたことにより、チーム的にも全体的にも団結力も増したとお泊り会から1週間が経ち、感じています。

これは職員間も然りで、今回のお泊り会には学童職員抜きで12名の保育園の職員の方々がお手伝いしてくださりました。

中には昨年学童職員で事情により退職された方もお手伝いに来てくださいました。

お手伝いに来てくださった先生方抜きではここまで良い会にはならなかったことでしょう。

この場を借りてお礼を言わせていただきます。

本当にありがとうございました!

また、今回のお泊り会は多数の先生方にお手伝いしてくださったこともあり、子どもたちと共感しながら大人も十二分に楽しむことができました。

特に科学技術館には子どもたちと一緒に共感できたことがたくさんありました。

この機会を活かし、日々の保育に取り入れ、共に共感した事柄を遊びや学びへと繋げられよう拡げていけたらと思っています。(投稿者 若林)

出張報告in熊本

8月29日に熊本県のとある保育園で、公開保育があったので見学させてもらいました。その園の見学でまず目についたのは、「パペットコーナー」というコーナーでした。そこで子ども同士で人形劇をしていました。塾長の講演等でよく「子どもと大人で遊んだり完結させてしまうのではなく、子ども同士の横のつながりを大事に」という話しが出ることがありますが、まさに横のつながりで過ごしていました。パペットを操る担当の子もいれば、それを観る観客の子もいてそれぞれの役割がありました。

以前に新宿せいが保育園の成長展でも「遊びの発展」ということで紹介したことがありました。それは、子どもが一人で絵本を読むということから発展し、一人の年長さんが大人のようにみんなに読み聞かせをするという姿が見られたことがあります。これも遊びの中からの発展が横へのつながりになったということでしょう。それは、普段、先生方がやっていたのをマネしたのかはわからないのですが、ストーリーなどは特になさそうだったものの、とても盛り上がっていました。

もう一つは、運動遊びをしていた姿を見たときに二種類の平均台が置かれていて、それぞれに子どもたちが並んでいました。一つは幅が広い平均台、もう一つは幅の狭い平均台でした。

そして二歳児さんで行われていたのは両手を上げ、片足でケンケンしながら動き回る体操をしていました。

今年ドイツへ行きそこで行っていた運動遊びは、ほぼ全てバランス感覚を養うための運動遊びでした。体力や筋肉は幼児期にはつけることはできませんが、、バランス感覚を幼少期に養うことでケガ等を避けられることができるので、そういった運動を実際に取り入れられていたのでとても参考になりました。

(投稿者 柿崎)

2014.8.29

ゴー・ビトゥイーンズ展②

今回も、以前に行った「森美術館」での【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】で感じた「異なる文化、現実と想像、大人と子ども、
あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」についての報告をしていきます。

 

〈異次元を往来する〉

 よく、子どもに対して「人間らしくなってきた」と表現する人を目にします。言葉や状況を理解し始め、自らでも何がしたいのかを伝えられるようになってきた子どもに対して言っている場面が多いと思います。では、それまでは何だったのでしょう?

 それを、展示会ではこう表現していました。

『空想、ごっこ遊び、工作や絵を描くことなどを通して、子どもは簡単に想像の世界に遊ぶことができます。そもそも、子どもにとっての「現実」は、想像の世界から完全に切り離せていません。「この世」や「あの世」を含む、あらゆる境界を軽々と飛び超える子どもたちの想像の力を通して、より多様な世界のあり方が見えてきます。』

 子どもはの発想は、大人でも考えつかない切り口から生み出されてきます。それは、想像の世界にいることがあたかも普通かのような感覚になっている時、それを現実の世界で自然と行った時に生まれる発想ということだと思います。展示会では、そのような現実と想像の世界を頻繁に行き来している時期の子どもたちに焦点をあてて、生まれてくる前の話や生まれてきた時の様子を、子どもが実際に話している映像がいくつも流れていました。また、「この世」と「あの世」を自由に横断する子どものエネルギーを、小学生の子どもたちが『どんなじこくへいくのかな』というテーマのもと、自分が想像する地獄の立体物を制作し、自らでその作品の説明をしている映像が流れていました。

 

「どんなじごくへいくのかな」

「どんなじごくへいくのかな」

 全てが規格外のようなものに見えて、所々にいれる現実的な描写が妙な説得力をかもし出しているのです。大人は、「想像できることは全て実現できることだ」と言うかもしれません。しかし、逆に、想像できないことは実現できないということです。大人が子どもの姿を見て、「人間らしくなってきた」と表現するのは、やっと大人が想像できるところまで降りてきた姿であり、それまでは大人が想像できない世界を漂っていたということになります。以前私が、子どものそういった姿から「子どもと少しでもつながった気がするのです。そのつながりが、自分の存在を意味あるものにしてくれる」と表現したのは、少しでも、子どもがいる想像の世界に近づけたような気がしたからだと思います。

 子どもの、現実と想像を行き交うことで生み出される過程や仕組みを、上手に残してこられた人が、物事を創造することに長けた能力を活用して、新しい発想のもと“時代”を作っていく人になっていくのかもしれないと感じました。

 

つづく…

 

(投稿者 小松崎高司)

マネジメント6

※まずはじめに、今回のブログの投稿を一日過ぎてしまい、大変申し訳ありませんでした。
主人公のみなみがマネージメントに取り組み、初めての大会が始まりました。
相手の高校は同じ都立の普通高です。最終目的を甲子園と考えると、一回戦で負けているようでは話になりません。
そして試合が始まりました…7回までお互いに一点も許さず、ピッチャー同士の投げ合いの試合展開。
そして7回裏で相手の攻撃を迎え、とうとう打ち崩され、一挙に7点も取られてしまいコールド負けをしてしまったのです…。
しかし主人公はこの試合の負けは、野球部の運命を大きく変える、価値かある『負け』だと気づいたのです…。

おそらく野球部の様に人生の中で、その人の運命を大きく変えるターニングポイントが、何度か訪れると思います。

その時にどっちの道を選ぶかによって、今後の人生が良くなるか、悪くなるか決まってくると思います。
よく塾長が言われる言葉で

『選択をする上で、間違った方を選んでしまうと、もっと悪くなってしまう、その時に無理にでも良い方向に戻さないと、取り返しがつかなくなる』

これは私も実体験で経験があります。
塾長が言われるように、選択を間違うと面白いくらい、どんどん悪い方向に進んでしまい、案外それは自分で気付かない事が多い気がします。
その時に気付くか?気付けないか?と言うのも、その人がそれまでに培ってきた『力』が大きく影響すると思います。
また塾長は続けて、こんな言葉を言いました。

『人生においてチャンスは誰にでも巡ってくる、ただ逃してしまうと2度と同じチャンスは巡ってこない、

しかし、いつチャンスが来るのか予測は出来ないため、いつでもチャンスを物にするために普段から力をつけておく必要がある』

先程の『ターニングポイント』と繋がる言葉ですね。

本の中では、主人公が野球部が大敗したのをきっかけに、今が『成長』の時だと感じたのです。

「成長には準備が必要である。いつ機会が訪れるか予測できない。準備しておかなければならない。準備ができていなければ、機会は去り、他所へ行く」

とドラッガーは言っています。

…全く塾長と言っている事と同じですね(笑)

『力』と言われても、本当に自分がそこまで力がついているのか?と、思うことがあります。

毎週の生臥竜塾の帰りは本多くんと同じ帰り道なので、よく色々な話をしながら帰っています。
先々週でしょうか、先週から塾の報告を交代でやることになり、読まれた方がいるかと思いますが、前回は本多君が報告をしました。

本人は塾が始まった時から終わるまで必死にノートを書きながら参加し、帰り道も「ちゃんと書けるか不安で仕方ない…」って言っていたのにもかかわらず、
その日にアップできるほどのスピードで報告を仕上げたのです。しかも内容もとても分かりやすかったです。

次の日に塾長が保育園で副園長先生と報告について話していました。その話を聞き耳を立てていましたが、

毎日、ブログのコメントを書いているからか、書くスピードも速くなるし、内容も的確に捉えているよね。と二人で話していました。

おそらく自分で力がついたのか?どうか?というのは自分では分からないのかもしれません。

逆に「自分は力がついたのかも…」って思うのは本当の力ではないかもしれません。だからといって「力」ばかりに固執してしまうと、
誤った「力」がついてしまうような気がします。
それこそ塾長が言われるように楽しく学ぶことが大切で、楽しさの中で自然と「力」がついてくるものだと思いました (投稿者 山下祐)

7つの習慣 1

物事を動かすときにうまく人に伝えることは難しいですね。自分と同じ方向に向いている人であればいいのですが、そうでない人の場合、同じ方向に向いてもらえるようにアプローチすることはとても大変なことです。自分自身、人に話すときにどうしても、自分の気持ちが先に出てしまい、相手に聞いてもらうどころか、逆に言いくるめてしまう悪い癖があります。そうすると理解はしてくれるものの、納得はしてくれません。そして、それに対して自分自身もイライラしていることがあります。「相手は分かってくれない」「なぜ、わからないのかな」と思うことばかりです。しかし、それは自分のアプローチが悪いからなのかもしれません。

最近、ビジネス書のランキングの中で、いつも高くランキングいりしている本で、スティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」という本があります。ここにはビジネス書として、経営や業績を伸ばすと言うことよりも、「7つの習慣」をもつことで人格を高める習慣を身につけることで、人生を成功してものにしていこうという内容です。最近ではこういった難しいビジネス書も小説になっていたり、コミックになっており、とても読みやすく解説されているものは多いので読み始めています。

話に戻りますが、このように「相手は分かってくれない」と思ったときにそのアプローチをもう一度見直す必要があります。コヴィー氏は「私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままの世界をみているのであり、自分自身が条件付けされた状態で世界を見ているのである」と書かれています。つまり、多くの人は自分の都合の良いように物事を見て、「良いこと」と「悪いこと」を判断しているのです。そして、いつでも「できなかった理由」を環境のせいにしていることが多いですね。しかし、いつまでも相手が変わらないと嘆いていても何も変わりませんし、チームの関係もうまく循環していくことができません。

そこでその意識を変えることが重要になってきます。問題は前述にもあったように見方を変えることが必要です。「自分は正しい、相手は間違っている」と思っていてはなにも変わらないのです。他人や組織、環境など自分の外側(アウトサイド)が変わらないと結果がでない(アウトサイド・イン)という考え方ではなく、見方や人格、動機など自分の内面(インサイド)の行動に変えることで結果を引き寄せようとする意識を持つことが7つの習慣を身につける前提になっています。

 

考えてみれば、最近、保育を変えることや、しっかりとまとめなければいけないと思うことが、知らず焦りに転じることになり、人の見方を悪い方に変えているのかもしれません。

そして、これらの考えは「見守る」ということととてもリンクしているように思います。「見守る」ためには「相手を信じる」ことはとても重要です。その気持ちを持つためには、相手に要求してばかりではいけないのです。自分のアプローチや考え方、見方を相手に合わせて見ることはこういった保育をしていく上で、とても必要な意識だと思います。

(投稿者 邨橋)

モダンタイムス

仕事をするうえで、仕事をする以外の時間に何をして過ごすか。それは大きな意味を持つと思います。

以前、塾長が病院にかかった時にこんなことを言われたそうです。「あなたはいつも保育のことばかり考えていますね。たまには違うことも考えないと体にとってよくありませんよ。」

いくら保育が楽しいからといって、「同じことばかり考える」それは脳にとってもよくないこと。それを聞いてから、保育以外の時間を大切にするようにしています。

その中の一つが本を読むこと。

最近は、なかなか読めていませんが、私にはとても大好きな小説家がいます。それは伊坂幸太郎氏です。

いくつもの作品があるのですが、特徴的なのがどの作品も日常にあるような何事もない人々の生活を描かれていて、あるところから、その人々の生活が交わりを見せるようになり、終盤になると、それぞれが欠かすことのできないキーマンになって話が進んでいく。という感じのものなのですが、その人々の生活が交わっていくところが何とも言えず面白くはまっています。

 

そんな伊坂氏の作品に「モダンタイムス」というタイトルのものがあります。

私は初め読んだ時は気付かなかったのですが、のちに臥竜塾で同じタイトルを目にすることになります。

 

それはチャーリー・チャップリン氏の「モダンタイムス」という映画です。

チャップリン氏は言わずと知れた有名な「喜劇王」です。

 

臥竜塾の中で、塾長はこの作品を、チャップリン氏の作品の中でも、初めてセリフ音声を取り入れた作品として紹介してくださいました。

内容は

その当時時代背景、資本主義社会や機械文明といったものを痛烈に風刺したもので、労働者がまるで機械の一部分のようになってしまっているという世の中を、笑いで表現しているというものでした。

初めてのセリフ音声といっても、作品の中で2か所だけセリフ音声が入っているのですがそこが塾長のポイントでした。

1つは、主人公(チャップリン)が働いている工場の社長が、労働者を怒鳴る時。これは全編通して字幕で見ている中、そこが音声になっているのは、まさに労働者がまるで機械の様に扱われているという様子を的確に表現され、とても衝撃的でした。

もう1つは終盤のシーンでチャップリンが歌わなければいけなくなってしまうシーン。作品の中では、歌がうまい役を演じているチャップリンですが、本番の直前に歌詞カードをなくしてしまいます。そこでチャップリンがとった方法は・・・なのですが、そこはぜひとも作品を見てみてください。そのセリフのシーン以外もとてもおもしろいです。ちなみに、初めてのセリフ音声ということで、全世界で共通で見れるような言葉という配慮もされていたということです。

そんな「モダンタイムス」ですが、もちろん最初に作られたのはチャップリン氏の方で、伊坂氏はそんなチャップリン氏の作品を知っていたのか、なんとなく同じく現在の時代を風刺した作品になっている気がします。

自分は人のために生きているのか、機械の一部の様になっていないかと考えさせられるいい一場面でした。

(報告者 西田泰幸)

一円対話

学童ではよく一円対話という話し合いの形式を用います。

写真で載せていますが、一円対話とはみんなで輪になって向き合い、テーマに沿って意見を出し合いながら話し合うことです。

一円対話にはルールが設けられていて、

●相手が話しているときには口を挟まない。

●相手が話していることを尊重し、聞く。

●互いを信頼し、自分が思うことを素直に話す。

があります。

私は一般企業への就職を考えていなかったため、大学生時代に一般的な就活はしてきませんでした。

そのため友人から聞いた話になってしまうのですが、企業等への一般的な就活には面接はもちろんとして、グループディスカッションを用いるところが多いと聞きました。

何度もグループディスカッションを経験した友人は最初は限られた時間でどれだけ自分の意見を主張できるかに主点を置いていたと言っていました。

しかし、最後には面接でもグループディスカッションでも同じで、如何に相手の話を傾聴し、その上で自分の意見を主張することが大切だということに気付いたと言っていました。

その友人の体験談から、学童期や児童期に行う一円対話の重要性に気付きます。

学童では子どもたちが子どもたちだけで話し合いを進行していく月案会議によく用いられます。

様々な意見が飛び交う中、自分の主張を押し通そうとする子、または仲の良い友達の意見に便乗するだけの子、はたまたそれらの意見を聞いた上で「これならどう?」とみんなの意見を汲み取りつつ発言する子など様々です。

新年度が始まり約5ヶ月ですが、みんなの意見を汲み取りつつ発言できる子が最上級生の3年生を中心に増えてきたと感じています。

私が考えるにこの一円対話の最大のメリットはみんなの顔を見渡せることにあると思っています。

人は相手の意見を汲み取る手段は意見を聞くことだけではありません。

表情からも汲み取れます。

●傾聴や頷きを用いて相手の意見を引き出し、相手の意見を尊重した上で自分の意見を主張する。

●主張していない人の表情からも汲み取る。

この2つのスキルは社会に出る上でとても重要なスキルであり、この2つのスキルを得る上で一円対話は最適な話し合いの形式であり、一方向的に不特定多数に向けて発する「二次的言葉」が急速に発達する学童期ならではの方法であると思いました。

ちなみに臥竜塾も一円対話形式でみなさんの表情を見渡せ、塾長のお話を初め、他の塾生の方々の意見を尊重して聞き、意見を交わし合い学びを深めています。(投稿者 若林)

ゴー・ビトゥイーンズ展①

以前、「えつこん」という題で、日常にとけ込むような、目には見えない心の中で作り出される、子どもが描く物語や独特の世界について触れましたが、その、子ども“独特の世界”はどのような過程で生まれるのでしょうか。大人・子ども・社会・現実など、自分の目に映るものをどう捉え、それをどう読み取っているのでしょうか。

 

 夏休みを利用して、現在、森美術館で開催されている【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】に行ってきました。テーマは『異なる文化、現実と想像、大人と子ども、
あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」』です。そこで感じたことを報告していきたいと思います。

 

〈自由と孤独の世界〉

 子どもは、何かをしている時や友だちと遊んでいる姿以外にも、ふと遠くを見つめ、物思いにふけっているようなひとりの時間も存在していることがあります。また、大勢で居ながらも、ひとりを感じる瞬間もあります。大人から見ると「何かを考えている・感じている」ようにも見えます。その姿を、この展示会ではこう表現しています。

 『子どもが過ごすひとりの時間には、寂しさや不安、頼りなさが漂います。同時にそこには、誰にも侵されない充実した経験や、ひそかな主張や、空間に浸るひとときがうまれます。ときに身勝手な大人の論理に翻弄されながらも、孤独の中に自由を獲得する子どもたちの姿に、未来へと向かうたくましさとしなやかさを見出すことができます。』

 この文から、大人だけが“自分を見つめている”のではないことが想像できます。子どもであっても、自らの経験や主張、それが生み出される空間に浸ることで、自らの中のある自由を見つけようとしているのです。大人は、どうしても形や言葉にこだわる気がします。時に、それを強制してしまうことも、自分の成果として分かりやすくしてしまうこともあるでしょう。しかし、子どもはひとりでも自由を獲得しようとしていることが読み取れます。自らの力で生きていこうとする思いが、展示写真からも伝わってきました。

 

〈文化を超えて〉

 子どもは、生まれたところの環境に順応していきます。その場所の文化・言葉・風習など、多くのことを吸収して、その場の環境を受け入れ、自分にできることを探していきます。では、生まれた場所でなくても、全てを受け入れていくことはできるのでしょうか。

 『移民や国際養子縁組などのさまざまな状況を背景に、祖先の住んだ土地を離れ、新たな場所で暮らす子どもたちがいます。時代の荒波に飲み込まれそうになりながらもたくましく生きる姿や、家族の中で代々受け継がれる文化とそれが変容しているさまを通して、多様な文化を生きる子どもたちについて考えます。』と説明されていました。

 そこには、文化を超えた場所での生活を受け入れ、新しい家族と仲睦まじい姿でいる姿の写真がありました。子どもが望んでいないのに、そうしなければならない状況になってしまうこともあります。子どもは、大人や社会の流れに従うだけです。しかし、そんな状況下であっても、子どもはその中から自分の居場所を探し求め、順応しようとするのです。目に映る状況に合わせ、自らの世界を作り上げようとする姿に、大人以上のたくましさを感じました。

 つづく…

(投稿者 小松崎高司)

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マネジメント5

私は塾長と一緒に全国を回り始めてから、
南は沖縄、北は北海道と本当にたくさんの保育園さんに伺うことができました。
出張で多いのが園内研修や各地方の見守る保育の勉強会でしょうか。
ここ数年は県の保育士会の講演会が多くなってきたと思います。塾長にとっては、とてもハードスケジュールになってしまいますが、
それだけ時代が塾長を必要としているという事を感じます。

そんな「出張先でよくある光景が、講演を終了した塾長が控え室に戻り、休憩していると、

研修会の責任者の方や会長さんなど、偉い方が来られて挨拶に来ます。
そして講演内容の感想や質問などを塾長に話しをしていますが、私がよく聞く感想で
「自分と全く同じ考えです」
「探し求めていた保育が見つかりました」
「思い描いていた保育を藤森先生が言葉にしてくれました」

です。
こういう感想を聞くと、全国でも保育に悩んでいる園長先生方が多くいると感じます。
私個人の勝手な憶測なので、絶対ではありませんが、
そう感じる方の多くは、畑違いから保育の世界に飛び込んできた方が多いように感じます。
もちろん、そうでない先生もいます・・・。
従来の保育に違和感を感じたり、子どもの姿が時代によって変わってきたり、
そんな光景に何か納得がいかない自分がいて、心の中でモヤモヤとしている時に、
塾長の話を聞き、一点の光が差し込んだような気持ちになるのでしょうね。
さてさて、もしドラでは主人公がマーケティングの次に取り組んだのは、
マネジメントの組織化です。一人でマネジメントに取り組んでいた仕事を、チームで行おうとしたのです。
特に監督の存在です。監督は野球の知識に関しては並外れたものを持っているのです。
しかし監督の問題は「コミュニケーション」にあったのです。
どうも知識が豊富なあまりに専門的な言葉を使いすぎて、普通の人では理解ができず、
それは選手にも同じでした。ここでドラッガーの言葉が登場します。

「専門家にはマネージャーが必要である。自らの知識と能力を全体の成果に結びつけることこそ、専門家にとって最大の問題である。(中略)

 専門家のアウトプットとは知識であり情報である。専門家のアウトプットを使うべき者が、彼らの言おうとしていること、行おうとしていることを理解しなければならない。」

少し難しいですね・・・。
ここでいう専門家というのは、おそらくその道のプロということでしょうか。
「もしドラ」で言うと野球の並外れた知識を持っている監督ですね。
その分野に関しては普通の人よりも知識も経験も豊富なので、
企業では、その能力を成果に結びつけることが、重要であり、専門家の役割です。
そして、専門家の言っている事を周りは理解し、実践することが更に重要になってきます。
しかし、ここで問題が起きます。それをドラッガーは

「専門家は専門用語を使いがちである。」

どうしても専門家と言うのは専門用語を使いがちです。
自分は理解している言葉でも、それは専門用語であり、周りは全く理解することができないのです。
これは保育の現場でもあると思います。
私も常々、心がけていることですが、子どもに対して何か話したり、説明をするときに、
つい難しい言葉を使ってしまうことです。自分は分かっていても、子どもにとっては難しい言葉が多いということです。
ここでマネージャーの出番です。

「組織の目標を専門家の用語に翻訳し、逆に専門家のアウトプットを顧客の言葉に翻訳してやることもマネージャーの仕事である。」

とドラッガーが言っています。
つまりパイプ役が必要ということです。
専門家の難しい内容の言葉も、普通の人でも分かりやすいように翻訳し、
逆に専門用語を使って、専門家に周りの意見や感想などの情報を伝えることです。
「もしドラ」では主人公がそのパイプ役、専門家の通訳になろうとするのです。
そして、とうとう大会が始まろうとしているのです・・・。
さて「もしドラ」では主人公が通訳になろうとしていますが、
この状況を保育園に置き換えると、なかなか難しいですね。
ただ考えながら、ふと思い出したのが、見学者の感想で
「やっと自分の保育園の園長先生の言っていることが分かりました」という感想です。
おそらく、見学者の中には園長から「見守る保育」の話しを聞いたけども、なかなか理解できず、
それを新宿せいが保育園に来て、塾長の話や、実際の保育を見て、やっと自園の園長の言っていることが理解できたのかもしれません。
もしかしたら新宿せいが保育園の役割こそ「通訳」ではないかと思ったのです。
しかしそれは、新宿せいが保育園に限らず、全国で実践している保育園、みなさんが「通訳」ということです。
今、全国各地で「見守る保育」の勉強会が盛んになってきましたが、
新しく実践する保育園が増えた時に、なかなか東京には行けない・・・ってなった時には、
近くで実践している保育園を見ることで「通訳」になると思います。
つまり、私たち、全員がマネージャーになる必要があるということですね。
ちなみに塾長は専門家とマネージャーの両方の役割をこなしているように感じます。
だからこそ両方の気持ちを理解でき、人の心に響く話をされるのだと思います。(投稿者 山下祐)

男性の役割

最近は保育園における男性保育士の割合が高くなってきている気がします。

一昔前までは、男性保育士は保育園にいると物珍しさに驚かれるということもあったのですが、なぜこのように需要が高まってきているのでしょうか。

 

その一つを塾長の書籍では0・1・2歳の「保育」の「父親の存在」の項目ではこう書かれています。

「赤ちゃんの遊び相手は母親がいいように思われますが、母親は赤ちゃんの遊び相手にはならないそうです」

「くだらなさに付き合えるのは父親か子ども同士です」

塾長のお孫さんは

一緒にいてくれる人が父親か母親によってその関わり方を変えるそうです。

 

我が家でも、娘は基本は母親が大好きで何をするにも母親と一緒に行動することが多く、遊んでもらったり、お掃除や料理など母親のすることの真似ばかりしています。

ですが、ふと私のところにやってくることがあります。

 

それは、違う遊びを求める時です。書籍の中にあったように、子どもの中でも、女性の遊びと男性の遊びは違うということが分かっているようで、私のところに来るときは全く違う顔を見せてくれます。

書籍の中にはこうもありました。

「赤ちゃんは遊び相手としてくだらなさに付き合ってくれる父親(男性)を選びます」

「何かあったときに救いになってくれる安全基地としての母親(女性)の存在」

 

そう考えると保育園という場所に置いて、男性が増えてきていることも必然のように感じてしまいます。

 

新宿せいが保育園では、そんな男性のあり方を考えようと、都内の男性保育士同士が集まり話し合うという機会があったそうです。

第一回は惜しくも参加できなかったのですが、第二回が開催される時には是非とも参加しようと思っています。(報告者 西田)