明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
前回の報告では乳児保育の大切さについて、オランウータンやゴリラの離乳時期と人間の離乳時期を比較し、そこから見出すことのできる乳児保育の大切さについてまでを書きました。
今回はその続きです。
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「赤ちゃんは生まれながらにして半分くらい言語的スキルが育っている」と藤森先生。
それは胎内でお母さんの声を聞いているからだと考えられます。最近の研究では、お母さんの話している言語と同じ言語を話す人を赤ちゃんは好むということがわかっています。
このことは、『臥竜塾』ブログ2016年10月13日『人種の偏見』の中にも書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
母親の胎内にいる時から耳馴染んできた言語。「なので、”母語”とか〝母国語〟と言います。」言葉の由来に納得してしまいます。
「というわけで、もし子どもに英語を話させたいと思ったら、胎内に赤ちゃんがいる時からお母さんが英語を話してください。」補足のように話されていましたが、このこともとても頷けますね。
さて、ここからとても興味深い展開へと発展していきます。
「ここに担当制のおかしさがあるような気がします。一人で見るということは人類の歴史としておかしいのではないでしょうか。」
『臥竜塾』ブログ2015年6月2日『子育てに関して』の中にはこう書かれています。
子育てを社会的な営みとしてとらえることが、もしかしたら、少子化を防ぐ有効な手立てになるかもしれません。〟
〝母親に似たような人〟ということで担当制の利点を考えた時、それは赤ちゃんが胎内にいた時に用いていた言語と同じ言語を話す人という点では、母親に似た存在というのは必要でしょう。日本語を話す母親の元に生まれた赤ちゃんは日本語を話す大人を好むからです。ですがそれだけの理由で、担当制を推進する理由になるのでしょうか。
〝子育てを社会的な営みとしてとらえる〟改めてその大切さに気付かされる思いがします。
そして、藤森先生はその後、このように続けられました。
「お母さんと二人きりでの子育てでは、〝我慢〟という力がつきづらいのです。」
我慢、自制心。現代の保育の最先端の課題へと展開されていきます。
(報告者 加藤恭平)