Red floor philosophy episode 29『文化の進展』より

火曜日は5歳児クラスがそれぞれのクラスに入る、お手伝い保育があります。

「今日は、泣いている子を泣き止ませたいと思います。」

そんな宣言をしていた写真左5歳児クラスの女の子が撮った方法は、

変な顔。

変な顔。

 

クラスの先生も思わずシャッターを切ったその顔に、

クラスの先生も思わずシャッターを切ったその顔に、

 

圧倒されたか、涙も止まる0歳児クラスの女の子。

圧倒されたか、涙も止まる0歳児クラスの女の子。

 

流石ですね。

そんな楽しい雰囲気に誘われたかのように、

写真一番右当時約12ヶ月の女の子が来て、

写真一番右当時約12ヶ月の女の子が来て、

 

頭をナデナデ。

頭をナデナデ。

可愛らしい関わりですね。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月16日『文化の進展』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「トマセロ博士によれば、この真の模倣こそ、累進的な文化学習に重要だというのです。文化が世代を超えて累進的に蓄積されていくには、教わったことをまずそのまま再現することが必須だと言います。誰かが開発した素晴らしい道具を、その用途(目的)だけ理解して別の道具を作ろうとしても多大なコストや時間がかかりますし、うまくいかないこともあります。まずは、モデル通りに道具を作ったり使えたりするようになって、その後でアレンジすることによって、文化は徐々に進展していくというのです。」

12ヶ月児がとった行動は、その子の頭を触りたくなったというような単純な動機ではないように思えてきます。そこには、泣いている子を撫でることで慰めている場面を見たという過去があったかもわかりませんし、実際に自分がそうされたことで慰めの気持ちを得た経験があったのかもわかりません。泣いている子の頭を撫でるという行為は、「教わったことをまずそのまま再現」した結果であると推測するのは、思い込みの強い考え方になってしまいますでしょうか。

また、上記抜粋した段落の最後には「近年は、トマセロ博士は、乳児は他者から学習するだけでなく、他者に教授する存在であることも示しているそうです。」こう書かれていて、変な顔をして泣き止ませようとしている5歳児クラスの子へ、こういうやり方もあるよ、と提案をしているとしたらどうでしょうか。

そんな想像を膨らませながら動画は進みます。

 (私の頭を撫でるのは誰…?)

(私の頭を撫でるのは誰…?)

 

 (あぁ、そんな風に撫でるのね…)

(あぁ、そんな風に撫でるのね…)

 

(前を向けばこの顔…)

(前を向けばこの顔…)

 ()内の言葉は全てイメージですが、泣いている当人にとっては八方塞がりになってしまったような展開に見えました。ですが、最後はしっかりと締めくくられました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 28『情報処理における記憶』より

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年11月12日『情報処理における記憶』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私が、保育の中で興味があるのが、子ども同士の関わりです。それは、人類の祖先であるホモサピエンスの最も有効な生存戦略として、家族という集団を作り、社会を作ってきたことが挙げられているからです。また、少子社会においては、家庭には子ども集団が少なくなってきたからということもその理由です。そこで、この人とかかわる力は、ヒトはどうやって身につけていくのか、生後どのくらいになると、母子という二者関係から、多くの他者を認識しはじめ、他者の心を理解し始めるであろうかということの研究に注目しています。それは、乳幼児施設における保育の意味でもあり、役割を示しているからです。」

10月も後半の火曜日、朝の受け入れから涙の時間を過ごし、園庭に出れば気も紛れるかと思ったものの、

座った途端に止めていた涙の流れた写真左当時約1歳5ヶ月の女の子に、おもむろに近付く写真右当時約1歳3ヶ月の男の子。

座った途端に止めていた涙の流れた写真左当時約1歳5ヶ月の女の子に、おもむろに近付く写真右当時約1歳3ヶ月の男の子。

 

顔を覗き込んだりしながら、

顔を覗き込んだりしながら、

 手に持ったシャベルとボウルを鳴らし続けます。

その音に気を逸らされるかのように涙の止まる女の子を見て、子ども同士が関わることによって生まれるこういった日常が、実はどれほど貴重なものであるか、そんなことを再認識させられるような気持ちになります。

そして、この日は火曜日。シャベルとボウルの主人がその場から離れるにつれて再び流れてしまった涙を、今度は先輩たちが止めようと試みます。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 27『目標理解』より

 

乗せようと思ったカップは落ちます。

乗せようと思ったカップは落ちます。

 

それを今度はどうするのか。

それを今度はどうするのか。

 

カップを見たり、写真右当時約12ヶ月児(ピンク色の服を着ているので以下ピンクちゃん)の表情を見たりする写真左当時約7ヶ月児(白い服を着ているので以下白ちゃん)です。

カップを見たり、写真右当時約12ヶ月児(ピンク色の服を着ているので以下ピンクちゃん)の表情を見たりする写真左当時約7ヶ月児(白い服を着ているので以下白ちゃん)です。

 

床に置かれたカップ。

床に置かれたカップ。

 

手渡されたのかと思い、一瞬、白ちゃんの手が伸びますが、

手渡されたのかと思い、一瞬、白ちゃんの手が伸びますが、

 

ピンクちゃんはそれを持ってどこかへ行ってしまいます。

 

「え?」というような表情、目で追う白ちゃん。

「え?」というような表情、目で追う白ちゃん。

 ピンクちゃんはカップを、

放り投げて、

放り投げて、

 

奥のクッションへ

奥のクッションへ

その身を預けます。

取りに行ってくれそうな白ちゃん。

取りに行ってくれそうな白ちゃん。

それを期待して見ていたのですが、

戻ってきて、

戻ってきて、

 

戯れるようなピンクちゃんに視線は奪われ、

戯れるようなピンクちゃんに視線は奪われ、

 

カップの存在は薄れてしまったかのように見えました。

カップの存在は薄れてしまったかのように見えました。

しかし、数秒間、カップを媒介にしない二人のやりとりの後、

いよいよ白ちゃんがカップへ向かいます。

いよいよ白ちゃんがカップへ向かいます。

 

ピンクちゃんの足元、ペットボトルの玩具を、

ピンクちゃんの右足、ペットボトルの玩具の、

 

ノールックパス。

ノールックパス。

 

それにも一度興味は移りますが、

それにも一度興味は移ります。

が、

いよいよカップへ行くだろうと思ったその時、

いよいよカップへ行くだろうと思ったその時、

 

あれ?

あれ?

動画を撮っていた手元が強い力によって引っ張られました。それによって、この動画はラストを迎えます。

それは、右手でカメラ、左手で哺乳瓶補助という形で、撮影中、撮影者の膝の上でミルクを飲んでいた当時約9ヶ月児からのものでした。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月11日『目標理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「6ヶ月頃に見られる重要な発達的変化は、他者の行動が目標志向的であることの理解だそうです。心の理論研究において、目標志向性の理解は、他者の行為理解の最も基礎的な要素だと考えられ、近年は研究が増加しているそうです。人間の複雑な行動は、目標志向的です。漫然となされるのではなく、何か目標に対して働きかけていると言われています。他者が手を伸ばしている様子を見たときに、その先に時計があるとしたら、私たちはその人が時計に対して働きかけているなと思います。このように私たちにとって重要なのは、行為そのものではなく、行為の先にある目標であると言われています。」

自分で哺乳瓶を持って飲めるようになった9ヶ月児に安心してカメラを回していましたが、いよいよその注目を自分へと思う声なき声か、手元を引っ張ったその行為によって、計2分12秒もの間、撮影者の目標に対して理解を示してくれていたのではないか、という推測が立つように思えるのは主観的な見方でしょうか。

どのようなドラマが生まれるかわからないものです。白ちゃんがカップで遊ぶ様子は撮影できなかったものの、予測通りにいかない子どもたちの面白さと、様々な視点で見ることの大切さに気付かされる思いがしたこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 26『革命』より

輪っかの玩具を被ることが大好きな当時約12ヶ月の子がいます。

この日は、写真右当時約7ヶ月の新入園児に被せようとします。

この日は、写真右当時約7ヶ月の新入園児に被せようとします。

 

 被り慣れているからか、うまいものです。

自分が被り慣れているからか、うまいものです。

 

首を振って回避。

7ヶ月児は首を振って一度回避。

 

嫌がる素振りはするものの、泣いたりするまでには至りません。

嫌がる素振りはするものの、泣いたりするまでには至りません。

 

すかさずもう一回。

すかさずもう一回。

 

少し嫌がるような素振りを見せますが、

少し嫌がるような素振りを見せますが、

 

見事成功。

見事成功。

 

手を叩いて喜んでいます。

手を叩いて喜んでいます。

 自分の楽しさを共有しようとするかのようです。そして、それに付き合ってあげているかのような新入園児の姿に見えました。

別の日、

今度はカップです。

今度はカップです。

 

そろりと自分に近付いてくる友だちを横目に、

そろりと自分に近付いてくる友だちを横目に、

 

その横を通り過ぎようとします。

その横を通り過ぎようとします。

 

友だちはそこを狙います。

友だちはそこを狙います。

 面白いですね。

1秒も経たずにカップは頭から落ちてしまうのですが、

1秒も経たずにカップは頭から落ちてしまうのですが、

 

取りに行って、

取りに行って、

 

再び。

再び。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月14日『革命』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「乳児は、9ヶ月革命によって、他者の意図を理解できるようになるということは、例えば、他の乳児がある玩具で楽しく遊んでいる場面を見たとき、その楽しさに共有することによって、自分はその玩具で遊ぶ気持ちをコントロールしているのではないかと私は思っています。他の自分より幼い乳児が、大人に抱っこされているのを見て、他の乳児の意図を理解して、自分が抱っこされたい気持ちを抑えているのではないかと考えています。ですから、この時期から感情抑制力をつかさどる脳機能の拡大が行なわれるのではないかと私は考えるのです。」

このブログを読み、革命期へ近付く7ヶ月児にとって、このような経験もきっとその礎となっていくのでは、と思います。そして、やはり思うのは、家庭にこのような環境というのは現代社会において多分殆どなく、保育園ならではのものであるということです。

さて、この動画、もう少し続きます。もし、あのカップを7ヶ月児が使って遊ぶようなシーンが撮れたら、という期待をもって追い続けてみたのですが、何とも思いがけない形でシーンのラストを迎えることになります。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 25『原初的な自己感覚』『過去や未来』より

10月に加わった新入園児、新しいお友達に興味津々の子どもたちです。

仰向けになっている当時約6ヶ月の子の顔を覗き込む当時約1歳4ヶ月の女の子です。

仰向けになっている当時約6ヶ月の子(花柄の服を着ているので以下ハナちゃん)の顔を覗き込む当時約1歳4ヶ月の子(ベージュ色の服を着ているので以下ベージュちゃん)です。

 

自分を覗き込む視線に気付きます。

ハナちゃん、自分を覗き込む視線に気付きます。

 

声をかけられ、更に視線は注がれます。

声をかけられ、更に視線を注ぎます。

 

まるで話しかけるようなベージュちゃんの声のかけ方です。

そして、ベージュちゃんは、場所をかえて、体勢をかえて、

頭を撫でてみます。

頭を撫でてみます。

髪をネジネジされたり、一箇所ではないところを計10秒ほど優しく撫でられた後

目が合います。

目が合います。

 

優しく関わってくれたお友だちに自然と伸びる両手。

優しく関わってくれたお友だちに自然と伸びる両手。

撫でられたお返しでしょうか、

伸びた手はお友だちの頭へ。

伸びた手はお友だちの頭へ。

 

再び、二言三言、声をかけられます。

呼応するように再び、二言三言、声をかけるベージュちゃんです。

 13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月20日『原初的な自己感覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「現在、ルージュテストを、2歳を過ぎる頃には多くの子どもが通過することができるようになり、2歳前後になると、恥ずかしがったりするなど、自己と関連するような感情を示すようになり、また、自分の名前を呼ぶようになったりすると言われています。1歳半から2歳頃という時期が、自己の発達の重要な時期のようだと言われています。では、2歳以前の乳児には自己認識がないのか、という研究が近年盛んに行なわれているそうです。他の能力同様、自己認識は乳児にはないと考えられていました。偉大な心理学者であり、哲学者でもあるウィリアム・ジェームズは、乳児は自分と世界が未分化な、混乱した環境の中に生きていると考えていました。しかし、最近は新生児ですら、視覚的な対象に手を伸ばすことが示されているのです。自分の身体と対象とがどのような空間的関係にあるかを認識できないと、このような行動は見られないはずだと考えられます。また、新生児は自分自身の手で頬を触るときと実験者が触る時を区別する知見なども考慮すれば、ある程度は新生児においても自己と世界の分離ができているようです。」

この回の前日2017年10月19日『過去や未来』の中では、

「ルージュテストに通過できるようになるのは、2歳前後であると結論づけられています。」

と書かれていて、しかし、子どもたちが関わり合い、相手からのアプローチに対して受け答えをするかのような行動を見る度に、とても考えさせられるものがあります。

子ども社会において、子どもの可能性は広がっていくのではないか。新入園児との関わりから見えてくるものがあるのではないかと、いくつかの動画を紹介していきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

 

 

Red floor philosophy episode 24『社会を構成する他者』より

 

体勢を立て直し、再挑戦する1歳児クラス男の子の玩具箱の中に、

体勢を立て直し、再挑戦する1歳児クラス男の子の玩具箱の中に、

 

残りのブロックを入れる5歳児クラスの男の子。

残りのブロックを入れる5歳児クラスの男の子。

 

玩具を入れに戻った1歳児クラスの女の子は、

玩具を入れに戻った1歳児クラスの女の子は、

 

ここで自らお集まりへ向かう体勢に。

ここで自らお集まりへ向かう体勢に。

 

5歳児クラスの女の子のお役目はここで終了となります。

5歳児クラスの女の子のお役目はここで終了となります。

 本当にお疲れ様でした。

1歳児クラス男の子は玩具箱を棚に戻すという最後の仕事に苦戦中。

1歳児クラス男の子は玩具箱を棚に戻すという最後の仕事に苦戦中。

 ここからがとても素敵と感じた部分なのですが、

集めてきた残りのブロックを入れ、

集めてきた残りのブロックを入れ、

 

すっと手を差し伸べます。

すっと手を差し伸べます。

そして、

無事収納。

無事収納。

 

その子が納得できているかを確認するかのように表情を伺うかのような5歳児クラス男の子の素振り。

その子が納得できているかを確認するかのように表情を伺うかのような5歳児クラス男の子の視線。

男の子は納得していた様子で、

飛び跳ねて喜びます。

飛び跳ねて喜びます。

 その姿に、

ちらりと視線を送る彼。

ちらりと視線を送る彼。

なんともクールですね。

ここで彼のお役目も終了します。

ここで彼のお役目も終了します。

しかしまだ、給食の場へその子が向かっていませんね。

そんな1歳児クラスの男の子は残っていたブロックを発見。

そんな中、残っていたブロックを発見。

 それを、まるでフォローするかのように、

5歳児クラス、もう一人の男の子の登場です

5歳児クラス、もう一人の男の子の登場です。

 

 

玩具棚まで付き添い。

玩具棚まで付き添い。

 

男の子のブロックと自分のもっていたブロックを入れて、

男の子のブロックと自分のもっていたブロックを入れて、

 

一足先に

一足先に

 

 給食の場へ。

給食の場へ。

 

その後を追うように給食へ向かう1歳児クラスの男の子でした。

その後を追うように給食へ向かう1歳児クラスの男の子でした。

 

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月3日『社会を構成する他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「森口は、発達の最近接領域を考える上で、二つの重要なポイントがあると言います。一つは、同じ文化内に所属する、自分よりも能力のある構成員こそが子どもの発達を支援することができるという点です。これが、私の考える「異年齢保育」を行なう一つの理由です。異年齢の子どもの存在こそが、「同じ文化内に所属する、自分よりも能力のある構成員」であると考えるのです。もちろん、同じ年齢からの支援も発達には影響をしますが、より刺激が大きいのが異年齢からの刺激だと思うのです。もちろん、子どもと同等の能力を持つ他者(友だち)は、模倣などを通じた相互学習や共同学習によって、子どもが自分ではできないことをできるように導くことも示唆されています。

もうひとつの重要なポイントは、子どもの発達を知るには、現在の発達レベルは現在の発達レベルであり、潜在的な発達レベルを知ることができるような指標が必要だと訴えた点です。

このように、ヴィゴツキーの考えでは、他者が子どもの発達に重要な影響を与えるということです。」

1歳児クラスの男の子が玩具箱を片付け、給食へと向かう約1分の間にこれだけの関わりがあったことに驚くのと同時に、大人の介入なく目的へと向かっていく様子はまさに子ども社会の存在を強く感じさせるものでした。

異年齢の積極的な関わりを生み出すお手伝い保育。これからもその中で生まれるドラマを追っていこうと思います。

(報告者 加藤恭平)

 

 

 

Red floor philosophy episode 23『経験の大切さ』より

 

見守る先には、

見守る先には、

 

もう一人、5歳児クラスの男の子が。

もう一人、5歳児クラスの男の子が。

千鳥足で運ぶ様子を見守ってくれていました。

手に持っていた玩具をその箱へ、

手に持っていた玩具をその箱へ、

 入れた後、「ここだよ。」と言わんばかりに、

片付け場所へ促します。

片付け場所へ促します。

 クールなアプローチですね。

 おもむろに振り返ります。

おもむろに振り返ります。

 そして、まるで示し合わせたかのように、

入れ替わる二人。

入れ替わる二人。

 

先ほどの女の子の再登場です。

先ほどの女の子の再登場です。

一瞬箱に手を貸すような素振りを見せますが、

その手は女の子の頭を撫でます。

その手は女の子の頭を撫でます。

女の子がなるほど葛藤をしていたことがわかるのは、この次の瞬間で、

目線は「お集まり」の方へ。

目線は「お集まり」の方へ。

「お集まりの輪の中へ連れて行きたい」でも「片付けたい気持ちも優先させてあげたい」そのような葛藤の中にいたことが伺えます。その気持ち、現場にいる保育者誰もが経験したことのあるものではないでしょうか。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月13日『経験の大切さ』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「様々な経験が、幼い子どもたちの他者に対する利他性をかたちづくるのも確かであると主張し、その初期の段階でさえも、学習の履歴を持たず入力の影響を受けないようなシステムではないことを指摘しています。乳児が利他性を備えて生まれてくるとしても、利他性が花開くかどうかは経験次第であるという見解を主張しているのです。」

この見解は乳児についてのものですが、「利他性が花開く」その経験が必要なのは幼児にあっても当然のことでしょう。このような環境下で過ごす時間を経ることで、きっとこの1歳児クラスの男の子にも女の子にも、その気持ちや姿勢は伝承されていくことでしょうね。

そんな女の子の気持ちを知ってか知らずか、

1歳児クラスの女の子は一度離れます。

1歳児クラスの女の子は一度離れます。

 すると、

その重みに耐えられず箱は地に。

その重みに耐えられず箱は地に。

 

その弾みで落ちた玩具を拾いに戻る1歳児クラスの女の子。

その弾みで落ちた玩具を拾いに戻る1歳児クラスの女の子。

5歳児クラス女の子としてはもどかしいでしょうね。

そして男の子は体勢を変え、

そして男の子は体勢を変え、

 

再挑戦。

再挑戦。

ドラマは続きます。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 22『目標理解』より

 

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

 

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

 その手を差し伸べます。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

面白いですね。お互いに何かを察知したかのようです。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

視線を外さない男の子。

そして、

そして、

 

箱は持ち上がります。

箱は持ち上がります。

5歳児クラス女の子の実感としては、「思った通り、軽い。」といったものでしょうか。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

 その子が持てるかどうか、推し量るような眼差しです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、その手を離すのです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、

その手を離すのです。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月11日『目標理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「6ヶ月頃に見られる重要な発達的変化は、他者の行動が目標志向的であることの理解だそうです。心の理論研究において、目標志向性の理解は、他者の行為理解の最も基礎的な要素だと考えられ、近年は研究が増加しているそうです。人間の複雑な行動は、目標志向的です。漫然となされるのではなく、何か目標に対して働きかけていると言われています。他者が手を伸ばしている様子を見たときに、その先に時計があるとしたら、私たちはその人が時計に対して働きかけているなと思います。このように私たちにとって重要なのは、行為そのものではなく、行為の先にある目標であると言われています。」

「この子は自分で持ち上げようとしている」「自分で持ち上げたいと思っている」持ち上げる、という目標に気付いた女の子の引き際に、心打たれるものがあります。しかもこの先の動画を見るとわかるのですが、お手伝い保育としてここへ来た、という思いが女の子の中にあるのでしょう、その葛藤もありながら、あの瞬間に手を離せるということが、何ともいじらしく、その子の成長をとても感じました。

行き先を見守る女の子。

行き先を見守る女の子。

その姿は見守る保育、藤森メソッドに従事る保育者のようですね。

もう少しドラマは続きます。この光景をまた違った眼差しで見守っていた存在がありました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 21『社会集団と脳の進化』より

お手伝い保育ですいすい組(5歳児クラス)が来てくれました。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

 

「持てるから大丈夫。」

「持てるから大丈夫。」

 ピンクの服の子の声を受け、

さっと手を離す白い服の子。

さっと手を離す白い服の子。

13年目に入られました塾長が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月5日『社会集団と脳の進化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「心の理論とは、繰り返しになりますが、他者の行動からその背後にある心的状態を推測し、その次の行動を予測するための理論であると説明します。心そのものは見たり触れたりできないので、私たちは推測するしかありません。ここでの心的状態とは、相手の知識、意図、欲求、信念などを指します。相手の考えを推測できれば、私たちはその人の行動の意味を理解し、次に何をするかを予測し、その人に対応できるのです。」

この動画に至るまでの朝から、この白い服の子のお友だちへの距離感、小さい子への関わり方にとても興味を持って見ていました。相手の言葉に応じて自分の対応を変える、その思いやりある姿勢に、このまま動画を撮り続けてみようと思いました。

この白い服の子が写真右下、1歳児クラスの子どもたちが片付ける様子をどのように援助するのでしょうか。

白い服の子は写真右下、1歳児クラスの子どもたちの片付ける姿に視線を向けています。

この子はこれから1歳児クラスの子どもたちをどのように援助するのでしょうか。 

そして思いがけず、子ども社会の育みとも思える場面に立ち会うことができました。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 20『共同注意フレーム』より

 

先日の報告、1枚目の写真です。

先日の報告、1枚目の写真です。

 絵本を読む子をじっと見つめる黄色いTシャツの子。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

 他にも、

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

 

「これだれだ?」の場面でも、

「これだれだ?」の場面でも、

その子の読む言葉、内容を目で追うような黄色い服の子。

写真左、先生の膝の上の子は、「これだれだ?」の声に応答する写真上の先生の表情を見つめているようです。

絵本を読む子の後ろにいる赤い服の子はじっと指先を目で追いかけ、

おもむろに手を伸ばします。

おもむろに手を伸ばします。

そのことに反応してくれたような写真上の先生からの笑い声に、

視線はそちらへ。

視線はそちらへ。

面白いですね。先生方の応答の輪の中へ自分も入っていきたい、そんな姿に思えてきます。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。」

この場合の共同注意フレームは絵本ですね。そして、それを取り巻く先生方の応答が、言語獲得における「活性化された場」と言えるように思います。

そして、最後のページをめくり終え、絵本が終わります。

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

 

その声に反応する周囲の子どもたち。

その声に反応する周囲の子どもたち。

『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の最後にはこう書かれています。

「トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。」

絵本を読むということはこんなにも人に喜ばれるものなのか、という感触を子どもたちは持ったかもわかりません。そうして子どもたちは意欲的に絵と言葉を自分の中に取り込み、次なる興味へと思いを向けていくのでしょう。

子どもの発信を保育者が捉え、周囲の子どもたちへその振幅を広げていく。子どもが子どもから学ぶ、子どもたちの織りなす社会へ、このように保育者は貢献することができるのですね。

(報告者 加藤恭平)