愛を込めて草花を 大袈裟ではないんです

先日、にこにこ組(2歳児クラス)のテーブルにお花が置かれました。

ちょこん、と2つ。

ちょこん、と2つ。

 

可愛らしいですね。

可愛らしいですね。

我らが誇るベテランの先生のアイディアです。

新宿せいが保育園は、よく見ると、至るところに草花があります。

 

ざっと見渡してみると、にこにこ組(2歳児クラス)の周りだけでもこんなにあります。

ざっと見渡してみると、にこにこ組(2歳児クラス)の周りだけでもこんなにあります。

 

接写!

接写!

 

ここにも。

ここにも。

 

ここにも。

ここにも。

 

ここにも。

ここにも。

 

ここにも。

ここにも。

なんだか、胸がすくような気持ちになります。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年11月2日『室内の花』の中でこう書かれています。

〝ドイツの園に行って、室内に入ってまず驚くのが、緑の多さです。日本の保育室で緑はほとんど見かけません。以前、このブログで緑視率のことを書いたことがありました。視野にあるパーセントの緑が入ると仕事能率が上がるという研究です。それは、緑色という色の効果です。その研究は日本で行なわれているもので、ドイツでそれを知っているわけではないと思うのですが、どちらの方向を見ても、必ず視野に緑が入ります。それは、四方向だけでなく、上を見ても緑があります。

 また、その緑はドイツでは基本的に緑の自然の植物の葉です。造花は使いません。したがって、その緑は酸素を供給し、空気を清浄化し、加湿をしてくれます。緑色が視野に入ることで仕事能率が上がるという研究では、なお、その効果を増すものとして、自ら育てる緑であるというものがあります。自ら育て、成長していく植物が机の上にあることが、より効果があるということが研究されているのです。また、カポックという植物の葉は、よくある加湿器並みの湿気を室内に出すことが知られています。〟

 

草花を置く、ということに、このような意味があり、理由があるということがわかります。

そして、この日のブログは、こう展開されていきます。

〝日本の教室、保育室にはあまり植物を見ることがないのはなぜでしょうか?まず、小さい子が土をいじる、葉をちぎってしまう、植木鉢を倒してしまうということがよく言われます。ほかの大きな理由に、育てるのが大変で、すぐ枯らしてしまうということも言われます。ドイツでは、なぜ子どもたちが倒したり、土をいじったり、葉をちぎったりしないのでしょうか?それは、保育のあり方だと思います。その理由がこれということは、よく分かりませんが、まず、ドイツの保育室には教具、遊具があふれんばかりに置かれていることも理由の一つかもしれません。非常に豊富です。乳児から、たくさんの遊具が棚に並べられ、いつでも自分で取り出せるようになっています。土や葉を遊具にする必要もないのです。

 もう一つ、子どもたちがとても落ち着いています。テンションが上がっている子や走り回っている子、大声を出している子はほとんど見ることがありません。好きなことに黙々と取組んでいます。植木にぶつかって、倒してしまったりするなどということはないように思います。しかし、なぜ枯れてしまわないかは不思議です。気候のせいか、木の種類なのか判りませんが、植木に水をやっている姿を見ることはありません。いつ、誰が水やりをしているのか、また、葉もほこりがなく、いつも拭いているようで、それは不思議です。ただ、私の園では、植木の植物の枯れ具合で、保育の落ち着きを見ることがあります。心に余裕がないと、植木は枯れてしまいます。植木が水を欲していることに気がつかないと、子どもの心が渇いているのに気がつかない気がするのです。〟

〝心に余裕がないと、植木は枯れてしまいます。植木が水を欲していることに気がつかないと、子どもの心が渇いているのに気がつかない気がするのです。〟

この一文に、とても心を打たれます。

というのも、にこにこ組(2歳児クラス)周辺の草花に、いつも丁寧にお水をあげ、枯れないようにケアをして下さっているのは、何を隠そう我らが誇るベテランの先生、その人だからです。

朝の受け入れの時に、泣いていた子を抱きかかえる我らが誇る先生。何かの保育書で読みましたが、大きくなったら抱っこしない、なんてことはありません。

朝の受け入れの時に、泣いていた子を抱きかかえる我らが誇る先生。思わず撮ってしまいました。何かの保育書で読みましたが、大きくなったら抱っこしない、なんてことはありません。

 

毎日、その先生の保育を見て、姿勢を見て、背中を見て、過ごせたこの2年間を、本当に幸せに思います。

さぁ、子ども達が散歩から帰ってきました。花を添えた初めてのその日の給食の風景です。

皆、うまいことよけています。

皆、うまいことよけています。

 

まるで今までずっとあったかのような自然さです。

まるで今までずっとあったかのような自然さです。

 

配膳完了。

配膳完了。

 

誰一人触ってこぼすこともなく、文字通り、給食に花を添えていました。

触ってこぼすこともなく、文字通り、給食に花を添えていました。

「なんかきれーだよね。」「においするね。」と、嬉しそうな子ども達を見て、花を愛でられる状況を子ども達が自分たちで作り上げていることのすごさに気付いていないそのあどけなさに、そして、子ども達をこうして見守ることで、このように育っていくんだよ、と強い信念で僕らを導いてくれた我らが誇る先生に、感動してしまいます。

愛を込めて草花を。大袈裟でなく、草花が枯れることのない瑞々しい毎日は、きっと、毎日を幸せに生きようとする、その人の心が生み出す産物なのだと思います。

午睡中、いつもよりちょっと早く起きた子とお絵かきを楽しむ先生です。輝いて見えるのは、差し込む日差しの強さだけではないと思います。

午睡中、いつもよりちょっと早く起きた子とお絵かきを楽しむ先生です。輝いて見えるのは、差し込む日差しの強さだけではないと思います。

(報告者 加藤恭平)

君を見守るため そのために生まれてきたんです~あきれることも そうさ そばにいればあります(笑)~ 後日談

先日、にこにこ組(2歳児クラス)の子ども達が、ケンカをしていると、わいらんすい(3・4・5歳児クラス)のすいすい(5歳児クラス)のある男の子が仲裁に入ってくれました。

対人知性に富んだやりとりが展開され、思わず感動し、また、その様子を見守って下さっていた我らが誇るベテランの先生の後日談にて笑わせていただいた(笑)エピソードの完結編です。

 

にこにこ組(2歳児クラス)の子達のケンカがすいすい組(5歳児クラス)の子によって解決された数秒後です。

 

あれ!?

あれ!?

 

えぇー!?

えぇー!?

 

えぇー!!(笑)

えぇー!?(笑)

 

子どもって、ほんっとに(笑)

 

先日の報告で、11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年2月8日『怒りのコントロール3』の中の一文を改めて、紹介させていただきます。

 

〝子どもたちを見ると、(中略)けんかをすることによって、怒りをコントロールする力を学んでいる気がします。赤ちゃんは、よく、物をとられて大声で泣いて、とった相手に怒りをぶちまけます。そんな時に、子どもはその評価を冷静にすることはできませんが、意外と執着せずに、さっさと違うことに目を向けます。そして、怒りを持ち続けることはしません。大人と違って、次の楽しいことに取り掛かるのです。〟

 

また、2歳児のイヤイヤ期に対してどう対応すればいいですか?という質問についても藤森先生は、「大人が本気にならないことです。」と答えられています。

あきれたー、と思わず言ってしまいそうになりますが(笑)子どものこういう切り替えの速さや、相手を許す気持ちの寛大さは、見習う必要がありますね。

さて、ケンカの仲裁を鮮やかにしてくれた彼はというと、

 

「上履き取りに行くとこだったんだ。じゃーねー。」

「上履き取りに行くとこだったんだ。じゃーねー。」

颯爽と行ってしまいました。格好いいですね。

さて、後日談へ。

「さっきのGLAYくん(すいすい組の子の仮名)のやりとりさ、」

我らが誇るベテランの男性保育者が、このやりとりを遠くから見守っていて下さったようで、こんな話をしてくれました。

「あれと全く同じケンカをわいらんすい(3・4・5歳児クラス)でしてるよ。」

(笑)なるほど!だからこその姿だったのですね!

あの時の彼は、自分がいつも耳にしている言葉達を、彼の言葉として、ありありと蘇らせていたのでしょう。それだけでなく、自身の毎日のぶつかり合いの中から当人達への共感を導き出し、その気持ちを察して対処することが出来る心持ちに、自分を至たらせることができていたのでしょう。

でも、なんだか笑ってしまいます(笑)人に物を言う時は、大体自分のことは棚に上げているものですね(笑)

我らが誇るベテランの先生の言葉に、人間の可愛さ、面白さというものを改めて感じたこの度の出来事でした。

さて先生との会話を終えて部屋に戻ってみると、

黄緑くんが電車の玩具で遊び始めた数分後の現場写真です(笑)

たった数分の間の出来事です(笑)

 

その瞬間の赤井くんです(笑)子どもって、本当に可愛いですね。

その瞬間の赤井くんです(笑)

 

子どもって、本当に(笑)可愛いですね。

(報告者 加藤恭平)

君を見守るため そのために生まれてきたんです〜あきれることも そうさ そばにいればあります(笑)〜 完結編

先日、にこにこ組(2歳児クラス)の子ども達が、ケンカをしていると、わいらんすい(3・4・5歳児クラス)のすいすい(5歳児クラス)のある男の子が仲裁に入ってくれました。

 

対人知性に富んだやりとりが展開され、思わず感動し、また、その様子を見守って下さっていた我らが誇るベテランの先生の後日談にて笑わせていただいた(笑)エピソードの続編です。

 

赤い服の子(以下 赤井くん)赤井くん「もーヤダー!」

赤い服の子(以下 赤井くん)赤井くん「もーヤダー!」

 

と、玩具の取り合いから起きたやりとりに対して、体全身でヤダを表現する赤井くんです。

 

ピンクの服の子が涙を拭いてあげようとティッシュを持ってきてくれました。

ピンクの服の子が涙を拭いてあげようとティッシュを持ってきてくれました。

 

それすらペシっとやって、受け付けません。

 

そして、灰色の服の子(以下 GLAYくん)が口を開きます。

 

「赤井くんも怒るのも違うよ。勝手にとる黄緑くん(黄緑の服の子)も悪いよ。」

「赤井くんも怒るのも違うよ。勝手にとる黄緑くん(黄緑の服の子)も悪いよ。」

 

 

そして言葉は続きます。

 

「人のせいにしちゃだめだよ。」

「人のせいにしちゃだめだよ。」

 

赤井くんも黄緑くんも、争うことをやめ、聞く体勢に。

 

「人ががんばってつくったものを勝手にやっちゃだめだよ。」

 

「わいわいさん(3歳児クラスの名称)になったらそういうの本当ダメだから。」

 

「ちゃんと口で伝えて?」

 

すると、

 

黄緑くん「…かーしーて。」赤井くん「…いーいーよ。」

黄緑くん「…かーしーて。」赤井くん「…いーいーよ。」

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年12月24日『生命の本質』の中で生命平和運動家のファン・デグォン氏の活動に触れ、こう書かれています。

 

〝「生命の本質は平和である。」(中略)そこには、二つの原則があります。その一つは、「世界の平和を望むなら、自分がまず平和になろう」もう一つは、「暗闇を呪うより、1本のろうそくを灯そう」です。そして、その運動の最大の特徴は、「反対の拳を振り上げる代わりに、問題を前にしていったい何が生命同士の平和を保障する道なのか、共に悩み、考え、問題の現場に身を置き、自らに問う。反対ではなく、代案を示す。創造の力へとエネルギーを転換するのです。」

私は、やはりこれこそ現場人の原則であると思っています。今、保育の制度が変わろうとしています。それに対してただ反対の拳をあげるのではなく、そのエネルギーを創造の力へと転換させ、代案を示すことが必要だと思います。そして、実際にそれに沿って行動を始めることです。〟

 

ケンカをしている彼らに苛立つなどの無粋な感情を抱くこともなく、至って冷静に、解決へと導いたGLAYくんの手腕に驚きました。ただ反対の拳をあげる彼らに、わいわいさんになるんだ、という創造のエネルギーを添え、事態の収集をつけようと試みたのです。

 

また、『生命の本質』には、こうも書かれています。

〝私が提案する怒りを静める方法は、高い志を見つめることであると思っています。自分が目指している志にとって、当面の怒りはどのような意味があるのであろうかと考えることです。多くの怒りは、かえって志を遠ざけてしまう可能性があるような気がしています。それは、怒りへの対抗が、志を邪魔することが多いからです。〟

 

彼らにとって進級することが、〝高い志〟と似た気持ちであるとしたら。彼らは、GLAYくんの言葉を受けて、自身でその怒りを鎮めるに至った、と解釈もできるかもしれません。

 

異年齢保育の良さは口にすればキリがないですが、一つに〝憧れ〟の気持ちがあるとして、その憧れの対象である彼に言われる言葉というのは、とても心に響くものなのでしょう。

 

そして、『生命の本質』は、このような言葉で締めくくられています。

〝ファン・デグォン氏も、結局のところ人類学に戻ります。長い人類の歴史の中で、文明の歴史はたった1万年にもなりません。それは、人間の歴史の中でほんの一部に過ぎません。そこで、ファン氏は、文明以前の生き方に人間の原型を探りたいと思っています。そこにこそ、自然の生態系と見事に調和し、他の生き物たちと対等な共生関係にあった人間の姿を見ることができると言います。この世界には数えきれないほどの物や命がありますが、そのすべてが、一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは、人知を超えた神の精妙なるデザインです。いるべき場所にいる。それは、この世の様々なものには、それぞれの役割があります。幸せとは、平和とは、自分がいるべき場所にいることだとファン氏は考えています。をれは、多様性を認め合うことと同じことかもしれません。「ない物ねだり」をせずに、「ある物探し」をすると同じことかもしれません。ある意味では、身分不相応なことを望むから心の平和を望めないのかもしれません。幸せになれないのかもしれません。まず、自分をよく知るということが大切かもしれません。〟

 

彼らの育ちを見守るためにGLAYくんがいて、その育ちを見守るために僕ら保育者がいます。その保育者を見守るために藤森先生がいて、と延々と続く温かみのあるこの螺旋は、〝人知を超えた神の精妙なるデザイン〟と言えるものであるようにも感じられます。

 

それぞれの役割を幸せな気持ちで全うできるような世の中になったら、この地球が天国になりますね。

 

では、何から始めよう。まず、自分が幸せになることから始めるべきなのかもしれない、ということを、強く感じたこの度の出来事でした。

 

さて、GLAYくんの見事な仲裁。このような解決法を身につけるに至った経緯を知りたい、という衝動に駆られました。後日談にて、報告させていただきます。

 

(報告者 加藤恭平)

I wanna be with you now〜コップのdistance見つめて〜 完結編 補足

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年3月5日『他人を察する』を読むと、改めて感じることがあります。

 

〝人類は、どんな使命を持って生存しているのかを考えないといけないと思います。また、その生存戦略のために、どのような能力を乳児につけているのでしょうか?その能力の多くは、私が言うところのダークセンスなるものであるとしたら、その中の大きな役目を果たしているのが、一部社会脳の働きから解明されている力のような気がします。

現在、「対人知性」と呼ばれる知性が、生きていくうえで最も大切だと言われています。この能力は、他人との関係性を築く力ですが、いわゆるコミュニケーション能力と言われるような、人と人とが言語によって会話をするとか、自分の考えをきちんと主張するという力ではなく、他人を理解する能力をいいます。例えば、「この人の動機は何か」「あの人はどう動くだろうか」「皆と協調して動くにはどうすればいいのか」といったことを理解する能力なのです。〟

 

 〝すなわち、対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」と言われており、言葉によらない他人とのコミュニケーションであるともいえます。どうしても、言葉が話せるようになると、言葉で表現したもの、文字で表現したものから他人を理解しようとします。しかし、相手に対しての対応は、言葉では表さない心を理解する必要があるのです。ですから、私は、この対人知性は、まだ言葉を話すことができない乳児において、最も優れていると思うのです。〟

 

この度3回の報告を、僕は、人を思いやる気持ち(対人知性)と、〝ルールを守る〟などの、子どもが環境に働きかけようとする気持ちは、密接な関係がある、とまとめたいと思います。

 

そして、〝対人知性は、まだ言葉を話すことができない乳児において、最も優れていると思うのです。〟という藤森先生の言葉に代表されるように、〝子ども達はそもそもその力を持っている〟ということが大前提にあります。それを、新宿せいが保育園の職員は純粋に信じ、また、それを、日々の保育の中で、信じるに足るものと体感し、確固たる信念へと昇華していくのです。

 

かのイエス・キリストもその聖書の中で、〝子どもを育てることは、信じることと、許すこと〟という言葉を残しているそうです。

 

藤森先生の考え方に、とても通ずるものを感じます。

 

さて、先日、にこにこ組(2歳児クラス)の子ども達が、ケンカをしていると、わいらんすい(3・4・5歳児クラス)のある男の子が仲裁に入ってくれました。

 

対人知性に富んだやりとりが展開され、思わず感動し、また、その様子を見守って下さっていた我らが誇るベテランの先生の後日談にて笑わせていただいた(笑)エピソードです。

 

次回、報告させていただきます。

 

(報告者 加藤恭平)

I wanna be with you now〜コップのdistance見つめて〜 完結編

さて、水を飲み終わった子ども達です。

きれいに並べて置かれています。

きれいに並べて置かれています。

上の写真、左側に写っている子も、もちろんここに。

上の写真、左側に写っている子も、もちろんここに。

さて最後に飲み終えたこの子。

さて最後に飲み終えたこの子。

この子はどうするのでしょう。

一回、淵に置いて〜、

一回、淵に置いて〜、

やっぱりここに置きます。

やっぱりここに置きます。

面白いですね〜(笑)

 

先日、『ちょっと変わった職員が考える『臥竜塾ブログ』のすすめ』というタイトルで報告をしました。その中で、11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年4月9日『ルールは誰が』を紹介しています。

 

その中で、このように書かれています。

 

〝意思決定の仕組みは、私たちのあらゆる行動選択に共通ですし、それが適切に行われないと、一歩も動くことはできないと藤井さんは言います。このようなフルーツを食べる順番を決めるのも、社会的意思決定を行うのも、意思決定のメカニズムという点で見るなら、基本的にあまり変わらないということであれば、社会のルールも、結局は各個人の脳がそれを支えることで作っていることに気がつくと言います。

 

つまり、私たちの行動に影響を与えるルールは、社会からトップダウン的に与えられるだけではなく、各個人がそれを受け入れ、咀嚼して脳内に取り込むことで成り立っていることになるというのです。これは、ルールというものが、社会というシステムとその構成要素である私たちの間に起きる相互作用によって維持、実行されているということを示しているのです。そう考えると、「ルールを守る」というのは、誰かから強制されて行う行為ではなく、自発的な行為となるのです。〟

 

コップを並べて置く子ども達の姿から、〝「ルールを守る」というのは、誰かから強制されて行う行為ではなく、自発的な行為となる〟ということが、とても理解できるように思います。

 

それだけでなく、前回報告させていただきましたように、〝これに近付いたらいけないよ〟というルールを、わざわざ線を引いたり、人が立っていたり、毎回声をかけたりしなくても、子ども達は守ることができるようになるのです。

近くで遊びはするのですが、見えない線があるかのように、ある一定のラインから先には行きません。

車の近くで遊びはするのですが、見えない線があるかのように、ある一定のラインから先には行きません。

この子達も同じような感じです。

この子達も同じような感じです。

先日、藤森先生が見学者の方から「給食中に子ども達が走らないのはなぜですか?」という質問を受けたということを教えてくださいました。その時に藤森先生はこう答えられたそうです。

 

「それは、子ども達に聞いてみて下さい。」

 

なんとも深みのあるお言葉で、実際に見学者の方が子どもに聞いたところ、首を傾げて〝わからない〟というポーズをしたとか。

 

僕は、その鍵の一つが、にこにこ組(2歳児クラス)で見られるこの姿の中にあるように感じています。

 

それは、対人知性というものが、対人(たいひと)だけでなく、物にも働き、ルールを守ろうとする心にも働くものだから、とは言えないでしょうか。

 

いや、むしろ、相互の関係です。つまり、人がルールを守ろうとしたり、給食中に例え走りたくなったとしても、走らないとする理性、ある欲求を我慢しようとする力、自制心、それらが、対人知性と共に高まっていく。むしろ対人知性というものも、心の働きの一つで、人が人として育っていくことで、実は当たり前に習得していく一過程のことを指すのかもしれません。

 

またそれを増長させる環境、〝給食中に走ることはおかしい〟ということが当たり前であるという環境が、子ども達の心に、理性や、モラル、耐性を育ませ、そして、対人知性を共に育てるのではないかと思います。

 

さらに、そんな子ども達の姿を見守る職員の心、職員の思考は、とてもシンプルです。アメリカ合衆国著作家であり成功哲学の祖としてあまりにも著名なナポレオン・ヒルもその著作のタイトルとして、この言葉を残しています。「思考は現実化する。」

 

簡単な言葉で表せば、職員は〝子ども達を信じています。〟

 

ルールを守る子ども達の像、イメージが、当たり前な程に職員の脳裏に、心に浸透しているのです。

 

行事〝成長展〟の今年度のテーマとして、対人知性がテーマに置かれた時からずっと、職員の心は、そこに向かっていました。子ども達の関わりを、今まで以上に無意識の中でも追うようになりました。「この子達は、人とどう関わっているのか」

 

ああしろ、こうしろ、という世界ではない世界で、子ども達を見守り、〝きっとこの子達ならこう関わるだろうな〟という温かで柔らかな予測に基づいたような思考が、子ども達同士の柔らかで温かな関わりを生んでいる、ということは、全否定できるものではないと思います。

 

そして、その環境を織り成すその思考を、簡単に言えば、経験年数の高い方々が一番強く持たれています。

 

それが、後輩におりて、子ども達におりていく、といったイメージです。

 

締めとしては弱いのかもわかりませんが、言いたいことが言えてスッキリしました(笑)

 

とても個人的な見解に終始してしまって大変恐縮なのですが、この度の報告から、困っている保育園さんのお悩みを解決できるヒントが少しでもあれば、これ以上の幸せはありません。

 

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

 

(報告者 加藤恭平)

世界をかえさせておくれよ そしたら君とイスがしたいんです 完結編!!!

完結編です。

いいと思ったことは即実行。行動こそこの地球に生きる者の原理とでも言わんばかりの速さで、

塾頭が動きます。

「にこにこさん、すごいなぁー。」 何気なく、かつ、さりげないアプローチ!

「あぁー!にこにこさん、すごいなぁー!」
何気なく、かつ、さりげないアプローチ!(笑)

(どれどれ…?)

(どれどれ…?)視線を送る子ども達です。

「今からあの子がやるから見ててごらん。」

「今からあの子がやるから見ててごらん。」

「はい!イスを持ちまして〜!」

「はい!イスを持ちまして〜!」

「お手本ありがとー!」注目されてちょっぴり照れ臭そうな水色の服の子です。

「お手本ありがとー!」注目されてちょっぴり照れ臭そうな水色の服の子です。

そして、イス置き場まで置いていくその過程を子ども達と一緒に見守って下さっていました。

 

さて、いよいよ記念すべきわいらんすい(3・4・5歳児クラス)第一号のイスが置かれる時がやってきました。

おめでとうございまーす!

おめでとうございまーす!

一番最初に置きにきてくれたのは、わいわい組(3歳児クラス)の女の子(桃色の服を着ているので以下桃ちゃん)でした。しかし、そこでもドラマがあり、そのことを塾頭が教えてくれました。

 

「実は桃ちゃん、イスを忘れて、行こうとしたんだけど、その時にすいすい(5歳児クラス)の子が気付いてくれて、〝イス片付けるんだよ〟って教えてあげてたんだ。」

 

「だから、記念すべき最初のイスはすいすいが気付いてくれたイスってこと。」

 

なんだか、感動してしまいます。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2010年3月11日『協働』はこのような文章で締めくくられています。

 

〝フィンランドの子供は、競争で人に勝つといったことに余計なエネルギーを使いません。「3か月前と比べてここは伸びてきた」「ここは持ち味だから頑張ろう」「ここは苦手だけど先生が応援してくれるから頑張ろう」。それぞれが自分の人生を豊かにするために学んでいるのです。(中略)

フィンランドの子どもたちは、失敗しても、その子を責めることはせず、つまずいても失敗しても、それが人間の生きる姿だとおおらかに認めながら、人と人が頭を寄せ合って事を解決していきます。日本では、今、学力レベルは低く、いじめ、不登校も多いなかで根本的な改革が求められています。〟

 

イスを片付けることを忘れたって構わないんです。それは気付いた人がやればいいこと。人間は完璧ではありません。だからこそ手を取り合って、教え合って、学び合うのですね。

 

知っていることを惜しみなく優しく教えてあげられる子ども達の姿に、また、その姿を楽しく温かく見守る職員の姿に、これからの日本の教育の在り方が見えてくるような気がします。

 

そして、

イスがまた一つ。

イスがまた一つ。

「ちょっと待ってな。」

「ちょっと待ってな。」

(よいしょ。よいしょ。)

(よいしょ。よいしょ。)

「片付けてくれて、ありがとう。」

「片付けてくれて、ありがとう。」

ベンチを動かして、子ども達が運びやすいように環境を設定する塾頭の何気ない、さりげない優しさ、かける言葉の温かさに、こうして僕らは魅了されてしまうのです。

 

(環境マイスター:塾頭山下祐 報告者:加藤恭平)

愛情ってゆう形のないもの 伝えるのはいつも困難です

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

新年の始まりとして塾生全員で、挨拶を書いています。

その中の本多先生の挨拶の中でお子様が生まれるという報告があり、なんとも嬉しい気持ちになりますね。本当におめでとうございます。

先日、そんな本多先生を見ていて、素敵な保育をするなぁ、この人は素敵なパパになるだろうなぁと改めて思ったことがあったので、報告させていただきます。

すいすい組の男の子(タートルネックを着ているので以下 亀田君)が一生懸命にけん玉に取り組んでいます。

すいすい組の男の子(タートルネックを着ているので以下 亀田君)が一生懸命にけん玉に取り組んでいます。

本多先生は言わずと知れたけん玉名人です。亀田君のお母さんからつい先日伺った話では「家では本多先生に憧れてけん玉ばっかりやっている。お父さんが本物のけん玉を買ってきたりと、皆で応援している。」ということでした。

 

その亀田君が、憧れの人の前で、難易度の高い『うさぎとかめ(もしもしかめよ〜♪と歌いながらけん玉を連続で成功させていく技です)』に挑戦しています。

せ・か・い・の・う・ち・で…」亀田君のリズムに合わせながら歌を口ずさみつつ、見守る本多先生です。

「せ・か・い・の・う・ち・で…」亀田君のリズムに合わせながら歌を口ずさみつつ、見守る本多先生です。

今まで一度も成功したことがない、という事実を知り、見守るこちらの手にも力が入ります。

そして見事成功!目を隠しても伝わるなんとも言えない嬉しそうなこの表情!

そして見事成功!目を隠しても伝わるなんとも言えない嬉しそうなこの表情!

本多先生も大喜び!

本多先生も大喜び!

そして!

そして!

抱擁!

抱擁!

本多先生が素敵なのはこの後で、

何かを探しています。

何かを探しています。

「ちょっと待っててね…。」

「ちょっと待っててね…。」

「たんにんより…、と。」

「たんにんより…、と。」

賞状の贈呈です!

賞状の贈呈です!

嬉しそうに見せてくれました。

嬉しそうに見せてくれました。

〝おしかめ〟になっているところが本多先生らしくてたまりませんが(笑)このようにして、自分のがんばりを認めてくれる人が傍にいる、憧れの人が褒めてくれる。子ども達からしてみても、大人から見ても最高に嬉しくて喜ばしくて、素敵だなぁと思うことを、とても自然にやってしまうのが本多先生です。

 

本多先生のような魅力溢れる人は、きっと素敵なパパになることでしょう。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2014年2月24日『社会人としての先輩』の中でこう書かれています。

 

〝保育者という仕事は、私からすると、非常に社会貢献をしている仕事だと思うのですが、最近は、なり手が減ってきています。そんな時、大人は若者に何を伝えればいいのでしょうか?(中略)

 

社会の先輩は、決して年功序列としての意味ではなく、若者に真摯に仕事に向かっている姿を見せることは、仕事に就こうとするためには必要なことのようです。(中略) よく、「最近の若者はダメだ!」とか、「今の若者は…」ということを聞くことがありますが、どうも刷り込みが多いようです。もしかしたら、若者をダメにしているのは、大人かもしれません。もっと、堂々と先輩の姿を見せ、話をし、きちんと教えていく必要があるようです。〟

 

最近『指導』という言葉にどこか抵抗を感じる人が少なくないように思います。それは、教える側も教わる側もそうで、教えても教えがいのないような反応をされてしまうのが怖い。教わる側も相手の言い方や教え方で怒られているように感じてしまい、教わること自体が嫌になってしまう。その気持ちが簡単なコミニュケーションをする機会すらも奪ってしまい、最悪の場合は、相手をお互いに陰で責め合うような、そんないびつな関係になってしまいます。

 

ですが、この本多先生の姿はどうでしょうか。その子のがんばりを認め、評価し、嬉しい言葉で褒めてくれる。それが、その子の意欲となり、原動力となり、もっとがんばろうという気持ちを奮い立たせます。

これは、対子どもだけでなく、対大人、例えば、職場で後輩を指導すること、人を育てることなどにも当てはまる、とても重要な姿勢のように感じられます。

『臥竜塾』ブログ2014年2月24日『社会人としての先輩』は、最後、このような文章で締めくくられています。

〝新人教育の場面でもこんなことを報告しています。「トヨタ自動車などの大企業は現場で対話を通じ人材を育成する。新人ととことん話し趣味や価値観を知り、組織の目標とすりあわせていく。上司は自分の部署に配属された新人について、いい所をどう伸ばし同期のトップに立たせるか、考えてみてはどうか」

これらの提案は、保育園・幼稚園でも新人教育の参考になります。最近、園での課題として新人教育のことを聞かれることが多いからです。その答えの一つのヒントを、常見氏(人材コンサルタントの常見陽平氏)はこう言っています。「職場でも論壇でも、世代間で大事なのは対立ではなく対話。大人が対立をあおってどうするんですか」〟

 

子どもに憧れられる存在になれる人は、人間的魅力に溢れているように感じます。

一生懸命がんばる子どもに対する温かな眼差し。それを自然に表現される本多先生という人に、人を惹きつける魅力とは何か、その答えの一端を感じたこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

ちょっと変わった職員が考えるリーダー論 7 〝新しいリーダーの形〟番外編

先日の報告の番外編です。公園での出来事から面白い発見がありましたので、報告させていただきます。

これは公園に着くまでの道中での一コマです。

「落ち葉がいっぱい降ってるから傘さしてるのー」何とも可愛いですね。

「落ち葉がいっぱい降ってるから傘さしてるのー」何とも可愛いですね。

公園では川の水かさが増して、いつもと違う雰囲気に。大喜びの子ども達でした。

公園では川の水かさが増して、いつもと違う雰囲気に。大喜びの子ども達でした。

公園を管理して下さっている方と。

公園を管理して下さっている方と。

雨上がりで風も強かった為に、公園はほとんど貸し切りのような状態でした。そんな中、外に出た仲間のような、同志のような(?笑)そんな感情が湧いたのでしょうか、「こんにちはー!」「はい!帽子あげまーす!」など(笑)いつも以上に関わろうとする子どもでした。

先日の報告で、落ち葉のじゅうたんや、風に流されていく雲を見て喜ぶ子ども達の姿を報告しました。そして上記の出来事も含めて、もしこの日、一年目の職員が「今日は部屋で遊びます」と判断をしたならば、また、散歩に出ようとするその判断を、先輩風を吹かしたような形で(?笑)僕らが潰してしまったならば、出会えなかった光景であることに気づきます。

それは、本当にもったいない。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新しています『臥竜塾』ブログ2007年11月26日『伝統と文化』の中でこう書かれています。

日本の伝統や文化を見直し、それをどう進化させ、今の日本に活用し、世界に貢献していくかを考えることはとても重要なことです。今、世界でも日本の文化が再評価されています。それは、物だけではなく、生き方、生活の仕方なども再評価されているのです。環境保護、エコ、リサイクルに対する考え方、生活の知恵なども「もったいない」で表される日本人の考え方が注目を浴びています。しかし、私は、子どもたちに「日本の伝統、文化を勉強するように!」という前に、もっと、日本の伝統的な教育のあり方、学習のやり方なども検証してほしいと思います。

10年近く前のブログから、今年度のテーマである『伝統』にスポットを当てたブログを書かれています。脱帽です。

話が逸れてしまいましたが(笑)この日本人が得意とする〝もったいない〟という精神、考え方をもつことで、保育に膨らみと豊かさがプラスされるのではないか、とそんな風に感じました。

そんなことを思っていると、

椅子に置いていた子ども達の帽子が風で吹き飛んでしまいました。

椅子に置いていた子ども達の帽子が風で吹き飛んでしまいました。

 

でもきっと大丈夫。子ども達がやってくれます。

何も言わずに見ていると、

「あー!帽子があっちにいってるー!」

「あー!帽子があっちにいってるー!」

「もー!私がやってあげるね。」

「もー!私がやってあげるね。」

「一緒にやるー!」

「一緒にやるー!」

「ニンニンジャー参上!」

「ニンニンジャー参上!」

最後にはニンニンジャーまで登場していただき(笑)帽子はあっという間に集められていました。

今年は、本当に子ども達から学ばせていただきました。

来年も、子ども達の成長を見守りながら、たくさんのことを学んでいきたいと思います。

そして、

生臥竜塾ブログをいつも読んで下さっている皆様に、心から感謝いたします。

皆様の声が、僕ら報告者の原動力です。

来年もどうぞよろしくお願い致します。

2016年が皆様にとって最高の年になることを祈りつつ、この度の報告を終わります。

(報告者 加藤恭平)

ちょっと変わった職員が考えるリーダー論 7 〝新しいリーダーの形〟完結編

「公園は濡れていると思うので、道を歩いて探索に行こうと思うんです。」

雨上がりの午前中の活動を自分で判断をして決めた一年目の職員の姿を追うことで、新しいリーダー像が浮かび上がってくるのではないかと思い、この度の報告を書いています。その完結編です。

さて、とことこ歩いていると、いつもの公園の近くに出ました。

探索と言ってはいたものの、目的地もなくこのまま楽しんでいけるのだろうか。

老婆心ながらそんな懸念を抱いた矢先、

「やっぱりいつもの公園にしようと思います(笑)」

と、笑いながら言っていました(笑)

僕は、これも対人知性の一つと捉えます。もうお馴染みではありますが、初めて読まれる方に改めて〝対人知性〟について紹介させていただきます。

  • 対人知性とは、他人を理解する能力をいう。この人の動機は何か、あの人はどう動くだろうか、皆と協調して動くにはどうすればいいのか、といったことを理解する能力だ。
  • 対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」である

新宿せいが保育園は、活動やその日の流れを組むクラスの〝リーダー〟という役割が順番に毎週回ります。年度の始め、4月頃に、1番から◯番(クラスの人数によって数字がかわります)を決め、調整をしながら順番を定めていきます。年度の途中で変わることもありますし、また、時に自分の番号を超えて動くこともあります。その日のシフトによってもかわることがあるので、絶対厳守というような怖いもの(?笑)ではなく一日の流れをスムーズに促す為の、いわば〝基準〟のような、とても臨機応変なものです。

リーダーとは、誰のリーダーなのかというと、もちろん職員間、その週のクラス間のリーダーなのですが、あそびを提案していく、時にあそびを引っ張っていくという意味では、子ども達のリーダーでもあると思います。

そのリーダーが対人知性に優れること。空気を読む力を身につけることは、子ども達に対人知性を促す意味で、とても重要なことのように感じられるのです。

「やっぱりいつもの公園にしようと思います(笑)」

と照れ臭そうに言ってはいましたが(笑)そういった判断ができるようになる、ということはとても重要なことだと感じます。

いつもの公園を目指しています。

いつもの公園を目指しています。

「あれー?」「公園しまってる!」と子ども達の声。

「あれー?」「公園しまってる!」と子ども達の声。

いつもと違う道からきたので、いつもと違って見えてのでしょう。本当はいつも通り開いています(笑)

いつもと違う道からきたので、いつもと違って見えたのでしょう。本当はいつも通り開いています(笑)

「だったら川のところがいいー!」

 

という子ども達の声を受けて、結局〝いつもの公園〟から歩いて数分の川の流れのある公園にたどり着きました。

皆でやりとりをして決めた念願の公園に到着!

皆でやりとりをして決めた念願の公園に到着!

 

子どもの意見を尊重し、臨機応変に対応していく。チームの雰囲気、意図を察し、最善の提案をしていく。それを一年目の職員が行っています。経験年数でなく、頭でっかちな理論でもない。荒れ狂う嵐の中を突っ切っていくような勇猛さだけのものでもない。新しいリーダーの形が見えてくるような思いがします。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新しています『臥竜塾』ブログ2015年1月12日『触媒』の中に、こう書かれています。

Science Experiences for the Childhood Years」には、こう書かれてあります。「触媒としての教師は、子どもたちに自分で考え、問題解決をするものだということを気づかせ、知的な力を活性化させます。」しかし、多くの教師は、「究極の知識源と見なされ、そのために、自分の知識と子どもの知識との隔たりを必要以上に大きく見てしまいます。そして、子どもが知的な能力を持っていることを見えにくくしてしまうのです。」としています。これは、アメリカにおける教師の実態として書かれてありますが、どの国においても同じような問題があるのですね。

 もし、触媒としての役割とする教師は、自分自身も普段から発見の喜びにあふれています。そのため、前向きで応援するような雰囲気を作り出すと言われています。このような教師像は、保育者としての自分の役割を見直すために参考になります。それは、幼児においてほど、一見、自分の知識と子どもの知識との隔たりは明らかなものと見えるからです。子どもは、何も知らない存在として長い間捉えられてきたからです。しかし、子どもは、知識の量ではなく、知的能力は優れており、それが、自分で考える力になるのです。それを、保育者は増幅してあげる必要があるのです。

あれやこれやと指図するでなく、むしろ集団が何を望んでいるかを察知し、子どもの声を汲み、職員間の思いを汲み取りながら、より良い一日を作り上げていこうとするリーダーとしてのその姿勢は、触媒というリーダー像そのもののように思えてきます。それをこの短期間で身につけるに至った彼女の手腕もそうですが、やはりこれだけの素質を伸び伸びと開花させるに至らしめた新宿せいが保育園という環境に、改めて驚きと、尊敬の気持ちが湧いてきます。

また、この日、我らが誇るベテランの先生がいない中での保育だったことも、とても大きな意味があったように感じます。以前藤森先生から〝守破離(しゅはり)〟について話をいただきましたが、それに近いものをこの日の保育の中から感じました。

Wikipediaには守破離(しゅはり)について、こう説明されています。

〝まずは師匠に言われたこと、を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身とについてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。〟

本当にまだまだまだまだ未熟な僕たちですが、先輩方が築き上げて下さった礎たる土台を基に、幾分か〝自分〟というものを表現しつつある段階にきているのかもしれません。後輩の成長を嬉しく思うと同時に、自分もまたこうして見守っていていただいていることを感じ、藤森先生、中山先生、そして諸先輩方に改めて感謝の気持ちが湧いてくる、そんな一日となりました。

(報告者 加藤恭平)

 

この公園でも面白い子ども達の姿を見ることができました。次回の報告で、お伝えしようと思います。

ちょっと変わった職員が考えるリーダー論 7 〝新しいリーダーの形〟

2015年が終わろうとしています。

4月から始まった今年度。にこにこ組(2歳児クラス)の集大成とも言えるような一日を過ごすことができたように感じ、報告させていただきます。

その日は我らが誇るクラスのベテランの先生は12時出勤の日でした。空はあいにくの雨模様。今日は一日お部屋かな、と思っていた矢先に、晴れ間が見えてきました。

時間は10時を過ぎています。その日のリーダーは今年度から新宿せいが保育園に入った新卒の先生です。外は晴れているものの、雨上がりで風も強かったのですが、さてどうしようか、いつもなら口出ししそうなところをちょっとこらえて(僕なら100%散歩に行くからです笑)彼女に任せました。すると、

「公園は濡れていると思うので、道を歩いて探索に行こうと思うんです。」

と、自分でしっかりと判断をして、活動を決めて、皆を外へと促していました。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新しています『臥竜塾』ブログ2011年4月16日『チーム』の中で藤森先生はこう書かれています。

〝ドラッカーの「非営利組織の経営」という書籍の中で、「チームの目的は、メンバーの強みをフルに発揮させ、弱みを意味のないものにすることである。こうして一人ひとりが力を発揮する。大事なことは一人ひとりの強みを共同の働きに結びつけることである。」と書いています。どうしても、人は自分の強みをアピールするために、人の弱みを非難します。また、自分の強みが発揮できないのを、誰か他人のせいにします。しかし、人はまず「共感」をすることが必要であり、その共感をベースとして、集団の伝統や道徳を生み、文化を形成していく、と考えられています。〟

4月から今日に至るまで、それぞれの職員がそれぞれの思いの中で、藤森先生が書かれていること、そのもののような気持ちでチームを作り上げてきました。この日散歩に行くことは難しいと、自分ならそう判断すると思った職員もいたことと思います。その職員の気持ち、また、散歩に行きたい僕の気持ち(?笑)そして、当然ですが目の前の子ども達の気持ちを汲み、ベテランの先生に頼ったりもせずに、自分の気持ちにも素直な答えを出したように感じ、教わるばかりだった彼女の4月からの成長を垣間見たようで、とても嬉しい気持ちになりました。

雨上がり、風強し。いつもとちょっと違った外の雰囲気に子ども達もわくわくした顔でお散歩の準備を始めていました。

そして出発!

そして出発!

「わー!きれー!」落ち葉の絨毯が広がっていました。

「わー!きれー!」落ち葉の絨毯が広がっていました。

「先生見てー!」

「先生見てー!」

 「あそこの雲、どんどん消えてきたよ!」こういう詩人のような子どもの言葉、僕は大好きです。

「あそこの雲、どんどん消えてきたよ!」風に流されていく雲をこう表現するのですね。こういう詩人のような子どもの言葉が僕は大好きです。

雨上がり、そして、風の強い日にしかない楽しみを存分に味わう子ども達でした。

さて、探索に行こうと出たこの度の散歩。この後、意外な展開を見せてくれます。(続編へ)

(報告者 加藤恭平)