さて、クロ君はというと、
「チームわい」が配膳へとやってきた経緯をクラスの先生に聞いたところ、「流石に配膳へ来ないので、そろそろ配膳終わっちゃうよ、と声をかけました。」
とのことでした。
さて、クロ君は、というと、遊びを終え、配膳終了間際になって一人で配膳へ向かっていました。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月10日『小集団内』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
配膳というゴールへ、手を取り合うような形で向かっていった「チームらん」。その会話まで追えなかったのは残念でしたが、保育者に声をかけられるなどのきっかけで配膳へと向かっていった「チームわい」。前者は子ども集団、そして後者は保育者も含まれた集団が、配膳というゴールへと後押しをします。
興味深いのはクロ君という存在で、遊びが楽しかったのか、はたまた列に並ぶという行為自体に気持ちがどうも向かなかったのか、「配膳へ向かう」という暗黙の流れに沿うことを避けるように、その時間を過ごしていたように思えてきます。
憶測ですが、それは実は「チームらん」も同じで、最初にクロ君のパズルを手伝おうと思った時、きっと配膳の列に長い時間並ぶことを避ける為の彼らなりの気の逸らし方だったように思えてもくるところです。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月11日『気をそらす』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
そして、きっとクロ君も同様であったことでしょう。
ここで改めて思うのは、「配膳へ並ぶ」という行為自体、そもそも園という集団がなければ経験できないことだということです。「チームらん」「チームわい」「クロ君」が集団として、個として、それぞれに行動し、時に自制心の育みともとれる気の逸らし方を発揮しながら配膳へと向かうその時間までを過ごした経緯全てが、園という集団がなければ生まれ得なかったドラマであったことに気付きます。
そして、例えばクロ君が配膳へ並んだ後、「皆待ってるんだからもう少し早く配膳へ来て欲しい」と誰かに言われたとします。それも園という環境、集団での生活があるが故に成されるアプローチであり、クロ君にとっては集団がある故に得られることのある学びなのですね。
子ども集団、集団の大切さ。その理解の上に構築された環境設定。給食の配膳一つにして、子どもたちはこうして多くの経験を積み重ねているのですね。改めて新宿せいが子ども園の環境に、驚きと感動を覚えたこの度の出来事でした。
(報告者 加藤恭平)