「いい玩具っていうのは、遊び方が決まってないものだよね。」
これは、近所にある玩具屋さんのご主人の言葉です。その方と仲良くなったのは、先々月、コマの紐を買いに行った際、隣にあったベーゴマのロゴ(文字)の意味について教えてもらったのがきっかけでした。
その方は、今の玩具の流行だけでなく、1960年代に流行したスーパーボールやスリンスキー、1970年代に流行したアメリカンクラッカーなど、昔からの玩具にも詳しく、店頭にあるものを使って説明してくれました。私も、アメリカンクラッカーの使い方を知らなかったので教えてもらうと、それにハマってしまい、購入して園に持っていきました。子どもよりも、大人がハマっていましたが…(笑)。
ご主人の様々な話を聞いていると、大学時代の「玩具文化論」という授業を思い出しました。ご主人の姿は、教授が玩具の歴史を話している姿のようでした。それも、入店時の無口な姿からは想像できないくらい饒舌に、且つ、非常にイキイキと語っていました。大学で「玩具文化論」を教わっているみたいで楽しかったです。そして、話も終盤になった頃、冒頭にあった「結局、いい玩具っていうのは、遊び方が決まってないものだよね。」とおっしゃっていたのです。初めから“この玩具はこうやって遊ぶもの”というように、遊び方が決まっているものよりも、“これはどうやって遊べばいいのだろうか”など、使う本人によって柔軟に遊び方が変わっていく玩具が「いい玩具」である、ということだと思います。しかし、近年ではそういった玩具も次第にニーズが減っているともおっしゃっていました。
ある日、家具の穴から芋虫のようなものがニョキっと出てきて、下にポトンッと落ちました。案の定、私の面白センサーが反応したので、しばらく様子を見てみることにしました。
これは、両側が磁石になっていて、複数個をくっ付けて造形していくという玩具なのですが、ある1歳児が、家具のフックを付ける用の小さな穴部分から、その玩具を入れ落として「型落とし」のように遊んでいたのです。その遊び専用に作られた玩具でも家具でもないのに、見事なまでに「型落とし」にはちょうどよい大きさだったのです。
玩具が落ちる「カタンッ…カタンッ…」という音につられてか、しばらくすると、そこに0歳児もやってきました。1歳児が遊んでいる様子を見ていたのですね。0歳児も、自分もやってみようと挑戦して、見事型に入れ落とし「カタンッ」と音をならしていました。よほど楽しかったのか、何度も繰り返し遊んでいました。
ここで、その玩具は基本的には玩具同士をくっ付け合わせるという遊び方が決まっているのに、子どもの好奇心や探究心によって、その遊び方の壁を越えていることに気がつきました。子どもは、このように自ら様々なところに興味を持って、試してみて、面白い遊びを自発的に探しているのだとも感じました。
玩具の使い方は子どもが決めるものであって、大人によってその範囲を狭めてしまっている現状があり、与えられた遊び方をしているだけでは大切な創造力は育たなくなってしまうと、玩具屋さんのご主人は懸念しています。そのため、その玩具屋さんには基本的に遊び方が決まっている物は入荷しないようにしているともおっしゃっていましたが、自分の思いと社会のニーズ、それらを天秤にかけた経営も一筋縄ではいかないようです。
(報告者 小松崎高司)
アメリカンクラッカーはどうやって遊ぶのでしょうか。見たことがないので、気になりました。「いい玩具というのは遊び方が決まっていない」なるほどです。「それはそうやって遊ぶものではないよ」とそれは誰が決めたことなのでしょうか。一つの価値観ではなく、「なるほど、そういう遊び方もあったのか」と思える気持ちの持ち方が私たちには大切になってきますね。先日、ボードゲームをしていた子たちが、いくつかのパーツがなくなっていることに気がつき、おはじきや、積み木ゾーンにあった小さな人の形をした模型でなくなったパーツの部分をカーバーしているのを見ました。そに対して、「それはそうやって遊ぶものじゃないんじゃない」という言葉は余計ですね。子どもたちが玩具をつかって試してみたくなることをしっかり見守れる存在であることを大切にしたいなと思いました。