塾長は以前雑誌の掲載で映画の評論を一時期書いていました。もちろん子どもに関する映画です。
私たちも過去の塾で塾長が薦める映画を見て解説を聞いた会もありました。
私も映画は好きで、以前はよく見に行ったり借りたりしていました。
私たちも過去の塾で塾長が薦める映画を見て解説を聞いた会もありました。
私も映画は好きで、以前はよく見に行ったり借りたりしていました。
また保育園に勤めているせいか、子どもに関する映画が始まると注目するようになりました。
そこで、今回の報告は塾長のように上手く書けませんが、ある映画について書いてみようと思います。
ただ私一人では難しいので今回は小松崎先生とコラボしてみました。
今回は「チョコレートドーナッツ」という映画を見ました。
おそらく見たことがある方もいると思います。
では、見たことがない方にあらすじを…。
検事局のポール(男性)と一目ぼれしてカップルとなりました。
あるとき、ルディの近所に住むダウン症の少年マルコの母親が薬物所持の罪で逮捕されてしまい、
施設送りになるならと、ルディとポールはマルコを引き取って育てることを決意しました。
しかし二人の関係は当時のアメリカでは理解を得られず、
ゲイであることを隠したまま3人で暮らすことになります。マルコも特別支援学校に通うことになり、
3人で幸せな時間を過ごしていました。しかし幸せな時間も一年足らずで終わってしまうのです。
当時のアメリカはどうしてもゲイという事に大きな偏見を持っているせいか、
執拗に二人を追い詰め、二人からマルコを奪ってしまうのです…。
結末は私の口からは言えないので、気になるかたは自分の目で確認していただけたらと思います…。
結末は私の口からは言えないので、気になるかたは自分の目で確認していただけたらと思います…。
山下「今は性同一性障害という言葉が周りに周知されているから、例え知り合いや身近な人で、そういう人がいても、そこまで特別視はしなくなったけど、その言葉を知るまでは正直、偏見な目で見ていたかも…。」
小松崎「制作者の意図としては、現実を知ってもらいたかったのですかね。また人間の本性というか、誰にだって秘密はあると思いますが、それを人との出会いによって引き出されるものがありますよね。ルディと出会うことでポールの秘密が打ち明けられたように。」
山「あと一番気になったのが、裁判の内容が子どもの親権でなく、二人の関係を追及する内容ばかりだったシーンがショックだったな…ただその時にルディが「一人の人生ついての話しだぞ!あんたらが気にも留めない人生だ!!」という発言は大切な言葉だったね。」
小「そうですね。ただルディがマルコにどうして、あそこまで思い入れたのか、気になりましたね。」
山「確かにそうだね。映画の中ではマルコが隣に住んでいたのは知っていたそうだけど、実際に関わったことも会ったこともない感じだったもんね。」
小「ファーストコンタクトは音楽の音がうるさく、ルディが文句を言いに行って隣の部屋に入った時に、部屋の片隅で一人座っていたマルコを見たのが、ちゃんと初めて会いましたよね。」
山「そうそう、その時に母親が薬物所持で逮捕されて、家庭局の人が来て何も言わずにマルコを施設に連れていったけど、その夜にマルコが抜け出したところをルディとポールが見つけて、ルディが自分の家に連れていって、自分が面倒を見るって決心した感じだね」
小「しかし、赤の他人をそこまで面倒見ようと思ったのはマルコに何か感じたものがあったんでしょうね。」
山「自分と被ったのかな?」
小「そうかもしれないですね、自分自身、周りと変わっているからこそ、障がい児に対しても偏見な目で見ないのかもしれないですね。あとは家族が欲しかったんじゃないですかね?当時は残念ながらレズを認められないし、もちろん実際に家庭を持つのは難しかったから、どこにである幸せな家庭を持ちたかったのも引き取った理由かもしれませんね」
山「そうかもしれないね。マルコを引き取ったあとは、どこにでもあるような幸せに過ごしていたからね。そして自然と父親役と母親役になっていたね。それを決定づける瞬間が夕食の時に、マルコに『何を食べたい?』と聞いて『ドーナッツ』とマルコが答えると、ルディが『夕食にドーナッツなんて』という発言にポールが『たまにはいいじゃないか』と諭したシーン。あれは完璧に夫婦の会話だね」
小「そうでしたね~。まさにチーム保育ですね!自然と自分の役割というのを理解している感じですね。自分の得意分野を活かすという意味では、ルディは母親のようにマルコに寄り添い、ポールは父親のように少し離れたところから二人を見守っている・・・という絵でしたね」
山「あとは二人(ルディとポール)と暮らしてからのマルコの変化が、一番印象に残ったかも」
小「確かに、そうですね」
山「今まで母親に全くかまってもらえないまま育てられた結果、知能的に遅れていたけど、二人に出会い、何よりも学校に行き集団という中で過ごす事で、マルコ自身の発達は著しかったね。マルコの担任も2人の存在がマルコの成長に大きく影響していると言ってたしね」
小「園長先生の講演でも、新宿せいが保育園でダウン症の園児が集団で過ごす事で、みるみる発達をしていたという実例をよく話していましたよね?」
山「そうそう、おそらく映画ではルディとポールのお陰でマルコの発達が著しく成長したように話しているけど、そうは言っても例えマルコと同じ障がい児でも集団がマルコにも大きく影響していると感じたなぁ・・・」
小「そうですね、言われてみるとそうかもしれませんね。ただそういう視点は普通の人は感じないでしょうね(笑)」
山「そうだね、おそらく藤森先生の話しをよく聞いていると、集団というキーワードに視点がいくね」
小「ちなみに園長先生(藤森先生)が見ると、どういう感想を言われるか気になりますね」
山「確かに・・・どういう視点で捉えるのか・・・今度、臥竜塾で見てみようか・・・」
と言った感じで2人で「チョコレートドーナッツ」の感想を述べてみました。
一番は自分の目と耳で確認していただいた方がいいかもしれません。
マルコがダウン症だから、ルディとポールが同性愛だから可哀想と思って見るのでなく、
劇中でのセリフ「一人の人生についての話しだぞ」とルディが叫んだ言葉の通り、
障がいという偏見を持たずに見ていただくといいかもしれません(報告者 小松崎・山下)
偏見はどこからくるものなのでしょうね。僕も子どもの頃や学校を卒業して働き始めてからも人から悪口を言われたりした経験はあるものですが、今となるとそれも全て笑い話になるというか、例えば今そんなことが起こってもいちいちそのことで落ち込まないようになりました。偏見とは、若さゆえ、精神的な幼さゆえの過ちのようなものでしょうか。年齢を重ねるということって本当に素晴らしいなと思います。
人の目が気になるというのは、自分を人と比較しているということであると思います。比較していいのは、昨日の自分、何か事を始めようとしてスタートした時の自分と現在の自分、つまり〝自分〟だけであると思います。集団の中に身を置きながら、比較するべきは自分だけというこのことがわかると、とても周囲が明るくなったように感じるものです。やはり、変わっていくべきは自分なのだという思いを強くします。
これはまた新しい形ですね!対談形式、おもしろかったです。お二人が考えたことが交わされることで、改めて気がつくことがあったりと、一人では気がつかなかった、思わなかったことを発見できることで、学びが深まる形を見させてもらったようでもありました。「一人の人生ついての話しだぞ!あんたらが気にも留めない人生だ!!」という言葉は刺さります。実際にルディもマルコと同じような扱いを受けたことがあるから余計に強い口調になったのかもしれませんね。周りの人は気がついていなくても、思っていることは雰囲気として相手に伝わってしまい、その相手である自身はその雰囲気を普通の人よりきっと感じやすいのではないでしょうか。そんな鬱積した思いが表れた言葉でもあるのですかね。なんだか、先日の白鵬の言葉の背景とだぶるようでもあります。と、観てもいないのにお二人の話に刺激されてだらだらと綴ってしまいました。私は糸井さんが代表の「ほぼ日刊イトイ新聞」というウェブサイトが好きなのですが、そこでの対談と似ているような感じで、読んでいて自分も一緒になって映画のことを考えているつもりになりました。観たことはない映画なのですが、そのことについて少し考えているというのがなんとも不思議な感覚でした。同じことを経験して、お互いの思いを共有することで、新たな発見があるというのはとてもダイナミックで、楽しいことですね。