『今日、私たちの暮らしのいたるところに、「雑貨」と呼ばれるモノが存在します。しかし、非常に身近であるはずの「雑貨」は、すぐ手の届くところにありながら、その定義は曖昧にして捉えどころがありません。そもそも、私たちが普段無意識に使っている「雑」という字には、「分類できないもの」「多様に入り混じったもの」という意味があります。その中でも「雑貨」というカテゴリーが生まれた背景には、時代の節目節目に外来の多様な生活文化や新しい習慣を柔軟に受け入れてきた歴史があります。その変化に応じて、暮らしの中に様々なモノを取り込んできた日本人の生活史を象徴する存在が「雑貨」ともいえるのではないでしょうか。』
このようなメインビジュアルを表現するのは、21_21 DESIGN SIGHTで行われています企画展、「雑貨展」です。
確かに、雑貨というものを考えた時、目の前にある物の中でどれが雑貨でどれが雑貨でないかは理解しがたいところがあります。時代と共に、幅を広げて柔軟に変化してきた「雑貨」は、まさに人の暮らしに“楽しみ”を与えて豊かにしてきた影の存在であり、「分類できないもの」「多様に入り交じっている」「区別しにくいもの」であることで、逆にその存在を確固たる物へと変容させてきたように思います。カテゴリーという枠を越え、予測の出来ないことに自然と感じる魅力、「探す、選ぶ、買う、使う、飾る、取り合わせるといった行為や経験」を通して何かを結び付けるといった姿が、『人』の未来にも似たイメージを駆り立ててくれます。
そのような中この企画展では、概念そのものが広がり続けている、生活空間に欠かせない「雑貨」というものを『私たちの日常の生活空間に寄り添い、ささやかな彩りを与えてくれるデザイン』と、定義づけています。
また、『本展はこうした「雑貨」をめぐる環境や感性を、世界的にもユニークなひとつの文化として俯瞰し、その佇まいやデザインの魅力に改めて目を向ける展覧会です。』と語っています。そして、企画構成を手がける前村達也さんは、こう話します。
『展示作品でもある「雑」という言葉を含む二字熟語を集めた雑マンダラの中にもあるのですが、たとえば「雑煮」。それぞれ中身は自由に入れますよね。 そういう風に「雑」は、くっきり線を引いてカテゴライズしない、曖昧な境界として使われる便利な言葉です。 ですので、最初はひとつひとつのモノを「雑貨」なのかどうなのかを調べていたんですが、どうやらそうではない。モノが集まった時の集合体、それが『雑貨』なんじゃないかなと。そういう主旨のもと、展覧会を構成しました。』
塾長が提唱する、人間らしさ・日本人らしさ・人の在り方なども垣間見える気がするこのような企画展から、何がみえるでしょうか。
(報告者 小松崎高司)
まず小松崎先生の色々なところにアンテナを張り巡らせ、行動している姿は藤森先生のようで、自分もそうしないと!と考えさせられます。小松崎先生のこういう報告のお陰で、世の中にこんなに面白く、ユニークな展示会がある事を知りました。今夏の雑貨展もそうですね。よくオシャレなショップに雑貨が置いてありますが、確かに「雑貨とは?」と言われると「?」となります。一つ一つのモノを単発で見ると、それぞれに用途があり、例えば文房具であったり、調理道具、食器など、それぞれに役割があり、雑貨ではなくなります。
人もそれぞれ個性があり、それぞれに役割があると思います。どうも「雑」という言葉にネガティブなイメージを持っていましたが、今回のブログを読んで「雑」という言葉に対する印象が変わりました。人も雑貨のように集団となることで楽しみが広がり、豊かにしてくれるのでしょうね。
このような企画展があるのですね。企画のおもしろさもさることながら、こういったイベントを見つけ、自ら足を運ぶ小松崎先生の姿勢が素晴らしいなと思いました。保育を深めよう、これをきっかけに何か発見があるかもしれないという姿を感じ、私も刺激を受けます!「雑」という概念もおもしろいですね。くっきろ線を引いてカテゴライズしない、曖昧な境界としてつかわれる…という言葉が印象に残りました。人もまたそのような存在なのかもしれませんね。雑貨が存在することと、人の定義はどこかでつながっているように思えてきました。