「雑」という字には、「分類できないもの」「多様に入り混じったもの」という意味があり、「雑貨」というカテゴリーには、外来の多様な生活文化や新しい習慣を柔軟に受け入れてきた歴史があります。その変化に応じて、暮らしの中に様々なモノを取り込んできた日本人の生活史を象徴する存在が「雑貨」です。
前回、「雑マンダラ」という展示作品の中にあった「雑」という字の使い方が目に止まりました。その字は、「くっきり線を引いてカテゴライズしない、曖昧な境界として使われる便利な言葉」として位置づけていました。その作品の漢字をピックアップしてみると、「雑学」「雑誌」「雑草」「雑談」「雑念」等があります。これら全ては、なんとなく、そのもの自体はなくても困らないが、そこから何かが生まれるきっかけ、又は広がりのある世界観を誘発させる効果があるように感じます。つまり、あえてくっきりさせない、カテゴライズしない、混沌の中にある『曖昧さ』が、人々を創造の世界へといざなっているようにも感じるのです。
先日、あるTV番組で脳科学者である茂木健一郎氏が、“ロボットに教えるのが難しいこと”として言っていたのが「雑談」でした。それは、きっと「予想が出来ない」とか「曖昧さ」が関連しているのだと思います。「ちゃんとしない」「完全ではない」という事に価値を見出すことで、人間としてのこれからの生き方があるようにさえ感じさせます。
塾長は、日本語についてこう言います。
「すべての日本人に対する日本の国全体の空間の支配は、日本人の精神生活のもっとも深い層にまでおよんでいて、そのために大変に頑強なものになっているとみています。西洋人は概念やそれを表現する言葉を愛していますが、極東の人たちは、知識の言語的な側面から自らを守ることを知っているというのです。日本語は、その曖昧さにおいて豊かであって、したがって、ある実体を概念化し、孤立させて理解するということをけっして要求しないと言います。」
日本の空間そのものが、曖昧さの中に漂っており、言葉や行動のその意味は、その人個人に委ねられているという、なんとも線引きのないグレーな世界においてこそ発揮される“豊かさ”に美学等を持ち合わせている印象を感じました。
人の暮らしに楽しみを与えて、豊かにしてきた影の存在でもある「雑貨」には、『私たちの日常の生活空間に寄り添い、ささやかな彩りを与えてくれるデザイン』という定義が作られました。その中の「ささやかな彩り」というのは、豊かさのことでもあるように感じます。その豊かさは、決して経済面での豊かさではなく、心の豊かさであると思うのは、この企画展のディレクターである深澤氏が、雑貨について言っていた「生活に溶け込んだ親しみやすさや心地、細やかな配慮の上に成り立ったささやかな幸福感のシンボルのように人の心に響いている」という言葉からも想像がつきます。
そんなことを考えていると、ふとこのような光景が目に入ってきました。
これは、新宿せいが保育園内にある雑貨たちのほんの一部です。
このような、「ささやかな彩り」があるおかげで、それが作り出す心地良い環境・雰囲気・又は空間の曖昧さのおかげで、そのような遊び心を携えた方がいるおかげで、私たちは日々の生活における豊かな仕事ができているのかもしれません。
(報告者 小松崎高司)
私も雑貨が好きで、よく雑貨屋さんに行ったりするのですが、様々な物がところ狭しに、特にカテゴライズされずに、でもとこが秩序を保って並べられている雰囲気はなんだかワクワクしますね。それは小松崎さんの言われる「あえてくっきりさせない、カテゴライズしない、混沌の中にある『曖昧さ』が、人々を創造の世界へといざなっているようにも感じるのです」というものでもあるのかもしれません。『「ちゃんとしない」「完全ではない」という事に価値を見出すことで、人間としてのこれからの生き方があるようにさえ感じさせます』とありましたが、こういうことはこれからもっと大切になっていくのかもしれませんね。答えや決まったもの、「こうすべき」というものが目の前にあるととても窮屈になってしまうように思います。そこに主体的な人の像を描けないからかもしれません。それぞれが違う雑貨でも全体としてみた時に妙なまとまりを感じることがあります。それぞれが主体として輝きながら、集まっているというチームという集団もそのような感じなのかもしれませんね。