ひまわりのような まっすぐなその優しさを温もりを全部 これからは僕も届けていきたいです EPISODE FINAL!

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さていよいよこの度の報告の主人公、紫ちゃん(紫っぽい色の洋服を着ていたからです)の登場です。

 

雑巾をとってくることにどうやら苦戦していた様子。

雑巾をとってくることにどうやら苦戦していた様子。

 

なるほど、だから戻ってくることに時間がかかったのですね。

 

そして、到着。

そして、到着。

 

こぼれたお盆をずっと持っていてくれたお友達も、ほっと一安心といった様子。

 

一生懸命拭いています。

一生懸命拭いています。

 

ここでちょっと、引いて撮った一枚があります。

 

職員がこのやりとりを少し離れたところから見守っています。

職員がこのやりとりを少し離れたところから見守っています。

 

この職員の距離感!この一枚の写真が、結果としてこの度の報告での感動へとつながる伏線となっています。この度の報告で僕が一番お伝えしたいのは、この職員のこの距離感です。最後まで見ていただくとおわかりいただけることと思いますので、続けます。

 

さて、椅子は拭き終わりました。

さて、椅子は拭き終わりました。

新宿せいが保育園では、テーブルはピンク、椅子は黄色、床は青、という具合に、それぞれ場所別に拭く物の色が分かれています。ちっち組(0歳児クラス)から見ているからでしょうか、習慣化され、子ども達は色を把握して、場所別に使い分けています。

なので、床に落ちてしまったご飯は青です。

なぜか黄色をお友達に渡して(笑)青を取りに行く紫ちゃん。

なぜか黄色をお友達に渡して(笑)青を取りに行く紫ちゃん。

 

持ってきました。(別件なのですが、写真左上をご覧下さい。お友達は黄色を洗いに行っていました。優しい!)

持ってきました。(別件なのですが、写真左上をご覧下さい。お友達は黄色を洗いに行っていました。優しい!)

が、何だかためらっています。

しゃがむものの、中々拭き始めません。

しゃがんだりするものの、中々拭き始めません。

 

するとらんらん組(4歳児クラス)の子が助っ人に来てくれました。

するとらんらん組(4歳児クラス)の子が助っ人に来てくれました。

 

慣れた手つきで「よいしょ。」

慣れた手つきで「よいしょ。」

 

流しへ。

流しへ。

 

「…ありがとう。」「へへ。」

「…ありがとう。」「へへ。」

いい場面ですね。

なぜかその場面に水を差すように(?笑)割って入ってきたボーダーの男の子。

なぜかその場面に水を差すように(?笑)割って入ってきたボーダーの男の子。

なんでしょうね。そして、

紫ちゃんは、

紫ちゃんは、

 

改めてご飯をよそってもらい席へ。

改めてご飯をよそってもらい席へ。

 

手伝ってくれたハンサムボーイは、

丁寧に雑巾を片付けて、

丁寧に雑巾を片付けて、

 

颯爽と席へ。

颯爽と席へ。

席に戻ったハンサムボーイのことを褒めようと、声をかけました。

すると、意外な答えが返ってきたのです。

「◯◯先生が、ボーくん(先ほど流しで割って入ってきたボーダーの男の子)にやってあげて、って言ってたのを聞きつけてきたの。」(ボーくんが割って入った理由がなんとなくわかりました、笑)

〝聞きつけて〟なんて難しい言葉をよく知っていますね。それより!

先程の職員の配慮がこの展開を生んでいたことに感動しました。

子どもが自分で気付いて自分でやった、という美談であればそれはそれで魅力的な出来事だったのですが、僕はそれよりも、ご飯を拭くのをためらった紫ちゃんを見て、職員が事態の収拾を図ったこと(実は椅子を拭き終わるまでに相当な時間がかかっていました。笑)、そして、最初に頼んだ子が動かない姿を見て、ハンサムボーイが動いた、という一連の流れに感動しました。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2010年9月5日『すばる』の中でこう書かれています。

〝最近、「集団」という言葉に興味を持っています。それは、個性を殺すものとして否定されることが多く、それに優先して「個々に」「一人ひとりに」が言われてきたからです。しかし、「個々」という自己主体性や自尊感情は、集団の中で自己を見つめたときに生まれてきます。また、人が生きていく特性として集団の中でさまざまな役割を持っていることが重要になってきます。また、私の生きる理念である「共生」と「貢献」も、ともに集団が必要なのです。(中略)

人は、個人差というそれぞれ違った役割をもって生まれてきています。それぞれ違った役割を持つのは、人類という種を子孫に残すためであると言われています。子どもは何もできないと思い、子どもに教えたり、与えたりするのではなく、子どもが本来もっている能力を信じて「引き出し」、それを「はぐくむ」。それがMIMAMORU─見守るという日本独特の距離感で子どもと関わることであり、エデュケーション(引き出す)という教育本来の姿を具現化する重要なアプローチであると思うのです。〟

〝見る〟だけでなく、〝放任〟するでもない。適切な援助と適切な配慮で、一人の子どもの奉仕の気持ちを引き出し、やってあげた側も、やってもらった側も、そして、それを見ていた側の気持ちも涼やかに嬉しくなるような場面を構築した職員のその保育は、まさに〝見守る保育〟だと思いました。

新鮮さ残る4月も後半ですね。このような職員の姿勢を胸に、今日も新しい気持ちで保育に臨みたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

ひまわりのような まっすぐなその優しさを温もりを全部 これからは僕も届けていきたいです EPISODE FINAL!」への2件のフィードバック

  1. 『〝見る〟だけでなく、〝放任〟するでもない。適切な援助と適切な配慮で、一人の子どもの奉仕の気持ちを引き出し、やってあげた側も、やってもらった側も、そして、それを見ていた側の気持ちも涼やかに嬉しくなるような場面を構築した職員のその保育は、まさに〝見守る保育〟だと思いました』という言葉、とても感動的でした。まさに見守る保育ですね。ただ待つだけではない、ただ見ているだけではない、その子の特徴とその場の状況から判断して、一番ベストだと思う対応をすることが大切ですね。それは正解のない保育の深さ、楽しさを教えてくれるようでもありますね。そして、こういった報告でひとつまた嬉しくなるのが、写真に写っている先生を知っているということです!笑

  2. もりぐちさんへ
    コメントいただきありがとうございます!
    〝一番ベストだと思う対応〟まさにその通りだと思います。今日という日は過去の積み上げからなる最古参の自分である日であり、また、未来から見れば一番若くて未熟な日でもあるという、二つの意味をもつ特別な日であるということです。その時その時の自分の判断、対応に自信をもって望みたいですね。その時の心の判断材料に、こういった職員の姿を思い出して、保育をしていきたいですね。

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