アートと芸術③

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 芸術士は、一方的に「アート」を教えに行くというものではなく、「かたわらにいる時間」を大切にしながらも、客観的に観察しているというより、一緒になって見ながら同じ空間を作り上げている中で、随所に“こんな使い方もあるよね”といった提案をさりげなくしたり、素材の新しい活かし方などを伝え、子どもや保育士の中にある素材の固定概念を打ち砕こうとしているようにも感じます。
 
 しかし、そんな芸術士の存在も、保育園ではなかなか受け入れられないそうです。それもそうです。保育士にとっては、“私たちがいるのに…”といった戸惑いを抱く方も少なくないそうです。実際にお話をしていた芸術士も、「私たちがまずやらなければいけないのは、現場にいる保育士の方々とのコミュニケーションです」とも言っていました。私は、塾長が常に言っている「役割の違い」がそこにはある気がします。保育士と芸術士の役割がかぶることなく、連携をうまくとることによって得られる雰囲気というのは、多様性を認めることにもつながり、子どもの“育ち”にとって非常に重要であると思います。
 
 また、ある園で絵の具の活動の準備をしている時、子どもが「何やっているの?」と寄ってきて、中にペンが入っている絵の具の缶をカラカラ振り始めました。すると、「これは秋の音がするよ!」と子どもが言ったそうです。他の子どもたちも寄ってきて、缶をたたき始めたりもしたり、“え!こんなところにも”といったところに落ちている、様々な“子どもの気づき”を拾える暇な時間があるのが私たち(芸術士)でもあると言っていました。この感覚は、保育士も大切にしていることだと思います。しかし、日々生活を共にしている中で、忘れかけてしまう感覚でもあるような気がします。
 
 また、芸術士はこんなことも言っていました。
「意味がない活動を面白そうだからやってみたいが、それを保育士に説得するというスキルが必要。全てにねらいがあって、A+BはCだからこれをやろうだと“逃げ道”がなくなったり、“ゆとり”がなくなってしまう。」
 
 このような、“どうでもよく、意味のないことの大切さ”に、今回の最大の学びが隠れているように感じました。
 
 そして、楽しそう・面白そうといったことに、“ねらい”や“意図”に匹敵するような意味合いを持たせてもいいのでは?と、芸術士は問いかけます。何げないイスを見ても、私たちは「イス」としか認識しませんが、その上に物が置いてあり、有名な芸術家の名前が書かれたプレートが飾られていたら、きっとその作品に自らで付加価値を見出すことでしょう。まさに、“意味のないこと”に意味を見出したのが「アート」の本質ではないかと強く感じたのです。
 
 つづく…
 
(報告者 小松崎高司)
 

アートと芸術③」への2件のフィードバック

  1. 「A+B=Cだから、これをやろうだと逃げ道がなくなったり、ゆとりがなくなってしまう」というのはいろいろ考えさせられる言葉です。Cになるという構えを持ちながらも、Dになったり、Eにもなるかもしれない=はCだけではないと思って関わるのとでは子どもの発想の受け止め方に違いがでるように思いました。一見、意味のないことのように思えることから意味を感じとることが私たちの大切な役割なのかもしれません。そして、それが生み出せるよう雰囲気も私たち様々な大人が作り上げていかなければいけないのかもしれません。子ども達は主体的な存在であるはずですね。自分たちで学びを深めようとしている姿を邪魔しない、そして手伝える存在でありたいです。

  2.  意味合いをもたせることは日本人の特技なのかもしれませんが、それに対して過剰になってしまうところが悪い癖であると思います。例えば髪を切りに美容室に行くことにねらいが必要でしょうか。切りたいから切るという衝動的な欲求を表現することは、保育や教育の現場ではなぜかあまり善しとされません。モラルに反するようなことはあってはいけませんが、それこそ保育士たる、教員とはこうあるべきというような刷り込みの部分が大きいような気もしてきます。逃げ道やゆとりというもののない世界では、大人も子どもも苦しいでしょう。その余白にこそ、保育の意味があるようにも思うのです。

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