今回も、以前に行った「森美術館」での【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】で感じた「異なる文化、現実と想像、大人と子ども、 あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」についての報告をしていきます。
〈異次元を往来する〉
よく、子どもに対して「人間らしくなってきた」と表現する人を目にします。言葉や状況を理解し始め、自らでも何がしたいのかを伝えられるようになってきた子どもに対して言っている場面が多いと思います。では、それまでは何だったのでしょう?
それを、展示会ではこう表現していました。
『空想、ごっこ遊び、工作や絵を描くことなどを通して、子どもは簡単に想像の世界に遊ぶことができます。そもそも、子どもにとっての「現実」は、想像の世界から完全に切り離せていません。「この世」や「あの世」を含む、あらゆる境界を軽々と飛び超える子どもたちの想像の力を通して、より多様な世界のあり方が見えてきます。』
子どもはの発想は、大人でも考えつかない切り口から生み出されてきます。それは、想像の世界にいることがあたかも普通かのような感覚になっている時、それを現実の世界で自然と行った時に生まれる発想ということだと思います。展示会では、そのような現実と想像の世界を頻繁に行き来している時期の子どもたちに焦点をあてて、生まれてくる前の話や生まれてきた時の様子を、子どもが実際に話している映像がいくつも流れていました。また、「この世」と「あの世」を自由に横断する子どものエネルギーを、小学生の子どもたちが『どんなじこくへいくのかな』というテーマのもと、自分が想像する地獄の立体物を制作し、自らでその作品の説明をしている映像が流れていました。
全てが規格外のようなものに見えて、所々にいれる現実的な描写が妙な説得力をかもし出しているのです。大人は、「想像できることは全て実現できることだ」と言うかもしれません。しかし、逆に、想像できないことは実現できないということです。大人が子どもの姿を見て、「人間らしくなってきた」と表現するのは、やっと大人が想像できるところまで降りてきた姿であり、それまでは大人が想像できない世界を漂っていたということになります。以前私が、子どものそういった姿から「子どもと少しでもつながった気がするのです。そのつながりが、自分の存在を意味あるものにしてくれる」と表現したのは、少しでも、子どもがいる想像の世界に近づけたような気がしたからだと思います。
子どもの、現実と想像を行き交うことで生み出される過程や仕組みを、上手に残してこられた人が、物事を創造することに長けた能力を活用して、新しい発想のもと“時代”を作っていく人になっていくのかもしれないと感じました。
つづく…
(投稿者 小松崎高司)
少し話は違うかもしれませんが、私は小さい頃、宇宙のことや自分が死んだらどういう世界に溶け込んでいくのだろうと想像して、怖くなることがよくありました。そんな想像をしたら怖くなると分かっているのに、その想像を止められないという感覚に陥ったこともあります。今でもたまにふと思い出すことがあるのですが、なんだか不思議な感情です。子どもの世界と大人の世界で考えると私は整頓、整理ということが浮かんできます。片付けられた空間、スッキリした空間、無駄な物がない室内がいいと大人が考えることが必ずしも子どもには当てはまらないのではと思うことがあります。それは…私が片付けが苦手だからそう言っているという訳ではないのですが(その時点で説得力なしですよね)、子どもの好きな、子どもにとっていい世界は必ずしも整理整頓が行き届いたものだけではないような気がします。様々な興味を形にできたり、あらゆる所から刺激を受ける環境は大人の好きなすっきりした空間ではなく、いい意味でごちゃごちゃしているんじゃないのかなと考えるようになりました。それが本当にそうなのかは分かりませんが、そんな子どもの世界を想像することは忘れたくないなと思いました。
生まれる前の記憶のある子どもが全国でも毎年決まって現れるそうで、3歳を過ぎる頃から次第にその記憶は薄れていってしまう傾向にあるのだそうですが、その記憶を聞いていくと、着床してから出産にいたるまでの過程がその子の言葉で事細かに説明されるのだそうです。更に、着床する
前の記憶もある子もいて、その子達の話にも共通するものがあり、それを知った時とても感動しました。
内容としては、「自分には羽が生えていて雲の上からお父さんとお母さんのことを見ていた。何人かお父さんとお母さんを見て、自分で決めてお母さんの子になった」というものです。
その話を嬉しそうに聞くお母さんが尋ねます。「なんで私に決めたの?」その子の「一番優しそうだったから」という答えにも、感動しました。
これもまた想像の世界の出来ごとかもしれませんが、子どもの思考は雲の上、神様に近いところにいるのだと思うと、大人が子どもに対して偉そうにものを言うことは、何だか違うことのように感じてしまいます。