これまで、4回に分けて「異年齢」についての考察・振り返りを行ってきました。異年齢集団とは「大人になるための準備である」といった視点から見ると“発達の幅・多様性・能力の定着”の3つの観点が、社会の形成者としての資質のために必要な環境であることが分かってきました。しかし、それら3つが環境として存在するからといって、大人になるための準備が全て整うということでもないのだと感じます。子どもが、自分たちが置かれている環境に自ら働きかけることによって、初めてその環境の意味があるのです。子ども一人ひとりの発達に合った環境がそこになければ、当然自発性や主体性は生まれないと思います。これまでは、幅の広い異なる年齢同士が関わるとはどういうことか、それによってどのような力を得ることができるのかということを考察してきましたが、ここで一つの疑問が浮かび上がってくると思います。
「異年齢集団において、個々の発達は保障されるのか?」と。
塾長は「異年齢」ではなく、【縦割りではない異年齢】を提唱しています。それは、発達の異なる子どもを一緒にしたり合同にしたりする、ただの「異年齢」ではなく、生年月日や月齢という刷り込みを取り払い、子ども一人ひとりの発達と保育の狙いに応じて集団や関わり方を変え、個々の発達をきちんと保障するといった柔軟な「異年齢」です。その代表的な環境として、0・1歳児の、年齢で部屋を分けるのではなく、「発達で空間を分けていく環境」があり、同時に「発達の少し上の子どもの姿も目にすることができるという環境」の構成があります。これは、発達の差が激しい乳児期だからこそ必要であり、作ることができる環境でもあると仰っていました。環境に子どもを合わせるのではなく、子どもに環境を合わせていくという、保育とは“子どもが主体”であることを再認識させてくれる分け方でもあります。
また、3・4・5歳児の異年齢では、異年齢で無理矢理遊ばせるのではなく、広い幅の中から遊び相手も自分と合った友だちを選ぶことができる環境でもあり、そこでも、あくまで“子どもが主体”であることが感じられます。そして、子どもは自ら自分の発達に合った環境を選んでいるという前提のもと、「習熟度別保育」「選択制」「順序性選択」といった方法があり、自発性・主体性を妨げることがない環境が、【縦割りではない異年齢】にはあるのです。
つまり、異年齢とは、年齢の異なる子ども同士を関わり合わせることで、このような利点があるよという「目標」ではなく、個人差や発達差に対応するため、子どもの発達保障を目指す【保育方法】であったのだと感じました。なので、ただ異年齢にすればいいということではないのです。そして、塾長は「子どもを直接見て保育をすることが大切である」と仰っています。異年齢とか年齢別とかの枠組みにとらわれるよりも、刷り込みを取り払い、発達の連続性を踏まえ、ひとりの子どもが今何が出来てどの発達過程にいるのか、次の発達のための環境をきちんと保障できる保育が行えているのかということを【縦割りではない異年齢】を通して、念を押して保育界に訴えていたのだと感じました。
すべては、『個々の発達を保障するため』であったのです。
(報告者 小松崎高司)
普段行っている保育をこのように整理することで、当たり前過ぎて見落としていたことや、もっと配慮が必要なこと、意識が薄れていたことに気づかせてもらえます。小松崎さんのようにこうやって丁寧に見守る保育を理解し、考えていくことはとても大切だなと私自身にもそれは必要だなと思いながら読ませていただきました。「すべては、『個々の発達を保障するため』であったのです」という言葉にハッとさせられました。いくら異年齢、見守る保育をしていると思っても、手段が目的になってしまっていては意味がありません。やっている感で満足してしまっていては意味がありませんね。自分自身、そんなことがないかと考えさせられました。誰のための保育であるのか、何を目的とした保育の方法なのか、再度見直すことも必要なことだなと思いました。
とても勉強になります。今だに年齢別にクラスを分けて保育を行っている保育園が多くあります。個々の発達を保障しようと思うと結果的に異年齢になるという考え方が浸透することで、どれだけ子ども自身も、保育者も楽になるかということをぜひ感じてほしいです。
何より、それを考えることこそが、保育に携わるものの仕事ではないかと感じるところです。子ども達の為に、良いものをどんどん取り入れて変わっていく柔軟性を身につけていきたいです。