年少児同士がケンカをしています。原因は些細なことです。しかし、その子どもたちにとっては大問題であり、大きな事件です。その問題を適度な距離から見ることができるのが、一つ二つ発達の進んだ子どもではないでしょうか。大人は、その部分が多大な月日によって風化されたことで、距離を取りすぎたり近すぎたりに力を注ぎ、時にはその丁度良さを見失うこともあります。しかし、一つ二つ先にいる子どもたちはその経験をついこの前まで経験しています。つまり〈現役〉です。現役の子どもたちが、一番その子どもたちの気持ちに寄り添うことができると期待し、「Sちゃん、○○君と○○君がケンカしているんだけど話聞いてあげて」と伝えました。年中のSちゃんは、「え、いいよ。」と頼りにされる嬉しさと、もうすぐ年長児になるという自覚の中にある少々の不安が入り混じったような表情を浮かべながら、年少さんたちを話し合いの場に連れていってくれました。
数分後、Sちゃんは仲の良い友だちと別の遊びをしていました。「あれ・・話し合いは大丈夫だった?」と聞くと、「うん。あとは自分たちでやるだって。」と返ってきました。
しばらくすると、ケンカをしていた子どもたちのブロックで何を作ろうかと相談する声が聞こえてきました。初めはお姉さんに話をまとめてもらってここからは自分たちでできると思った年少の子どもたち。物事を収拾させて、あとはこの子たちでできると判断して潔くその場を離れたSちゃん。どちらも敬服します。
出会いと別れを告げる桜の季節が今年もやってきました。散る運命に儚さを思い浮かべると同時に、その姿から受粉戦略に基づく次世代への“つながり”をも感じさせます。年長児が卒園します。でもきっと大丈夫です。Sちゃんのように、年長児の人格はしっかりと伝承されています。そのような人格継承から、「人が人を育てている」ということを強く感じます。あとは、いかにそれを日常に落とし込むかです。
遠くの方では、共感と寛容を生み出す多くの壁と、懸命に向き合っている子どもたちの声が今日も聞こえてきます。
(報告者 小松崎高司)