子どもたちは、子ども時代を何のために生きているのでしょうか。
三年前、以前勤めていた保育園で「子どもらしさ」について考えることがありました。いわゆる、「元気に走り回っている」とか「大声で歌っている」とかではない、子ども時代を謳歌している姿とはどのような姿なのであろうかと思っていました。そんな時に目に止まったのが、ある女の子の水遊びをしている姿でした。私はその象徴的な姿に衝撃が走り、このような記録を残しています。
以前、生きるための目的は“遺伝子を残すこと”であるということを学びました。では、遺伝子を残すことが人類の目的であるとすると、なぜ、「大人」に直接いかず、一見遠回りであるかのようなの「子ども時代」を作ったのでしょうか。その時代に、遺伝子を残すための重要な体験をする必要が、遠回りをしてまでもあったということかもしれません。遺伝子を残すということは、時間と必要な体験が必要不可欠であったことが予想できます。その中でも、「必要な体験」というのは何だろうと考えた時、上の写真の子どもの姿が思い浮かんだのです。
大人から見ると笑ってしまうような光景なのですが、その子どもにとっては真剣そのもののようです。その子どもは、真剣にバケツを頭からかぶり、自ら視界を遮り、真剣にチューブをくわえているのです。(その真剣さが大人をユーモアの世界にいざなうのでしょうが…笑)まさに、ありのままの好奇心に瞬時に向き合い、自らの働きかけによって物事の道理やなどを理解していく過程であるかのように映ります。塾長はこう言っています。「遊びの目的には、それが子どもの自発的な遊びにしても、ある目的があります。それは、生きていくための学びが遊びにはあるからです。」きっと、この真剣な遊びにも生きるための目的があり、大人になるための準備が含まれているのだと思います。
「なんだろうな」「面白そう」「やってみよう」「楽しい」
好奇心という動機によって行われる様々な体験が、遺伝子に蓄積されてきたひとつ一つの能力の種のようなものに水がまかれ、その種が各々成長していくといった、そのようなイメージが「子ども時代」にはあります。つまり、好奇心を刺激させる環境、好奇心を妨げない環境というのが、子ども時代には必要であり、同時に「大人になるための準備」なのであると感じます。
そして、遊びや好奇心の先には、必ず「他者」がいるようにも感じています。ここでいう他者とは別の「子ども」の場合が大半です。上の写真でも、小さく紹介されているように、バケツをかぶっている女児の姿を見た別の男児が、同じようなマネをして自ら関わろうとした写真があります。そこで、大人になるための準備として、好奇心を駆り立てているであろう『異年齢』に注目しました。同じ発達・同じ考え・同じ行動があるだけなら、写真ような姿は生まれないのではと感じます。発達の異なる“子ども”という「他者」の存在から、「発達の幅」「多様性」「能力の定着」という三つの観点から、『異年齢』についての考察をしていきたいと思っています。
(報告者 小松崎高司)
「序章」「三つの観点」とあり、これからの展開を想像させる表現で、なんとも楽しみであります。外見は大人になった私も時折、「なにやってんの?」と言われたり、自分でも何してるんだろうと思うようなことをしている時があります。その行動はやってみたくなったからついついという行動ではあるのですが、どこかその仕組みを知ろうとしている行動でもあるのかなと自分を見て思うことがあります。子どももまたそうですね。大人にとっては都合の悪いことでも、決して子ども自身、悪気があってやっているわけではない行動があります。そんな興味に動かされた高度は物事の理を知ろうとしていたり、小松崎さんの言われる大人になるための準備でもあるのかもしれませんね。そんな視点で子どもの行動を楽しく見れるような気持ちは大切にしたいなと思いました。
すごいテーマに取り掛かられていくようですね!小松崎先生の報告を読むと子どもの見方、子どもへの眼差しというものが、ふくよかになっていくようなそんな気持ちになります。僕と同期にあたる新宿せいが保育園の女性職員も、「小松崎先生の考え方は本当にすごい」と、先日言っていましたよ。連載になるのでしょうか、とても楽しみにしています!