実習日誌①

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 保育園には定期的に実習生が来ます。先日、私がいるクラスにも実習生が来ました。実習生は「実習日誌」に保育を記録していきます。また、保育士は「実習指導者欄」に助言という形で記入し、実習生の保育を振り返ります。その度に、自分の保育も振り返っていることに気づき、自分も「実習生」であったことを思い出します。当時を思い出すと、その期間で多くのことを学びました。そしてこう思います。
 
「どうしてそんなに学べたのか?」
「良い学びには何が必要なのか?」と。
 
 もちろん、その園が素晴らしかったということに尽きるのですが、その原因を私なりに振り返ってみたいと思います。
 
 『子どもたちの日々の生活や様々な保育環境から、子どもの本質を認識し、これからの子どもたちにとって何が大切なのかを、実習中の体験をもとにして理解し、常に子どもが自発的に活動できる環境の一部になれるよう、子ども社会への介入のしすぎに注意しながら、心にゆとりが持てる保育方法を学びたいと考えています。具体的には、活動に応じて編成される子ども集団の様子や、順序性・選択性の保育、また、習熟度やチーム保育などを子どもの様子や保育者の意図を考え、ふまえながら貴園の保育に関わり、子どもの本質や求められている子どもの将来像を感じとりたいと思います。』
 
 上の文は、私が大学4年の時、保育所実習をした時の実習日誌内にある「実習生がこの実習を通して学びたいこと」という欄に記入した文です。これを記入した時の心境を思い出してみると、“学ぶ意欲”に満ちあふれていたように思います。それもそうです。何もかもが新鮮で、ある意味自分の想像を遥かに超えた現実がそこにあったからです。その園の存在を知った時、大学側に「ここで実習がしたいです。」と頼み、自分で実習のアポイントをとりました。人を寄せ付ける魅力がそこにはありました。何よりも、「楽しそうだなぁ」と感じたのが行動に移せた最大の要因であったと思います。
 
 良い学びにするためには、まず自分に「学ぶ意欲」があること、そして「保育者の思い」を知ろうとすることが必要だと思います。それは、「興味関心」や「探究心」でもあり、同時に実習生にとっては「指導される力」でもある気がします。それは、だた言われたことだけすればいいというものではなく、真摯的に取り組んで疑問に感じたことを聞く姿勢であるように、教えてもらう人と“学びの対等”を図る行動のように感じます。
 
 異年齢保育の良さに、発達の異なる者同士が「刺激を受け合う」ということがあると思います。年齢の違いではなく、できる子どもがそうでない子どもに教えてあげる行為から、相手から新しい刺激を受ける側と、相手に教えようとすることで自分の考えを整理してどうすればうまく伝わるのかを考えようとする側との相互間に学びが存在することを両者が理解することで、その機会が素晴らしいものになる気がします。立場は違えど、学びは対等であるべきです。
 
 実習におけるそのような過程を自分はどう感じていたのかなどを、現在保育現場で働いている私と、実習をして実習日誌を書いていた大学4年である当時の私から読み解いていきたいと感じます。
 
実習日誌
懐かしの実習日誌
 
 
(報告者 小松崎高司)

実習日誌①」への2件のフィードバック

  1.  考えてみれば当たり前のことですが当時から小松崎先生は小松崎先生なのですね。その思いや文章の言い回しは現在の先生をしっかりと彷彿させるものです。自分が実習生だった時を思うと雲泥の差、熱心に学業に専念されていたことが伺えます。素晴らしいですね。
     当時の先生を振り返る形で、今の実習生の心情を理解しようとされる試み、とても新鮮です。今後の報告に期待してしまいます。

  2. 「指導される力」とありました。自分が実習生だった際に、果たしてこの力があっただろうかと疑問に思いました。これはきっと、実習生だけではなく、保育者同士の関係でも大切なことなのかもしれませんね。一緒に学びたいと思える存在の人は興味関心が強く、なぜ、どうしてと考える人なのかもしれません。そんな疑問が湧いた時に、「よし、一緒に考えよう。やってみよう」という雰囲気があれば、実習生にとってはとても学びの多い経験ができると思いますし、それは共に働く職員でも同じことなのかもしれません。実習生の学びをサポートし、共に学んでいこうという姿勢を持っていたいなと思いました。形式的な実習日誌の書き方どうでもなく、学びある実習にするためにそうしたらいいのか一緒に考えていける存在になりたいなと読んでいて感じました。

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