桃ちゃん(桃色の服を着た3歳児クラス新入園児の女の子)は紺ちゃん(紺色の服を着た5歳児クラス女の子)の気を引きたい気持ちからか、はたまた単純に紺ちゃんの使っていた玩具(リモーザ)を使いたい気持ちからか、入れ物を持ってその場所から離れていきました。
その場所へ紺ちゃんとこのやりとりに興味をもったジープくん(車の柄の服を着た5歳児クラス男の子)が近付いていきます。
笑いながら「来ないでー。」と桃ちゃん。表情も声も嬉しそうです。
「来ないでだって。」「どうする?」と作戦会議(?笑)が始まりました。
取られた玩具のことについて怒ったり、きつく言いに行ったり、ということではないのですね。桃ちゃんとの関わりが楽しくて、また、嬉しくて仕方ないといった様子です。
「貸してって言ってみればいいんじゃん?」「そしたら貸してくれるんじゃん?」
との方向で話がまとまり、早速。
「貸ーしーて。」「はい。」
「言ったら貸してくれるよ!」「大丈夫だよ!」(笑)
脇で見ていた皆も「貸ーしーて。」「はい。」
「もう1個貸ーしーて。」「はい。」
11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年1月7日『教える、教わる』の中でこう書かれています。
〝エリクソンは、「子どもの所属している社会や文化圏で、社会的に期待される活動を、自発性を持って、習慣的にどれくらい営めるか」ということを学ぶことが必要だと言っています。そのために「そういうことが十分身につくためには、仲間と道具や知識や体験の世界を共有し合わなければならない。」といいます。また、彼は、仲間と道具や知識や体験の社会を共有し合うということは、「友達から何かを学ぶこと、友達に何かを教えること」だと言うのです。こういう経験をどれぐらい豊かにするかどうかということが、子どもの勤勉さを育む上で重要な要件であるとエリクソンは言っているのです。
ここでは、最近の子ども環境の問題点が見えてきます。それは、少子化、地域社会での連帯の欠如などの環境から、子どもどうしの世界が失われ始めています。学校においても、授業形態は、多くの時間、教師という大人からの伝達が多くなっています。今日、様々な子どもたちは、大人からしか物を学んでいないところが顕著だと言われています。エリクソンは大人から物を学ぶことに価値がないとは一切言っていません。それは勿論価値のあることですし、大切なことです。しかし、乳幼児から児童期の発達課題を十分に消化していくために不可欠の要件というのは、「友達から物を学ぶことであり、友達に自分の物を分かち与える」ことなのです。こういう経験を十分しなければならなくて、内容よりも量が大切だということも言っています。どれくらい多くのことを友達から学んだか、どれくらい多くのことを友達に与えられたかということが大切であるとエリクソンは言っているのです。〟
取られた玩具について自分のものだというような主張よりもむしろ譲ってあげて、〝この玩具は桃ちゃんの玩具〟という見えないルールを敷いてあげることで、桃ちゃんも安心して関われることができたのでしょう。玩具という道具を媒体にして、〝貸し借り〟という遊びを思いつき、その遊びの中で子ども達は時間を、その世界を共有しているように思えました。
そして何より、このやりとりの最初から最後まで、大人が一切入っていないということに、改めて驚きと感動を覚えます。子ども達は子ども達の純粋な〝どんな子なんだろう?知りたいな〟というような関わってみたい欲求、友達に自分の玩具を譲ってあげ、分かち与えることで何か得られるものがあるのではないかという好奇心、そのような感覚からこのやりとりを生み出しているのでしょう。
左下ご覧ください。このやりとりが始まる前にはこれだけだったプレートが、
「オレンジも貸して。」「緑も貸して。」「あ、青も貸して。」
借りに借りて(笑)
完成しました。
紺ちゃんもジープくんも大満足の様子です。
ここでこのやりとりは一旦終了。さて、桃ちゃんの様子を見に行くと、
こぼしてしまったのですね。
いつもはこういうものをめったに拾いに来ない女の子(3歳児クラス)が来てくれていました。
「はい、どーぞ。」
「拾ってあげるからね。」
桃ちゃんも一緒に拾い始めます。
二人だけで全部片付けて、
おままごとのような、お料理をつくるような遊びに発展させていました。
一つの玩具、遊びを通して関わり合い、たくさんのドラマが生まれています。今日もまたそんなドラマを探しながら、保育を楽しみたいと思います。
(報告者 加藤恭平)