日常の中に

このエントリーをはてなブックマークに追加

先日、朝の受け入れの際に母親を後追いする1歳児がいました。すると、ある1歳児が手に持って遊んでいたマッサージ玩具を「どうぞ」といったようにその子に渡そうとしたのです。そこに、悲しんでいる子どもの姉がやってきました。姉は、妹の気持ちを受け止め抱きしめると、すかさず玩具を持ってきてくれた子どもの気持ちも理解して、その玩具を受け取ります。そうしている間に妹は姉に読んでほしい絵本を持ってきて、「読んで」とせがみ、姉は、妹と玩具を持ってきてくれた子どもに向かって読み聞かせを行っていました。2人も楽しそうに聞き入っていました。

玩具を渡そうとしている

玩具を渡そうとしている

お姉ちゃんが来た

お姉ちゃんが来た

玩具を姉に渡す

姉が玩具を受け取る

3人で絵本

3人で絵本

別の日には、ある1歳児が、つなげたブロックを電車に見立て、床を走らせていました。すると、その遊びが魅力的に映った別の1歳児が、それが欲しいとせがんできました。しかし、自分で作った電車ですからそう簡単には渡せません。しばらくすると、渡したくないので逃げる子と、それを使いたいと追う子の“追いかけっこ”が発生してしまいました。これは、周囲で遊んでいる他児にも影響ができるなぁと思っていた職員が、「◯◯君が作ってあげれば?」という一言を発しました。すると、逃げていた子が立ち止まり、追ってきた子に向かって「ほしい?待ってて。」と言って、その子のために同じような物を作って渡してあげていました。別の子どももやってきては、その子に作ってもらい、結果、3人で一緒に床を走らせて楽しんでいました。

作ってくれているのをじぃーと見ている

作っている様子をじぃーと見ている

上記2つの事例は、対人知性で重要な「この人の動機は何か」「あの人はどう動くだろうか」「皆と協調して動くにはどうすればいいのか」といったことを学んでいるシーンでもあると感じています。「他者がなにを考えているのか、何をしようとしているのかを、他者の行為を観察して」それに見合った行動を自らしようという経験をしています。集団の中にいる子どもたちを見ていると、それが日常の至るところで行われているのだと思います。それらに気づき、科学的な知見に基づいて保育を考えていくのも楽しいですね。

番外編

電車好きのある1歳児が、他児が使っている電車の玩具が欲しいと訴えていました。近くを見てみると、それと全く形・色の同じ玩具があったので、玩具を取られそうになっていた子に渡して、それをその子に渡すように促しました。大抵の場合、それで解決するのですが、今回はそうはいきませんでした。どうしても、他児が使っている玩具が欲しかったのです。みなさんは、その理由が思い浮かぶでしょうか?私自身、「なんでこれに固執するのだろう…」と思っていました。すると、同じクラスのある職員が「あ、新しいんだ!」と言ったのです。一瞬「?」でしたが、両方を見比べると、確かに同じ物なのですが、「使い古した電車」と「真新しい電車」という違いがあったのです。

古いやつ

古いやつ

新しいやつ

新しいやつ

大人は、「きれい」「格好良い」や「汚い」「格好悪い」といった清潔やその他に関する事を、子どもに知ってもらうために何度も言い聞かせたり、時には大変な思いもしなくてはならないと思っているかもしれませんが、子どもは1歳にしてそれらを理解しているということのように感じました。その面に対して、子ども自身にとっての優先順位が大人の思うところよりも低いだけであり、その優先順位が変わってくる事が成長の証として感じ取れる部分でもあるのかなとも思ったのでした。

(報告者 小松崎高司)

日常の中に」への1件のフィードバック

  1. お姉さんが、妹だけではなく、おもちゃを持ってきてくれた子の存在にも気がついていて、妹だけではないその子に対しても気を配っているように感じられるとてもいい場面ですね。『対人知性で重要な「この人の動機は何か」「あの人はどう動くだろうか」「皆と協調して動くにはどうすればいいのか」といったことを学んでいるシーンでもあると感じています』とありました。子どもたちの関係の中でこのような対人知性を感じるためには、まず大人が子どもや他者に対してこのような姿勢を持っておかなければいけませんね。電車の話で、子どもの気持ちに気がついた職員さんの言葉がありましたが、園全体がこのような姿勢で子どもたちを見ておられるということを感じました。自分はどうなのか。内省します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です