先日、3・4・5歳児クラスの職員と話している時、こんなことを言っていました。今年度初め、定員が増えること・職員が慣れていないこと、子どもひとり一人をしっかり把握することなどを目的に、子ども集団の規模を狭め、一時的に年齢別で保育を行おうとしたが、結果的に、子どもが落ち着かなかったという姿があったそうです。その様子を見て、異年齢集団へと変えてみると、次第に子どもの姿が変わり始め、熱中して遊び込めるようにもなり、全体が落ち着いてきたのだと話していました。
いったい異年齢集団の何が、子どもをそのような姿に変えたのでしょう。
塾長は、異年齢のメリットとして『教え、教わるという体験をするとか、年長児の行動を見て真似たり、あこがれたり、お互いに刺激を受けるということ』をあげられます。つまり、このような、「教え、教わる」といった子ども同士による関わりが、集団をまとめ始めたといっても過言ではないと感じます。本来、職員が必要な場面であっても、その部分を発達が上の子ども、あるいは、発達が下の子どもの存在によって、“カバーされた”、足りない部分を“補い合った”という姿につながったのだと思います。
発達の異なる者同士が関わることにより、互いの能力を刺激し合い、補い合うといった姿は、一度、目を外に向けると同じ光景が広がっていることに気がつきます。それが、「社会」です。塾長の『異年齢でのかかわりは、遊ぶときだけでなく、大人になるときの準備に必要なことなのです。教育基本法の目的である平和で民主的な社会の形成者としての資質を備えることであるならば、社会という異年齢集団でのかかわりのために、子どもの頃から異年齢で過ごす体験が重要になるということは当然でしょう。』という言葉の意味が、深く理解できますね。
これら「教え、教わる」経験を可能にしたのは、異年齢という「発達の幅」であると感じています。確かに、年齢別集団であっても、4月から3月という1年の幅のある集団です。しかし、3・4・5歳児クラスの異年齢には、3年の幅が存在します。その幅の広さは、「教え、教わる」経験の幅も3倍にし、他者から得る刺激も3倍になるのではないでしょうか。また、その環境というのは、大は小を兼ねるという発想のように、同年齢でストレスなく楽しく遊ぶのか、それとも少し発達の上の子どもの遊ぶ姿を見て刺激を受けるのか、それとも、発達が下の子どもに教えてあげるのかということを、子ども自身が状況によって選択できる環境であるとも言えると思います。
塾長の『0・1・2歳児の保育』という本にも、【遊ぶときは発達が同じくらいの相手を選ぶ】【マネをしようとするときは発達が少し上の相手を選ぶ】【教えてもらう時は発達がもう少し上の相手を選ぶ】という経験を自ら選び、“赤ちゃんは人を使いこなしている”ということが書かれています。自分に必要な能力を自ら選択しているということは、その選択出来る範囲を少しずつ広げてあげるのも、私たちの役割であると思います。そのためにも、3年という「発達の幅」が必要になるのではないでしょうか。
(報告者 小松崎高司)
まず、一時的に年齢別で保育を行おうとしたということに驚きました。このような柔軟な対応はいいなと思います。固定観念に縛られない考え方があるからこそ、様々な対応策が考え出され、実践されることで、より洗練されたものが生まれていくのでしょうし、また、そのような雰囲気があることで、様々な問題に対する解決策がうまれてくるように思います。考えたことを実際に活かせる場、雰囲気が子どもの環境には大切ですね。異年齢での生活の良さはたくさんありますね。様々な人との関係を経験することで、自分の中にたくさんの引き出しとなる、関わり方、対処の仕方、などなどの生きる力を培うことができますね。様々な人の中で自分はどう生きていくか、大人になって迷うこともありますが、小さなうちからそんな感覚を経験するのは大切なことですね。
異年齢集団で行われる保育がどれほど有益なものであるかを再確認するような報告です。僕は他園に勤めた経験がありますが、年齢別保育を行っている保育園は、子どもが落ち着かず、それに加えて一斉に何かをするような保育形態に為らざるを得ない為、子どもにも大人にもとても厳しい環境になる、というような印象があります。それは、年齢別に分けることも、一斉に何かを行う日々を送ることも、真に子どもを理解した上でのものでないということを、子どもたちがその姿で僕ら大人に示しているように、感じるのです。