秋になったことを実感させるものは多くあります。「秋の味覚」というように、秋ならではの「柿」や「栗」などを実際に食したり、朝夕の空気に冷たさを感じて半袖を長袖にしたり、秋の空に現れる雲の代表である、鳥の羽のような「巻雲」や、うろこのような「巻積雲」などを見た時、『秋』を感じることができます。このように、身の回りの様々な情報で季節が変わったことは理解できますが、『季節が変化している過程(途中)』を見る機会がなかなかないことに気がつきます。つまり、今で言うと「夏の名残」と「秋の始まり」の両者が存在しているものということです。先日、その両者の存在が相まみえている姿を、「紅葉」から見ることが出来ました。
- 移ろいゆく園庭のハナミズキ
秋の魅力のひとつに「紅葉」があげられます。園庭にあるハナミズキも紅葉をし始め、葉がほのかに赤みがかってきました。面白いのは、一枚の葉の中に緑・黄・橙・赤など、4種類もの色が入っていたことです。そのような発見を、一刻も早く子どもに伝えたいと思っていると、すでにその葉を使ってままごとを楽しんでいる子どもたちの姿を見つけました。「すごい、一枚の葉の中にいろんな色があるね」という言葉をかけようと思っていると、「先生見て。きれいでしょ!」と、子どもが葉を見せながら言ってきました。「きれいでしょ!」という言葉の中に、全てが詰まっているように感じたこと、また、伝えたかったことが子どもたちは遊びを通してすでに体験していたという点に、先をこされた感と子どもの自然に対するアンテナに驚きと共感を感じながら、「ほんとだ。きれいだね!」としか返せませんでした(笑)。
- ハナミズキの葉を団子の皿に使ったままごと
このように、季節に「移ろうもの」があるように、人の表情にも「移ろうもの」があると感じています。よく目にするのが、不安から高揚という移り変わりです。「どうしよう」→「できるかな」→「やってみよう」→「できた!」という、不安から高揚という過程を経た瞬間の表情からも、まさに紅葉し始めている葉のような美しさを感じます。便利さによって、完成されたものだけが目に映りやすい時代であるからこそ、その過程に起きている小さな物語を敏感に感じとっていくことに、大きな意味があるのかもしれません。そして、重要であると思ったのが“そこにハナミズキがあったこと”です。紅葉という環境によって、子どもに「季節」「自然の不思議」「色」などへの興味関心を育むきっかけとなることを意図して環境を構成していくなど、そういった姿勢が大切であると感じました。
塾長のブログの「ハナミズキ」の回には、『樹液が多いことから「水木」と呼ばれ、花を愛でる水木なので「ハナミズキ(花水木)」といいます。ミズキに聴診器を当てて聞いてみると、幹から水の流れる音がすると聞きました。ミズキやハナミズキの枝を切って、そこから水が出てくるのを見せ、木も水を飲んでいるということを子どもに知ってもらうのもいいかもしれません。』と書かれています。ハナミズキ一つからも、多くのことを学べますね。
(報告者 小松崎高司)
春夏秋冬と四季があり、一年を通して季節は移ろいます。見事だなと思うのが、「はい。10月になりました。ということで…秋です!」というように極端に環境が切り替わる訳ではなく、日に日にゆっくりと、でも確実に季節が変わっていくことです。少しずつ気温が下がり、少しずつ木々の色が変わり、空気が変わり、虫の種類などが変わっていきます。そのゆっくりと、でも着実な変化があるからこそ、自然の変化に私たちの体もついていけるのかもしれません。何かが変わることは今まで慣れていた状況を捨てるということでもあるのかもしれません。それを憂鬱に感じるのではなく、楽しさやわくわくといった好奇心として子ども達に示せるような存在でありたいなとブログを読んで感じました。とても感慨深いブログで、小松崎さんの思考にも触れ、また勝手に好意を抱いてしまいました。
もりぐちさんのお気持ち、わかります。
とても洗練された内容もさることながら高揚と紅葉をかけているところも流石小松崎先生ですね。落語家さんやMr.Childrenの桜井和寿さんを連想してしまいます。言葉あそびが本当に上手で引き込まれてしまいます。
しかし、秋は時々、まるで夏かと思う程に暑い時がありますね。今日も半袖の人が多い通勤電車に乗っています。だからこそ、季節の移り変わりを、道端の自然や何気ないものから感じることが大切なのかもしれませんね。