塾長のブログに、このような事が書かれていました。
【新聞全面広告に、こんな言葉が出ていました。「口でよく読み、目でよく見、心で理解することを、読書三到といいます。」最近は、この言葉は、あまり聞かなくなってきました。読書は、江戸時代以降、活字文化が主役になりました。寺子屋時代は、「読書三到」が国語教育の中心だったようです。読書三到(どくしょさんとう)という意味を広辞苑ではこう書いてあります。「読書の法は心到・眼到・口到にあるということ。すなわち、本をよむときは心・眼・口をその本に集中して、熟読すれば内容がよくわかることをいう。南宋の朱子が主張した読書の際の三条件。
心到=心を本に集中させる
眼到=目を本に集中させる
口到=声に出して本をよく読む
『 到 』は徹底的におこなう意。」
『訓学斎規』読書写文学では、こう説いています。
「読書に三到有り。心到・眼到・口到を謂う。心ここに在ざれば、すなわち眼子細を看ず。心眼すでに専一ならざれば、却ってただ漫浪誦読(まんろうしょうどく)し、決して記する能わず。記するも久しきこと能わざるなり。三到の中に、心到最も急なり。心すでに到らば、眼・口あに到らざらんや」(心が集中していなければ、眼もおろそかになり、口誦しても覚えられない、心が集中していさえすれば、眼と口はついていく)とあるように、特に心到が大切であるという考えです。
しかし、私は、もう一つあると思っています。それは、「耳到」です。いわゆる「読み聞かせ」の大切さです。「耳をよく傾けて本を読む」ことで、内容がより深く理解でき、話の主題により迫ることができると思います。】
この文を読んで、乳幼児期の「耳を傾ける経験」が重要であると感じましたし、きっと、「自分から耳を傾ける経験」という意味なのだなと思いました。その“自発的に”という要素が入らないと、「耳到」と同じく大事な「心到」も生まれてこないようにも感じます。自ら耳を傾け、人の話に興味を持つことは、「聞く力」を育み、他人とのコミュニケーションを支える力となります。そう考えた時、子どもたちはいったい何に耳を傾けているでしょうか。1歳児の保育園での一日を振り返ってみると、所々で生活の流れを促す際の大人(職員)の声を聞いているにしても、自発的にという感じではないですし、1日の中ではほんの一部分です。昼食時、リーダーの先生は、数人が机に来ると「読み聞かせ」をしています。その声に反応して、遊びの空間から自ら歩いてその話を聞きにくること等はありますが、これも1日の中ではほんの一部分です。では、いったいどこで?何に?と思った時、このような姿を見つけました。
子どもたちは遊びを通して、他児の声や話に自発的に耳を傾け、一日を過ごしていることに気がついたのです。つまり、子ども同士の関わりが「自発的に耳を傾ける経験」をさせているのではないでしょうか。このような経験によって、相手の話す「内容がより深く理解でき、話の主題により迫ること」が可能になり、聞く力が身に付き、コミュニケーションを支えていくのだと思いました。見守る保育の特徴として「乳幼児同士の関わり」があると思います。それを大切にしようとする機会は、子どもたちに自発的な「耳を傾ける時」を保障しているような環境でもあるように感じたのです。
(報告者 小松崎高司)
自分の意見を言えるというのもとても大切な力です。ですが、人の意見も聞くというのも大切な力ですね。ただ、聞くのではなく、それを受けてどう考えるか、どう自分の意見を変えていくのかという経験をたくさんの子どもの中で、集団の中で子どもたちには体験してほしいと思っています。小松崎さんの報告にもありましたが、子どもが他の子と関わるということはその子に興味を持っているということで、それは耳を傾けるという行為でもあるのかもしれませんね。他の子に関心が向く、相手の気持ちを想像できるという力を育むことは同時に聞くという力を育てているように思いました。