能力の定着 —異年齢—

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異年齢集団という「発達の幅」や「多様性」が存在する環境によって、子どもたちは大人になるための準備をしています。大人社会には様々な発達や異なりが存在しているわけですが、そのような中で、社会に適応し、必要な力を携え、自分を表現し、その力をいつでもどこでも使用できるようにしなくてはいけません。その上で最も重要な行程でもあると考えているのが、「能力の定着」です。その過程が自然発生的に生まれるのが、「異年齢集団」でもあるのだと思います。

塾長は「教えることにより能力を定着させる」「学んだことを様々な方法で表現し、人に伝えようとすることは、知識を構築するうえで非常に役に立つ」と言っています。そこからは、他者から“教わるだけ”であっては自分の力にならないこと、教わったことを別の他者に“教える”場が必要であるということが読み取れます。そのため、「教え・教わる」経験を重要視しているのですが、なぜ「教わる→教え」ではなく「教え→教わる」であるのかということを考えてみました。能力を定着させるため、まずは、他者から自分にはまだない能力を“教わる”必要があるのだと思っていました。それがあって初めて、模倣からの“教え”があり、能力を定着させていくのではと思っていたのですが、最近の塾長ブログや研究などでは「赤ちゃんは教えたがり」とか、「赤ちゃんは能動的」であることが報告されています。その部分から考えてみると、子どもは生まれながらにして「教わる」よりも早く、「教え」ようとしており、そういった行動が前提にあることで「教え→教わる」につながる気がしたのです。

先日、1歳児が、以前報告でもあげたコマをクルクルと上手に回していました。その様子を0歳児がじっと見つめていたのです。その「見られている」気配を感じ取った1歳児は、さらにコマを回します。まるで、「ほら、すごいでしょ!」と見せつけるかのようです。0歳児は、それでもじっと見つめています。次第に、自分でも触ってみたくなったのでしょう。ハイハイで近寄ってきては、その回っているコマを止めてしまいました。

「見ているよ」

「見ているよ」

「触ってみよう」

「触ってみよう」

1歳児はというと、その姿を見て「いいよ、やってごらん」といった感じに、コマを譲り、別の場所へ行ってしまいました。0歳児はというと、1歳児のマネをして手や指を動かして、コマをなんとか回そうとしていたのです。これらは全て非言語コミュニケーションで行われているため、本当の意味や感情は分かりませんが、私は、この一連の流れから、0歳児は「教わる」よりも先に、じっと対象者を見つめ“あなたを見ています”といったことを「教え」ていたのだということを感じました。

「難しい…」

「難しい…」

去年度のある日、5歳児が園庭にある網状の遊具を上手に登っていました。その姿を1歳児がじっと見つめていました。5歳児は、時折その1歳児の方をちらっ、ちらっと見ながら登っているのです。明らかに1歳児を意識して登っています。5歳児がそこから降りた後、1歳児もマネをするかなと見ていると、自分にはまだ難しいということを理解しているのか、何事もなくその場を立ち去っていきました。ここから、“見られる刺激”という「見ていることを教えられる環境」が、まず必要なのだなと思ったのです。そして、1歳児の脳内では、きっと「見る」という能力の定着が行われていたのではと感じています。

見て・見られる刺激

見て・見られる刺激

発達が同じ者同士の関わりからでは見られにくい、コマの事例の1歳児であっても、遊具の事例の5歳児であっても、どちらも教えるという経験によって、“自分はこんなことができるのか!”と、自分の能力を知る機会にもつながっていくのだと思います。新宿せいが保育園では、毎年必ず“新人さん”を入れるようにしているということを聞いたことがあります。それは、子どもと同じように、幅の広い異年齢集団を構成することによって、新しい知識や価値観を取り入れ、さらに自分たちの能力を定着させるため、「教え・教わる」関係が自然に生まれるための環境を意図的に設定しているのではないかなぁと、今感じました。

(報告者 小松崎高司)

能力の定着 —異年齢—」への2件のフィードバック

  1. 私は学生時代、新人、後輩という存在をあまり感じずにきてしまいました。よくあるのが部活動だと思うのですが、私の場合、一つ下の学年の存在が中高とほとんどなく、年上の人や同学年で部活をしていたこともあってか年下の子や後輩にどう接していいのか分からないというのが本音でした。働き出してからも何年も後輩の存在がなかったですし、年上ばかりの状況というのは言い方は悪いかもしれませんが、気持ちとしては楽な部分もあったのかなと今までの自分を振り返って思いました。そんな私だったのですが、少し前に後輩という存在ができました。まだまだどう接していいか悩むこともありますが、その後輩ができたことで、自分はどうあるべきなのだろうかと今まであまり考えたこともないことを考える機会があり、ありがたいなと思っています。と、自分の話ばかりになってしまいました。『じっと対象者を見つめ“あなたを見ています”といったことを「教え」ていたのだということを感じました。』という視点は考えたこともない見方だったのでした。このように子どもの気持ちを想像しながら、子どもを見て、考えておられる小松崎さんの姿には唸ってしまいます。さすがです。私はそんな小松崎さんに教わっています。ですが、教えるということを考えた時に、例えば言葉で説明する場合にも私は「いや、まあ、だからそんな感じですよ!」と強引に乗り切ってしまおうとするところがあります。伝える、教えるというのは難しいなと思います。が、そこを雑にしてしまっては私の能力の定着になりませんね。最後まで自分の話になってしまいましたが、子どもの育ちをしっかり見守るためにも自分自身も成長していかなければと思います!

  2.  先日の『臥竜塾セミナー〜異年齢〜』でも紹介されていましたね。このような素晴らしい場面に出会えた時に、シャッターを押す準備というのが必要です。心算(こころづもり、漢字で書くとこういう時なのですね)が大切で、もしセミナーに向けて素材を集めている中での写真あるとしたら、〝準備のための準備〟が大切になってくるように思うのです。小松崎先生は、それが本当に上手い。内容はもちろんのこと、その手際のよさに感動してしまうのです。

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