以前新宿せいが保育園に勤めていた先生が実習に来られ、そこでの体験を論文かなにかにまとめた文章を聞かせてもらったことがありました。ちょうどその実習に来られた時はおたのしみ会といって劇や歌、合奏などを通して発達を見てもらう会がすぐありました。少し、クラスごとに練習をしている姿を見ていたそうです。その中での感想がとても素晴らしいものでした。各クラスのことをどのような感想を述べるのかと思っていたらそうではなく、
「年長組の練習はさすがでしたがそれ以上にそれを見ている年中組が熱心に見ていることが印象的だった」
とありました。
この視点というのは当時視野が狭かった私には非常に参考になるお話でした。今も狭いですが…
1年後自分が年長になった時こんな風にやりたい、こんなことが出来るんだという憧れのようなものがそこにはあります。子どもにとってその憧れや、やってみたいという気持ちはその子を主体的にできる一番の材料であるように思います。
現在の幼児クラスでもじーっと年長や同年代の子をよく見ていていきなり出来るようになっている子もいます。ずーっと見て自分の中で温めて出来ると思ったときにやってみるその自分の力量を知っている様は子どもが自分のことをよく理解している証拠でもあるように思います。
先日卒園式がありました。その卒園式には年中組も参加します。1度練習した際、年中組が年長組を見る眼差しはキラキラしているように私は見えました。ある子どもは親に練習の模様を事細かに説明していたそうです。きっと今度は私たちもやるんだという意識は少なからず持てたように思います。
その様子を見ることで、見ることと見ないことの差を大きく感じることができました。
年度末ということでそれぞれの学年が1つ上がります。
その中で年長から年中へ伝承されていくものがあります。その中の1つが新宿せいが保育園では雑巾がけです。
1年間年長の雑巾がけを見てきた年中の子たちは一体年長になったときにどんな雑巾がけを見せてくれるのか楽しみです。
見て学ぶというのは赤ちゃんから始まり大人になった今でも同じことだと思います。更に同じくらいの年齢から学ぶことは非常に多いようにも思います。
保育をしていく中で互いに刺激し合える環境というのを意図的に作っていくことをより意識していこうと思えました。
(報告者 本多悠里)
年上の子の様子をじっと見ている年下の子の姿は園でも見ることがありますが、いい姿ですね。様子を見ているその子は誰に言われた訳でもなく、自分の意思でその様子を見ていますね。それは能動的な子どもの姿でもあるのかもしれません。吸収スイッチオン!という感じですかね。そして、そこから見ている存在に対して、憧れの気持ちを持ったり、自分もしてみたい、自分だったらこうしてみたいなといろいろと思い描いているのかもしれませんね。そんな思いで溢れている子は毎日がとても楽しいものになるのではないかと想像しました。大人もそうかもしれませんね。
見て学ぶ、その環境が常に用意されていることにも、見守る保育の素晴らしさを感じるのです。最近は、その環境が保育者同士の中にもあるものであることを感じています。
新しい人が新しい新宿せいが保育園に仲間入りをしました。僕が今までに勤めたことのある職場で新しく入ってきた人に対して厳しい職場というのは、少なくありませんでした。見て学ぶというような心の余裕を与えてくれる間もなく、あれができないこれがだめ、このやり方は違うと動いても動かなくても怒られた経験があります。先日、新しく仲間入りをしてくれた職員と少しゆっくりと話す機会があり、聞いてみるととても笑顔で「仕事が楽しいです」と言ってくれました。僕もそうでしたが、保育者とはこうあるべきというような押し付けのない世界で保育をできることがこんなにも楽しいのだという、保育者冥利につきる経験を1年間たっぷりとさせていただきました。一緒にチームを組む先生を始め、藤森先生や多くの先生方の温かな支援、まさに〝見守る〟という姿勢の賜物であると、今改めて感じています。
この幸せを新宿せいが保育園だけでなく、多くの保育園、多くの職場で織りなせるような世の中になってほしいと強く思います。働く喜び感じられるように環境を整えてあげることも、先に入った人の大きな仕事の一つなのではないかと感じました。