前回の報告「寄り添うこと」で、どうして人は他者を思いやったり、他者に共感するのだろうかといった疑問が浮かびましたが、きっとそうすることで、他者を理解しようとしたり、その後に待っているであろう“楽しいこと”や“笑い合ったり”することのために、そうしているような気がしました。また、その共感の際、共通して見られる特徴があることに気がつきます。それは、「角度」です。
誰かが負の状態に陥った時や、何かを共有しようとする時など、他者はその人に寄り添うために、自然と首や膝の角度を変えようとします。その姿は、相手の表情を読み取ろうとしたり、相手と同じ視線や世界を共有しようとしているようにも映ります。その角度は、時には“心の角度”として表に出ていない時もあると思いますが、その思いを持つということは、人が他者と関係を持っていくうえで、非常に重要な要素でもあるのではないかと感じたのです。
塾長の最近のブログでは、生身の人同士の関わり、自分以外の他者との関係性欲求を満たすことが、将来、社会性を構築する入り口としても、また、生存に至るまでも、他者の存在は重要であると説われています。子どもたちが見せるその角度は、自分以外の他者と関係性を持とうとする代表的な姿でもあり、自ら生きようとしている姿でもあるように思いました。
先日、泣いている1歳児のもとにティッシュを持ってきた、同じクラスの女児の報告を書きました。最近、その女児がまた、ある男児が声をあげて泣いている姿を見ていたので、再びティッシュを持っていくのかなぁと様子を見ていると、その女児は膝を気持ち下げ、手を添え、その男児の表情をしばらくうかがっているのです。
そして、涙を出していないのを認識したかのように、頭をよしよしと撫でていました。1歳児でも、甘え泣きと本気泣きを本能的に理解しているのかなと驚いている時に、その様子を見ていた違う男児も、そのよしよしに加わっていました。そういった連鎖が、人と人の関係性をより強固に、そして定着させていくんだろうなぁと感じました。そう考えると、保育園が持っている可能性の大きさや重要性が浮かび上がってきます。私たちは、そのような人類の存続にも関わるような仕事に就いているのですね。
(報告者 小松崎高司)
保育園が持っている子ども集団内での子どもたちの関わりは様々な可能性を秘めていますね。泣いている子を見て、心配になり様子を伺うというのはまさにその泣いている子の気持ちを自分の気持ちと重ねている部分があるからなのかもしれません。子どもたちの関わり、関係性をしっかり見ることができると、その時の子どもたちの姿はどこにつながっていくのか、また自分たちは何を大切に関わらなければいけないのか、または関係を構築していかなければならないのかということが見えてくるような気がします。そのためにも、私も小松崎さんのような気づきができるように、子どもたちの姿にアンテナを張って見守っていきたいなと思います。
〝他者の存在の重要性〟をとても重要なことだと改めて感じさせる報告ですね。子ども達は本能的に知っている部分もあるのでしょうが、その重要性は大人になるにつれて、より重要さを増してきます。子ども達が本来持っているものをすくすくと伸ばしてあげることの大切さに改めて気づかされるような思いがします。
共感すること、相手を理解すること、相手に賛同すること、相手の話をうなづいて聞いてあげること、これらのこと以上に相手を尊重することなどないように感じています。よかれと思って自分の知識をひけらかしてみたり、相手のためを思って話しているように見せかけて、自分のウサ晴らしをしているようでは、本当にそれは未熟すぎます。小松崎先生は、寄り添うこと〝心の角度〟と表現されましたが、急角度では、寄り添えないものです。相手にぴったりの角度で接するからこそ相手も心を開けるのだと思います。その角度がすっとわかって、できる人間になりたいと、思いました。