私事ですが、
7月6日をもって、とうとう30歳になりました。
新宿せいが保育園に就職し7年が経過し、8年目に突入しました。
就職当時はまだ大学卒業したての甘ちゃんだった自分が、
塾長と出会い、そして師弟関係を結んでいただき、
ここまで成長できました・・・。
この場を借りて感謝の言葉を言わせていただきます。
「園長先生、本当にありがとうございます。30歳という年齢を迎え、そして父親となりました。
もし先生と出会っていなかったら、どんな人生を歩んでいたのか、もちろん分かりませんが、
少なくとも、今以上の幸せは掴んでいなかったと思います。
新宿せいが保育園の職員、そして臥竜塾の塾頭として、まだまだ足りない部分がありますが、
これからも、ずっとずっと、見守っていただけたら幸いです。
私も先生の傍から離れず、ずっとずっと守っていきます」
さて、塾長の話しの中で「論語」の話しが出てくることが多いです。
そもそも「せいが」という言葉も論語からきているそうですが、
新宿せいが保育園の職員で、何人知っているか、気になります・・・。
・吾れ日に吾が身を三省す (私は常に自らのあり方を省みている)
我を省みる→「省我(せいが)」です。
またちゃんと勉強している人は「三省」という言葉でピンときていると思います。
そう「見守る保育の三省」です。
・子どもの存在をまるごと信じたか
・子どもに真心を持って接したか
・子どもを見守ることができたか
おそらく見守る保育をする実践する上で、この3つの言葉は根底です。
この言葉は塾長が数年前のドイツ研修の際に、行きの飛行機の中で考え出した言葉だそうです。
とても洗練された3つの言葉ですね。
実は私も塾長からオリジナルの「三省」をいただきました。
先ほどの「吾れ日に吾が身を三省す」には続きがあります。
人の為に謀りて忠ならざるか。 (人の為に心を動かされて、忠ならざる事はなかったであろうか)
朋友と交わりて信ならざるか。(志を同じくする友なるに、意に従うばかりで信ならざる事はなかったであろうか)
習はざるを伝へしか(己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせてはおらぬであろうか)
朋友と交わりて信ならざるか。(志を同じくする友なるに、意に従うばかりで信ならざる事はなかったであろうか)
習はざるを伝へしか(己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせてはおらぬであろうか)
これを「師」という言葉に変えて
師に忠ならざるか
師に信ならざるか
師に習はざることを伝へしか です。
これは手帳の一番最初のページぶ書いて、そして毎日復唱していた記憶があります・・・。
おそらくこの時の学びが今の私の原点になっているでしょうね。
もちろんこれは今でも、そして一生涯、忘れてはいけない言葉です。
その時は、これが何の意味があるのか正直、分かりませんでした。
ですので、塾長から同じような注意を何度も何度も言われ、怒られ・・・。
ただ塾長とずっと一緒にいることで、その真意が伝わり、初めて気づくのです。
どうしても新しいことを学ぶと、嬉しくてすぐに結果を求めてしまう癖が誰にでもあると思います。
それは決して悪くないことです。
ただ私が塾長と過ごしてきて一番感じたことは、
すぐに結果が出るような学びは、本当の学びでなく、表面だけを繕った学びで、すぐにボロが出てしまいます。
本当の学びというのは、長い年月をかけて身につく物だと思います。
それは答えを多く知っているという意味でなく、私の場合は塾長の考え方を学ぶということです。
こういう場合は塾長はどう答えるだろうか?どう考えるだろうか?
一緒にいることで、塾長の言葉を何度も何度も聞き、その考え方を知ることが大切です。
しかし、それには表面的な付き合いでは学ぶことは到底、不可能です。
その為には塾長が私にくれた「三省」が必要不可欠になってきます。
あくまで私の考えですが、真の学び、究極の学びというのは、自分が師と仰いだ人の考えを理解することのような気がします。
さて話しがズレてしまったので、戻しますね。
もう一つ論語で塾長がよく話す内容としてこんな言葉があります。
子曰わく、吾十有五にして学に志す、
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
これは人の年齢を表し、孔子が自分の人生を振り返り弟子たちに言った言葉です。
30歳を迎えた私に対しての言葉、
・三十にして立つ
これは独立、自立という意味だそうです。
もちろん解釈の仕方は様々なので、何とも言えませんが、
私の今の状況を振り返ると、自然とこの言葉があてはまっています。
30歳になって一番変化したのは、
息子が産まれて、父親という立場になったこと。
そして初めて後輩が出来たということです。
父親としての自立、先輩としての自立、
自分の立場が家庭でも職場でも変化していく中で、
今までのように、自由に振舞っていては、おそらく信用を失ってしまう恐れがあります。
塾長の30歳の時を話しを聞くと、
とてもじゃありませんが、真似できない30歳です・・・。
ただ、少しでも塾長の30歳に近づけるように努力していこうと思います。
30にして自分の学問で自立し、
40にして迷わず、
50にして天命を知り、
60にしてどんな人の話しでも聞けるようになり
70にして心の思うままに行動しても道を外すことはない
こんな人生を歩んでいけるように、これからも日々精進していこうと思います。
あっ・・・80代からないようです。
80歳を過ぎると、どうなるのですかね??
神様の領域にでも達すのでしょうか・・・。(投稿者 山下)
「真の学び、究極の学びというのは、自分が師と仰いだ人の考えを理解することのような気がします」とありました。僕もそう思います。偉そうに言っていますが、最近、そう思うようになりました。師と仰げる人がいるというのはとても幸せなことですね。今日のこのブログの内容には感動してしまいました。僕も恐縮ではありますが、藤森先生のことを勝手に師匠(師と僕がいうのも大変おごがましいのですが)と思い込んでいますが、山下さんの学びの姿勢にも感動しました。
山下先生、お誕生日おめでとうございます。30歳という一つの区切りの年を先に歩まれる先輩から、これからもたくさんのことを学んでいきたいと思っています。
正に昔の寺子屋のように、師と仰ぐ人、先生と仰ぐ人の元で、教えを学んでいます。孔子にしても、キリストにしても、その師本人が記述し書き残した書物はなく、その弟子の方達が言葉をまとめ、編纂され、世に出されていると聞いたことがあります。幸いなことに、藤森先生はたくさんの著書を出されておりますが、臥龍塾の生徒の方々にしか話されない言葉、また、言葉だけでなく、傍で学ぶ方々にしかわかり得ない雰囲気、お人柄といったものがあると思っています。
山下先生を塾長に進む生臥龍塾に、ご多幸と限りないご発展を心から祈念致しております。力になれることがありましたら、何でも言って下さい。
お誕生日、本当におめでとうございます。