Red floor philosophy episode 20『共同注意フレーム』より

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先日の報告、1枚目の写真です。

先日の報告、1枚目の写真です。

 絵本を読む子をじっと見つめる黄色いTシャツの子。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

 他にも、

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

 

「これだれだ?」の場面でも、

「これだれだ?」の場面でも、

その子の読む言葉、内容を目で追うような黄色い服の子。

写真左、先生の膝の上の子は、「これだれだ?」の声に応答する写真上の先生の表情を見つめているようです。

絵本を読む子の後ろにいる赤い服の子はじっと指先を目で追いかけ、

おもむろに手を伸ばします。

おもむろに手を伸ばします。

そのことに反応してくれたような写真上の先生からの笑い声に、

視線はそちらへ。

視線はそちらへ。

面白いですね。先生方の応答の輪の中へ自分も入っていきたい、そんな姿に思えてきます。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。」

この場合の共同注意フレームは絵本ですね。そして、それを取り巻く先生方の応答が、言語獲得における「活性化された場」と言えるように思います。

そして、最後のページをめくり終え、絵本が終わります。

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

 

その声に反応する周囲の子どもたち。

その声に反応する周囲の子どもたち。

『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の最後にはこう書かれています。

「トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。」

絵本を読むということはこんなにも人に喜ばれるものなのか、という感触を子どもたちは持ったかもわかりません。そうして子どもたちは意欲的に絵と言葉を自分の中に取り込み、次なる興味へと思いを向けていくのでしょう。

子どもの発信を保育者が捉え、周囲の子どもたちへその振幅を広げていく。子どもが子どもから学ぶ、子どもたちの織りなす社会へ、このように保育者は貢献することができるのですね。

(報告者 加藤恭平)

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