慣らし保育は面白い①

先日の塾報告でも書きましたが、この4月から大学に編入学し、人生2度目のキャンパスライフを送っています。(まだ授業は始まっていませんが…笑)

この短い時間ですが、社会人を経て大学生になったことはとても良かったと実感しています。やりたい勉強、やりたいことが18歳で大学に入学した頃よりも明確ですし、モチベーションが違います。もちろん世の中には18歳の時点で、将来のことを考えて大学に進学した人もたくさんいるでしょうが、私の場合、正直高校卒業の時点では真剣に将来のことは考えておらず、漠然と大学進学を決め、そこでやりたいことを見つければいいやという考えでした。実際に大学在学中にやりたいことが見つかり、新宿せいが子ども園に就職して、大学再入学という現在に至っているので、それはそれで良かったなとも思いますが、編入学し、自分の大学時代を振り返って後悔することはたくさんあります。その後悔をこれからの人生2度目のキャンパスライフで取り返そうと今はワクワクしています。

大学は、ゼミ・卒論が必修の学部なので、3年編入の場合、入学する際にある程度卒論のテーマと、入るゼミを考えておいた方が良いと入試の面接試験のときに言われていました。仏教を学問として学びたいということが大前提ではあったのですが、入試に向けて自分なりに仏教を勉強していると、見守る保育に近いものを感じるようになりました。ですので、まだ明確なテーマは決まっていませんが、卒論は保育を仏教と絡めて書けないかと思っています。そういう経緯もあり、今は保育においても、なんだかモチベーションが上がっており、アルバイトとして新宿せいがに残れるのは、とても有難く思います。

しかし、アルバイトでの所属とは言え、どうしても新宿せいがとの距離を感じてしまいます。4年間毎日出勤していたのが、この1週間出勤せずに大学のオリエンテーションに出席するだけで、とても寂しく感じるのです。大学の後、夕方の延長保育に入れるとは言っても、やはり日中のコアタイムが恋しい…。

と言うことで、時間割を組んでみたところ、なんと!!月曜日が空きにできるではないか!(人気授業は抽選のため、落ちると月曜に授業が入ってしまう可能性もありますが…)保育と仏教を絡めた卒論を書くためには、ガッツリ保育も見なくては!と、自分に言い聞かせ、勉強もしっかりやると誓い、月曜日を全休にすることにしました。だって、勉強もしたいけど、保育もしっかり見たいんだもん(笑)

さて、前置きはこのくらいにして、本題へと入りましょう。

4月9日は入学式のため、1日せいがにいました。入学式の対象は1年生。編入学の3年生は対象外ということで久々に1日入れたのです。実は、先週の金曜日にベテランの先生方と呑む機会がありました。そこで、「慣らし保育がスゲー」という話になり、ぜひ月曜日に動画を撮ろうという話になったのです。この時期にしか見ることのできない慣らし保育。毎年その様子をしっかりと動画に収めなければ!と思うのですが、なかなか撮れずにいました。この機会を逃すまいと、絶好のチャンスである月曜日に撮ることにしたのです。なぜ、月曜日か。それは、先週ある程度の慣れ保育は済ませているのですが、入園して初めての休日明けということもあり、保護者との別れ際に大泣きする子が続出し、「慣らし保育–再び–」となる子が多いからだそうです。どんな慣らし保育が見られるのか、楽しみで月曜日出勤しました。

今回は、動画で収めたので、感動した場面をスクリーンショットし、載せていこうと思います。私の視点で、先生の関わり方、子ども自身の関わり方などの視点で、感動した場面をご紹介します。撮り方としては、全体的な動画も撮っていますが、メインはある新入園児の男の子に密着する形で撮っています。新入園児を取り巻く、環境。場所・物は勿論ですが、今回大きく関係するのは「人」だと思います。保護者・担任の先生・クラスの子どもたち、そして、慣らし保育のお手伝いに来ている年長の子たちです。色んな関わりがあって、新入園児がクラスの輪に入っていく様子が見られました。

私なりの結論を先に申し上げます。見守る保育というのは、方法ではなくゴール、つまり目標の姿なのだと改めて感じました。塾長の講演でもよく耳にしますが「子どもを見守りましょう」ではなく、「見守れる子にしていきましょう」ということです。そのために、慣らし保育は、信頼関係を作っていく時期なのだと思います。保育園に慣れてない子、ましてや初めて保育園に来る子がいます。その子たちは、初めての場所、初めての人に終始警戒しています。そんな子たちを、いきなり「見守っています」というのは不可能で、その警戒心を解くことが慣らし保育の目的であり、そのために担任がいるのだと思います。それは、新入園児の一番信頼している保護者を安心させるためでもあります。また、目標である「見守れる子」になるために、必須なのが他の子、友達です。勿論同じ年齢の子だけを指しているわけではありません。色んな年齢の「他の子」がいることで、大人が口を出さなくても、自分たちで考えて行動し、「見守れる」ようになるのだと思います。(新入園児にはもうちょっと先の話)

どちらにしても、新入園児の緊張、警戒心を解くことができるのは、担任や他の子といった「人的環境」の力が大きいと思います。そこで、慣らし保育の様子を見てみると、新入園児は自分の保育の「入口」として適した人を自分で選んでいるように感じました。(登園の際に預けた先生の場合もあるようですが)この日の1歳児クラスでは、ある子は、担任のY先生。またある子は担任のK先生。違う子はお手伝いに来ていた年長児クラスにいるお姉ちゃんと言った様子です。そして、新入園児の「入口」となった先生・園児は、それぞれの状況に共感し、甘えを受容します。時には普段の保育では見られないようなこともやってあげる必要があるのです。なぜなら、信頼関係を作ること、園の生活に慣れることや、不安を取り除くことが最優先だからです。

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とことん新入園児の探索に付き合うY先生

 

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K先生は新入園児と一緒に絵本を読んでいます。用があって部屋からいなくなると泣いてしまいます

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この子はお姉ちゃんのお陰ですんなりと。頼りになります。

続く

西村 宗玲

Blue floor philosophy episode 2『シンガポール報告13』より

先日、遅番の時間にわいらんすい(3・4・5歳児クラス)に入りました。

製作ゾーンに向かうと、「おにぎり屋さんです。」と声をかけられ、好きな具を聞かれました。高菜をお願いすると、「何それ?」とのことで、色や形を説明.

すぐに持ってきてくれました。

すぐに作って持ってきてくれました。

 緑色の魚が散りばめられた『〝さ〟かなおにぎり』

「こんなのが好きなの?」と一言。これだから3・4・5歳児クラスは面白いですね。

ブログ『臥竜塾』2018年3月11日『シンガポール報告13』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「講演で主張したのは、今子どもたちは大学の入学試験を受けるわけでも、社会に出るわけでもないのです。子どもたちが、大学入試を受験するころ、社会に出るころに、どんな力が必要になるのかを考える必要があると思っているのです。また、本当の学力とは何であるのか、また、何のために学力が必要であるかを考える必要があることを主張しているのです。それは、保護者講演のまとめで話をしましたが、子どもたちが人生を幸せに送れるように、そして、その時の世界が平和であるように、そんな世界を子どもたち自身が築いていけるように願って、乳幼児期にどのような力をつけてあげたらよいかという、将来を見据えた保育をするべきであると思っているのです。」

このおにぎりが先生の主張を支えようとは思いもよりませんが、この発想、子どもならではのユーモア、子どもたちが生み出す多彩なドラマが、もしかすると「子どもたちが、大学入試を受験するころ、社会に出るころに」必要になる力、その基礎となっているのかもわかりませんよね。的外れな解釈になってしまっているでしょうか。

さて、この日はいい日でした。他にも出来事がありました。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 1『見守る』『シンガポール報告5』より

先日、すいすい番、5歳児クラスのお昼の活動を担当しました。

クッキングをしたり、散歩へ出たりと、担当する先生のアイディアで活動は日々様々です。

今年も、三輪車レースに取り組みました。

にこにこ組(2歳児クラス)にある三輪車を近隣の公園まで運び出し、チーム対抗でレースを行います。

先ずはどの三輪車を使うかの話し合い。二人乗りの三輪車は見た目は大きくとても速そうに見えるのですが、何とも重く、レースには不向き。等、その辺りを踏まえての機体選びが鍵となります。

選考が終わり、スタートです。

今年も白熱の展開となりました。毎年の姿として、

  • ①思っている以上に距離が長く、自分の順番を終えた子が、レース中の子を助けようと援助を始める
  • ②やりたくない子が出て、その子の代わりを誰が走るかの話し合いが生まれる

こういったことがあるのですが、今年も期待通りの姿を見せてくれました。中でも、接戦の最中に②の状況に追い込まれたチームのある子が、「じゃあ頼んだからな!」と、自分が走りたい気持ちを我慢して友だちに譲る場面などは、その子の成長を知るが故に、とても感慨深いものがありました。

そして、レースは終了。この度、報告したかったのは、レースの後、片付けの時の出来事です。

レースで出し切った体で一番重い三輪車を2階のにこにこ組(2歳児クラス)まで運びます。

レースで出し切った体で一番重い三輪車を2階のにこにこ組(2歳児クラス)まで運びます。

「そんなの俺だったら一人で持ち上げられるぜ!」

階段の上からの叱咤激励に対し、

「それは持ってないから言えるんでしょ!」

「それは持ってないから言えるんでしょ!」

と、先頭の子。

すると、階段の子がすっとその輪の中へ入ります。

すると、階段の子がすっとその輪の中へ入ります。

そのさりげなさ、仲間を思う気持ちが伝わって来るようで、見ていて何とも嬉しい気持ちになりました。

ブログ『臥竜塾』2006年1月21日『見守る』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「私の教員時代に、クラスの歌を作っていました。それを、クラスの子どもたちがよく歌っていました。1年生を担任していたときの歌詞は、こんな歌詞でした。子どもたちと作ったのですが、1番、2番は、クラスの年間を通して取り組み、そして、3番は、私の望む最終的なクラスの子どもの姿を表わしています。

『ぼくらのクラスは なんでもじぶんで できるんだ 先生なんか ようはないのさ 三小 三組 みんなそろって いちにのさん』」

塾長が藤森メソッドの概念を生んだとされる教員時代の子どもたちの姿を理想とすると、何ともそれに近い子どもたちの姿をこういった光景に見るような気がしたのです。そして、

自然、きれいに並べられた駐輪場へ。

自然、きれいに並べられた駐輪場へ。

子どもたちの手によって自然と整備された駐輪の見事さは特筆する必要はないものでしょうか。

「おんもい!おんもい!」と最後の一台を運ぶ女の子へフォローの手が加わり、

「おんもい!おんもい!」と最後の一台を運ぶ女の子へフォローの手が加わり、

すいすい番が終了しました。

すいすい番が終了しました。

「このような保育を受けた子たちはその後どうなっているのか」(2018年3月3日『シンガポール報告5』)

その日常を切り取り、誇りたい。たくさんの人達に見守られながら育った子どもたちの姿を見て、そう思いました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 39『原初的な自己感覚』より

ブログ『臥竜塾』2017年10月20日『原初的な自己感覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「2ヶ月を超えると、自分の身体的動作についての認識ができるようになると、ロシャ博士によって示されているそうです。」

少し前に撮った動画を見返す中でふと思い出しました。

当時約14ヶ月の0歳児クラスの子。自分の顔を見て大笑いしています。

当時約14ヶ月の0歳児クラスの子。自分の顔を見て大笑いしています。

自分で顔を変えて、

自分で顔を変えて、

またまた大笑い。

またまた大笑い。

クラス中を笑顔で溢れさせてくれた出来事でした。

「私が、経験から、どうも乳児は早い時期から自己認識をしており、鏡に映る自分の顔を他の人が映る姿と区別していると感じていることは、表象的な自己認識への発達の兆候であるというとらえ方をロシャ博士はしているようです。」

新しい知見が塾長の理論を裏付けていくことを、臥竜塾ブログを通して肌で感じることができます。現在、進化生物学者ロバーヴァースによる「親の投資理論」を軸に内容が展開され、学び深き更新が日々なされています。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 38『共同』より

0歳児クラスの職員は全員で7人です。週ごとに自分の番号が変わり、その役割も変わってきます。

視点が変わるからでしょうか、その番号から見る子どもたちというのもまた異なり、また、同じ番号がやってくるのは7週間後ということで、子どもたちの成長をとても感じることがあります。

この週はハイチェアーの子どもたちとおやつを食べる週でした。

お茶や牛乳を差し出すと、口に一度含むものの、次の瞬間エプロンや机上に飲ませてくれること少々、という個人的ですが、そういうイメージの子がいました。

その子が何とも上手に飲むのです!驚いてしまいました。

すると、エプロンの中を覗き込み、

すると、エプロンの中を覗き込み、

牛乳が入っていないことを確認しているような仕草を見せてくれました。

ブログ『臥竜塾』2018年1月24日『共同』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「協同学習とは、模倣学習や指導学習のように、到達度の低い個体が、到達度の高い個体から単純に学ぶといったものではなく、2名で共通の問題を、一緒に解決しようとすることから生じる学習であるとしています。トマセロたちは、協同学習は文化の伝播というよりは、文化の創造の過程であると言います。この言葉は、とても大切な言葉ですね。」

7週間の間にたくさんのドラマがご家庭で、そして園で、あったことを思います。子どもたちの成長を喜べる幸せを、チーム保育は、藤森メソッドは織り成しているのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 35『文化学習の3段階のレベル』より

 

諦めきれない黄色いセーターの女の子当時約1歳8ヶ月。

諦めきれない黄色いセーターの女の子当時約1歳8ヶ月。

もう一度手をつなごうとしますが、

もう一度手をつなごうとしますが、

その手は離れてしまいます。

その手は離れてしまいます。

切ない表情です。

切ない表情です。

そして、

写真右同時約1歳7ヶ月の子が「(行こうよ。)」と、写真左当時約1歳9ヶ月の子の手を引くような形で促すその手を、

写真右同時約1歳7ヶ月の子が「(行こうよ。)」と、写真左当時約1歳9ヶ月の子の手を引くような形で促すその手を、

引き戻します。

引き戻します。

そして、

その子の元へ行き、肩を叩くのです。

その子の元へ行き、肩を叩くのです。

真似をして、もう一人の子も。

真似をして、もう一人の子も。

ブログ『臥竜塾』2018年1月18日『文化学習の3段階のレベル』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「複数の理論家が、真の模倣を行うためには、観察者にモデルの視点をとる能力が必要だと主張しているそうです。真の模倣を行うためには、模写のようにターゲット行動をただ観察して繰り返すだけでは不十分であるとビョークランドは言います。そして、模倣者は、モデルの心の中にある目的を、目的模倣の場合のように理解し、そして、その行動の重要な点を再現しなければならないと考えます。」

慰める、なだめる、といった行為とも見てとれるような「肩を叩く」行動をとった二人。手をつなげない子の気持ちを察し、相手の視点で状況を見たときに、誰かがしていたのか、その行為を模倣するように肩を叩いたのではないか、というのは個人的な見解です。慰める原因は慰めている当事者にあるところでもあるのですが、しかし、その姿は見ていてとても興味深いものでした。

その後、二人はそのまま二人で行ってしまいますが、肩を叩かれた子は、心に落ち着きを取り戻し、絵本へと向かっていきます。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 34『準備中』より

新しい年になりました。

写真右約1歳9ヶ月、左約1歳8ヶ月、奥約1歳7ヶ月の0歳児クラスの子どもたちです。

写真右約1歳9ヶ月、左約1歳8ヶ月、奥約1歳7ヶ月の0歳児クラスの子どもたちです。

黄色いセーターの子が、手を繋いで入ってきた二人の間に入ろうとします。

黄色いセーターの子が、手を繋いで入ってきた二人の間に入ろうとします。

繋いでいた手を振りほどくことに成功しますが、

すぐにまた、

すぐにまた、

元に戻られてしまいます。

元に戻られてしまいます。

なので、

なので、もう一度。

もう一度。

そうしたら逆の手で繋がれてしまいます。

そうしたら逆の手で繋がれてしまいます。

「(じゃ、そっちの空いている手を…)」

「(じゃ、そっちの空いている手を…)」

「(え、あぁ…)」

「(え、あぁ…)」

ちょっと手をすぼめて行ってしまいます。

どうやら今二人は二人でいたいようですね。

『臥竜塾』ブログ2018年1月2日『準備中』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「特に私が注目しているのは、社会性です。以前の文科省の調査で、2歳児は子ども同士のかかわりは一切見られないということから、2歳までは家庭で育てるのがいいという主張です。私は、その後の準備のために、子ども同士が同じ場を共有する経験が生後8~9か月以後必要だと思っているのです。最近の知見では、乳児は9か月ころから他者認識をするということとリンクします。さらに、そのためにこの時期以降は、2者関係だけで過ごすことではなく、さまざまな信頼できる身近な大人、異年齢の子どもと触れ合うことが社会人となるために必要だと思っているのです。」

入園当初の4月では12ヶ月児、10ヶ月児だった二人。今日のこの日、こんなにも二人が良いという感じになったのは、昨年で退園してしまった子の存在もあったように思います。その子は、灰色の服の子の親友とも呼べる子で、その子へ注いでいた愛情を、振り返れば4月から連れ添ってきた友だちに向けた、と考えられるように思えました。

そして、白いズボンの子も、園での生活にリズムを合わせようとしている最中で、友だちの存在を必要としていたように思えます。黄色いセーターの子もまた、同じような気持ちだったのかもわかりません。

この動画はこの後ちょっとした展開を見せます。そして、この繋がりが生まれた経緯を紹介しようとする中で感じるのは、この場面もまた、藤森メソッドの織り成すドラマだったのではないか、ということです。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 20『共同注意フレーム』より

 

先日の報告、1枚目の写真です。

先日の報告、1枚目の写真です。

 絵本を読む子をじっと見つめる黄色いTシャツの子。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

 他にも、

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

 

「これだれだ?」の場面でも、

「これだれだ?」の場面でも、

その子の読む言葉、内容を目で追うような黄色い服の子。

写真左、先生の膝の上の子は、「これだれだ?」の声に応答する写真上の先生の表情を見つめているようです。

絵本を読む子の後ろにいる赤い服の子はじっと指先を目で追いかけ、

おもむろに手を伸ばします。

おもむろに手を伸ばします。

そのことに反応してくれたような写真上の先生からの笑い声に、

視線はそちらへ。

視線はそちらへ。

面白いですね。先生方の応答の輪の中へ自分も入っていきたい、そんな姿に思えてきます。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。」

この場合の共同注意フレームは絵本ですね。そして、それを取り巻く先生方の応答が、言語獲得における「活性化された場」と言えるように思います。

そして、最後のページをめくり終え、絵本が終わります。

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

 

その声に反応する周囲の子どもたち。

その声に反応する周囲の子どもたち。

『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の最後にはこう書かれています。

「トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。」

絵本を読むということはこんなにも人に喜ばれるものなのか、という感触を子どもたちは持ったかもわかりません。そうして子どもたちは意欲的に絵と言葉を自分の中に取り込み、次なる興味へと思いを向けていくのでしょう。

子どもの発信を保育者が捉え、周囲の子どもたちへその振幅を広げていく。子どもが子どもから学ぶ、子どもたちの織りなす社会へ、このように保育者は貢献することができるのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 19『言葉を使う動機』『共同注意フレーム』『2017年ドイツ報告12』より

先日、ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で興味深い出来事がありました。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

 字が読めるわけではないようですが、内容を覚えているのですね。

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

ページにある言葉と同じ言葉を楽しげに言います。

 「これだれだ?」

「これだれだ?」

このページでは、クイズを出してみたりして。

「これだれだ?」「なんだろね。」

「これだれだ?」「なんだろね。」

子どもの声に応じながら、その様子を傍で楽しそうに見守るお二人。写真左に写る先生より、ある時期からこの子がこの絵本をこのようにして楽しむようになったことを教えていただきました。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月30日『言葉を使う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。」

上記「どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれる」という部分は、『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中で、

「新たな語を学ぶためには、子どもは大人にとって目立つ物が何なのかだけでなく、大人が自分にとって目立っていると思っているのは何か、についても決定しなければなりません。もっと言えば、実は大人が子どもにとって目立っていると思っているだろうと、子どもが思っているだろうと、大人が思っている物…という風に続いていきます。子どもは、必要な共有基盤を想像する必要があったのです。」

このように説明されています。先生と絵本を読んできたことが、また、同じ絵本が家庭にあったとして、家庭でのそのやりとりが、この子にこうした姿をもたらした、と言えるかもわかりませんね。

そしてそれは、『臥竜塾』ブログ2017年7月8日『2017年ドイツ報告12』によって報告されたドイツの絵本ゾーンの紹介文と、とても似通うものを感じます。

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「「先生は、毎日私たちに本を読んでくれます。」というようにコメントにあるように、先生が読むときには、ソファーに腰掛けて、数人の子どもに本を読んであげています。日本では、子どもたちに本を読んであげるときは、お集まりの時などに、子どもたちの前に先生は立ち、みんなに絵を見せながら本を読み聞かせしている姿をよく見かけます。ドイツでも、そのようにしてみんなに本の読み聞かせをしている姿を見ることがありましたが、最近、オープン保育になってからは、見ることがありません。この絵のようにソファーに腰掛けて、数人の子に読んであげているか、子どもを抱っこして本を読んであげている姿をよく見ます。その違いはどこにあるのでしょう。それは、本を読むときの先生の意図が違う気がします。日本の場合は、子どもたちを一同に集めるとか、みんなを集中させようとするときの手段に使うことが多いような気がします。ですから、どの本を読むかは先生が決めて持ってきます。ドイツでは、多分、子どもが読んで欲しい本を先生のところに持ってきて、「これ、読んで!」とせがんで読んでもらっている気がします。しかも、コメントから見ると、それは毎日必ず行なわれているようです。」

とてもくつろいだ時間の中で子どもが持ってきた絵本を一緒に楽しむ。このような日常を創り出すことの大切さを改めて感じます。

そして、塾長のブログと合わせてこの動画を見返してみると、なるほどここにも子ども社会による育み、そしてそれを助長する保育者の役割があるということに気付かされました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 11『光』より

ある日の朝、

お部屋がこんな風になっていました。

お部屋がこんな風になっていました。

ちっち組(0歳児クラス)の子どもたちが嬉しそうに登ったり降りたりをしていました。

「階段のところへ行ってみようか♪」

クラスの先生の発案で、階段登りをしてみることに。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2007年11月4日『光』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私たちが保育している幼児の姿は、何度も何度も歩いている姿です。その歩き方は、ヨチヨチであり、未だしっかりと腕も振られていないかもしれません。しかし、それはそのあと、自分の足で歩き始めるときのための練習でもあるのです。また、その未熟の歩き方からも、その子の将来の見通しを立てていかなければなりません。(中略)それでも歩いていれば転ぶこともありますし、何かにぶつかることもあります。転ばないように石をどけてしまうとか、転んではいけないと思ってすぐに抱き上げてしまっては、歩くことを学んでいることにはなりません。転んでも手をつくことができるようになったり、障害物を乗り越えて歩くことができるようになることが、何年か先に自分だけで歩くなったときに必要な知恵なのです。」

ここでは幼児について書かれていますが、乳児についても同様ですね。大きくなってから顔に傷をつくる怪我をする子が増えていると聞きますが、乳児期にずり這いやハイハイをしっかりと経験してこなかったことに要因があるのではないかと、以前から言われています。転んだ時に咄嗟に出るはずの手が出てこないのかもわかりませんね。

そんなことを思いながら子どもたちと階段へ出て行きました。

登ってみるともちろん個人差があり、速い子とゆっくりな子といます。

「がんばれ〜♪」

「がんばれ〜♪」

 先を行くグループからの応援を受けながらも、その段数の多さにでしょうか、涙が流れてきた白いTシャツの女の子(ちっち組0歳児クラス、以下白ちゃん)。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

そこで出会った出来事にとても感動しました。

(報告者 加藤恭平)