Red floor philosophy episode 25『原初的な自己感覚』『過去や未来』より

10月に加わった新入園児、新しいお友達に興味津々の子どもたちです。

仰向けになっている当時約6ヶ月の子の顔を覗き込む当時約1歳4ヶ月の女の子です。

仰向けになっている当時約6ヶ月の子(花柄の服を着ているので以下ハナちゃん)の顔を覗き込む当時約1歳4ヶ月の子(ベージュ色の服を着ているので以下ベージュちゃん)です。

 

自分を覗き込む視線に気付きます。

ハナちゃん、自分を覗き込む視線に気付きます。

 

声をかけられ、更に視線は注がれます。

声をかけられ、更に視線を注ぎます。

 

まるで話しかけるようなベージュちゃんの声のかけ方です。

そして、ベージュちゃんは、場所をかえて、体勢をかえて、

頭を撫でてみます。

頭を撫でてみます。

髪をネジネジされたり、一箇所ではないところを計10秒ほど優しく撫でられた後

目が合います。

目が合います。

 

優しく関わってくれたお友だちに自然と伸びる両手。

優しく関わってくれたお友だちに自然と伸びる両手。

撫でられたお返しでしょうか、

伸びた手はお友だちの頭へ。

伸びた手はお友だちの頭へ。

 

再び、二言三言、声をかけられます。

呼応するように再び、二言三言、声をかけるベージュちゃんです。

 13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月20日『原初的な自己感覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「現在、ルージュテストを、2歳を過ぎる頃には多くの子どもが通過することができるようになり、2歳前後になると、恥ずかしがったりするなど、自己と関連するような感情を示すようになり、また、自分の名前を呼ぶようになったりすると言われています。1歳半から2歳頃という時期が、自己の発達の重要な時期のようだと言われています。では、2歳以前の乳児には自己認識がないのか、という研究が近年盛んに行なわれているそうです。他の能力同様、自己認識は乳児にはないと考えられていました。偉大な心理学者であり、哲学者でもあるウィリアム・ジェームズは、乳児は自分と世界が未分化な、混乱した環境の中に生きていると考えていました。しかし、最近は新生児ですら、視覚的な対象に手を伸ばすことが示されているのです。自分の身体と対象とがどのような空間的関係にあるかを認識できないと、このような行動は見られないはずだと考えられます。また、新生児は自分自身の手で頬を触るときと実験者が触る時を区別する知見なども考慮すれば、ある程度は新生児においても自己と世界の分離ができているようです。」

この回の前日2017年10月19日『過去や未来』の中では、

「ルージュテストに通過できるようになるのは、2歳前後であると結論づけられています。」

と書かれていて、しかし、子どもたちが関わり合い、相手からのアプローチに対して受け答えをするかのような行動を見る度に、とても考えさせられるものがあります。

子ども社会において、子どもの可能性は広がっていくのではないか。新入園児との関わりから見えてくるものがあるのではないかと、いくつかの動画を紹介していきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

 

 

Red floor philosophy episode 24『社会を構成する他者』より

 

体勢を立て直し、再挑戦する1歳児クラス男の子の玩具箱の中に、

体勢を立て直し、再挑戦する1歳児クラス男の子の玩具箱の中に、

 

残りのブロックを入れる5歳児クラスの男の子。

残りのブロックを入れる5歳児クラスの男の子。

 

玩具を入れに戻った1歳児クラスの女の子は、

玩具を入れに戻った1歳児クラスの女の子は、

 

ここで自らお集まりへ向かう体勢に。

ここで自らお集まりへ向かう体勢に。

 

5歳児クラスの女の子のお役目はここで終了となります。

5歳児クラスの女の子のお役目はここで終了となります。

 本当にお疲れ様でした。

1歳児クラス男の子は玩具箱を棚に戻すという最後の仕事に苦戦中。

1歳児クラス男の子は玩具箱を棚に戻すという最後の仕事に苦戦中。

 ここからがとても素敵と感じた部分なのですが、

集めてきた残りのブロックを入れ、

集めてきた残りのブロックを入れ、

 

すっと手を差し伸べます。

すっと手を差し伸べます。

そして、

無事収納。

無事収納。

 

その子が納得できているかを確認するかのように表情を伺うかのような5歳児クラス男の子の素振り。

その子が納得できているかを確認するかのように表情を伺うかのような5歳児クラス男の子の視線。

男の子は納得していた様子で、

飛び跳ねて喜びます。

飛び跳ねて喜びます。

 その姿に、

ちらりと視線を送る彼。

ちらりと視線を送る彼。

なんともクールですね。

ここで彼のお役目も終了します。

ここで彼のお役目も終了します。

しかしまだ、給食の場へその子が向かっていませんね。

そんな1歳児クラスの男の子は残っていたブロックを発見。

そんな中、残っていたブロックを発見。

 それを、まるでフォローするかのように、

5歳児クラス、もう一人の男の子の登場です

5歳児クラス、もう一人の男の子の登場です。

 

 

玩具棚まで付き添い。

玩具棚まで付き添い。

 

男の子のブロックと自分のもっていたブロックを入れて、

男の子のブロックと自分のもっていたブロックを入れて、

 

一足先に

一足先に

 

 給食の場へ。

給食の場へ。

 

その後を追うように給食へ向かう1歳児クラスの男の子でした。

その後を追うように給食へ向かう1歳児クラスの男の子でした。

 

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月3日『社会を構成する他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「森口は、発達の最近接領域を考える上で、二つの重要なポイントがあると言います。一つは、同じ文化内に所属する、自分よりも能力のある構成員こそが子どもの発達を支援することができるという点です。これが、私の考える「異年齢保育」を行なう一つの理由です。異年齢の子どもの存在こそが、「同じ文化内に所属する、自分よりも能力のある構成員」であると考えるのです。もちろん、同じ年齢からの支援も発達には影響をしますが、より刺激が大きいのが異年齢からの刺激だと思うのです。もちろん、子どもと同等の能力を持つ他者(友だち)は、模倣などを通じた相互学習や共同学習によって、子どもが自分ではできないことをできるように導くことも示唆されています。

もうひとつの重要なポイントは、子どもの発達を知るには、現在の発達レベルは現在の発達レベルであり、潜在的な発達レベルを知ることができるような指標が必要だと訴えた点です。

このように、ヴィゴツキーの考えでは、他者が子どもの発達に重要な影響を与えるということです。」

1歳児クラスの男の子が玩具箱を片付け、給食へと向かう約1分の間にこれだけの関わりがあったことに驚くのと同時に、大人の介入なく目的へと向かっていく様子はまさに子ども社会の存在を強く感じさせるものでした。

異年齢の積極的な関わりを生み出すお手伝い保育。これからもその中で生まれるドラマを追っていこうと思います。

(報告者 加藤恭平)

 

 

 

Red floor philosophy episode 23『経験の大切さ』より

 

見守る先には、

見守る先には、

 

もう一人、5歳児クラスの男の子が。

もう一人、5歳児クラスの男の子が。

千鳥足で運ぶ様子を見守ってくれていました。

手に持っていた玩具をその箱へ、

手に持っていた玩具をその箱へ、

 入れた後、「ここだよ。」と言わんばかりに、

片付け場所へ促します。

片付け場所へ促します。

 クールなアプローチですね。

 おもむろに振り返ります。

おもむろに振り返ります。

 そして、まるで示し合わせたかのように、

入れ替わる二人。

入れ替わる二人。

 

先ほどの女の子の再登場です。

先ほどの女の子の再登場です。

一瞬箱に手を貸すような素振りを見せますが、

その手は女の子の頭を撫でます。

その手は女の子の頭を撫でます。

女の子がなるほど葛藤をしていたことがわかるのは、この次の瞬間で、

目線は「お集まり」の方へ。

目線は「お集まり」の方へ。

「お集まりの輪の中へ連れて行きたい」でも「片付けたい気持ちも優先させてあげたい」そのような葛藤の中にいたことが伺えます。その気持ち、現場にいる保育者誰もが経験したことのあるものではないでしょうか。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月13日『経験の大切さ』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「様々な経験が、幼い子どもたちの他者に対する利他性をかたちづくるのも確かであると主張し、その初期の段階でさえも、学習の履歴を持たず入力の影響を受けないようなシステムではないことを指摘しています。乳児が利他性を備えて生まれてくるとしても、利他性が花開くかどうかは経験次第であるという見解を主張しているのです。」

この見解は乳児についてのものですが、「利他性が花開く」その経験が必要なのは幼児にあっても当然のことでしょう。このような環境下で過ごす時間を経ることで、きっとこの1歳児クラスの男の子にも女の子にも、その気持ちや姿勢は伝承されていくことでしょうね。

そんな女の子の気持ちを知ってか知らずか、

1歳児クラスの女の子は一度離れます。

1歳児クラスの女の子は一度離れます。

 すると、

その重みに耐えられず箱は地に。

その重みに耐えられず箱は地に。

 

その弾みで落ちた玩具を拾いに戻る1歳児クラスの女の子。

その弾みで落ちた玩具を拾いに戻る1歳児クラスの女の子。

5歳児クラス女の子としてはもどかしいでしょうね。

そして男の子は体勢を変え、

そして男の子は体勢を変え、

 

再挑戦。

再挑戦。

ドラマは続きます。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 22『目標理解』より

 

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

 

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

 その手を差し伸べます。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

面白いですね。お互いに何かを察知したかのようです。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

視線を外さない男の子。

そして、

そして、

 

箱は持ち上がります。

箱は持ち上がります。

5歳児クラス女の子の実感としては、「思った通り、軽い。」といったものでしょうか。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

 その子が持てるかどうか、推し量るような眼差しです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、その手を離すのです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、

その手を離すのです。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月11日『目標理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「6ヶ月頃に見られる重要な発達的変化は、他者の行動が目標志向的であることの理解だそうです。心の理論研究において、目標志向性の理解は、他者の行為理解の最も基礎的な要素だと考えられ、近年は研究が増加しているそうです。人間の複雑な行動は、目標志向的です。漫然となされるのではなく、何か目標に対して働きかけていると言われています。他者が手を伸ばしている様子を見たときに、その先に時計があるとしたら、私たちはその人が時計に対して働きかけているなと思います。このように私たちにとって重要なのは、行為そのものではなく、行為の先にある目標であると言われています。」

「この子は自分で持ち上げようとしている」「自分で持ち上げたいと思っている」持ち上げる、という目標に気付いた女の子の引き際に、心打たれるものがあります。しかもこの先の動画を見るとわかるのですが、お手伝い保育としてここへ来た、という思いが女の子の中にあるのでしょう、その葛藤もありながら、あの瞬間に手を離せるということが、何ともいじらしく、その子の成長をとても感じました。

行き先を見守る女の子。

行き先を見守る女の子。

その姿は見守る保育、藤森メソッドに従事る保育者のようですね。

もう少しドラマは続きます。この光景をまた違った眼差しで見守っていた存在がありました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 21『社会集団と脳の進化』より

お手伝い保育ですいすい組(5歳児クラス)が来てくれました。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

 

「持てるから大丈夫。」

「持てるから大丈夫。」

 ピンクの服の子の声を受け、

さっと手を離す白い服の子。

さっと手を離す白い服の子。

13年目に入られました塾長が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月5日『社会集団と脳の進化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「心の理論とは、繰り返しになりますが、他者の行動からその背後にある心的状態を推測し、その次の行動を予測するための理論であると説明します。心そのものは見たり触れたりできないので、私たちは推測するしかありません。ここでの心的状態とは、相手の知識、意図、欲求、信念などを指します。相手の考えを推測できれば、私たちはその人の行動の意味を理解し、次に何をするかを予測し、その人に対応できるのです。」

この動画に至るまでの朝から、この白い服の子のお友だちへの距離感、小さい子への関わり方にとても興味を持って見ていました。相手の言葉に応じて自分の対応を変える、その思いやりある姿勢に、このまま動画を撮り続けてみようと思いました。

この白い服の子が写真右下、1歳児クラスの子どもたちが片付ける様子をどのように援助するのでしょうか。

白い服の子は写真右下、1歳児クラスの子どもたちの片付ける姿に視線を向けています。

この子はこれから1歳児クラスの子どもたちをどのように援助するのでしょうか。 

そして思いがけず、子ども社会の育みとも思える場面に立ち会うことができました。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 20『共同注意フレーム』より

 

先日の報告、1枚目の写真です。

先日の報告、1枚目の写真です。

 絵本を読む子をじっと見つめる黄色いTシャツの子。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

 他にも、

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

 

「これだれだ?」の場面でも、

「これだれだ?」の場面でも、

その子の読む言葉、内容を目で追うような黄色い服の子。

写真左、先生の膝の上の子は、「これだれだ?」の声に応答する写真上の先生の表情を見つめているようです。

絵本を読む子の後ろにいる赤い服の子はじっと指先を目で追いかけ、

おもむろに手を伸ばします。

おもむろに手を伸ばします。

そのことに反応してくれたような写真上の先生からの笑い声に、

視線はそちらへ。

視線はそちらへ。

面白いですね。先生方の応答の輪の中へ自分も入っていきたい、そんな姿に思えてきます。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。」

この場合の共同注意フレームは絵本ですね。そして、それを取り巻く先生方の応答が、言語獲得における「活性化された場」と言えるように思います。

そして、最後のページをめくり終え、絵本が終わります。

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

 

その声に反応する周囲の子どもたち。

その声に反応する周囲の子どもたち。

『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の最後にはこう書かれています。

「トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。」

絵本を読むということはこんなにも人に喜ばれるものなのか、という感触を子どもたちは持ったかもわかりません。そうして子どもたちは意欲的に絵と言葉を自分の中に取り込み、次なる興味へと思いを向けていくのでしょう。

子どもの発信を保育者が捉え、周囲の子どもたちへその振幅を広げていく。子どもが子どもから学ぶ、子どもたちの織りなす社会へ、このように保育者は貢献することができるのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 19『言葉を使う動機』『共同注意フレーム』『2017年ドイツ報告12』より

先日、ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で興味深い出来事がありました。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

 字が読めるわけではないようですが、内容を覚えているのですね。

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

ページにある言葉と同じ言葉を楽しげに言います。

 「これだれだ?」

「これだれだ?」

このページでは、クイズを出してみたりして。

「これだれだ?」「なんだろね。」

「これだれだ?」「なんだろね。」

子どもの声に応じながら、その様子を傍で楽しそうに見守るお二人。写真左に写る先生より、ある時期からこの子がこの絵本をこのようにして楽しむようになったことを教えていただきました。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月30日『言葉を使う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。」

上記「どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれる」という部分は、『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中で、

「新たな語を学ぶためには、子どもは大人にとって目立つ物が何なのかだけでなく、大人が自分にとって目立っていると思っているのは何か、についても決定しなければなりません。もっと言えば、実は大人が子どもにとって目立っていると思っているだろうと、子どもが思っているだろうと、大人が思っている物…という風に続いていきます。子どもは、必要な共有基盤を想像する必要があったのです。」

このように説明されています。先生と絵本を読んできたことが、また、同じ絵本が家庭にあったとして、家庭でのそのやりとりが、この子にこうした姿をもたらした、と言えるかもわかりませんね。

そしてそれは、『臥竜塾』ブログ2017年7月8日『2017年ドイツ報告12』によって報告されたドイツの絵本ゾーンの紹介文と、とても似通うものを感じます。

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「「先生は、毎日私たちに本を読んでくれます。」というようにコメントにあるように、先生が読むときには、ソファーに腰掛けて、数人の子どもに本を読んであげています。日本では、子どもたちに本を読んであげるときは、お集まりの時などに、子どもたちの前に先生は立ち、みんなに絵を見せながら本を読み聞かせしている姿をよく見かけます。ドイツでも、そのようにしてみんなに本の読み聞かせをしている姿を見ることがありましたが、最近、オープン保育になってからは、見ることがありません。この絵のようにソファーに腰掛けて、数人の子に読んであげているか、子どもを抱っこして本を読んであげている姿をよく見ます。その違いはどこにあるのでしょう。それは、本を読むときの先生の意図が違う気がします。日本の場合は、子どもたちを一同に集めるとか、みんなを集中させようとするときの手段に使うことが多いような気がします。ですから、どの本を読むかは先生が決めて持ってきます。ドイツでは、多分、子どもが読んで欲しい本を先生のところに持ってきて、「これ、読んで!」とせがんで読んでもらっている気がします。しかも、コメントから見ると、それは毎日必ず行なわれているようです。」

とてもくつろいだ時間の中で子どもが持ってきた絵本を一緒に楽しむ。このような日常を創り出すことの大切さを改めて感じます。

そして、塾長のブログと合わせてこの動画を見返してみると、なるほどここにも子ども社会による育み、そしてそれを助長する保育者の役割があるということに気付かされました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 18『赤ちゃんの興味』より

先日の日曜日、園をお借りして塾頭山下家と休日を謳歌させていただきました。

お昼は調理古川先生が腕をふるって下さり、何とも贅沢な時間を過ごさせていただきました。

 

久しぶりの対面です。

久しぶりの対面です。

山下先生の次男くんと、我が家の次男は同い年で、生まれも1ヶ月違いです。

この日の久しぶりの対面に、どのような反応を見せてくれるかと大人たちは期待をしていました。

その期待にこうして応えてくれます。

その期待にこうして応えてくれます。

 椅子を押し合う二人。始めたのがどちらからだったか、動画には残っていないのですが、何とも興味深く思いました。

共に押す相手へ視線が送られます。

共に押す相手へ視線が送られます。

 別の場面では、

追いかけっこ。

追いかけっこ。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年6月16日『赤ちゃんの興味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「4月当初の園での赤ちゃんの行動から、思っていたことと違った行動が観察されました。平行遊びから関わり遊びに移行していくのは、そのくらい一緒に過ごしたかとは限らないことがわかったのです。それは、まだ月齢の低い子たちの行動です。月齢の低い子は、初めて会ったばかりの他児に対して非常に興味を持ち、それを眺め、手を伸ばして触ろうとするのです。その興味は、手元にあるぶら下がったおもちゃよりも、風で動くおもちゃよりも人の動きに目を向けるのです。その時に、他の赤ちゃんと触れさせず、特定の大人だけと接しさせると、他児への興味を失うような気がします。それが、また、早いうちに他の赤ちゃんと一緒にすることで、次第にまた他児に興味を持ってくるような気がします。

これは、あくまでも私の現場を観察しての仮説です。これを、どうにかして解明したい気がしています。そのことが、きょうだいの存在意味、アフリカで今だに古代の生活をしているカラハリ砂漠に住むサンの人たちが生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをするということを説明している気がするのです。もちろん、赤ちゃんは突然泣き出し、誰かを探します。そして、誰かの大人に寄っていこうとします。ふと不安になったのかもしれません。親を探しているのかもしれません。その行動は、他の子を求め、他の子に興味を持つことと矛盾はしないのです。ともに、赤ちゃんにとっての行動なのです。

それは、ものに興味を持ち、それに触ろうとする行動と同じかはよくわかりません。しかし、よく観察していると、物より人に優先して興味を持つような気がします。赤ちゃんの興味は、他の赤ちゃんがおもちゃよりも気を引くようです。」

月齢の低い子たちでそうであるなら尚更、当時1歳になったばかりの我が家の次男と、11ヶ月の山下先生の次男くんとが、このように関わり合うこともとても自然なことなのですね。

改めて子どもたちは自然と関わり、その中で育み合う素質を多分に持ち合わせていることに気付かされます。大人は、こういった機会をどのように子どもたちに用意してあげられるか、ということなのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 17『道徳的感受性』より

 

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

 

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

すると、次の瞬間、

手を何回か叩いて、

手を何回か叩いて、

 

おいでのポーズ。

おいでのポーズ。

主観ですが、このボールプールから出たがっていることを察知して白ちゃんはプールの傍へ来たんだ、と思いました。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

なので、いくらおいでをしても白ちゃんの方へ行くことができず、次第にピンクちゃんの気持ちは強くなっていきます

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

 

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

 

表情が曇ります。

表情が曇ります。

主観ですが、ピンクちゃんは最早、白ちゃんが自分を援助しきれないことを理解し、その力のある保育者へと援助の対象を移したのだと思いました。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

その後も何度か試みる白ちゃんでしたが、気持ちのすれ違いというのでしょうか、最終的に保育者に抱き上げられるピンクちゃんを見つめる結果となりました。

しかし、白ちゃんのこの援助行動ともとれる行動は興味深いものがありますね。

もうすぐ13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年7月26日『道徳的感受性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

 

「子ども自身が実験場面にかかわる援助行動については、以前のブログで紹介したトマセロの研究が有名です。そのときに紹介した実験は、たとえば、実験者がある対象を落としてしまうのですが、その落とし物に手が届かず拾えないような場面で、14ヶ月から18ヶ月の乳児でも、すぐに拾うという行動が見られたというものです。また、12ヶ月児でも情報を必要としている大人と必要としていない大人がいれば、全社に対して、指さしする割合がより高くなるという実験です。このような研究から、人間は幼いときから、他者の援助行動を好むだけでなく、自分でも他者を助けたいと動機付けられていることがわかったというものです。」

13ヶ月にあたる白ちゃんと日々接していますが、「落とし物に手が届かず拾えないような場面で、すぐに拾うという行動」が見られそうな気がします。

しかしながら、どうしても主観的な報告となってしまうことがもどかしく、日常の保育を行いながら、数量と客観性に富む内容の報告をどうあげていくことができるだろうと、これからもクラスの先生方、フロアーの先生方、関わって下さる様々な先生方の協力を得ながら試行錯誤していきたいと思いました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 16『社会的ルール』より

中に風船を入れて遊ぶボールカバーのようなものなのですが、

クラスの先生もかぶってみたりして、

クラスの先生もかぶってみたりして、

 

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

 

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

 

被せようとします。

被せようとします。

何とも可愛らしいですね。

でもやっぱりかぶせるのはやめて、

でもやっぱりやめて、

手をまごまごさせた数秒後、

あるものを手に取ります。

あるものを手に取ります。

この動画を撮って下さったクラスの先生が、写真左の子につけようとして嫌がって落とした、

写真左の子のスタイです。

写真左の子のスタイです。

 

それを手にとって、

それを手にとって、

 

大きく広げて、

大きく広げて、

 

つけてあげようとします。

つけてあげようとします。

 

嬉しそう!

嬉しそう!

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月23日『社会的ルール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「人間社会は、『互恵性』という社会的交換が重要なのです。(中略)互恵性は、言い換えれば、相互に強力的であることへの期待というお互いの『協力』のめばえ、もしくは、定着になると思われています。実際、人間の協力に対する意識はとても強いものがあるそうです。少し前のブログで紹介したハムリンらの研究のように、生後わずか6ヶ月であっても『援助』というポジティブな行動を好むとされています。」

先生がスタイをつけようとするのを傍で見ていたという写真右の子ですが、例えば給食時に1歳児クラスの子どもたちがエプロンをつけ合うような姿を日常的に見ていることを思い、また、上記のようなブログに触れ、子どもの心根にあるものを理解すると、このような行動を1歳の子がするというのは当然と言えば当然なのかもわからないという気持ちになります。

そして改めて思うのは、子ども同士の触れ合いを許容する日常、子ども社会を助長させようとする保育があるからこそ、このような姿に出会うことができる、ということです。

(報告者 加藤恭平)