ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で遊ぶちっち組(0歳児クラス)の3人。
星の模様の服を着た男の子(以下星くん)が磁石の玩具を出すと、それを合図と言わんばかりに一斉にその玩具に向かっていました。
他の玩具に目移りしない不思議さに思わず写真を撮ろうとカメラを向けると、興味深い光景に出会うことが出来ました。
「カチンッ」
写真一番奥の子(水色の服を着ているので以下水色くん)の磁石の玩具同士がくっついた音がしました。
それを目の当たりにしたボーダーの服を着た男の子(以下ボーダーくん)。
興味津々といった様子。
水色くんはさっきの玩具を持って、
移動した星くんの元へ。
振ってみたり、
口に含んでみたりしながら楽しんでいます。
そして、
(ん?)
(ん?)
くっついたり離れたりする、磁石の面白さに惹かれるように、何度も同じ動きを試すのです。
数秒後、
先程、星くんが持っていた玩具。手から離れたそれにも興味を示し、
外して、
外して。
何か共通の魅力を発見したかのようですね。
『臥竜塾』ブログ2015年2月10日『乳児からの科学』の中で、「不思議さを感じることが科学であるとしたら、他の年齢よりも乳児の方がより感じるのかもしれません。」とあり、それを踏まえた上でこの度の出来事に触れると、なるほど乳児における科学とはこのようなことも言えるのではないだろうかという思いが湧いてくるところです。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
更に興味深いのは、水色くんとは少し離れた場所で遊び続けていたボーダーくんです。
水色くんの遊んでいたものと同じような玩具を箱の中から選んでいました。
ボーダーくんの姿も追ってみることに。すると、
くっついている玩具を選び、
そして、
外します。
そしてくっついている玩具を選んで、外して、
またくっついている玩具を選んで、
そして外して、楽しんでいました。面白いですね。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2009年7月8日『科学』の中でこう書かれています。
「『科学』という英語は『science』ですが、その語はラテン語の『scire』を語源としていますが、それは『知ること』という意味です。(中略)子どもは本来、いろいろなものを知りたがるということは、科学する心を持ち合わせているということになるのです。それが、好奇心という言葉なのでしょう。
好奇心は、もともと人間が持ち合わせているものですが、それが促されるか、そがれるかは子どもたちの体験が影響するようです。」
この日、磁石との最初の出会いを演出してくれたのは星くんでした。そして磁石がくっつく楽しさを見せてくれたのは水色くんでしょう。好奇心が織り成す様々な現象が子ども集団の中で幾つも折重なり、ボーダーくんの姿へと昇華されていったかのようです。
数分後、水色くんが戻ってきました。
二人でくっつく玩具を探す姿を見て、こうして好奇心は互いに共有され、遊びを通して、集団、仲間意識、そういったものが育まれていくのではないかと感じたこの度の出来事です。
(報告者 加藤恭平)
補食を食べ終えた、二人。
らんらん組(4歳児クラス)、わいわい組(3歳児クラス)に、共になったばかりの4月のある日の遅番のことです。
「(絵本)読んで〜。」と持ってきたわいわい組(3歳児クラス)の男の子(紺色の服を着ているので以下紺くん)に「いいよ。」と優しく応えるらんらん組(4歳児クラス)の女の子(水色のカチューシャをしているので以下水色ちゃん)。
一文字一文字丁寧に読んであげています。が、
紺くんの視線は絵本から外れ、
おもむろに、
拾ったのは「れんげ」(笑)
おままごとの玩具が気になってしまいました。
すると、もう興味はおままごとへ。
「ねぇねぇ。ちょんちょん。」と水色ちゃん。
「もう全部読んじゃったよ〜。(笑)」
苦笑い(笑)
そして、ここからが何とも言えず素敵でした。
紺くんが持ってきた絵本を片付けてあげます。
「その上の(玩具)が取りたいの?」
「いくよ。せーの。」
「取れた?」
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年4月17日『集団のポイント』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「子どもたちの学びにはある規模の集団が必要です。そこには、多様性が存在するからです。多様性が、いろいろなものを生み出していきます。その多様性は、個人差だけでなく、男女であったり、年齢が違ったり、発達が違ったりという集団が必要です。」
子ども集団の育むものを、改めて実感します。
そして、
「異年齢でクラスを形成することの意味がほかにもあります。子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するためには、縦の関係によるネットワークがなければならないからです。大きい子がやるのをじっと見ること、それを真似すること、それが次の世代につないでいくことになるのです。よく、『子ども文化』と言われますが、これは、子どもの中で生み出され、子どもの中で伝承されていかなければならないのです。」
そんな姿を少し離れたところからじっと見ていたにこにこ組(2歳児クラス)の子。
こうして、日々子ども文化は伝承されていくのですね。
(報告者 加藤恭平)
気になることがありました。
ちっち組(0歳児クラス)の部屋にあるガラス窓です。
にこにこ組(2歳児クラス)やわいらんすい組(3・4・5歳児クラス)が階段を下りる際にここを通ります。
つかまり立ちをしている手が気になるようです。
おもむろに合わせようとするにこにこ組(2歳児クラス)の女の子。
ちっち組(0歳児クラス)の男の子は一度その場を離れるのですが、
また戻ってきた時にも、
やっぱり合わせてみます。
何だか不思議ですね。
また別のある日。
ここでも。
ここでも。
お相手はぐんぐん組(1歳児クラス)の子です。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年7月17日『五感を刺激』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「赤ちゃんは、自分の五感を研ぎ澄ますためにいろいろと身の回りのものに興味を持ち、そ尾に働きかけていきます。その時に、身の回りの物として、自分の手や足に興味を持ち、その動きを眺め、自分で自分の手や足を触るようになります。その研究は多いのですが、同様に、そのころになると、隣で寝ている子、目の前でハイハイしている子、伝い歩きをしている子、やっと歩き始めた子をじっと眺めている姿はあまり研究されていない気がします。そのころの五感を養うために行う行為を「遊び」と規定をするならば、隣にいる子は「立派なおもちゃ」になります。なぜなら、隣の子は五感を使ってその存在を確かめないといけないからです。その行動を見る、泣き声を聞く、臭いを嗅ぐ、触ってみる、なめてみるということをすべて体験できるのです。」
面白いもので、〈相手〉という言葉の中にも〈手〉が含まれてますね。その〈手〉を媒体にしたちっち組(0歳児クラス)の子どもたちからの積極的なアプローチに対するぐんぐん組(1歳児クラス)、にこにこ組(2歳児クラス)の子どもたちの応答的な関わりの形であることが理解できました。
そんな姿を追っていると、いくつかの面白い出来事に出会うことができました。
先ずは、先程登場した、つかまり立ちをして間もないこの女の子。
次回報告します。
(報告者 加藤恭平)
4月。環境に慣れることは子どもたちにとっての大きな仕事の一つのようですね。。登園後、涙涙の時間を過ごしていたちっち組(0歳児クラス)の女の子です。
それとは対照的に、フロアー中を歩き回り、既にぐんぐん組(1歳児クラス)と一緒に園庭で遊んでいる同クラスの男の子(5月生まれ)がいます。
女の子の気が紛れればと、男の子のいるぐんぐん組の部屋へ行ってみることに。
すると、
(はい、どうぞ)
ドラマは突如として始まりました。両手に持っていた玩具の内の1つを、誰も何も言っていないのに、女の子に渡したのです。
写真手前の女の子はもらった玩具をこちらに見せています。何かを確認するような表情です。
その女の子の視線につられて、男の子もこちらを見ます。こちらの反応を待っているといった印象です。
「よかったね〜!」「嬉しいね!」など、思わず出てしまった声に安堵するかのように、女の子から笑い声が起きました。そして、
この表情!
いい笑顔ですね。
男の子は、
頭を触って(撫でて)!
少し離れます。女の子の嬉しそうな様子を確認するような姿を見せてくれた後、
自分の次の興味へと、向かっていきました。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月4日『道徳のかけがえのない部分』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「私たちの道徳感は、二つの部分から成り立っていると彼(『ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』著者ポール・ブルーム氏、発達心理学者)は考えています。道徳は、私たちに生まれつき備わっている部分から始まっているからだと言います。そしてそれは、目を見張るばかりに豊かでもあるのです。赤ちゃんは道徳的な生き物だということは明らかになっています。進化のおかげで、他者に共感し、他者を思いやることができます。他者尾行動を評価することもできます。正義と公平も少しは理解しています。しかし、私たちは、単なる赤ちゃんを超えた存在なのです。私たちの道徳のかけがいのない部分、私たちを人間たらしめているものの多くは、人類の歴史と、個人の発達の過程で現われます。それは、私たちの思いやり、想像力、そして、合理的思考を可能にするたぐいまれなる能力の産物であると結論しています。」
涙で過ごしてきた時間を、彼はわかっていたのでしょうね。
そして、とても興味深いのですが、その後この女の子は、
その白い大きな柱の向こうへと行ってしまった彼を呼ぶように、
「ンパッ。」とその方向へ声を出すのです。
そして、数分後。
再び戻ってきた彼に、
(さっきはこれ、ありがとう。)
(どういたしまして。)
玩具を返すのです。
そうして先程とは打って変わって落ち着いた女の子を抱えながら、0歳児クラスにおける子ども集団の織り成すドラマに、少し呆然とする思いがしました。
(報告者 加藤恭平)