Red floor philosophy episode 7『科学』より

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で遊ぶちっち組(0歳児クラス)の3人。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で遊ぶちっち組(0歳児クラス)の3人。

星の模様の服を着た男の子(以下星くん)が磁石の玩具を出すと、それを合図と言わんばかりに一斉にその玩具に向かっていました。

他の玩具に目移りしない不思議さに思わず写真を撮ろうとカメラを向けると、興味深い光景に出会うことが出来ました。

「カチンッ」

写真一番奥の子(水色の服を着ているので以下水色くん)の磁石の玩具同士がくっついた音がしました。

写真一番奥の子(水色の服を着ているので以下水色くん)の磁石の玩具同士がくっついた音がしました。

それを目の当たりにしたボーダーの服を着た男の子(以下ボーダーくん)。

 興味津々といった様子。

興味津々といった様子。

 

水色くんはさっきの玩具を持って、

水色くんはさっきの玩具を持って、

 

移動した星くんの元へ。

移動した星くんの元へ。

 

振ってみたり、

振ってみたり、

 

口に含んでみたりしながら楽しんでいます。

口に含んでみたりしながら楽しんでいます。

そして、

 (ん?)

(ん?)

 

(ん?)

(ん?)

くっついたり離れたりする、磁石の面白さに惹かれるように、何度も同じ動きを試すのです。

数秒後、

先程、星くんが持っていた玩具。手から離れたそれにも興味を示し、

先程、星くんが持っていた玩具。手から離れたそれにも興味を示し、

 

外して、

外して、

 

外して。

外して。

何か共通の魅力を発見したかのようですね。

『臥竜塾』ブログ2015年2月10日『乳児からの科学』の中で、「不思議さを感じることが科学であるとしたら、他の年齢よりも乳児の方がより感じるのかもしれません。」とあり、それを踏まえた上でこの度の出来事に触れると、なるほど乳児における科学とはこのようなことも言えるのではないだろうかという思いが湧いてくるところです。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

更に興味深いのは、水色くんとは少し離れた場所で遊び続けていたボーダーくんです。

水色くんの遊んでいたものと同じような玩具を箱の中から選んでいました。

水色くんの遊んでいたものと同じような玩具を箱の中から選んでいました。

ボーダーくんの姿も追ってみることに。すると、

くっついている玩具を選ぶのです。

くっついている玩具を選び、

そして、

くっついている玩具を、

外します。

 

くっついている玩具を、

そしてくっついている玩具を選んで、外して、

 

またくっついている玩具を選んで、

またくっついている玩具を選んで、

そして外して、楽しんでいました。面白いですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2009年7月8日『科学』の中でこう書かれています。

「『科学』という英語は『science』ですが、その語はラテン語の『scire』を語源としていますが、それは『知ること』という意味です。(中略)子どもは本来、いろいろなものを知りたがるということは、科学する心を持ち合わせているということになるのです。それが、好奇心という言葉なのでしょう。
 好奇心は、もともと人間が持ち合わせているものですが、それが促されるか、そがれるかは子どもたちの体験が影響するようです。」

この日、磁石との最初の出会いを演出してくれたのは星くんでした。そして磁石がくっつく楽しさを見せてくれたのは水色くんでしょう。好奇心が織り成す様々な現象が子ども集団の中で幾つも折重なり、ボーダーくんの姿へと昇華されていったかのようです。

数分後、水色くんが戻ってきました。

数分後、水色くんが戻ってきました。

 

二人でくっつく玩具を探す姿を見て、こうして好奇心は互いに共有され、遊びを通して、集団、仲間意識、そういったものが育まれていくのではないかと感じたこの度の出来事です。

二人でくっつく玩具を探す姿を見て、こうして好奇心は互いに共有され、遊びを通して、集団、仲間意識、そういったものが育まれていくのではないかと感じたこの度の出来事です。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 6『集団のポイント』より

 

補食を食べ終えた、二人。

補食を食べ終えた、二人。

らんらん組(4歳児クラス)、わいわい組(3歳児クラス)に、共になったばかりの4月のある日の遅番のことです。

「(絵本)読んで〜。」と持ってきたわいわい組(3歳児クラス)の男の子(紺色の服を着ているので以下紺くん)に「いいよ。」と優しく応えるらんらん組(4歳児クラス)の女の子(水色のカチューシャをしているので以下水色ちゃん)。

一文字一文字丁寧に読んであげています。が、

一文字一文字丁寧に読んであげています。が、

紺くんの視線は絵本から外れ、

おもむろに、

おもむろに、

 

拾ったのは「れんげ」(笑)

拾ったのは「れんげ」(笑)

おままごとの玩具が気になってしまいました。

すると、もう興味はおままごとへ。

すると、もう興味はおままごとへ。

「ねぇねぇ。ちょんちょん。」と水色ちゃん。

水色ちゃん「もう全部読んじゃったよ〜。(笑)」

「もう全部読んじゃったよ〜。(笑)」

苦笑い(笑)

そして、ここからが何とも言えず素敵でした。

手に持っていた絵本を片付けてきて、

紺くんが持ってきた絵本を片付けてあげます。

 

水色ちゃん「その上の(玩具)が取りたいのね?」

「その上の(玩具)が取りたいの?」

 

「いくよ。せーの。」

「いくよ。せーの。」

 

「取れた?」

「取れた?」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年4月17日『集団のポイント』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

子どもたちの学びにはある規模の集団が必要です。そこには、多様性が存在するからです。多様性が、いろいろなものを生み出していきます。その多様性は、個人差だけでなく、男女であったり、年齢が違ったり、発達が違ったりという集団が必要です。

子ども集団の育むものを、改めて実感します。

そして、

異年齢でクラスを形成することの意味がほかにもあります。子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するためには、縦の関係によるネットワークがなければならないからです。大きい子がやるのをじっと見ること、それを真似すること、それが次の世代につないでいくことになるのです。よく、『子ども文化』と言われますが、これは、子どもの中で生み出され、子どもの中で伝承されていかなければならないのです。

そんな姿を少し離れたところからじっと見ていたにこにこ組(2歳児クラス)の子。

そんな姿を少し離れたところからじっと見ていたにこにこ組(2歳児クラス)の子。

 

こうして、子ども文化は伝承されていくのですね。

こうして、日々子ども文化は伝承されていくのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 5『赤ちゃんの興味』より

ちっち組(0歳児クラス)の女の子がつかまり立ちをしていると、

ぐんぐん組(1歳児クラス)の女の子が来てくれました。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の女の子が来てくれました。

 

窓を手で叩いて、嬉しそうな表情のちっち組(0歳児クラス)の子です。

窓を手で叩いて、嬉しそうな表情のちっち組(0歳児クラス)の子です。

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子も、こんな風にアプローチ。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子も、こんな風にアプローチ。

 

そして手を合わせた後、

そして手を合わせた後、

 

おもむろに持っていた玩具を右手に持ち替えるちっち組(0歳児クラス)の子。

おもむろに持っていた玩具を右手に持ち替えるちっち組(0歳児クラス)の子。

窓を叩くその流れで玩具が当たり、「コン、コン。」と可愛い音が鳴ります。

そして、

少しして、

少しして、

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子は行ってしまいました。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子は行ってしまいました。

ここからがとても興味深かったのですが、

最初小さく鳴らしていたその音、

最初小さく鳴っていた窓を叩く音、

その子が離れるにつれて大きくなっていったのです。

まるでぐんぐん組(1歳児クラス)の子を呼んでいるかのようでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年6月16日『赤ちゃんの興味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「社会脳が最近話題になっており、その重要性が言われていますが、その社会脳はいつごろ、どのような環境の中で育って行くのでしょうか。私の園で、職員がこんな動画を撮って見せてくれました。『あるまだ歩けない赤ちゃんが、中にビーズを入れたペットボトルを振って、マラカスのように音を出して楽しみ始めました。すると、このこと丸くなって座っていた同じくらいの月齢の二人の赤ちゃんがやはり手に持ったペットボトルを振り始めました。その振り方をよく見ると、この赤ちゃんたちは、他の子の音を聞きながらそれに合わせて振っているように見えます。あたかも、赤ちゃん同士で合奏しているかのようです。』

このような場面は、今まで研究されてきたでしょうか?この赤ちゃんたちは、この日に突然一緒にされたわけではなく、ふた月の間一緒に過ごしてきた仲間です。あるとき、複数の赤ちゃんを一堂に集め、その行動を研究したことはあるかもしれません。すると、赤ちゃんは、遊び始めますが、お互いの遊びに関係なく、個々に遊び始めます。それを、「平行遊び」と名付けたのでしょう。しかし、園では、そんな姿は最初のうちだけで、すぐに他人の行動をよく見つめ、それに呼応するような行動をとり始めます。それは、その赤ちゃんの月齢ではなく、どのくらいの期間、一緒に過ごした仲間であるという要素が大きい気がします。

しかも、4月当初の園での赤ちゃんの行動から、思っていたことと違った行動が観察されました。平行遊びから関わり遊びに移行していくのは、そのくらい一緒に過ごしたかとは限らないことがわかったのです。それは、まだ月齢の低い子たちの行動です。月齢の低い子は、初めて会ったばかりの他児に対して非常に興味を持ち、それを眺め、手を伸ばして触ろうとするのです。その興味は、手元にあるぶら下がったおもちゃよりも、風で動くおもちゃよりも人の動きに目を向けるのです。その時に、他の赤ちゃんと触れさせず、特定の大人だけと接しさせると、他児への興味を失うような気がします。それが、また、早いうちに他の赤ちゃんと一緒にすることで、次第にまた他児に興味を持ってくるような気がします。」

本当にそう思う場面に、この4月はたくさん巡り会うことができました。

4月のある日の写真たちでうす。写真右手の子は、おもむろに隣の子の手をつなごうとしていました。

4月のある日の写真たちです。写真右手の子は、おもむろに隣の子の手をつなごうとしていました。

 

写真上の子は、寝返りをうてるようになったかなっていないかの時期にこのような姿を見せてくれました。

写真上の子は、寝返りをうてるようになったかなっていないかの時期にこのような姿を見せてくれました。

 

視線を合わせて何だか楽しそうです。

視線を合わせて何だか楽しそうです。

 

奇跡的(?笑)な一枚。真ん中の二人は、まるで談笑をしているかのよう。

奇跡的(?笑)な一枚。真ん中の二人は、まるで談笑をしているかのよう。

 

寝ている赤ちゃんに近づいて、

寝ている赤ちゃんに近づいて、

 

優しくタッチ。

優しくタッチ。

男性に不慣れな時期を経ようとしている写真左手の女の子ですが、4月からこのような時には涙を見せず、むしろ積極的で優しげな関わりを見せてくれていました。

座って遊ぶ写真右手の子が気になる写真左手の子で、

座って遊ぶ写真右手の子が気になる写真左手の子で、

 

足に触ろうとします。

足に触ろうとします。

 

左手の子が違う方を向いても 、その子を追うかのようのような姿を見せてくれました。

右手の子が違う方を向いても、その子を追うかのように触れようとする姿を見せてくれました。

「これは、あくまでも私の現場を観察しての仮説です。これを、どうにかして解明したい気がしています。そのことが、きょうだいの存在意味、アフリカで今だに古代の生活をしているカラハリ砂漠に住むサンの人たちが生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをするということを説明している気がするのです。もちろん、赤ちゃんは突然泣き出し、誰かを探します。そして、誰かの大人に寄っていこうとします。ふと不安になったのかもしれません。親を探しているのかもしれません。その行動は、他の子を求め、他の子に興味を持つことと矛盾はしないのです。ともに、赤ちゃんにとっての行動なのです。

それは、ものに興味を持ち、それに触ろうとする行動と同じかはよくわかりません。しかし、よく観察していると、物より人に優先して興味を持つような気がします。赤ちゃんの興味は、他の赤ちゃんがおもちゃよりも気を引くようです。赤ちゃんは、人の表情を見る能力のほうが、ものの形を認識する能力よりも強い気がするかです。」

この度のブログに触れると、つかまり立ちをしたちっち組(0歳児クラス)の子が窓を叩いてその子を呼ぶ姿は、「生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをする」ことを古来より行ってきた人類の織り成す姿のように思えてきますね。

そして、

その音に誘われるようにぐんぐん組(1歳児クラス)の男の子が。

その音に誘われるようにぐんぐん組(1歳児クラス)の男の子が。

 

こうして近付くにつれて再び小さくなる窓を叩く音。神秘に触れるような感動を覚えます。

こうして近付くにつれて再び小さくなる窓を叩く音。神秘に触れるような感動を覚えます。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 4 ちとぐんとにこ

気になることがありました。

ちっち組(0歳児クラス)の部屋にあるガラス窓です。

ちっち組(0歳児クラス)の部屋にあるガラス窓です。

にこにこ組(2歳児クラス)やわいらんすい組(3・4・5歳児クラス)が階段を下りる際にここを通ります。

つかまり立ちをしている手が気になるようです。

つかまり立ちをしている手が気になるようです。

 

おもむろに合わせようとするにこにこ組(2歳児クラス)の女の子。

おもむろに合わせようとするにこにこ組(2歳児クラス)の女の子。

 

ちっち組(0歳児クラス)の男の子は一度その場を離れるのですが、

ちっち組(0歳児クラス)の男の子は一度その場を離れるのですが、

 

また戻ってきた時にも、

また戻ってきた時にも、

 

やっぱり合わせてみます。

やっぱり合わせてみます。

 何だか不思議ですね。

また別のある日。

ここでも。

ここでも。

 

ここでも。

ここでも。

お相手はぐんぐん組(1歳児クラス)の子です。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年7月17日『五感を刺激』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「赤ちゃんは、自分の五感を研ぎ澄ますためにいろいろと身の回りのものに興味を持ち、そ尾に働きかけていきます。その時に、身の回りの物として、自分の手や足に興味を持ち、その動きを眺め、自分で自分の手や足を触るようになります。その研究は多いのですが、同様に、そのころになると、隣で寝ている子、目の前でハイハイしている子、伝い歩きをしている子、やっと歩き始めた子をじっと眺めている姿はあまり研究されていない気がします。そのころの五感を養うために行う行為を「遊び」と規定をするならば、隣にいる子は「立派なおもちゃ」になります。なぜなら、隣の子は五感を使ってその存在を確かめないといけないからです。その行動を見る、泣き声を聞く、臭いを嗅ぐ、触ってみる、なめてみるということをすべて体験できるのです。」

面白いもので、〈相手〉という言葉の中にも〈手〉が含まれてますね。その〈手〉を媒体にしたちっち組(0歳児クラス)の子どもたちからの積極的なアプローチに対するぐんぐん組(1歳児クラス)、にこにこ組(2歳児クラス)の子どもたちの応答的な関わりの形であることが理解できました。

そんな姿を追っていると、いくつかの面白い出来事に出会うことができました。

先ずは、先程登場した、つかまり立ちをして間もないこの写真の女の子。

先ずは、先程登場した、つかまり立ちをして間もないこの女の子。

次回報告します。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 3 ちとち

先日、動画を撮りました。

写真右手の女の子(ちっち組0歳児クラス、ボーダー柄のズボンを履いているので以下ボーダーちゃん)が泣いています。

写真右手の女の子(ちっち組0歳児クラス、ボーダー柄のズボンを履いているので以下ボーダーちゃん)が泣いています。

 その子に写真左手の男の子(ちっち組0歳児クラス、チェック柄の服を着ているので以下チェック君)が手に持っているオーボールを渡そうとしたように見えたところを見て、すぐにカメラを向けました。

バランスを崩したからのようにも見えるのですが、

バランスを崩したからのようにも見えるのですが、

 もう一度その子にオーボールを渡そうとしてクッションに阻まれているようにも見える先程の写真の6秒後です。

ボーダーちゃんを見た後、数回床をボールで叩きます。

ボーダーちゃんを見た後、数回床をボールで叩きます。

 音であやそうとしているようにも見えます。

チェック君の視線を追うべく、この辺りからカメラを寄せて行きました。

心配そうな表情ですね。

心配そうな表情です。

励ますように微笑みかけたりもする表情のチェック君。すると、次の瞬間、

ボールが手元を離れてしまいます。

ボールが手元を離れてしまいます。

 

それを追いかけるチェック君。

それを追いかけるチェック君。

それをきっかけにして、別の方向へ向き、ボールで遊び始めてしまったところで動画撮影を終了。その時は、ボールへの興味の方が勝ってしまったのだと思いました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年2月28日『最近の赤ちゃん研究』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「最近の赤ちゃんの研究の多くは、受動的な子ども観の見直しが多いような気がします。赤ちゃんをはじめとして、子どもは大人から何かをしてもらう存在であり、また、何も知らない白紙であるという認識がまだまだあります。しかし、実は、もしかしたら人生の中でもっとも能動的な時期かもしれないということが研究されてきています。そんな観点からの研究成果が様々なところで紹介されています。

昨年、2014年09月12日の毎日新聞に、こんな見出しの記事が掲載されていました。「赤ちゃんは、“教えたがり”…受動的な子供観見直しも」というものです。何も知らない赤ちゃんは、大人が教え、赤ちゃんは教わる存在であるということが言われてきましたが、実は、赤ちゃんは教わる存在というよりも、教えようとする存在でもあるということです。

この研究は、九大の橋弥和秀准教授(比較発達心理学)らが、生後13〜18カ月の赤ちゃん計32人を対象に行った研究で、米オンライン科学誌プロス・ワンに掲載され、子どもは大人から教わるだけという受動的な子ども観を見直す研究として注目されています。

 こんな実験をしてみました。ボールや鈴などのおもちゃ12個を準備します。そして、ボールで大人と1分間遊んだ後、その大人の背後にボールと鈴の二つを見せるなどおもちゃを替えて繰り返します。ボール遊びをした後は、鈴を指さすなど赤ちゃんは計64回のうち41回(64%)は遊んでいない方のおもちゃを指さしたそうです。一方、ボール遊びの後で、遊んだ相手とは別の人が来て背後にボールと鈴を置くなどしたところ、遊んでいないおもちゃを指さしたのは63回中30回(48%)で、遊んだおもちゃとの差はありませんでした。この傾向は、赤ちゃんがおもちゃに注視する時間から、おもちゃに関する好みとは関係ないことも確かめられました。

 この結果から、赤ちゃんは目の前の大人を認識し、相手にとって未知の新しい物を指さして教えているということが分かったのです。大人同士の会話で「これ、知っている?」と相手の注意を引くのと同じで、教えたがる欲求を持っていると考えられるようです。橋弥准教授によると、近年、乳児が教わる側として有能であることを示す研究成果は多くあります。しかし、今回の研究は1歳半の時点で相手の認識を推し量る能力を備え、自発的に情報を提供していることを示しています。橋弥准教授は「教えたがるという新しい子ども観を示すことで教育活動にも影響を与えるだろう」と話しています。

九州大の研究チームが初めて解明したのですが、実は、このような場面は、現場ではよく見かけることがあります。1歳半の赤ちゃんが「あのおもちゃ、見たことないでしょ」などと相手にとって未知の物を推測し、指をさして教えようとします。また、それを手に取って、渡そうとします。赤ちゃんは、いろいろなものを渡してくれようとします。「ちょうだい!」と言うと、手渡してくれることもありますが、渡すふりして、渡さずにじらすこともします。もらえると思って手を出すと、「あげないよ!」というかのように渡してくれず、何となく「にたっ!」とします。大人を、からかっているかのようです。

昨年10月ごろから「パパのくしゃみを全力でからかう双子の赤ちゃん」の動画が人気があります。おもちゃで遊んでいる双子の赤ちゃんの後ろにいたパパが、くしゃみをすると、片方の子がそのマネをします。その後ふたりして、くしゃみのマネを連発するのです。大人より、赤ちゃんの方が一枚上手ですね。」

このブログの内容と直接的な関係ではないのですが、一つの着想を得たのは、チェック君は、そろそろボーダーちゃんを泣き止ませるだろうと、カメラを向けている大人にその役割を渡したのではないかということでした。

考えてみれば、チェック君からみた撮り手はあまりにもボーダーちゃんの傍にいる存在で、しかも大人で、そしてアップを撮ろうとすぐ傍まで来ているのです。チェック君のボールを持つ手が緩んだのも、もしかしたら大人が傍にきたという安心感のようなものがそうさせたのかもわかりません。

「大人より、赤ちゃんの方が一枚上手ですね。」

本当にそう感じてしまったこの度の出来事です。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 2 ちとち

4月。環境に慣れることは子どもたちにとっての大きな仕事の一つのようですね。。登園後、涙涙の時間を過ごしていたちっち組(0歳児クラス)の女の子です。

それとは対照的に、フロアー中を歩き回り、既にぐんぐん組(1歳児クラス)と一緒に園庭で遊んでいる同クラスの男の子(5月生まれ)がいます。

女の子の気が紛れればと、男の子のいるぐんぐん組の部屋へ行ってみることに。

すると、

 (はい、どうぞ)

(はい、どうぞ)

ドラマは突如として始まりました。両手に持っていた玩具の内の1つを、誰も何も言っていないのに、女の子に渡したのです。

写真手前の女の子はもらった玩具をこちらに見せています。何かを確認するような表情です。

写真手前の女の子はもらった玩具をこちらに見せています。何かを確認するような表情です。

その女の子の視線につられて、男の子もこちらを見ます。こちらの反応を待っているといった印象です。

「よかったね〜!」「嬉しいね!」など、思わず出てしまった声に安堵するかのように、女の子から笑い声が起きました。そして、

この表情!

この表情!

いい笑顔ですね。 

男の子は、

頭を触って(撫でて)!

頭を触って(撫でて)!

 

女の子の嬉しそうな様子を確認するような姿を見せてくれた後、

少し離れます。女の子の嬉しそうな様子を確認するような姿を見せてくれた後、

自分の次の興味へと、向かっていきました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月4日『道徳のかけがえのない部分』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私たちの道徳感は、二つの部分から成り立っていると彼(『ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』著者ポール・ブルーム氏、発達心理学者)は考えています。道徳は、私たちに生まれつき備わっている部分から始まっているからだと言います。そしてそれは、目を見張るばかりに豊かでもあるのです。赤ちゃんは道徳的な生き物だということは明らかになっています。進化のおかげで、他者に共感し、他者を思いやることができます。他者尾行動を評価することもできます。正義と公平も少しは理解しています。しかし、私たちは、単なる赤ちゃんを超えた存在なのです。私たちの道徳のかけがいのない部分、私たちを人間たらしめているものの多くは、人類の歴史と、個人の発達の過程で現われます。それは、私たちの思いやり、想像力、そして、合理的思考を可能にするたぐいまれなる能力の産物であると結論しています。」

涙で過ごしてきた時間を、彼はわかっていたのでしょうね。

そして、とても興味深いのですが、その後この女の子は、

大きな柱の向こうへと行ってしまった彼を呼ぶように、

その白い大きな柱の向こうへと行ってしまった彼を呼ぶように、

 「ンパッ。」とその方向へ声を出すのです。

そして、数分後。

再び戻ってきた彼に、

(さっきはこれ、ありがとう。)

(さっきはこれ、ありがとう。)

 

(どういたしまして。)

(どういたしまして。)

玩具を返すのです。

そうして先程とは打って変わって落ち着いた女の子を抱えながら、0歳児クラスにおける子ども集団の織り成すドラマに、少し呆然とする思いがしました。

(報告者 加藤恭平)