『共視共食』

 

4月最初の土曜日

給食をお花見にしようということで、

セッティング

「気持ちいいね」

「何かお家みたいだね」子どもたちから嬉しそうな声が聞こえてきます。

配膳 

01歳児クラスの子たちは一足先に

「いただきます」副園長先生も一緒です

ブログ『臥竜塾』2010年8月29日『共視共食』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。

皆よく食べました

その日出勤された先生方皆で春を満喫できたこと、とても素敵な時間でした。

(報告 加藤)

『2019年1月1日』

 

「見ないで書いたの」

「見ないで書いたの」

すいすい組(5歳児クラス)の子が教えてくれました。

せいがぼうや

せいがぼうや

園のマスコットキャラ「せいがぼうや」に帽子を被せたアレンジを加えているようです。

すると、

「真似して書いたよ」

「真似して書いたよ」

皆、とても上手ですね。

皆、とても上手ですね

ブログ『臥竜塾』2019年1月1日『2019年1月1日』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

現在、私のブログの中で連載中ですが、昨年は、1994年にハリスが提唱した新しい理論に出会えたことは、私にとって大きな出来事でした。彼女は、子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てました。私は、「よりも」というほど強くはありませんが、最近の講演の中で強調しているのは、子ども同士の関係の重要性です。

頭にあるイメージで絵が描ける創造力に驚いてしまうのですが、それに影響を受けた子が真似をして続く、このような連鎖が自然と生まれることにも改めて感動を覚えます。子ども同士の関係から生まれる物語を今年も追いかけていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

『怒りのコントロール3』

らんらん組(4歳児クラス)の子たち。ピーステーブルで興味深いやりとりを見せてくれました。

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

遊んでいる最中に左くんの口元に右くんの手がぶつかってしまったようで、痛かったことと、その思いを伝えるべく左くんが右くんをこの場所へ連れてきました。

見ている二人は仲裁役を果たします。

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

右くん「ごめんね」左くん「…」

右くん「ごめんね」左くん「…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

少しの沈黙。

マッサージ器具をくるくる

マッサージ器具をくるくる

右くんには悪気がなかったようで、中々許してくれない左くんのキゲンを伺うような雰囲気に。

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

この喧嘩が終わらないのは許してあげられない左くんにも原因があるのでは、という仲裁役の子の見解でしょうか。

少しの沈黙。仲裁役の子が動きます。

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

答えない左くん。

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

ここが秀逸でした。

(うれしい)

(うれしい)

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「喧嘩してんのになんで嬉しいんだよ笑」

右くんは解けた空気にほっとした様子。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

仲裁役の子「(左くんは)悲しい気持ち?怒ってる気持ち?」

仲裁役の子「左くん、泣いてる?」

右くん「(左くんは)これ?」

右くん「(左くんは)これ?」

左くんにも笑顔が生まれ、けれども不本意に思わず場が和んでしまったことが許せない左くんはここからが苦労ですね。

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「ねぇ、これ?」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

少し調子にのり過ぎてまた怒らせてしまいましたが、数分後、

「せっせせーのよいよいよい!」

「せっせせーのよいよいよい!」

仲直りできたようです。

ブログ『臥竜塾』2013年2月8日『怒りのコントロール3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

つくづく私たちホモ・サピエンスは、相手をやっつけることでは生き延びてはこなかったのだということを確信します。また、子どもたちを見ると、そのような怒りのコントロールの力を持っていることも見ることができます。また、けんかをすることによって、怒りをコントロールする力を学んでいる気がします。赤ちゃんは、よく、物をとられて大声で泣いて、とった相手に怒りをぶちまけます。そんな時に、子どもはその評価を冷静にすることはできませんが、意外と執着せずに、さっさと違うことに目を向けます。そして、怒りを持ち続けることはしません。大人と違って、次の楽しいことに取り掛かるのです。

また、3歳以上になると、私の園に設置されている「ピーステーブル」という場所にいって話し合いをしています。その話し合いをしている姿を見ると、まず、そこまで行くまでに頭を冷やし、断固した態度で相手と対決しています。しかし、普段の生活で、それほどストレスがないのか、簡単に解決し、仲よく一緒に戻っていきます。たまに、自分で自分の気持ちの整理ができないときには、仲裁する子がいます。こんな時に、変に大人が仲裁に入ると、怒りが増大してしまうことがよくあります。大人は、集結しようとその怒りの原因を聞きだそうとしますが、子どもたちは、腹の立つことを思い出すたびに怒りが少しずつ積み重なっていくばかりです。そして、最後には大人の権力を持って、集結させてしまうのです。子どものけんかは、けがのない限りは、放っておけばいいのです。

喧嘩をしても、子どもたちのように仲直りができたら。子どもたちから学ぶことの大切さを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)

 

『思考方法』

「これきれいだよー」

「これきれいだよー」

らんらん組(4歳児クラス)の子が教えてくれました。

トンボの目

トンボの目

トンボの目のつくりを再現したこの玩具に、

このブロックを合わせました

このブロックを合わせました

組み合わせの妙ですね。
ブログ『臥竜塾』2014年12月22日『思考方法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子どもにおける科学する力を考察するにあたって、いろいろな形式を組み合わせて学びを拡張していこうとする実践が行われています。そのために、約1世紀の間、幼児学校や進歩的な教師たちによって取り組まれてきました。同時に、脳の解剖学構造についての新しい知見が得られました。その知見によって、現場で直感的に知っていたことが正しかったことが分かってきています。それは、子どもたちの学習の可能性はとても大きく、それを効果的に伸ばすには、様々な学習の道筋が用意されていなければならないことが分かったのです。この解明について、現在、私が現場から感じている乳幼児における発達、それは、乳幼児期における学習、教育のあるべき考え方が、次第にいろいろな研究知見から説明されることと似ている気がしています。認知神経科学者は思考方法について研究しています。その結果、思考方法には異なった二つの形態があり、それが一緒になって働くことを確信しています。それは、「意識的な思考」と「非意識的な思考」という形態です。「意識的な思考」とは、自分がしていることを意識していて、情報を獲得したり、情報を使ったりするときに言葉を使います。一方、「非意識的な思考」は、潜在学習とか無意識思考とも呼ばれています。意識下で常に働いていて、言葉は使われません。この二つの思考形態は、お互いに影響し合いますし、普通心的活動でもこの両方が働いています。幼児の思考の多くは、社会的行動や言葉から、無意識のうちに複雑なパターンや暗黙のルールを学んでいきます。実は、科学には、この非意識的思考が重要なのです。科学的というと、情緒的と正反対な世界のように思えますが、実は、そこにはかなり人間の能力の中で五感以外の感覚が必要のようです。「ははぁ、やっとわかった!」という、思いがけない解決を経験することがよくあります。そのとき、意識的な思考では思いつかなかった解決を、非意識的なプロセスが導き出したものなのです。このようなことを、たぶん、「ひらめき!」というのでしょうが、科学的思考の領域では、想像力と同じように、直観的な洞察力も大切なのです。解決すべき問題を見つけ出したり、解決方法の目星をつけたりするときに、なくてはならない思考法だというのです。「確かにね!」と同感します。理詰めで考えを展開していくと息づまることがあり、ふと、直観的にひらめくことがあります。私たちの周りで進行している様々なことを意識して知覚できるのはほんのわずかで、ほとんどは非意識的プロセスによって取り入れているのです。そして、情報処理も、意識的思考よりも早く処理しています。さらに、非意識的プロセスは、まとまりを見つけ出したり、他の情報とのつながりをつけたりするときにも、とても効率的であるということが分かっています。
「あれとあれを組み合わせてみよう」というような、単純な思考と思えるその奥で、脳はとても豊かなプロセスを経過するようです。子どもたちの創造力、閃きが生まれる環境について、考えていきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)

『二分法』

 

水曜日の朝

水曜日の朝

子どもたちが決めて開ける朝のゾーン表。ブロックゾーンも製作ゾーンも開いていません。

「だって校庭開放*だから片付け大変でしょ?」

すいすい組(5歳児クラス)子から一言。流石だと思いました。

ブログ『臥竜塾』2017年4月14日『二分法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ここでまた、私たちが生きていく上で大切にしなければならないことが示唆されています。まず、ヒトが持っている能力を他の生き物と区別するものは、「能力の種類」ではなく、むしろ「能力を発揮できる程度」だということです。これは、私たちが大切なのは、どのような能力を持っているかということではなく、持っている能力をどのように発揮できるかということなのです。今回、教育として大切なものとして、「知識・技能の習得」が挙げられていますが、それも、どのような知識を持っているか、どのような技能を持っているかということが大切なのではなく、それらの知識をどのように使うことができるのか、持っている技能を何のために、誰のために使うかどうかに意味あるのです。

また、すべてのほ乳類と鳥類が生きていくための基本能力がどんなものであるか、そして、その能力のレベルがどのくらいであるかが問題であるということだそうですが、そのときの基本能力とはどのようなものかということが、私たちが持たなければいけない能力を示しています。ダンバーが、その例としてあげているものに、「因果関係を把握する」「類推する」を挙げています。そして、彼は、これらの能力が合わさって大きなスケールで展開されるときに、心を読む能力がふと出現すると言っています。このふたつの能力は、先の見通しが立てられるということであり、また、因果関係を把握するということは、仏教の世界でも大切にしていることでもあるのです。

保育者のような視点で朝のゾーンが決められていることを改めて感じました。

(報告者 加藤恭平)

*毎週水曜日、8:30頃〜9:30まで、近くの小学校の校庭をお借りして遊べる時間の総称です

Blue floor philosophy episode 34『自立的に行動する』より

秋を感じよう、ということで、

可愛いですね

可愛いですね

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

ネックレス

ネックレス

ケーキ、マカロン

ケーキ、マカロン

装飾へ

装飾に

コルクボードのところになんて書こうか、先生が子どもたちに尋ねると「ケーキづくりたのしかったよ、はどう?」と返ってきたり、とても楽しい様子です。

すると先日、ネックレスにしていたどんぐりがとれてしまったらんらん組(4歳児クラス)の子がいました。

接着剤をつけてあげようとしていると、ごっこゾーンのドレスの背中のチャックを上げてほしい、と数人から依頼がきました。

少し待っててね、と声をかけ、急いで接着剤を、としていると、らんらん組(4歳児クラス)の子がその子たちのチャックを全部閉めてくれたのです。

「やって、と子どもが頼んできた時に、すぐにやってあげる方がやってあげる子に育つ。大人をモデルにして子どもは育つから」

「やり方を教えてあげることもある。それだと自分でできるようにはなるけれど、やってあげる子には育たない」

幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿「自立心」の中で塾長が教えて下さった自立の考え方、それがそのまま目の前に起きた出来事と重なるように思え、感動しました。

ブログ『臥竜塾』2013年3月14日『自立的に行動する』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

生きるうえで必要な「自立」ほど、その定義があいまいなものはないような気がします。というのは、生きる力というものは、時代によって変わってくるからです。また、時代によって求められる力も変わってくるからです。人は、長い進化の過程で、その時代を生き抜く力をつけてきました。恐竜と戦い、多民族と戦い、飢饉と戦い、そして、戦争のような同じ人間同士が戦う時代がありました。それは、今でも世界の中では起きています。また、その戦いは、成績で他の人と、会社で他の会社と行うこともあります。多くの時代は、それらの戦いに勝つための力が必要でした。しかし、どうも、ヒトは闘うことで、戦いに勝つことでだけでは生きてこなかったようです。

 現在、人が生きていくうえで必要な能力は、EQ力であり、キー・コンピテンシーなのです。EQ力についてしばらく置いておいて、キー・コンピテンシーについて、その具体的な内容をOECDが提案する内容から考えてみたいと思います。

 まず、自立についてですが、以前から、私は、自立とは「一人で、無人島で生きていく力」ではなく、「社会の中で、自分の役割を持って生きていく力」であると思っています。それは、OECDでも指摘しているところです。三つのカテゴリーの一つである「自立的に行動する能力」について、「自立とは孤独のことではなく、むしろ周囲の環境や社会的な動き、自らが果たし果たそうとしている役割を認識すること。」としています。まさに、私が以前から提案していることと同じです。

「自立というのは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

「自立とは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

枝にかけて乾かしていると塾長がその前を通られ、この出来事を伝えました。

いただいた一言が何とも印象深いものでした。

「それでは、これからもやってあげて下さい」

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 33『数覚』より

数ゾーン、電卓が楽しいようです。

このような問題を出しました

このような問題を出しました

なぜか部屋の隅に貼って、解いています

なぜか部屋の隅に貼って、解いています

集中力が増すのでしょうか。

面白いのは、すぐに答えを持ってこないところで、取り組んでいる何人かが一緒にきます。

「(電卓で)出た数字が一緒になったら、それが(答えとして)合ってるのかなぁって」

「(電卓で)出た数字が一緒になったら、それが(答えとして)合ってるのかなぁって」

自然協力をするのですね。

ブログ『臥竜塾』2011年10月20日『数覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

最近、乳児に興味を持つようになると、人類に進化というものを考えるようになります。人類は、どんな遺伝子を持って子孫につないでいくのであろうか、また、何をつないでいく責任があるのかを考えます。また、その進化と呼応して、科学技術の進歩が、人類にとってどんな意味を持つのか、そして、どの方向に行こうとしているのかを考えます。

 現在、科学技術はある面において、人間の機能を大きく上回っています。過去において、科学技術は、人間に近づこうとしました。人間がすることを、機械が代わりにできないか、人間の手助けができないかと言うことで開発してきたのが、どこからか、人間のできないことをするような機能を備えています。
たとえば、計算をする能力は、どんなに安い、簡単な電卓でさえ、多くの人間の計算力をはるかに上回っています。では、計算力においては、電卓よりも人間のほうが劣っているのでしょうか。また、人間が今後進化をしていったら、電卓のような計算力を持つようになるのでしょうか。確かに、訓練すれば、たとえばそろばんを得意としてくると、少しは計算は速くなるでしょうが、コンピュータには到底及びません。

 しかし、計算において、コンピュータよりも人間のほうがはるかに優れた能力があります。そうなると、それは数学の世界ではなく、認知心理学も問題になります。私が疑問に思ったことと同じようなことをスタニスラス・ドゥアンヌも思ったようです。そこで、彼は、数学者から認知心理学・神経科学に転身しました。そして、『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み』を書き表して、ジャン・ロスタン賞を受賞したのです。

 彼の疑問は、この本の表紙の裏に書いてあります。「ヒトは数を数え、その営みの延長上に数学という堅固で有用な体系ができあがった。ではその数とは、あるいは数学とは文化的に創られたものなのか、それとも、人間の営みとは無関係に初めからあったものなのか。数覚があるなら、たとえば脳のどこにあるのだろう?」よく、「子どもたちの視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という五感を刺激する」と言いますが、ほかにも子どもたちの脳の中には、いろいろな感じる部分があるようで、数覚という感覚はあるような気がします。

早く次の問題を出してほしい、と嬉しそうに言う子どもたちの姿を見て、数字の不思議を楽しむ力が本能的に携えられているのではないか、と思えてきます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 32『日本の花』より

 

クラスの先生が散歩先で集めたものを子どもたちと飾っていました

クラスの先生が散歩先で集めたものを子どもたちと飾っていました

秋ですね

秋ですね

ブログ『臥竜塾』2015年11月3日『日本の花』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「花を愛する心は日本人の国民性である。世界中で、日本におけるほど花を愛する心が一般化している国はないというほうが適切かもしれない。また、絵を描こうとする場合にもっとも一般的な画題の一つは花ということになる。そして、装飾芸術としては、その自然のままの、あるいは伝統的な形態からして、つねに、主要な動機付けとして選ばれる。」私たちは、欧米の人たちのほうが花好きだと思っています。プレゼントして花束を贈り、家の中には花が飾られています。花に囲まれて生活していると思っています。しかし、それはもしかしたら上流家庭の話で、すべての層の人たちの間でも、明治当初の日本では花に囲まれて生活しているように思えたのでしょう。それは、モースによると、日本人が手になる簡易な手作り品である、刺繍、陶器、漆器、壁紙、扇、またその金属ないし青銅製品においても花が描かれ、また造形の対象となっているというのです。

 「社会生活においても、これらの花をあしらった物品が絶えず顔を出す。誕生から死ぬまで、花は、なんらかのかたちで日本人の日常生活に関わりを持っている。日本人は、死ぬと、そののち何年ものあいだ、墓前に新鮮な花を供えてもらえる。」このように日本人は、花に囲まれて生活をしているというのです。それは、当然室内装飾にも現れているのです。

花や木の実など、季節のものを通して季節を感じる心もまた日本人にとって大切なものだと感じます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 31『成功の見通し』より

土曜日の夕方、園庭に出てみると、

大きな水溜り

大きな水溜り

遊んでいる内、らんらん組(4歳児クラス)の子が、

「下まで流れてる」

「下まで流れてる」

正面玄関へと続く道に流れる水が面白かったようです。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます

もっとやろう、ということになり、

道具を使って水をすくって

道具を使って水をすくって

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

とても楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2016年4月28日『成功の見通し』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだのです。彼らはしくじると思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険を冒したのです。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだったのです。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからです。それまでの成功が、彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励したのです。それがすべて合わさって、楽観主義者をなおいっそうほほえませる結果を生むというのです。

この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかったそうです。しかし、そういう子どもも、現に首尾よく課題を成し遂げたときには、ポジティブな反応を見せ、この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高まったそうです。成功するだろう、あるいは、失敗するだろうという一般的な見通しは、私たちが新しい課題にどう取り組むかに、重大な影響を与えることがわかりました。」

子どもたちの姿を見て、なるほど失敗は失敗と思うから失敗なのであって、それを失敗と思い込むようになってしまったのは、それを失敗と思い込ませた何かが、もしくは誰かの存在が在ったのではないか、と思いました。子どもが自発的に、自主的にやってみようと思いついたこと、その中で生まれるささやかな目標へ向けて何度もやってみようとすること、そこで達成される日常の中の素朴な成功体験が積み重ねられることで、成功の見通しというものは静かに確立されていくのではないかと思いました。

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

そんな先のことまで見通して遊んでいるものなのですね、驚いてしまいます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 30『集中力』『一休さん』より

夕方、クラスの先生から「座禅を組んでいる子がいる」との情報が入りました

3階ホールの一角

3階ホールの一角

見られていることに気付き、少し照れるような恥ずかしい気持ちとが入り、輪が乱れると、まるでそれを邪念とするかのように、

「集中チーム!集中して!」

「集中チーム!集中して!」

中心人物と思われる子から叱咤が入ります。

笑ったり、笑わせ合ったりしながら30分程の間、この遊びを楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2009年6月24日『集中力』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「子どもは大人と違って、いろいろなことに興味関心があり、好奇心旺盛です。また、集中できる時間も、大人と違ってもともと長くはありません。数年前から、人間らしいものを考えるときに働く前頭葉が注目を浴びていますが、その前頭前野の活発な活動のリミットは、人がどのくらい集中できるかということで計ることができます。すると、集中力は大人のレベルでも40?50分くらいで切れてしまうそうです。ですから、まあ、1時間が限度です。また、教育の現場で言われる集中力は、小学生では学年×10分が最高であると言われています。ということは、1年生では、10分です。ですから、幼児ではすぐに周直が切れてしまうのは当たり前ですね。簡単に集中力がないと言わずに、子どもたちが何に取り組んでいるのか、何をしたがっているかを見る必要があるような気がします。」

誰が何の目的で始めたのかわかりませんが、電気の付いていない薄暗い場所を利用して子どもたちは集中力を高め合っているようでした。在る環境から遊びを発展させ、いよいよ神の領域に踏み込まんとする子どもたち、思い掛けない光景に、集まった先生方全員がシャッターを切っていました。

それにしても、見ようによっては何とも奇妙な光景のようにも思われるところですが、座禅、塾長の教員時代にはもっと身近なものだったのですね。

2006年2月27日『一休さん』の中にはこう書かれています。

「私が教員だった頃に、子どもを集中させるある方法を用いていました。その頃、テレビで「一休さん」のアニメが、人気がありました。その中で、毎回さまざまな困難にあったときに一休さんは、とんちを働かせて乗り切ります。その時に、その「ひらめき」をもたらすときのスタイルがあります。禅を組み、目をつぶります。そして、両の手の人差し指をぺロリとやって、頭の両脇をさすります。そして、マジナイをした後、木魚のポンポンたたく音がしばらくした後、チーン鳴って、ひらめくのです。このスタイルは、子どもたちには人気がありました。」

今度皆で観てみても面白いかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)