門出

3月31日。日本では年度末のさらに末日ということもあり、来たる新年度という4月1日に向けて多くの人々が忙しさを抱える日でもあります。
しかし、そんな3月31日も365日の中の1日であり、それは誰かの誕生日でもあり、ある人にとっては記念日でもある訳です。保育園ではどうかというと、やはり4月1日という新年度に向けての準備が大詰めを迎える日でもあり、また新しい年度に向けての希望や不安をそれぞれの人々が抱えながらも、少し忙しなく過ごしているそんな日でもあるのかもしれません。
そして、保育園にとってはもう一つ特別な日でもあります。それは卒園式を終えた年長組の子どもたちの最後の保育の日でもあるのです。卒園式もまた、みんなとの区切りの日ではあるのですが、それでもどこか「3月31日までは保育園にくる子も多いから」とあまり寂しさといいますか、年長さんと最後の日という感覚にはなりません。しかし、31日は違います。本当に最後の日です。

そんなこともあって私は朝から年長さんを見かけると「小学校でも楽しんでね!」「頑張ってよ!」となかなかしつこいくらいに声をかけてしまっていました笑

そんな31日、夕方の出来事でした。
私は職員室にいたのですが、突如、職員室の扉が開きました。扉のところに目をやるとそこには多くの年長さんと、担任の先生が一緒に立っていました。担任の先生から今日で最後なので、先生たちみんなに挨拶に来ましたという趣旨の言葉が。そして、みんながぞろぞろと職員室に入ってきて、一人ひとり、先生たちの元へ歩み寄ります。
先生たちも握手をしながら、一人ひとりの子に、「いつも小さい子のお世話をしてくれてありがとうね」「笑顔が素敵だったよ」とその子の園での様子を振り返りながら、そして最後に「小学校でも頑張ってね」と声をかけていきました。

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恥ずかしいけど、とても嬉しそうな表情をしていました。

私も一人ひとりの子とハグをして、言葉を交わし、このなんとも言えない時間を過ごさせてもらいました。子どもたちが抱いている希望のようなものをその瞬間に少し感じることができたようなそんな気がしました。だからこそ、少し寂しいけど、なんだがとても幸せな気持ちになったのかもしれません。
何より、子どもたちへ声をかける他の先生方の姿を見ているとまた違った感動がありました。
子どもたちに対して、こんなにも真心を持って接している大人がたくさんいること。そしてそんな職場に自分がいることが嬉しかったのかもしれません。その空間には、花を一斉につけ始めた桜のような満開の笑みと、春の暖かさのような人の思いが溢れていました。
その後年長さんたちはそれぞれのクラスを回り、そして、園長先生の元にも行き挨拶をしていました。
また、あるクラスでは、先生と挨拶している最中に泣き出してしまう子もいて、そんな姿を見て、先生も涙してしまう姿もありました。ですが、それは悲しい涙ではなく、私には門出を祝う涙に見えました。

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新たな年度が始まります。
誰もがどこか不安で、だけれど、それに負けないくらいの希望を持って飛び出します。
子どもたちは常に前を見ています、常に先を見ています。そこに楽しさを見出せる天才でもあるのかもしれません。私もまたそんな子どもたちを見習って、さらに楽しく過ごしていきたいなと思いました。

報告者 森口達也

写真で二言三言

新年度が始まろうとしていますね。担当するクラスが気になる今日この頃、

気になるボードを見つけました。

気になるボードを見つけました。

 ちっち組(0歳児クラス)、週の担当番号が書かれたホワイトボード。右上に〈運がいい先生〉とありますね。

「何もしなくていい先生なのですか?」との見学者の方からの質問に、

「ウンチを換える担当の先生です。」とクラスの先生が答えられていました(笑)

感染症の予防策として、排便を換える役割の先生を決めて保育にあたっているとのことで、それをこのように表現される。ユーモアを感じますね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年3月8日『ユーモア』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「職場におけるユーモアの研究によれば、タイミングの良いジョークや陽気な笑いは、創造性を刺激し、コミュニケーションの端緒を開き、一体感や信頼感を強め、仕事をより楽しくしてくれると言います。交渉の途中に楽しいジョークが出れば、金銭的譲歩を引き出せる可能性も大きくなると言います。この良い雰囲気は、チームにおいては特に重要だと言われています。」

4月からの新しい環境に胸が膨らみます。

次回〈給食時における子ども集団〉を追った動画を切り取って、報告します。今年度最後の報告です。

(報告者 加藤恭平)

今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっときれいになった

 

この写真。

この写真。

何かというと、給食の下膳に使う〈残ボール〉です。

西村先生が気付いてくれたのですが、何とこの日の給食の残はこの麦茶だけ!

西村先生「すごいですね。」

いや、本当に。感動ですね。この日の給食がよほど美味しかった証拠だと、これは柿崎先生はじめ、調理の先生方皆喜ぶだろうと、「今日の残ボール楽しみにしていて下さい。」と思わせぶりな内線を一本入れて、柿崎先生にはこの写真をLINEで送って、ワゴンを調理室へ降ろしました。

すると、「麦茶は当番が量を聞かずに入れていくから、自分で決めた量については完璧ってことですね。」と、西村先生。

あ、確かに。

いや、この点に気付く西村先生。流石だと思いました。

新宿せいが保育園わいらんすい(3・4・5歳児クラス)組は、子どもたちが配膳をします。

新宿せいが保育園わいらんすい(3・4・5歳児クラス)組は、子どもたちが配膳をします。

 「いっぱい・ちょっと」を丁寧に聞いていくお当番の子たちで、配膳に並んだ子たちは、自分で自分の量を決めます。

麦茶はこのような感じ。

麦茶はこのような感じ。

なるほど、確かに!改めて感動を感じていると、柿崎先生からはLINEの返信が、そして調理の山本先生からは内線が入りました。

山本先生「自分で食べきれる量がみんなわかった証拠ですね。素晴らしいですね。」

当たり前のことなのでしょうか、柿崎先生のLINEも、同じような旨の返信で、何だかとても感動してしまいました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年3月26日『自分自身』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〈園には、職員というチームがあります。その職員の中には、保育や調理、保健、用務、事務職というそれぞれの部門があります。大きくなると、その部門には、それぞれチームがあり、リーダーがいます。また、さらに、保育士は、各クラスでチームを組み、そのチームにもリーダーがいます。それぞれのチームには、それぞれ課題があり、それをチームで達成していかなければなりません。しかし、園の理念の達成に向けては、各部門をこえてチームとして働かなければなりません。そうでなくても、園では子どもの発達の連続性を保障するために、各クラス、各職種をこえて一つのチームとして取り組まなければなりません。〉

職種をこえて。大きな職員集団がチームとしてはたらき、子どもたちの育ちをこうして見守っていることを改めて感じたこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

心に描く未来予想図は ほら 思ったとおりに かなえられていく

先日、行事『成長展』が終わりました。

今年度のわいらんすい(3・4・5歳児クラス)のテーマは〈子ども集団〉ということで、子どもたちは生活の中で、遊びの中で、どのように関わり合い、育み合っているのかに焦点を絞り、取り組みました。

その中で発見と、いくつもの感動がありました。今回はわいわい組(3歳児クラス)担任田村先生、すいすい組(5歳児クラス)山﨑先生からいただいた情報を基にしての報告です。

先ずはこちらの写真。

先ずはこちらの写真。

 右に見えるは、この絵の製作者であるその子(すいすい組(5歳児クラス))の膝です。

舞台は2階ブロックゾーン。積み木やブロックを駆使して、何やら大きな作品に取り組んでいたところ、何かの拍子に崩れてしまいました。

崩れた作品を前に涙したのも束の間、その悲しみを拭うかのように3階へ行ってしまったその子。

数分後、写真の絵を持って降りてきます。

そう、それは〈設計図〉だったのです。

そう、それは〈設計図〉だったのです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2014年1月15日『個の積み木から』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〈「個と集団は両立するか」という教育のテーマがありました。個と集団は、両立する、しないではなく、いい個がいい集団を作り、いい集団はいい個を作ります。それは、一人で何かをするよりも、集団で何かをする方がいいものが生まれるということです。それは、一人一人のいい作品がつながって、大きな素晴らしいものができるのです。そのために、他人と協力することを覚えます。これを子どもたちは積み木を作りながら学んでいくのです。〉

設計図を基に動き出す子どもたち。その姿は悲しみを乗り越えた同志を労わるかのようでもあり、また、その設計された作品の展望に心が駆られるかのようでもありました。

そして、作品の完成に意欲を燃やすその姿は、ブロックゾーンにおける子ども集団に何ともポジティブな作用を生み出すようです。その姿も田村先生は捉えて下さっていました。

憧れに近付きたい。眼差しの伝わる素晴らしい一枚だと思います。

憧れに近付きたい。眼差しの伝わる素晴らしい一枚だと思います。

 『臥竜塾』ブログ2014年1月15日『個の積み木から』文末、このように書かれています。

〈作品のイメージが子どもにわいてこなかった時に、ドイツの子どもたちが作った作品の写真をそのゾーンの中に掲示しておきました。それに刺激を受け、その真似をして、すぐにそれを越えた作品を作ることになりました。これらの環境が、今は、異年齢の中で伝承されています。

これが子ども文化であり、人類としての学びをしていることになるのです。〉

このような出来事が毎日繰り返されていることに、改めて子ども集団の大切さを感じる思いがしました。

次回も、ブロックゾーンにおける子ども集団をテーマに報告をします。

(情報・写真提供:田村早百合先生 山﨑温子先生 報告:加藤恭平)

憧れになろうだなんて大それた気持ちはない〜躓いたり転んだりしながらヒーローになっていく君達へ〜 EPISODE 3

ほうきを手にした子ども達。この後どんな展開が待っているのでしょうか。

山下先生「とりあえず自由にやってみようか。」

山下先生「とりあえず自由にやってみようか。」

 

なんとなく今までに見てきたすいすい組(5歳児クラス)の動きを見よう見まねでやってみているような感じに思えました。

なんとなく今までに見てきたすいすい組(5歳児クラス)の動きを見よう見まねでやってみているような感じに思えました。

 

ほうきの順番を待ちながら、その場を見守る子ども達。

ほうきの順番を待ちながら、その場を見守る子ども達。

 早めにお迎えに来られた保護者の方の姿も見られますね。こういう形で日々の保育を見ていただけることも、とても大切なことだと思います。

山下先生「じゃちょっと交代してみよう。」

「はいどーぞ。」交代も思った以上にスムーズ!

「はいどーぞ。」交代も思った以上にスムーズ!

何か特別な意識がらんらん組(4歳児クラス)の子ども達に芽生えつつあるようです。

ここで山下先生からの抜擢を受け、

ちりとりと小ぼうきの担当に。

ちりとりと小ぼうきの担当に。

 

熱心にやっていました。

熱心にやっていました。

 

食器を片付けることも忘れてその姿に見入るわいわい組(3歳児クラス)の子ども達(笑)

食器を片付けることも忘れてその姿に見入るわいわい組(3歳児クラス)の子ども達(笑)

小さな伝承が、こんな場面の積み重ねの中にあるのかもしれません。

協力して、とても上手に集めていました。

協力して、とても上手に集めていました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年9月20日『育児の見直し』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝日本では、乳児において特定な人をひとりの個人と読み替えて、いつも同じ人と接することが落ち着くとか、同じ年齢で過ごすことが落ち着くとか思っている保育関係者が多いのですが、それは、本当の意味で情緒が安定しているわけではなく、刺激をあまり与えないことで落ち着いているように思えるだけだと早く気がついてほしいと思います。ジャレド氏ら人類学者たちが、小規模社会を観察してみて、彼らが情緒的に安定しているのは、人と会話して過ごす時間が、私たちよりもはるかに多いということも理由の一つであるといいます。

 私たちは、直接人と会話をするよりも、書籍などといった、外部から提供され、受け身で享受する形の娯楽で消費される時間が多いのです。さらに、ジャレド氏ら子育てについて、このように観察しています。「小規模社会では、は子どもたちが、幼いころから社会性を身につけていることは驚きに値する。彼らの性質や性格や人間性に感服し、自分の子どもにもそれを身につけさせたいものだと願う人は、現代社会にも多い。しかし、その実、われわれの言動がひいては子どもの成長発達の阻害につながっている。(中略)

育児は、学問で学ぶことではなく、経験からよいものが伝承され、残っていくものであると私は思っています。〟

「自由にやってみよう。」数少ない言葉がけでこれだけのことができるに至ったそのプロセスの中に、大人からのほうきやちりとりの使い方の指導があったかと言えば、なかったとは言えないでしょう。ただ、一つ言えるのは、日中の活動の中に例えば一斉活動のような時間を設け、子ども達に受け身となる体制を整えた上でほうき、ちりとりの指導をしたことは一度もありません。

わいわい組(3歳児クラス)の子ども達が手を止めてらんらん組(4歳児クラス)のやっていることに見入っているあの姿のように、きっとらんらん組(4歳児クラス)の子ども達もまた、すいすい組(5歳児クラス)の子ども達の姿を見て、自発的に学び取っていったものと思います。

〝育児は、学問で学ぶことではなく、経験からよいものが伝承され、残っていくものであると私は思っています。〟

本当にそうだと思いました。

さて箒を終えた子ども達。いよいよお待ちかねの、あの時間です!

(報告者 加藤恭平)

 

憧れになろうだなんて大それた気持ちはない〜躓いたり転んだりしながらヒーローになっていく君達へ〜 EPISODE 2

給食が終わると、おもむろにらんらん組(4歳児クラス)の子ども達が動き始めました。

山下先生「やりたい子だけでいいからね。」その都度声をかけられていましたが、全員参加の様子です。

山下先生「やりたい子だけでいいからね。」その都度声をかけられていましたが、全員参加の様子です。

「わいわい組(3歳児クラス)は早く上(午睡部屋)に行って!」とらんらん組(4歳児クラス)の女の子が言います。言葉の端々から気合い(?笑)が入っていることを感じます。

協力しながら。

協力しながら。

 

2つ、3つと椅子を重ねて持とうとする辺り、好奇心と興奮と、半々といったところでしょうか。

2つ、3つと椅子を重ねて持とうとする辺り、好奇心と興奮と、半々といったところでしょうか。

「あんまり無理はしないように。」その都度丁寧に声をかける山下先生です。

いつもは子ども達(すいすい組(5歳児クラス))だけでやるテーブルにも、すっと入り、安全に行えるよう配慮します。

いつもは子ども達(すいすい組(5歳児クラス))だけでやるテーブルにも、すっと入り、安全に行えるよう配慮します。

 

 次は〝ほうき〟。

次は〝ほうき〟。

一連の流れを知っている子がいますね。次に何をするのかがわかる為、こうして自分のものを確保しようと先手を打とうとします(笑)

山下先生「ほうきを持ってない人—?」

山下先生「ほうきを持ってない人—?」

 

子ども達「はーい…。」

子ども達「はーい…。」

 

山下先生「さて、どうしたらいいでしょうか。」

山下先生「さて、どうしたらいいでしょうか。」

 

子ども達「終わったら貸す。」「順番に使う。」

子ども達「終わったら貸す。」「順番に使う。」

 山下先生「正解です。それともう一つ、椅子を運ぶ時もそうだったけど、これからほうき、雑巾と取り掛かる上で大切なことがあります。わかる人?」

「ケンカをしない」「仲良くやる」

どれも正解のような答えに頷きつつ、山下先生が口を開きます。

「あちらをご覧下さい。」

「あちらをご覧下さい。」

 

「にこにこ組(2歳児クラス)さんがもう寝ています。」

「にこにこ組(2歳児クラス)さんがもう寝ています。

 「楽しいのはわかる。そして、近くで寝ている子達がいることをわかって、静かにやれるようになろうね。」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年3月5日『他人を察する』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝「対人知性」と呼ばれる知性が、生きていくうえで最も大切だと言われています。この能力は、他人との関係性を築く力ですが、いわゆるコミュニケーション能力と言われるような、人と人とが言語によって会話をするとか、自分の考えをきちんと主張するという力ではなく、他人を理解する能力をいいます。(中略)

対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」と言われており、言葉によらない他人とのコミュニケーションであるともいえます。どうしても、言葉が話せるようになると、言葉で表現したもの、文字で表現したものから他人を理解しようとします。しかし、相手に対しての対応は、言葉では表さない心を理解する必要があるのです。〟

子ども達はこんな風にして、思いやりを学んでいくのですね。

さて、箒を手にした子ども達。この後どんな展開が待っているのでしょうか。

(報告者 加藤恭平)

憧れになろうだなんて大それた気持ちはない〜躓いたり転んだりしながらヒーローになっていく君達へ〜 EPISODE 1

一ヶ月程前のある日。

打ち合わせをしているのはすいすい組(5歳児クラス)の子ども達です。

打ち合わせをしているのはすいすい組(5歳児クラス)の子ども達です。

この日は予てより楽しみにしてきた〝芋掘り〟の日!西武鉄道特急レッドアローに乗って〝埼玉いるま保育園〟を目指します。

ということは、、いよいよ彼らがデビューする日ですね!

臥竜塾生が更新しています当ブログ『生臥竜塾』2015年10月31日『伝承』というタイトルで塾頭山下祐先生が報告して下さっています。 (太字をクリックするとこの回の全文を読むことができます。)

〝先日、年長さんがお芋堀に行ってきたので保育園に残ったのはもちろん年中さんと年少さんです。朝のお当番活動の一貫で職員室と調理室にお休みを伝えにいくお仕事がありますが、今日に限っては年中さんが気合い入っていたようにも感じます。やはり年長さんがいない分、自分達がしっかりやろう!という気持ちが子どもなりにあるのでしょうね。〟

芋掘りへ向かおうとするすいすい組(5歳児クラス)の子ども達の一年前、らんらん組(4歳児クラス)だった頃に書かれたこのブログ。すいすい組(5歳児クラス)のいないこの日をきっかけに、らんらん組(4歳児クラス)の子ども達は憧れの〝雑巾掛け〟に取り組むのです。

すいすい組(5歳児クラス)という〝憧れ〟、ヒーローへの道のりを今まさに歩まんとするらんらん組(4歳児クラス)の子ども達。そんな彼らへそっと手を差し伸べるような温かな光景に、気付けばシャッターを切り続けていました。

(報告者 加藤恭平)

瞳そらさないで 色付く秋のトキメキの中で EPISODE ittanFINAL

 

もちろん散歩にも行きます。

もちろん散歩にも行きます。

 

散歩先でも髪をとかしたり。

散歩先でも髪をとかしたり。

給食の時間も、

もちろん子ども達と。

もちろん子ども達と。

 

中身は入っていませんが(笑)

中身は入っていませんが(笑)

子ども達から、「まりあちゃんの給食は?」と聞かれ、子ども達が余った食器で用意をしていました。食器がない時は、「せめて…」という感じでしょうか、お茶の入ったコップが置かれている光景をよく目にします(笑)

本物の給食が入っていないことを誰かが尋ねると、

「だってお人形だもん、食べられないでしょ?」

とのことで(笑)その辺りの線引きは子ども達もよく分かっているようです。

もちろんお昼寝もします。

と言うより気付くとこうしてお休みの子の布団に横になっているという感じです(笑)

と言うより気付くとこうしてお休みの子の布団に横になっているという感じです(笑)

 

まりあちゃんも。

まりあちゃんも。

 

気にかけてくれる子がいるからなのですね。

気にかけてくれる子がいるからなのですね。

 

寝かしつけようとして、一緒に眠ってしまいました。

寝かしつけようとして、一緒に眠ってしまいました。

最後の写真の子は普段中々寝付かない子なのですが、この日はぐっすり眠っているようでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2007年2月26日『ひいな』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝人形遊びとか、ままごと遊びは、女子が、家事の所作を学んでいるといわれてますが、他にも、子どもにとって、癒し的効果のある遊びだったのかもしれませんね。だから、いつの時代でも、ままごとは子どもに人気のある遊びのひとつですし、最近は、男子も喜んで遊んでいます。きっと、癒されるのでしょうね。〟

これはひな祭り、雛人形についての考察のブログですが、この度の子ども達の姿ととても重なるものがあると思いました。子ども達はこのまりあちゃんとあんなちゃんにきっと癒されているのだろうと思います。

これからも一緒に楽しく生活をしていきたいと思います。素敵な場面に出会う度、これからもちょくちょく報告していきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

瞳そらさないで 色付く秋のトキメキの中で EPISODE 2

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年5月31日『人形考2』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

子どもが遊ぶ人形と言えば、世界では、「ヴァルドルフ人形」が有名です。この人形には、目鼻がありません。他人の表情は、目鼻、特に目やまゆ毛、口などで表します。しかし、この人形は基本的に目鼻をつけないのは、表情をつけないためです。目鼻をつけるときは、色鉛筆でうすーく小さく描くだけで、やはり表情はあまりつけないようにします。なぜ表情をつけないかというと、その人形で遊ぶときの子どものその時の気持ちを受け止められるようにということからです。これは、シュタイナーの教育理論に基づいて作られているのです。

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また、『臥竜塾』ブログ2013年6月1日『人形考3』の中ではこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝「ヴァルドルフ人形」には、目鼻がついていません。ついているとしても簡単な点がついているだけで、表情がわかりません。それは、「その人形で遊ぶときの子どものその時の気持ちを受け止められるように」ということからです。かつて、子どもたちは、自然物を使って遊んでいた時の人形にも目鼻がついていません。葉を使ったり、麦わらを使ったり、どんぐり、松ぼっくりなどを使って人形遊びをするときにも表情を表わすような目鼻はついていません。人形に目鼻をつけること、表情をつけることはどう考えればいいのでしょうか?

たとえば、子どもが人形を使って遊んでいる場面を考えてみます。人形を赤ん坊に見立てて、お母さんのやるようなことをするとします。お腹がすくとミルクを与えます。おむつが汚れていると替えてあげます。一緒に散歩に行き、一緒に遊びます。その時の赤ちゃんは、場面によって様々な表情をするでしょうし、母親はその表情から赤ちゃんの要求を判断し、対応します。したがって、その時に遊ぶ人形には、いつも笑っている表情だけでは不自然になります。どのような表情にも見える程度の表情の方がいいかもしれません。しかし、だからと言って、目鼻がないといいのかというと、それは少し違うような気がします。(中略)

 もし、目鼻をつけないことで、それを見る子どもの創造力をつけるという役割があるとします。本の読み聞かせをするときに、子どもたちは挿絵を見たがりますし、紙芝居のような話に沿った絵を見たがります。それは、かつてラジオを聴きながらその世界を創造してワクワクしていた時代から、テレビによってその姿が映され、そのものが限定されてしまっています。ですから、子どもたちは、話だけ、言葉、文字からだけでは不安になるようです。そのため、今の子どもたちに目鼻がない人形を見せると、「変なの!」と言って、創造するよりも不自然さを指摘するのです。それは、自然物を見立てて遊ぶよりも、より本物に近いミニチュアで遊ぶことが多くなった弊害の気はします。もっと、子どもたちの想像力を広げるようなおもちゃが多くなってほしい気がします。

次に、人形によって自分の気持ちを移入する場合です。「ヴァルドルフ人形」の役割はそれを意識しています。子どもの自分の気持ちを人形が受け止めてくれるのです。しかし、その時にも私は考え方が二通りある気がします。例えば、悲しい気持ちの時に、その気持ちに共感してもらうことで癒されるか、悲しい気持ちの時に逆に楽しい気持ちになるようにはげまされることによって癒されるかです。私は、人形に共感を求めるよりも、励まされる役割の方がいいと思います。というのは、疲れてしまった母親は、赤ちゃんの笑顔を見ることによって、癒され、ホッとするからです。共感され癒されるのは、親とか大人から共感された時だからです。辛くても、悲しくても、苦しくても、いつも純粋無垢な笑顔を見せてくれる子どもの姿には癒されます。そういう意味では、いつも無邪気に笑っている人形でもいいかもしれません。〟

改めて見てみると、とても可愛らしい笑顔をしていることがわかります。

藤森先生のブログを読んで、改めて見てみると、とても可愛らしい笑顔をしていることが頷けます。

さらに、この人形の〝つくり〟として、

  • アイコンタクトを目的としていて、抱くと自然と目が合う。
  • 抱いて見つめるとこっちを見つめているような感じがする。

「対人知性を育む上では目を合わせることも必要では。」と藤森先生は仰っていました。この可愛げのある目線は、対人知性へと繋がっていくのですね。

そんなことを裏付けるような、EPISODE 1で報告した朝の会の続きの出来事です。

近くにいた男の子に、試しに抱っこをしてもらいました。

近くにいた男の子に、試しに抱っこをしてもらいました。

 

「目を見てごらん。」小松崎先生に促され、目を合わせてみます。

「目を見てごらん。」小松崎先生に促され、目を合わせてみます。

 

恥ずかしさからでしょうか(笑)すぐに目を逸らしてしまった男の子です。

恥ずかしさからでしょうか(笑)すぐに目を逸らしてしまった男の子です。

 可愛いですね。この日から、まりあちゃんとあんなちゃんは皆の仲間入りです。

次回、この新しいお友達との新しい生活風景をお伝えします。

(写真提供:わいらんすい(3・4・5歳児クラス)組の先生方 報告者:加藤恭平)

瞳そらさないで 色付く秋のトキメキの中で EPISODE 1

突然ですが、新入園児を紹介します。

 

アンナちゃんと、

アンナちゃんと、

 

わかりますか?

わかりますか?

 

マリアちゃんです。

マリアちゃんです。

 

スウェーデンから来ました。

二人はスウェーデンから来ました。

 

ちゃんとお当番の写真も(すごい白くしてしまってすいません笑)

ちゃんとお当番の写真も(すごい白くしてしまってすいません笑)

 

ありますよ。

クラスの先生が用意してくれました。

 

おちゃらけているわけではなく(笑)とても真面目にこの新入園児をクラスの仲間として迎え入れています。

藤森先生からこのようなお話をいただきました。

  • 人形をつかった保育は、スウェーデン、オランダなどヨーロッパでは主流である。
  • グローバル化、全ての人類への共通理解としても意味がある。
  • 高齢者や障がいをもった子にもとても意味がある。

素晴らしいですね。〝転園してきたクラスメイト〟というイメージで人形を導入されているということで、その方法を模範しています。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年5月30日『人形考1』の中にはこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝民俗学者であった宮本さんは、「子供の世界」という著作の中で、そのころの子どもの姿を描いています。その章の中に、柳田さんと同様「オモチャ」について書いてあります。まず、おもちゃについて、「子供の成長にともなって、耳からだけでなく、目や動作を通じての教育がなわれる。その中で重要な役割をはたしていたものは、オモチャである。オモチャはモチアソビということばに敬語のオがつき、語尾が省略されてできたことばである。(中略)」

 この説明は、柳田さんと同じですが、その語源を説明するところから、おもちゃは、もともと「子どもが持って遊ぶもの」という機能があり、その内容を大きく二つに分けています。一つは、例えばおひなさまのように、大人の用具のミニチュアで遊ぶことで、大人になるための準備をしているというものと、「子供たちだけの遊び」というのは、子どもが自ら作り出し、それは、その時期の子どもに興味があるもの、その役目として、その時期の発達を促すものであるのではないかと思います。

 宮本さんは、そのなりたちから最近のおもちゃへの経緯を説明しています。「その初めのモチアソビは、きわめて素朴なもので親たちが作って与えたもののほかに、子供たち自身で作った者も少なくなかった。」そもそもオモチャは、身の回りのものから工夫して作られたものでした。しかし、当時でもこのような変化が起きます。

「ちかごろ都会の玩具店や、土産店にたくさんならべられて、人気のあるコケシは、もともと東北地方の木地師たちがつくって温泉地の土産として売ったものである。木地師たちは椀や盆をつくるのがその主業であったが、そのあまった木屑で、人形をつくったのである。コケシというのは、木屑を意味する言葉のようであり、西日本では、木屑をコケラとよんでいる。木屑で人形を作ることは東北だけでなく、西日本にもあった。つまりロクロをつかって木地ものをつくるところでは、そうした人形を子供たちのためにつくる風があったのであろう。その人形をオボコともネブリコともいっている。」

そういえば、私の子どものころは、旅行に行ってのお土産に「こけし」が多く、家には、日本各地の大小様々なこけしがケースの中に所狭しと並べられていました。そして、その形、顔が少しずつ違っていました。今でも、子どもたちは、こけしではありませんが、人形を持って遊ぶことが多いようです。子どもが人形を持って遊ぶというのは、世界共通なのでしょうか、ドイツでも人気です。

日本における人形の発祥は、やはり宗教上からのようです。「もともと人形は神の依代としてつくられたり、人間の災厄をはらうときに用いる。形代としてつくられたのが起源であろうが、こういうものが子供のモチアソビになっていった歴史はきわめて古いと思われ、ヒイナ遊びのごときは、平安時代以来の文献にしばしば見えるところであ(中略)〟る。

人形の歴史が日本でもとても古いものであることがわかると同時に、日本の文化に根付いたものであることも伺えます。

だからでしょうか。子ども達の反応もとてもいいのです。

次回、子ども達の可愛らしい反応と合わせて報告します。

(報告者 加藤恭平)