7月8日の生臥竜塾
今回は、ある大学教授が新宿せいが保育園を訪れて、「見守る保育を、どのように職員に浸透させているか」を観察し、そこでどう感じたかのお話を塾長より報告して頂きました。
まず、ある職員が、子どもが甘え泣きをしていると理解し、少々様子を見ていた場面がありました。最終的に、その甘えをしっかりと受容して抱っこをするのですが、その次の日の同じような場面では、昨日よりも少し時間をおいてから受容していたと感じたそうです。昨日よりも今日と、微妙に対応を変えられるのは、ネーミングが「見守る保育」であるからではないか。つまり、保育者が何か行動に移す際に「今から行うことは見守る保育なのだろうか」と考え、自分としての間合いを見て待つことによって“んっ?”とワンクッションをおくことができ、原点に立ち返ることができていると。
また、そのように立ち返ることで、方法は違ってくるが誰がやっても目指すものが同じ「見守る保育」になっていき、結果、保育が統一してくるという印象を受けたそうです。それだけではなく、「見守る保育」という名前によって、他の人とも有意義な議論を繰り広げることができ、行動に移す時も、直接ではなく環境を通して用意するようにもなっているというのです。
そして、行動に移す時に見る物がマニュアルなら、新宿せいが保育園では「見守る保育」というネーミング自体が、マニュアルそのものであるということを塾長も仰っていました。
何かに名前を付ける時は、その名前がその後のマニュアルになり、人を原点へ立ち返らせるような言葉で構成すると良いということがうかがえましたし、そのネーミングが保育へ統一性を運んでくるという感覚を持ったことがありませんでしたが、よくよく考えてみると、やはり最終的な判断はそこから生み出される答えからのような気がします。以前からあったものなのですが、不思議と新鮮な気持ちにもなった報告でした。
そして、今回の食事メニューは、塾長がお土産で買ってきてくれた、絡め唐揚げ「華からっと」を中心に、チンジャオロースー、野菜スティック、カブのみそ汁でした。そしてそして、今回は日曜に誕生日を向かえた塾頭山下氏のお祝いもしました。「三十にして立つ」と繰り返していました。そんな“立っていく”塾頭の姿に、振り落とされないようしがみついていくのが塾生の努めでもあります。
(報告者 小松崎高司)
『新宿せいが保育園では「見守る保育」というネーミング自体が、マニュアルそのものである』とても納得させられました。子どもと関わる際に「どう関わるのがいいのだろう」と考える間はたくさんあります。その時にやはり頭の中には「見守る保育とは」ということなんだと思います。そして、見守る保育を行なう全ての人がそう思いながら保育を繰り返すことで保育の質を向上させていっているのかもしれません。とても深いお話ですね。
多くの方が、多くの角度から、多くの解釈をして尚、深まり続ける『見守る保育』の素晴らしさです。見守る、という行為はとても感情豊かな行為でありながら、決して感情的でなく、その人の人間性を際立たせます。そして寛大さや、寛容さを求められます。大学の先生が感じた間合いや距離感はそんなところからも生まれているように思いました。どんどん口伝していただきたいですね。
塾長、30歳の誕生日、本当におめでとうございます。しっかりと立ち、歩み続けるために、土台となる足腰を、それを支える筋肉を、今はしっかりと鍛えていきます。