報告が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。
秋も深まる臥竜塾。11月10日の報告です。
この日は、先日から参加させていただいている研修が話題に。
『保育者とは母親の代替である』という考え方が基本にあることが理解できる研修内容で、Fujimori methodとはその根幹が異なる為に、中々難しい研修となっている現状なのですが(笑)
その話を受けて、塾長から学びある言葉をいただきました。
「そもそも母親の、家での育ちを保つ→保母」
「保育に欠ける子を救済措置としての保育所→働く女性の為の保育所」
「それが今だに強く残っている」
しかしながら、日本の大学生の競争力はOECDの順位で最下位という結果が出ているそうです。
「もっと長期的に見たらどうか」
「感受性の一番高い時期に、社会的スキルを身につけなければならない時に母親に任せ切っている、もしくは、母親の代替のような保育をしているからでは」
日本の大学の教育成果が世界に通用しないのは現状日本の乳児保育が間違っているからではないか、という仮説が成り立つように感じられてしまいます。
しかしながら、
保育園は家庭の代替である→ならば家庭に戻すべきでは
ということでベビーシッターに補助金を出す、という流れもあるようです。
「愛着、という言葉はくっつく、という意味合いが強く出過ぎている」
「だから『愛着』ではなく、『アタッチメント』」
そして、
「アタッチメントの成立とは、安心をして大人から離れていろいろなものに目を向けられる、ということ」
「アタッチメントとはスキンシップではない」
「家庭のアタッチメントと集団のアタッチメントは種類が違う」
更に、
「乳児は常に大人との関わりを求めているわけではない」
だからこそ、担当制という保育形態への警鐘を塾長は鳴らし続けるわけですね。
「しかしながら実際は、保育士の一挙手一投足に目を奪われている」
「ずっと大人に意識がいっていることによって、保育士に遊びやゆとりの機会を奪われている」
そう思うと、脳の発達の大切なこの時期に、子ども集団の中でもなく、また、母子関係の代替であるような保育を受けることは、有意義なこととは言えないのではないか、と思えてきます。
余談になりますが、塾長は、担当制を頭から否定しているわけではありません。
「子どもの要求に気付けない、もしくは子どもの要求に知らん顔の保育士も中にはいるでしょう→担当を持たせる」
そう思うと、担当性の方がいい場合というのは、大人側の都合のことと言えるかもしれません。
「チーム保育、チームワークがうまくいかない園は担当制にした方がいいかもしれない」
「しかしそれをアタッチメントと結びつけてはいけない」
アタッチメントの意味、愛着、というあたかも保育用語化してしまっているかのような言葉について、もう一度きちんと学び直す必要があることを感じた夜となりました。
(報告 加藤)