Red floor philosophy episode 22『目標理解』より

 

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

さて手を離した白い服の女の子(5歳児クラス)は、

 

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

1歳児クラスの子たちが持ち上げようとする玩具へ、

 その手を差し伸べます。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

1歳児クラスの男の子と目が合います。

面白いですね。お互いに何かを察知したかのようです。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

男の子のタイミングで箱が持ち上がります。

視線を外さない男の子。

そして、

そして、

 

箱は持ち上がります。

箱は持ち上がります。

5歳児クラス女の子の実感としては、「思った通り、軽い。」といったものでしょうか。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

5歳児クラスの女の子の視線は写真右側1歳児クラスの女の子にも注がれます。

 その子が持てるかどうか、推し量るような眼差しです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、その手を離すのです。

そして、安心と心配とを織り交ぜたような表情で、

その手を離すのです。

13年目に入られました塾長藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月11日『目標理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「6ヶ月頃に見られる重要な発達的変化は、他者の行動が目標志向的であることの理解だそうです。心の理論研究において、目標志向性の理解は、他者の行為理解の最も基礎的な要素だと考えられ、近年は研究が増加しているそうです。人間の複雑な行動は、目標志向的です。漫然となされるのではなく、何か目標に対して働きかけていると言われています。他者が手を伸ばしている様子を見たときに、その先に時計があるとしたら、私たちはその人が時計に対して働きかけているなと思います。このように私たちにとって重要なのは、行為そのものではなく、行為の先にある目標であると言われています。」

「この子は自分で持ち上げようとしている」「自分で持ち上げたいと思っている」持ち上げる、という目標に気付いた女の子の引き際に、心打たれるものがあります。しかもこの先の動画を見るとわかるのですが、お手伝い保育としてここへ来た、という思いが女の子の中にあるのでしょう、その葛藤もありながら、あの瞬間に手を離せるということが、何ともいじらしく、その子の成長をとても感じました。

行き先を見守る女の子。

行き先を見守る女の子。

その姿は見守る保育、藤森メソッドに従事る保育者のようですね。

もう少しドラマは続きます。この光景をまた違った眼差しで見守っていた存在がありました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 21『社会集団と脳の進化』より

お手伝い保育ですいすい組(5歳児クラス)が来てくれました。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

2人で玩具の片付けをしてくれています。

 

「持てるから大丈夫。」

「持てるから大丈夫。」

 ピンクの服の子の声を受け、

さっと手を離す白い服の子。

さっと手を離す白い服の子。

13年目に入られました塾長が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年10月5日『社会集団と脳の進化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「心の理論とは、繰り返しになりますが、他者の行動からその背後にある心的状態を推測し、その次の行動を予測するための理論であると説明します。心そのものは見たり触れたりできないので、私たちは推測するしかありません。ここでの心的状態とは、相手の知識、意図、欲求、信念などを指します。相手の考えを推測できれば、私たちはその人の行動の意味を理解し、次に何をするかを予測し、その人に対応できるのです。」

この動画に至るまでの朝から、この白い服の子のお友だちへの距離感、小さい子への関わり方にとても興味を持って見ていました。相手の言葉に応じて自分の対応を変える、その思いやりある姿勢に、このまま動画を撮り続けてみようと思いました。

この白い服の子が写真右下、1歳児クラスの子どもたちが片付ける様子をどのように援助するのでしょうか。

白い服の子は写真右下、1歳児クラスの子どもたちの片付ける姿に視線を向けています。

この子はこれから1歳児クラスの子どもたちをどのように援助するのでしょうか。 

そして思いがけず、子ども社会の育みとも思える場面に立ち会うことができました。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 20『共同注意フレーム』より

 

先日の報告、1枚目の写真です。

先日の報告、1枚目の写真です。

 絵本を読む子をじっと見つめる黄色いTシャツの子。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

ページが開かれると同時に視線が絵本に移されます。

 他にも、

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

見回せば、何人かのお友だちがいることに気付きます。

 

「これだれだ?」の場面でも、

「これだれだ?」の場面でも、

その子の読む言葉、内容を目で追うような黄色い服の子。

写真左、先生の膝の上の子は、「これだれだ?」の声に応答する写真上の先生の表情を見つめているようです。

絵本を読む子の後ろにいる赤い服の子はじっと指先を目で追いかけ、

おもむろに手を伸ばします。

おもむろに手を伸ばします。

そのことに反応してくれたような写真上の先生からの笑い声に、

視線はそちらへ。

視線はそちらへ。

面白いですね。先生方の応答の輪の中へ自分も入っていきたい、そんな姿に思えてきます。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「共同注意を、対象物に受けられている共有視線として計測してみると、関連する発見を概観したものとして、幼児の初期の語の習得と強い相関関係を成すことが判っているそうです。もっと具体的に言うと、共同フレーム内で母親が言語を使うと、子どもが語を習得するのが容易になりますが、共同注意のフレーム外で母親が言語を使うとそうならないそうです。したがって、共同注意のフレームとは、言語獲得にとって、「活性化された場」であると考えた方がいいかもしれないとトマセロは言います。

 しかし、興味深いことに、この相関関係は2年目になると、減じていくようなのです。是には二つの理由が考えられると言います。まず第1に、幼児が、第三者同士が言語を使っているのを、いわば「盗み聞き」して、より柔軟に新しい語を学んでいるのかもしれないと考えられるというのです。そのやり方を理解し、実際に参加しているかどうかにかかわらず、いわば、「鳥瞰」的にそのやり取りの中に、自らを置いているのかもしれないと考えているのです。この推論を見ても、子どもは、子ども集団の中で、子ども同士の会話を盗み聞きして学ぶ方が、大人同士の会話からよりもよほど学びが多いような気がします。」

この場合の共同注意フレームは絵本ですね。そして、それを取り巻く先生方の応答が、言語獲得における「活性化された場」と言えるように思います。

そして、最後のページをめくり終え、絵本が終わります。

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

「ありがとう。絵本を読んでくれて。」

 

その声に反応する周囲の子どもたち。

その声に反応する周囲の子どもたち。

『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の最後にはこう書かれています。

「トマセロはこれらの理論的考察と経験的な発見は、いずれも同じ結論を示唆していると言います。幼児は、自己中心的に、恣意的な音声と繰り返し怒る経験を単に結びつけたり、あるいは、写像したりすることによって、初期の言語的慣習を学んでいるのではない、ということであると言っています。まさに、私が感じていること、思っていることと同じことをトマセロは考えているようです。

 人間は、協力することを遺伝子として受け継いできたということは、幼いうちから他者を理解し、他者と共同基盤を作ろうとすることは当然のような気がしています。」

絵本を読むということはこんなにも人に喜ばれるものなのか、という感触を子どもたちは持ったかもわかりません。そうして子どもたちは意欲的に絵と言葉を自分の中に取り込み、次なる興味へと思いを向けていくのでしょう。

子どもの発信を保育者が捉え、周囲の子どもたちへその振幅を広げていく。子どもが子どもから学ぶ、子どもたちの織りなす社会へ、このように保育者は貢献することができるのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 19『言葉を使う動機』『共同注意フレーム』『2017年ドイツ報告12』より

先日、ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で興味深い出来事がありました。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

 字が読めるわけではないようですが、内容を覚えているのですね。

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

ページにある言葉と同じ言葉を楽しげに言います。

 「これだれだ?」

「これだれだ?」

このページでは、クイズを出してみたりして。

「これだれだ?」「なんだろね。」

「これだれだ?」「なんだろね。」

子どもの声に応じながら、その様子を傍で楽しそうに見守るお二人。写真左に写る先生より、ある時期からこの子がこの絵本をこのようにして楽しむようになったことを教えていただきました。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月30日『言葉を使う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。」

上記「どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれる」という部分は、『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中で、

「新たな語を学ぶためには、子どもは大人にとって目立つ物が何なのかだけでなく、大人が自分にとって目立っていると思っているのは何か、についても決定しなければなりません。もっと言えば、実は大人が子どもにとって目立っていると思っているだろうと、子どもが思っているだろうと、大人が思っている物…という風に続いていきます。子どもは、必要な共有基盤を想像する必要があったのです。」

このように説明されています。先生と絵本を読んできたことが、また、同じ絵本が家庭にあったとして、家庭でのそのやりとりが、この子にこうした姿をもたらした、と言えるかもわかりませんね。

そしてそれは、『臥竜塾』ブログ2017年7月8日『2017年ドイツ報告12』によって報告されたドイツの絵本ゾーンの紹介文と、とても似通うものを感じます。

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「「先生は、毎日私たちに本を読んでくれます。」というようにコメントにあるように、先生が読むときには、ソファーに腰掛けて、数人の子どもに本を読んであげています。日本では、子どもたちに本を読んであげるときは、お集まりの時などに、子どもたちの前に先生は立ち、みんなに絵を見せながら本を読み聞かせしている姿をよく見かけます。ドイツでも、そのようにしてみんなに本の読み聞かせをしている姿を見ることがありましたが、最近、オープン保育になってからは、見ることがありません。この絵のようにソファーに腰掛けて、数人の子に読んであげているか、子どもを抱っこして本を読んであげている姿をよく見ます。その違いはどこにあるのでしょう。それは、本を読むときの先生の意図が違う気がします。日本の場合は、子どもたちを一同に集めるとか、みんなを集中させようとするときの手段に使うことが多いような気がします。ですから、どの本を読むかは先生が決めて持ってきます。ドイツでは、多分、子どもが読んで欲しい本を先生のところに持ってきて、「これ、読んで!」とせがんで読んでもらっている気がします。しかも、コメントから見ると、それは毎日必ず行なわれているようです。」

とてもくつろいだ時間の中で子どもが持ってきた絵本を一緒に楽しむ。このような日常を創り出すことの大切さを改めて感じます。

そして、塾長のブログと合わせてこの動画を見返してみると、なるほどここにも子ども社会による育み、そしてそれを助長する保育者の役割があるということに気付かされました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 18『赤ちゃんの興味』より

先日の日曜日、園をお借りして塾頭山下家と休日を謳歌させていただきました。

お昼は調理古川先生が腕をふるって下さり、何とも贅沢な時間を過ごさせていただきました。

 

久しぶりの対面です。

久しぶりの対面です。

山下先生の次男くんと、我が家の次男は同い年で、生まれも1ヶ月違いです。

この日の久しぶりの対面に、どのような反応を見せてくれるかと大人たちは期待をしていました。

その期待にこうして応えてくれます。

その期待にこうして応えてくれます。

 椅子を押し合う二人。始めたのがどちらからだったか、動画には残っていないのですが、何とも興味深く思いました。

共に押す相手へ視線が送られます。

共に押す相手へ視線が送られます。

 別の場面では、

追いかけっこ。

追いかけっこ。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年6月16日『赤ちゃんの興味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「4月当初の園での赤ちゃんの行動から、思っていたことと違った行動が観察されました。平行遊びから関わり遊びに移行していくのは、そのくらい一緒に過ごしたかとは限らないことがわかったのです。それは、まだ月齢の低い子たちの行動です。月齢の低い子は、初めて会ったばかりの他児に対して非常に興味を持ち、それを眺め、手を伸ばして触ろうとするのです。その興味は、手元にあるぶら下がったおもちゃよりも、風で動くおもちゃよりも人の動きに目を向けるのです。その時に、他の赤ちゃんと触れさせず、特定の大人だけと接しさせると、他児への興味を失うような気がします。それが、また、早いうちに他の赤ちゃんと一緒にすることで、次第にまた他児に興味を持ってくるような気がします。

これは、あくまでも私の現場を観察しての仮説です。これを、どうにかして解明したい気がしています。そのことが、きょうだいの存在意味、アフリカで今だに古代の生活をしているカラハリ砂漠に住むサンの人たちが生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをするということを説明している気がするのです。もちろん、赤ちゃんは突然泣き出し、誰かを探します。そして、誰かの大人に寄っていこうとします。ふと不安になったのかもしれません。親を探しているのかもしれません。その行動は、他の子を求め、他の子に興味を持つことと矛盾はしないのです。ともに、赤ちゃんにとっての行動なのです。

それは、ものに興味を持ち、それに触ろうとする行動と同じかはよくわかりません。しかし、よく観察していると、物より人に優先して興味を持つような気がします。赤ちゃんの興味は、他の赤ちゃんがおもちゃよりも気を引くようです。」

月齢の低い子たちでそうであるなら尚更、当時1歳になったばかりの我が家の次男と、11ヶ月の山下先生の次男くんとが、このように関わり合うこともとても自然なことなのですね。

改めて子どもたちは自然と関わり、その中で育み合う素質を多分に持ち合わせていることに気付かされます。大人は、こういった機会をどのように子どもたちに用意してあげられるか、ということなのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 17『道徳的感受性』より

 

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

 

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

すると、次の瞬間、

手を何回か叩いて、

手を何回か叩いて、

 

おいでのポーズ。

おいでのポーズ。

主観ですが、このボールプールから出たがっていることを察知して白ちゃんはプールの傍へ来たんだ、と思いました。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

なので、いくらおいでをしても白ちゃんの方へ行くことができず、次第にピンクちゃんの気持ちは強くなっていきます

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

 

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

 

表情が曇ります。

表情が曇ります。

主観ですが、ピンクちゃんは最早、白ちゃんが自分を援助しきれないことを理解し、その力のある保育者へと援助の対象を移したのだと思いました。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

その後も何度か試みる白ちゃんでしたが、気持ちのすれ違いというのでしょうか、最終的に保育者に抱き上げられるピンクちゃんを見つめる結果となりました。

しかし、白ちゃんのこの援助行動ともとれる行動は興味深いものがありますね。

もうすぐ13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年7月26日『道徳的感受性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

 

「子ども自身が実験場面にかかわる援助行動については、以前のブログで紹介したトマセロの研究が有名です。そのときに紹介した実験は、たとえば、実験者がある対象を落としてしまうのですが、その落とし物に手が届かず拾えないような場面で、14ヶ月から18ヶ月の乳児でも、すぐに拾うという行動が見られたというものです。また、12ヶ月児でも情報を必要としている大人と必要としていない大人がいれば、全社に対して、指さしする割合がより高くなるという実験です。このような研究から、人間は幼いときから、他者の援助行動を好むだけでなく、自分でも他者を助けたいと動機付けられていることがわかったというものです。」

13ヶ月にあたる白ちゃんと日々接していますが、「落とし物に手が届かず拾えないような場面で、すぐに拾うという行動」が見られそうな気がします。

しかしながら、どうしても主観的な報告となってしまうことがもどかしく、日常の保育を行いながら、数量と客観性に富む内容の報告をどうあげていくことができるだろうと、これからもクラスの先生方、フロアーの先生方、関わって下さる様々な先生方の協力を得ながら試行錯誤していきたいと思いました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 16『社会的ルール』より

中に風船を入れて遊ぶボールカバーのようなものなのですが、

クラスの先生もかぶってみたりして、

クラスの先生もかぶってみたりして、

 

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

 

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

 

被せようとします。

被せようとします。

何とも可愛らしいですね。

でもやっぱりかぶせるのはやめて、

でもやっぱりやめて、

手をまごまごさせた数秒後、

あるものを手に取ります。

あるものを手に取ります。

この動画を撮って下さったクラスの先生が、写真左の子につけようとして嫌がって落とした、

写真左の子のスタイです。

写真左の子のスタイです。

 

それを手にとって、

それを手にとって、

 

大きく広げて、

大きく広げて、

 

つけてあげようとします。

つけてあげようとします。

 

嬉しそう!

嬉しそう!

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月23日『社会的ルール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「人間社会は、『互恵性』という社会的交換が重要なのです。(中略)互恵性は、言い換えれば、相互に強力的であることへの期待というお互いの『協力』のめばえ、もしくは、定着になると思われています。実際、人間の協力に対する意識はとても強いものがあるそうです。少し前のブログで紹介したハムリンらの研究のように、生後わずか6ヶ月であっても『援助』というポジティブな行動を好むとされています。」

先生がスタイをつけようとするのを傍で見ていたという写真右の子ですが、例えば給食時に1歳児クラスの子どもたちがエプロンをつけ合うような姿を日常的に見ていることを思い、また、上記のようなブログに触れ、子どもの心根にあるものを理解すると、このような行動を1歳の子がするというのは当然と言えば当然なのかもわからないという気持ちになります。

そして改めて思うのは、子ども同士の触れ合いを許容する日常、子ども社会を助長させようとする保育があるからこそ、このような姿に出会うことができる、ということです。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 15『関係性をもとに』より

海外の方が見学に来られると、とても驚かれる光景があるそうです。

食後、自分で自分のバッグのところへ来ます。

食後、自分で自分のバッグのところへ来ます。

 

クラスの先生が少し手助け。

入れたそうにしているところをクラスの先生が少し手助け。

 すると、

自分で入れます。

自分で入れます。

 

思わず先生も拍手。

思わず先生も拍手。

気持ち、とてもわかりますね。

移動の主役が伝い歩きなこの子も、自分で来ます。

移動の主役が伝い歩きなこの子も、自分で来ます。

 

先生がバッグの口を開けてあげると、

先生がバッグの口を開けてあげると、

 

自分で入れます。

自分で入れます。

 

ちなみにフックにはこのように自分の顔写真と名前が書かれています。

ちなみにフックにはこのように自分の顔写真と名前が書かれています。

 藤森先生から聞いていたのは「1歳児クラスの子が自分で支度をする姿に海外の見学者の方は驚く」ということだったのですが、この子たち、0歳児クラスの子たちです。

なぜこのような姿になるのか、まもなく13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「乳児が学習する仕組みについて、『顕示』を示すシグナルと『参照』を示すシグナルとの組み合わせによる『自然な教授法』という枠組みを提唱しているそうです。たとえば、物の名前を教える場合、教える側の大人は、まず赤ちゃんにアイコンタクトをしたり、呼びかけたりといった顕示行動を行い、続いて対象物を見たり、指さししたりといった検証行動を行なった後に、対象の名前を言います。教わる側である赤ちゃんは、顕示行動に注意を向けることによって教育の場面に対する準備を行ない、参照行動に従って教わる対象を固定し、発話から物の名前を言うという続く行動を、対象に関する知識として学習するという能力を備えているということがわかっているということのようです。」

赤ちゃんと呼ぶには成長段階を多分に経た子どもたち(前半の子当時約1歳3ヶ月、後半の子当時約1歳1ヶ月)ですが、0歳児クラスの子どもたちもこのような学習のプロセスを経て、あのような姿に育っていっていることを想像させます。

しかし、ここで興味深いのは、クラスの先生方の共通理解として「きっと1歳児クラスの子どもたちの姿を見ているからだろう」という推測が自然と成り立つ、ということです。

日頃から行動を共にしている0歳児クラスの高月齢の子どもたちと1歳児クラスの子どもたちによる朝の会の風景。

日頃から行動を共にしている0歳児クラスの高月齢の子どもたちと1歳児クラスの子どもたちによる朝の会の風景。

この日0歳児クラスの子どもたちの名前を呼んでくださっているのは1歳児クラスの先生です。

嬉しそうに手を挙げる当時約11ヶ月の女の子。

嬉しそうに手を挙げる当時約11ヶ月の女の子。

クラスの担任の先生だけでなく、また年齢別の枠組みの中だけでない日常が、実は大きな影響を子どもたちに与えている、とは言えないでしょうか。

『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』では林創氏の著書に触れ、ダン・スペルベル氏(人類学者、言語学者、認知科学者)また、心理学者マイケル・トマセロ氏の研究内容について書かれています。対大人との関係性に焦点が絞られているのは、赤ちゃんの発達心理についての研究ですので当然と言えば当然なのでしょう。ですが、子ども社会における育ちの大きさというものを、現場の先生方は自然と共通理解されている、ということが、個人的には何かとても大きな出来事のように思えてくるのです。

そんな風に考えていたら、また別のある日、0歳児クラスの子が興味深い姿を見せてくれました。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 14『何歳から?』より

 

伸ばした手は玩具をかすめます。

伸ばした手は玩具をかすめます。

 

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

悲しみの声のあがる黄ちゃんですが、それも束の間。

次なる登場人物を花ちゃんは既に見つめていますね。

次なる人物の登場を花ちゃんは既に見つめていますね。

 

 にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

 

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下どっとくん)の登場です。

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下ドットくん)の登場です。

ドットくんも、ずり這いができるようになり、移動することが活発になってきています。この時も、自分の力で移動してここまでやって来ました。

先程からのやりとりを見ていたかのような登場ですね。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

 

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

黄ちゃんはいつしか自分の追っていた玩具を忘れ(諦め)てしまうのでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年5月27日『何歳から?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳を過ぎたころでも、荷物を両手に抱えた大人がドアの前で立ち往生していると手を貸してドアを開けてくれると言われています。それは、『ドアを開けたいけれど、両手にものを持っているために開けることが困難で困っている』というような他者の意図を理解して、手を貸すのです。この実例を見ると、ずいぶんと早い時期に、しかも乳児のころから可能になることがわかりますが、以前は考えられなかったようです。そこで、最近では協力的なコミュニケーションの取り方を重視して、心の理論の発達を考えようという動きがあるそうです。

しかも、早い時期から心の理論が行なわれるというよりも、2 ~ 3 歳の子どもは向社会的な傾向が見られるので、社会的な対人関係でよいとされている物事に関して他者の心を推測することが得意なのかも知れないとも考えられ始めています。これは、私が考えていることと同じです。特に、日本人は、欧米に比べて社会的な対人関係を大切にする気質があるので、早い時期から『困っている人を助けたい』と思っている子どもが育っている可能性があるのではないかと思っています。しかし、この『助っ人課題』について研究した松井智子らが、先の『助けたい』状況を入れた誤信念課題の調査結果をイギリスやカナダの学会で発表したら、『現地の子どもではこうはならない』といわれたそうです。そこで、彼女らは、『もしかしたらこれは日本の子ども特有の傾向かも知れません。』と言っています。

そうであっても、私は心の理論の発達には、子ども社会が大きく影響していると思っています。しかも、それはすでに乳児のころから始まっており、人類が、乳児のころから共同保育をされてきたなかでそれを獲得してきたということは容易に推測できます。」

子ども社会の中で気を逸らしながら、当初の目的の達成に手は届かずとも、そのホットな心をクールへと導き、また、導かれていった黄ちゃん。それを励まし支えた花ちゃんとドットくん。生まれながらにして持ち合わせている心の気質と、それを通い合わせることのできる園の環境が舞台となり、このような出来事を生み出すに至らせたのかもわかりませんね。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 13『乳児の理解』より

 

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

 写真左手の子(黄色い服をきているので以下黄ちゃん)は最近ずり這いができるようになったばかり、写真右手の子(花柄の服を着ているので以下花ちゃん)はおすわりが安定してきたところ、といった発達段階の二人。同じ玩具をもって嬉しそうにしていました。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

 視線を送りつつ、玩具を振ったりしながら遊んでいます。

(ほら、同じだね!)

(ほら、同じだね!)

と言わんばかりに玩具を黄ちゃんの近くで振る花ちゃん。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

と、その時。

 (あ。)

(あ。)

 

玩具が手から離れてしまいました。

玩具が手から離れてしまいました。

ここからがとても興味深いものでした。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

 

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

 その視線は、相手を気遣うような色をして見えます。

ずり這いを始めたばかりの黄ちゃんではあります。その動きにぎこちなさはあれど、この距離にある玩具を取りに行けないわけではないと考えられます。その辺りを思ってか、はたまた自分はお座りから動けないことを把握しているからか、花ちゃんは黄ちゃんを見守ることに徹するかのようです。

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

そんな葛藤を数秒ほど表出した後、再び振り帰る黄ちゃんに、

何と花ちゃんは微笑むのです。

花ちゃんは微笑むのです。

その微笑みに応えるように、(取りたい。けど取れない)そんな思いを表現するかのような黄ちゃんの声が一瞬やみます。

そして、数秒後、

上体を起こし、

上体を起こし、

 

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

 

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

 

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年6月4日『乳児の理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳半頃までに、意図や欲求、知識状態といった他者のさまざまな心の状態について反応できることが、発達心理学の研究で示唆されているそうです。」

花ちゃんの励ましともとれる微笑みが黄ちゃんの背中を押したのではないか、という着想も、最近の乳児研究に触れる中で、単なる妄想ではないのではないか、という思いが湧いてくるところです。

そして、もう一点注目したいのは、黄ちゃんが自分の気を逸らしながら玩具に手を伸ばそうとする、その気を逸らそうとする対象に花ちゃんという存在があるということです。これは現代社会においては、子ども社会、保育園という環境なしでは生まれにくいものではないでしょうか。

さて、玩具にいよいよ手を伸ばした黄ちゃん。更なる対象に出会うことになります。

(報告者 加藤恭平)