「伝承」

先日、年長さんがお芋堀に行ってきたので保育園に残ったのはもちろん年中さんと年少さんです。朝のお当番活動の一貫で職員室と調理室にお休みを伝えにいくお仕事がありますが、今日に限っては年中さんが気合い入っていたようにも感じます。やはり年長さんがいない分、自分達がしっかりやろう!という気持ちが子どもなりにあるのでしょうね。

 

そして午前中の活動も終わり、給食も食べ終わり、私の日課である食事スペースの掃除をしようと思い、お部屋にいくと何やら椅子を運んでいる音が聞こえました。

すると年中さんが自ら椅子を運んで掃除を始めているのです。少し驚きました。

まだ年長さんに比べると、運ぶ力やのコツも分からないので若干危なっかしい感じもしましたが、一生懸命に運んでいる姿に見とれてしまいました。

そして運び終えると、机も皆で協力して片付け始めたのです。

まだ年長さんもやってないことを始めて、最初は止めようか悩んだあげく、

少し見守ることに…ここも少し危なっかしいのですが、子ども達なりに、みんなで協力して机の片付けをやってのけました。さらに驚きました。

そして箒も勝手に自分達で持ってきて始めました。そして最後のちりとりも…。 続いて雑巾がけですが、まぁ雑巾絞りはまだまだ下手くそだろうなぁ、と思っていたら絞って持ってくる雑巾全てがちゃんと絞れていて、様子を見ていると絞り方も上手に絞ってるんですね…どこから覚えたんだろう…。

そして雑巾がけに関しても思った以上に上手で私から伝えることはほとんどないくらいでした。そして最後は机を並べて椅子を運ぶのも慣れたようにやってました。

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「なんで教えてないのに出来るの?」 と聞くと

「だって、いつもあそこから見てるから~」

と言うのです。「あそこ」というのはテレビの事です。

ご存じの方もいると思いますが、定員が増えて3、4、5歳の保育室は2フロアを使用しています。

その部屋同士は階が別れているので、お互いの様子を見れるようにモニターをつけて常時見れるようにしてあるのです。 子ども達はそのモニターをいつも見ていて年長さんがどのように掃除をしているのか見ていたそうです。

ただ見ているだけで、あんなに上手に出来るとは正直思ってもいませんでした…。 まさに「伝承」の力を改めて感じた30分です。(報告者山下祐)

結び付き

「◯◯君、ご飯だから◯◯君をおいでおいでしてきて〜」

0歳児クラスの保育者から、その言葉を受けた18ヶ月児は、同じ0歳児クラスの19ヶ月児に、食事ゾーンを指さして“一緒にご飯行こう”、“あっちだよ”とお誘いをしていました。それに気がついていない様子を察してか、迎えにいきたくなったのか、近づいてそうっと背中に手を添えて一緒に行こうとします。それに快く応えるかのように、颯爽と食事ゾーンへと足を運んでいくのです。

お迎え

お迎え

一緒に行こう

一緒に行こう

僕も行くよ

僕も行くよ

ご飯だね

ご飯だね

その一部始終を目の当たりにした私は、この言葉がけをした先生に「これ、すごいですね〜」と伝えると、その先生は「そうなんですよ。最近この2人よく関わるんですよね。」と言っていました。そして私は再び「すごいな〜」と心の中で思いました。1回目の「すごい」は子どもたちへでしたが、2回目は、働きだして1年目のその先生にでした。互いを求め合っていること、その子に関心があるという関係性を理解した上での言葉がけであったからです。

その時、こう思いました。もし、保育者が子どもに伝えるべきことをすべて、他児を通してそれを伝えることができたなら、他児の特性を活かして伝えることができたなら、どうなるだろうかと。おそらく保育者は、全体的にではなく個人的に伝えるため、声の大きさは小さくて済みます。また、直接子どもと話す機会が減るということは、必然的に子どもとの距離もとることができ、全体に目が行き届きやすくなります。そして、子どもは「伝え・伝えられる」関係によって他児との関わりが増え、社会を知り、生きていく上で必要な対人知性や自己理解をしていくのではないでしょうか。

私が、見守る保育に出会って衝撃を受けた本のひとつにこの本があります。

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これによって、保育者の常識とは何なのか、常識を疑い本質を見る姿勢を持つことの重要性などを知るきっかになりました。ここでも、声の大きさについて書かれています。

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声を小さくしましょうということではなく、子ども同士を結び付ける保育をしていると、自然と大人の声が小さくなっていくということであると、その本のひとつの答えにやっと辿り着いた気がしたのです。

保育者が排泄や食事、昼寝などに誘っても来ない時、手をつなぐことが好きな子に「◯◯ちゃんと手をつないで来て」と声をかけると、嬉しそうにその子を誘って来たりもしますし、お世話をしたがる子どもには、おやつを「◯◯ちゃんに渡してあげて」とか、「エプロンをつけてあげて」という主体的な役割を生む言葉をかけると、意気揚々と応えてくれます。一見、保育者主導に映る「言葉がけ」ですが、今後、子ども同士の関わりが加速する、自ら他児に関わろうと積極的になるような「言葉がけ」というのは重要であると思いますし、言い過ぎてもいけない難しさがあるように感じています。

対人知性を育むには、まず子ども同士を結び付ける必要があります。子ども同士を結び付ける「距離・言葉がけ・物的環境」によって、子どもは他児をより意識していくように感じます。その中でも、最近は「言葉がけ」に感動すること多かったので、報告させて頂きました。保育者の一言で子ども同士が結び付き、関わるきっかけが生まれます。「言葉がけ」は、不必要な介入を生みやすい印象がありましたが、一人一人の発達や特性を理解し、それを活かすために他児に向けさせる「言葉がけ」は、保育者の専門性のひとつでもあるように感じましたし、人間性が表れる部分でもあるように思いました。

(報告者 小松崎高司)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる④

少し読み進めるのに手間取ってしまい、報告が遅くなってしまいました。すみません…

今回は前回にも少し触れさせていただいた本来のDNA気質を活かしいくために、トラウマ情報を払拭する「SATイメージ療法」について報告させていただきます。

SATイメージ療法では、まず本人が取り除きたい感情を喚起させるイメージを想起させ、その人が抱えているトラウマ情報を発見し、そのトラウマが教えてくれるネガティブな部分を克服できるように、トラウマとなっている出来事に対するその人の受け止め方、つまりその意味を前向きなものに変更し、そうしていくことでその人のDNA気質に基づいたあるがままを模索することで、その人本来の生き方を探っていくそうです。

塾長の臥竜塾ブログを読まれている方は気付かれた方もいると思いますが、以前の臥竜塾ブログで「オプティミスト」と「ペシミスト」に関する考察が塾長によって行われていました。

オプティミストにもペシミストにも互いに長所、短所があり、互いの長所を活かしていくことが大切であることに私自身気付けたのですが、このSATイメージ療法に関して読み進めていると、ペシミストの短所である部分をオプティミストの長所である部分に変換する術に近いものがあるのではないかと思いました。

だとすれば画期的なことですね!

SATイメージ療法は、右脳に重点的にアプローチし、その人の内側に眠っているイメージを想起させることを特徴としています。

人間の脳は大きく右脳と左脳に分かれており、その働きもまったく違っています。

左脳の働きがロジック(論理)や言語といった領域を受け持っているのに対して、右脳はイメージや感覚といった領域での働きを受け持っています。

また、左脳が物事を論理に基づいて断片的に捉えるのに対して、右脳は論理を超越して全体的観点から物事の本質を捉える働きを持っています。

そして人為的にトラウマ情報を喚起させるためには、その人のイメージに訴えかけなければなりません。

そのために感覚領域の働きを担っている右脳に働きかける必要があるそうです。

第1段階に右脳に働きかけ、トラウマ情報を引き出す技法に「退行催眠」があります。

この退行催眠は別名「前世療法」とも呼ばれているそうで、自分の出生以前にまで誘導するとか…

前世療法の話は置いといて、ここでの退行催眠はあくまでトラウマ情報を引き出すためにそのときのトラウマを生んだ情景を露わにするためだそうです。

また補足として、従来の現代医学では「心は心」「体は体」と心と体を明確に区分していますが、心身医学では心と体は密接に繋がり合っている、むしろ一体、同じだと言われるそうです。

あるときは心に、あるときは体に現れる。

ですので、身体病は体の異変ですが、実は「心」のレベルでも異変を表していると考えられているそうです。

例えば3大疾病の1つの「がん」が挙げられるそうです。

著者によるがんの考察には、「がんという病気は、心のレベルで過剰なストレスを抱え、そのエネルギーが作り出した活性酸素にさらされ続けた結果起こる病気で、いわば“うつ病の身体化現象”である」とありました。

この考察から、SATイメージ療法は「がん」をはじめとする身体の病気に苦しむ人たちのセラピーにも有効に作用すると考えられているそうです。

そして、これは他の心理セラピーには見られない特徴といっていいでしょうともありました。

話は少し逸れましたが、次回は「SATイメージ療法」の具体的な内容に入っていけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)

ありがとう 君がいてくれて本当よかったです

昨年(1歳児クラス)から、大の仲良しの2人がいます。

 

先日の午睡明け、まだちょっと眠たい気持ちから、写真右手の男の子(ピンクの服を着ているので以下Pくん)が立ち尽くしていました。

 

さすがです。ちょっとずつ距離を縮めていきます。

さすがです。ちょっとずつ距離を縮めていきます。

付き合いの長さがこんなところにも出ているように感じます。

 

彼のことだからいきなりいくと嫌がるだろうしなぁ…

(彼のことだからいきなりいくと嫌がるだろうしなぁ…)

その様子を見守るクラスの先生達。子ども達は本当に見守られて育っています。

その様子を見守るクラスの先生達。子ども達は本当に見守られて育っています。

ゆっくりゆっくり。この間まだ一言も声はかけていません。

ゆっくりゆっくり。この間まだ一言も声はかけていません。

 

そして、初コンタクト。内容は聞き取れませんが、次の瞬間っ!

そして、初コンタクト。内容は聞き取れませんが、次の瞬間っ!

手をつないでいます。

手をつないでいます。

むしろPくんの方がエスコート!

むしろPくんの方がエスコート!

「慰めにくるなら早くしてよ!」と言ったところでしょうか(笑)スタスタと歩いていくのですが、

Pくんの心の声(あ、ちょうど読みたかった絵本がある)

Pくんの心の声(あ、ちょうど読みたかった絵本がある)

よいしょ。

よいしょ。

スムーズにいくかと思いきや座り込んでしまったので、それを見ていた職員は驚いていますね(笑)ですが、親友(ブルーの服を着ているので以下Bくん)は座り込むPくんを見つめています。その表情は、もううんざりというのではなく、見守っているような、そんな感じです。

 

おやつの配膳も始まっています。ブルーの服のBくんにはそんな見通しもあったのでしょう。そして、次の瞬間、手をとってあげていました。

 

(ほら、いくよ)

(ほら、いくよ)(…うん)

そして絵本を持ったまま、上へ。

そして絵本を持って、上へ。

自分の分のタオルをとって、そして、Pくんのタオルをとってあげていました。

自分の分のタオルをとって、そして、Pくんのタオルをとってあげていました。

あっははー!

あっははー!

タオルを受け取ってくれて嬉しかったのでしょうか。親友Bくんは、笑い出していました。

「いただきます!」一件落着。仲良く隣に座って、食べていました。

「いただきます!」一件落着。仲良く隣に座って、食べていました。

 

友だちの存在って本当に大きいと感じます。

 

また、別の場面では、

お菓子の袋が開けられなくて困っていました。写真一番左が親友Bくん。困っているところを、親友Bくんではなくその隣の友だちが助けてあげようとしているシーンです。

お菓子の袋が開けられなくて困っていました。写真一番左が親友Bくん。困っているところを、親友Bくんではなくその隣の友だちが助けてあげようとしているシーンです。

(やってあげるね。) (あ、うん…)

(やってあげるね。) (あ、うん…)

んーと…(ちょっと難しいな)

んーと…(ちょっと難しいな)

(ごめん、できなかった)

(ごめん、できなかった)

開けられなかったようで、戻されてしまいました(笑)

 

すると、

 (どうしようかな)

(貸してみて)

親友の登場です。

(開いた!)

(開いた!)

 (さすが相棒!サンキュー!)

(さすが相棒!サンキュー!)

こんな風にして、関わり合い、手を取り合って子ども達は成長しています。

 

藤森先生が11年間毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年10月20日『手伝う動機』の中で、

 

〝幼児たちは、大人にまったく促されなくても、視線さえ合わせなくても、手を貸した〟と紹介されています。

 

ブログの中では困っている大人に子どもが手を貸したということで紹介されていますが、それを読んでとても納得ができるのは、日々子ども達が見せるこういった場面があるからです。しかも、保育園では、それが対大人ではなく、子ども達同士の中で生まれ、このように育まれていっています。

 

ですから、この日のブログの後半に書かれていることにも、とても納得ができます。抜粋します。

 

〝ブルームの同僚のアリア・マーティンとクリスティーナ・オルソンは、大人に、3歳児と遊んでから、ある用途に必要なものを取ってきて、と頼むように指示してみました。例えば、大人の近くに水が入った水差しが置かれているとします。大人は、子どもに、「水が注げるようにカップを取ってくれる?」と頼みます。頼まれたものが用途に適していれば、たとえば、カップにひびが入っていなければ、子どもはたいていそれを手渡してくれます。頼まれたものが、カップにひびが入っているといった具合に、用途に適さない場合には、子どもは取ってきてと頼まれたものには触れず、部屋の別の場所にある、ひびの入っていないカップのような、用途に適ったものを取ってくることを発見したのです。つまり、子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。〟

 

〝子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。〟という部分に、とても共感します。それと同時に、子ども達は、大人に指示されなくても、このように自発的に、誰かを助けたい、手伝いたい、慰めたい、というものが、心の中から湧き出てくるようなのです。

 

お菓子の袋を開けてもらった子。助けてもらった子はやはり嬉しいでしょう。それは写真の表情からも読み取れます。

 

そして、きっと手伝ってあげた方も嬉しい。配膳のタオルを渡して、受け取ってくれた時の喜び、やってあげたことで喜んでもらえたという喜びが、親友Bくんの笑いとなって表出したのでしょう。

 

ブログは、2015年10月20日『手伝う動機』の後、2015年10月21日『誰と分かち合う?』そして、2015年10月22日『誰を思いやる?』と展開されていきます。

 

誰と分かち合うのか。誰を思いやるのか。子どもが子どもを、子どもが人を手伝う動機は、〝喜んでくれるあの人の為に〟という、とても純粋で清らかな奉仕の気持ち、それはまるで、無償の愛そのもののようにも感じられる思いがしました。

(報告者 加藤恭平)

給食の楽しみ その中から育まれていくもの

新宿せいが保育園を知る前は、給食の楽しみって、食べることだけだと思っていました。

 

2歳児クラスでは、先日からトレイによる配膳を始めています。

最初は簡単なおかずなどのお皿を持って自分が選んで決めた席に座ることからスタートした配膳でしたが、

いよいよ今年度も子ども達待望のトレイを導入。

お皿を持っていくことも緊張していた子ども達が、、、と成長を感じています。

わくわくとドキドキの入り混じった表情です!

まずは見本を。わくわくとドキドキの入り混じった表情です!

 

〝いっぱい・ちょっと〟自分で量を決めることはもうお手の物♪

〝いっぱい・ちょっと〟自分で量を決めることはもうお手の物♪

「どれにしよっかなー」

「どれにしよっかなー」

「そーっとそーっと…」

「そーっとそーっと…」

慎重に運んでいく子ども達です。初日は、緊張に緊張が重なった様子で、逆に(?笑)誰もこぼしませんでした。

お茶をトレイに置かず行ってしまった子に声をかえても、振り返れないという(笑)子ども達の真剣さがわかる配膳の時間となりました。

 

トレイの導入に前後して、先日から時計も導入しています。おかわりが始まる時間、また、おかわりの終わりの時間を子ども達に提示しています。

 

「長い針が2のラクダまでです」

「長い針が2のラクダまでです」

早くに食べ終わってしまう子は、その時間がくるまでおしゃべりをしたり、なんとなく時間を潰しています。配膳の際に〝いっぱい・ちょっと〟と、保育者に口頭で伝え、自分で量を決めている子ども達ですが、食べ切れる喜びが発展した形で、自分から全部を〝ちょっと〟にする子もいます。最初のうちはいいのですが、段々自分が「もっと食べられる」ということがわかっていくと、このおかわりまでの時間を待つことよりも、給食を最初から〝いっぱい〟にすればいいのだ、ということがわかっていきます。そうして、本当の自分の量がわかっていく、という、奥の深い設定がされていることに気付きます。

時計も可愛く、例えば「(動物)から(動物)までね」と伝えることで、時計への興味、ひいては数字への興味へと発展していくのです。

 

かわいい動物の時計です。「サルになったらお片づけしよう」など、数字がまだ難しい子にもわかりやすいようです。

かわいい動物の時計です。「サルになったらお片づけしよう」など、数字がまだ難しい子にもわかりやすいようです。

先日、他園の見学・研修に行ってきました。とても充実した勉強をさせていただきました。

その中で、「(2歳児クラス)月齢の高い子が給食中に立ったりして落ち着かない。新宿せいがではどうされていますか?」という質問をいただきました。

 

給食の場面だけで一概に解決できることではないようにも思われますが、話をしていく中で、「なるほど、給食中は子ども達が受け身になっているのかもしれません」ということを、研修先の先生が仰っていました。

 

給食は盛り付けられた量。それが座っていると目の前に出されます。苦手な食べ物も、もしかしたら入っているかもしれません。それも食べなくてはならない。楽しく食べようと思っても、〝自分が選んでいる〟〝自分から働きかけている〟という感触なしでは、やはり退屈してしまうのかもしれません。〝月齢の高い子が〟という風にも仰っていたので、やはりできることがどんどん増えている時期の子こそ、意欲的に行動したいと思う気持ち、それがどうしても、〝落ち着かない〟という姿となって表れてしまうのかもしれません。

 

〝楽しいことが待っているという期待感〟が子ども達の〝待つ〟力を育てます。〝待つ〟力は、〝我慢〟をする力に繋がります。それは〝耐性〟とも呼ばれ、また、〝粘り強さ〟とも言い換えることができ、これから先、生きて行く上でとても必要な力へと発展していきます。

 

食べる以外の楽しみがある。給食の楽しみの中から、子ども達は知らず知らずの内に、とても大切な力を育んでいることを感じています。

 

(報告者 加藤恭平)

研修旅行 IN福岡

10月10日~11日は新宿せいが保育園の研修旅行、今年の研修先は福岡県です。
なかなか他の保育園に見学に行く機会がないので職員全員とても楽しみにしている研修です。

福岡にはもちろんGT園も多く、GT福岡も立ち上げて、公開保育や独自に研修を行ったりと熱心に勉強をされています。毎年、見学先は多くて2園ですが、福岡には先ほど書いたように、GT園も多く、見学先ももちろん多いので、なんと!8園も見学を受け入れていただくことになりました。本当に感謝です。

事前に8園の保育園さんから各園の概要やPRを書いた紙を頂き、職員がそれを読んで見学先を各自決めました。本当は全て見学をしたいのですが…さすがに時間に限りがあるため選択制です(笑)

午前中は見学で、午後は1つの園に集まり、そしてクラスごとに別れての意見交換です。私は特にクラスのも所属していないので…せっかくなので園長先生のお部屋に(笑)そこでは塾長のミニ講演会でしたので、久しぶりに塾長の講演を聞けてとても勉強になりました。
途中、各クラスでの話し合いの様子を見に行こうと思っていましたが、あっという間に時間が過ぎ、午後の研修も終了の時間に…。

新宿せいがのメンバーは一度ホテルにチェックインをして、夜の部へ…。
夜はもちろん福岡の先生方と2回目の話し合いです!お酒有りの(笑)
やはり九州の先生方はパワーがスゴイですね!夜はクラスも関係なく、ランダムで座りましたが、それでも保育の話で盛り上がっているようでした!

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保育園という施設は言ってしまえば外部と関わらなくても成り立つ機関です。しかし国の補助金で運営をしているという事と日本の将来を担っていく人材を育てる機関でもあります。そう考えると、やはり中途半端な考え方で保育をするのでなく、やはり子ども達のことを考えて保育をしていく必要があります。
「見守る保育」は今後、日本のスタンダードになると信じています。そして全国の実践している保育園の先生方もそう信じて実践していると思います。同じ理念の基で保育をしている仲間が全国にたくさんいることで勇気にもなりますし、同じ理念だからこそ話し合いが盛り上がるのだと思います。

先輩保育士がよく言われる言葉で
「美味しい食事を一緒になって『美味しいね』と言って食事をする事が大切だし、そこに上下関係はないから、同じ目線になって話ができる」
おそらく福岡での夜の懇親会では各テーブルは年齢も様々でなかにはベテランの先生もいたのかもしれません。しかし、同じ目線になって保育の話や悩み、様々な話が展開されていたのではないでしょうか…。
本当に有意義な一日なったのでした・・・。

そして次の日の午前中は福岡で有名な太宰府天満宮を観光しました。
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そして午後は最近、糸島市が注目を浴びているようで、私の妻が福岡出身ということでプランを組んでくれましたが、
とても素敵な場所でした。糸島市には有名なGT園があり、そこで休憩をさせていただき、二日目の観光も無事に終わり新宿せいが保育園の研修旅行が終了しました・・・。
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行事と匹敵するほど一大イベントが終了し、思い出に浸りながら報告を書かせていただきました。(報告者 山下祐)

おうかがい

1歳児の子どもたちの姿を見ていると、よくもまぁ言葉も交わさないで自分たちの意志を伝え合っているなぁ・察し合っているなぁと思うことが多々あります。指さしや相手の視線、表情や身振り等、ありとあらゆる情報源を頼りに、相手を理解しようと詮索しているのです。その様子が時に面白くもあり、ぎこちなく感じる時もあるのですが、子どもたち自身による(非言語)コミュニケーションは、その部分を大切にしなくてはいけないと省みる日々です。大人が他者を理解していくのに時間がかかるように、打ち解けるのに時間がかからない子どもであっても、相手を知ろうと様々な手法でゆっくりと理解していくようですね。

先日は、自分の足が痛いと訴える女児(19ヶ月)と、それを見てあれやこれやと詮索していく男児(27ヶ月)とのやり取りがありましたので、報告させて頂きます。

まず、女児が座りこんで自分の足を指さして、か細い声で「ぅぇ〜ん」と言っているところから始まります。その声や姿に気づいたのか、そこへ男児がやってきて様子をうかがっています。

男児はしばらく女児を観察してから、「ここ(が痛いの)?」といったように指をさしながら相手に聞いていくのです。

女児は、そこだけじゃないよ、ここもだよといった感じに別の場所を指さして訴えます。男児はまた、「ここ(が気になるの)?」といったように、相手の足を指さして聞きます。そこで、相手は虫さされ痕やぶつけた痕を指さしていると理解したのか、男児は自分の足を見て、そのような痕がある部分を指さし、僕にもあるよといった感じに訴えたのです。

IMG_4769女児は、その部分をまじまじ見ています。それでも悲しい気持ちが消えないと察した男児は、半ズボンの裾を引っ張ってその痕を見えないようにして大きく笑ったのです。私には、まるで、見えなければ大丈夫だよ、こんなの平気さと言っているかのようです。

IMG_4770それだけではなく、その服の上から足を「パンパーンッ」と両手で大きく叩いてまた大きく笑いかけたのです。

IMG_4772これで、やっと女児も男児の頑張りに答えてくれるだろうと見ていると、そんなごまかし私には通用しないのよといった感じに、女児は近くにあった紙をポイッと投げたのです。きっと、私同様、男児も「…!?」といった感じであったでしょうね(笑)。その様子を見て、さて男児はどうするかと注目していると、驚く行動をとったのです。皆さんは、想像つくでしょうか。

男児はというと、再び「ここ(が痛いの)?」と相手の足を指さして心配そうにおうかがいをたてたのです。(大人でもこのような男女による関わりがあるような…とふと思いましたが、この自問は詮索しないようにしました。)

スクリーンショット 2015-10-09 21.25.03

スクリーンショット 2015-10-09 21.25.14また、これこそ対人知性であるなぁと思いました(笑)。相手をなぐさめようとして取った行動が、相手にはまらなかったことを瞬時に察して、すぐに行動を変えられるのは、他者の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適応しようとしている過程でもあり、他者との多くの関わりがなくてはできないことであると感じました。

その後はというと、男児はおうかがいをたててみたものの女児はそれでも悲しげな表情を浮かべていました。男児は諦めて他の遊びへと移ってしまいましたが、多くの共感をもらった女児に、その後やわらかな表情が戻ったのは言うまでもありません。

(報告者 小松崎高司)

子どもってやっぱり天才だ、と思う瞬間

2歳児クラスでビーズのようなカラフルで小さいものを、白い枠の中にプチプチっとはめていく遊びが流行っています。

こんな玩具です

こんな玩具です

 

4月当初は、この玩具を出しても、容器をシャカシャカと振って遊んだり、床にザーッとこぼしてみたり(笑)本来の遊び方とは違った遊び方でもって子ども達を楽しませていた玩具でしたが、最近は本当に集中して遊べるようになりました。パズルも同様で、そんなところからも子ども達の成長を大いに感じています。

黄色だけをハメています

黄色だけをはめています

一人の子が夢中で同じ色だけをはめていました。すると女の子が混ざってきました。同じ玩具を二人で協力して遊んでいます。

赤だけ集めていました

赤だけ集めていました

そのテーブルの隣です。これもまた同じ色で集めることにしたようです。違う玩具ではありますが、遊びが影響しあっていることを感じさせます。

そこに混ざってきたのがこの子。

混ざってきた時にはもう原型が出来ていました

混ざってきた時にはもう原型が出来ていました

もう既に原型が出来ていますね。この遊びの最初はこの子が青だけでこの玩具の模様をつくっていたことが、事の始まりだったようです。確かに最初の写真をよく見ると、青がほとんどないことがわかります(笑)

よく見たら青が全然ありませんね(笑)

よく見たら青が全然ありませんね(笑)

 

遊びが物理的にも影響し合っているようです。

IMG_2114

そして、青がなくなったので、空いているところに緑を入れていった、という流れです。

 

ここで、クラスの先生からの素晴らしい一言が入ります。

 

「目もやってみたら?」

 

たった8文字の衝撃。この言葉で、この子の創作脳がグルグルグルーッ!と回転したのがわかりました。

「できたよー!」

「できたよー!」

 

見事完成。その名も『おばけ』です。

 

この作品はすごいと思いました。その後数日間そのままにしておいてもどの子も分解しようとしなかったことを思うと、子どもからしても、何か壊してはいけないような、『作品』としての雰囲気が出ていたのかもしれません。

 

また、ここに辿り着くにあたって、子どもの意図を理解し、想像力を掻き立たせ、完成へと導いていったあの声掛け。新宿せいが保育園が誇るベテランの先生によるアプローチですが、この結果(作品)を見ると、やはり洗練されたもの、例えて言うなら洗練された保育観が心に宿っていることを感じざるを得ません。

 

この作品を見ると、子どもってやっぱり天才だと思います。重ねて、藤森先生の言葉が頭をよぎりました。11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されているブログ『臥竜塾』2006年8月24日『かっこよさ』の結びの文章でした。

 

〝どんな天才でも、それを受け止める人がいないと開花しませんね。〟

 

子どもの才能を認める大人がいてこそ、光る才能がある。才能に満ち溢れた子ども達を前にして、僕らは日常、どれだけの才能を認められているのでしょうか。

 

子どもの才能と、それを見守る保育者の姿勢に感動しつつ、日々の自分に対して強い内省の気持ちを沸かせるこの度の出来事でした。

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(報告者 加藤恭平)

「草莽崛起⑥」

急遽、6を書かせて頂いたのは、後日野見山さんからご指導を受けたのです。

奇兵隊を結成した際のエピソードです。高杉晋作が2度目の奇兵隊を結成した際に、一人一人に声をかけて歩いた…と書きましたが、本当は一回目の奇兵隊を結成した時に高杉晋作が民の人達に声をかけて歩き、そして一人一人の長所を見抜き結成したのが最初の奇兵隊です。 そして2回目が功山寺で一人待っているところに志士たちが集まりました。ドラマでは前原一誠、伊藤利助(後の伊藤博文)が志士たちを集い、晋作のもとに集まっていましたね。

その後、幕府との戦いは坂本龍馬によって薩長同盟が結ばれ、強力な戦力を得た長州は幕府との戦いに勝利に終わり、徳川の時代に終止符を打ち、大政奉還へとすすむのです。

既に高杉晋作は結核を患い、闘病生活を送っていましたが、当時の医療では治すこともできず27歳という若さでこの世を去りました。その時に詠んだ句があります。

 

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 

『面白くないこの世の中を面白くしてやる!』という晋作のらしい強い気持ちがこもった句ですね。

しかし色々と調べてみると・・・

 

「おもしろき こともなき世に おもしろく」

 

というパターンもあるそうです。違いが分かりますか??「を」と「に」の違いです。たった一文字ですが、この一文字によってかなりニュアンスが違ってくるのです。

『面白くないこの世の中をどうしたら面白く生きることができるのだろう・・・』という意味です。当時、豪快と思われていた高杉晋作の意外な一面が句から読み取れますね。そして、この句には下の句があります。それは高杉晋作自身が作ったのではなく、長州から逃げた高杉晋作を福岡でかくまった野村望東尼(のむらぼうとうに)が作ったのです。

 

「すみなすものは 心なりけり」

 

「心の持ち方しだいで、面白くもつまらなくもなるものだ」という意味です。いい下の句ですね。確か大河ドラマでも久坂玄瑞が高杉晋作に「お前の人生がつまらんのは、お前がつまらんからじゃ!」と言った言葉を思い出しました。もしかしたら、その時の言葉が高杉晋作の心境を大きく変えたのかもしれませんね。

野見山さんに聞くと、東行庵に記されているのは「を」の方でしたし、個人的にも「を」を使っているそうです。どちらにしても「面白く生きたぞ」という言葉が最後の言霊だったということになります。野見山さん自身も「今回の人生は愉しかった」と言って死にたいというのがあり、毎日は他愛もなく当たり前のように過ぎていきますが、本来の人生は一期一会、悔いのないように自分らしく生き切っていきたいとおっしゃいました。

高杉晋作が詠んだ辞世の句。どちらが本当なのか私には分かりませんし、正直どちらでも素敵な句だと思います。その後の下の句である、自分の心持ちしだいで、面白くも、つまらなくもなる。という意味が胸に染みます。

よく塾長が講演などの最後に言われる言葉

 

「人生の半分は職場にいるのですから、その職場がつまらなかったら人生の半分がつまらないことです。それならば、楽しく保育をした方が絶対にいいですよ!」

 

この言葉を思い出します。それこそ「心の持ち方次第」ですね。

 

ちょうど大河ドラマも明治時代になり私の大の苦手な時代に差し掛かりました。しかし、今は本当に楽しく学べています。これも「臥竜塾」のお陰ですね・・・。

先週の土曜日に久しぶりの「ブラヘイジ」があり、世田谷にある松陰神社に行かれたそうで、松陰が二度入れられた牢獄跡、終焉の地と辞世の句など、松陰ツアーだったそうです。

ちょうど土曜出勤と所用のために参加が出来ずに、塾長から送られてくる写メールを羨ましながら見ていました。(報告者 山下祐)

「学ぶ力 最終章」

とうとう最後の章となりました。そもそも私がこの本を購入したのは今から約3年前で、この本が出版された年です。たまたまテレビを見ている時に橋本先生の特集をしていて、見ていると共感できることが多く、それこそ「見守る保育」じゃないか!と思い、本屋に走り購入したのです。ただ、ここで注意していただきたいのでは、橋本先生の教えを学ぶといよりも、私はなぜこういう考え方になるのだろう?と気になったのです。

今まで読んで下さった方も感じていると思いますが、塾長が普段から言われている言葉や見守る保育の理論と共通部分が多々ありました。さらに橋本先生は高校教師でしたので、見守る保育がいかに幼児教育だけでなく、高校でも成り立つという結論にも注目してみたいと、思ったのです。高校になると授業もかなり難しくなりますし、何よりも大学入試という大きな壁があります。それらをどう乗り越えていくのか、など参考になるのでは?と思いました。

さて、最後の章ですが、ここでは橋本先生の人生について書かれてありました。その中で個人的に面白かったのは 「なりゆきに任せる生き方」 と言うことです。言われるがまま、なるようになる、といったように時の流れに自然に寄り添うということが実に多かったそうです。ただ、自分で決めなければいけない場合は自ら選択し、決断してきたそうですが、おそらく橋本先生の選択が良かったのだと思います。それこそ塾長がよく塾生にも言われますが「優先順位を間違えてはいけない」という事と同じではないでしょうか。

さらに橋本先生は「好きなことを好きなだけやる」これも心構えとして持っていたようです。

おそらく橋本先生は教師という職業を仕事として捉えているのでなく、趣味として捉えていたのではないでしょうか。そのへんも塾長は「私の趣味は仕事です」と講演でも同じ様な事を言われています。私も今は趣味は仕事ですと自信を持って言えます。これは個人的主観になってしまうのですが、私が塾長の助手として出張に行っていたときに

「山下くん、もし『仕事』として出張に来ているならば、来なくていいよ」

その言葉を言われて目が覚めた思い出があります。かと言って出張を趣味として捉えるのも何だかおかしいですよね(笑)助手として行くのは、もちろん塾長をサポートする役割もありますが、何よりも一緒に楽しく、そして学ぼうという意欲が当時の私には足りなかったのかもしれません。それを感じ取った塾長は私にそのような言葉をかけたのだと思います。そこから私も考え方が変わったのを思い出しました。

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今週の塾でこんな話が出ました。少し報告と重なってしまうので深く言いませんが、

「子ども達が大きくなって、何かのときに『あれ?これはどこかで誰かに教わったような・・・』と感じた時に、その『誰か』になりたい。」

すごく深い言葉です。私もこの言葉を聞いたのは講演ではなく、二人で話しをしているときに聞いた気がします。橋本先生も「スローリーディング」の事が記事に取り上げられたとき教え子の一人が橋本先生に手紙を書いたそうです。その生徒とは卒業してから40年ぶりのやり取りだったそうで、それを受け取った橋本先生は「教え子の心に残っているということは、最高の喜びであり、教師冥利です」と書いています。若干、塾長と状況は違いますが、これぞ学びだと私は思います。

塾長と出会ってからまだ10年も経過していませんが、それでもたくさんの事を学びました。色々な状況なときに、こんなときに塾長はこういうことを言っていたな、こういう考え方をしていたな、と感じ取れるようになりました。また自然と行動に出ていることも時々あります。

確か、このホームページを始めた時に私が本当の学びは師の考え方を学ぶと書いた記憶があります。塾長の教えを頭で覚えるのでなく、体全体で感じ取り、そして習慣として身につけ、それこそ塾長の言葉行動、考え方が自然と言葉や行動して表れることが本当の学びだと思います。

それが塾長の冥利なのかもしれません。

最後になりますが、塾長と橋本先生は同じ教育者として言動が似ている事がありブログに紹介しましたが、一番の共通項は

 

「自分の活躍ではなく、教え子の活躍を何よりも喜ぶ」

 

これだと思いました(報告者 山下祐)